退院・在宅介護の事→施設入所の事
退院して在宅介護が始まる時一番心配だったのが減塩食とカロリー計算。
退院の前の練習で一時帰宅するときに、資料を渡されたけれど。
何を食べたかをチェックして、改善の方法をアドバイスしてくれる・・・のだけれど。
かなりのプレッシャー。
1日6グラム
1日1800カロリー。
太ったら膝に来る。
太らせたらいけません。
料理が大の苦手のわたくし・・・・・。プレッシャー。
本をネットで買いあさり。読んでみても・・・???毎日どうする??本と同じように材料を全部そろえるなんて無理。ネットでレシピを探し出しても季節が違って材料がない。
その当時のケアマネさんも減塩方法とか、体を動かすアドバイスとかしてくれた。
ごはんの量を決めて。水分の量、飲み物・・・お茶はとことん苦手で飲んでくれない・・・ので低カロリーのジュースを探す。
献立を決めて、量を確認してメモを作っておく。
1日でバランスを考えて・・・・。チューブの生姜。つぶ胡椒。七味唐辛子・・・たまにさんしょによくお世話になりました。
そのうえで子供のお弁当を作るのが大変で。見かねたことちゃんが、私がまとめ買いをした冷凍食品詰めるだけ~~弁当をよく自分で作ってくれた。私には詰めるだけ~~弁当を詰める余裕もない。
退院する直前、実父:白じいじの有料老人ホームが変わることになる。頻繁にトイレに行くのでお部屋にトイレがあるところがよかったらしく、待っていた有料老人ホームにやっと空いて、新しいところへのお引越し。私がひとり、蔵書が多いので何往復も車で運搬して・・・お引越し。
最初は不安と不満が多くて。差し入れとか、話を聞いたりマメに面会に行く。
トイレの不安と不満がなくなって・・・少し良くなった感じ。それでも慣れるまで不安と・不満話を聞きに行く。
節目ごとにおもっていたこと・・・仕事をしなくては・・・と強く思って。
退院支援でパパちゃんの面会に来てくれたケアマネージャーさんにぼそっと言ったら、うちに来ればいいかも~と言って初任者研修を受けることになった。ヘルパーにならなくても勉強になる・・・受けてみて勉強になった。そのころ3人介護+独居家族1人だったので仕事としては行いませんでしたが。車いすの移譲や移動。認知症の事。その家族のケアの事。おむつ交換。声かけ。傾聴の姿勢。衣服交換の介助の仕方。その当時の法律のあれこれ。どれもとても勉強になった。そして私の場合日常にとても役に立った。
10月から2月の半ばまで久しぶりに勉強して資格習得。
勉強期間中にパパちゃん本人の強い希望で退院したあとのこと。
その頃は立位・・・立っている時間も短くて、歯磨き手洗いも立ってすることができなくて。洗面所の下の扉を外して洗面台の前に回転するバスチェアーを置いて回転させながら洗面所を使っていた。四点杖で歩くのも大変で。がったん、がったんと大きな音がしていた。
食事もスプーンですくうだけ。切ったリンゴもつるつるすべる。フォークを置いてもフォークがわからず刺すという動作もわからず。
日程はわかっても(カレンダーと時計はなぜかリハビリ病院に移ってからすぐに理解していた)変更した場合理解するのが難しい。「待って」がわからないので朝は7時昼は12時、夜は6時に食事を用意しないとせかされる。予定が近くなるとそわそわしだすし。説明しても全然理解できない。
何よりもパパちゃんの予定が優先される。
これって、認知症に似ている・・・と思ってしまった。
毎日デイサービスの送迎が来るか、訪問リハビリが来るか、ほかのデイサービスに行くか、私が送迎するか。その合間をぬって実父・白じいじの面会や実母:白ばあばの面会、そして舅:黒字じいじのお昼。お昼言ったら1階の掃除+トイレ掃除。そして勉強。毎日介護、介護。
じいじ・ばあ場達に会わないときはいつまで介護するんだろう。いつまで生きるんだろう。最後はどんなふうになるんだろう。終わりが見えない不安が多いけれど。久しぶりに会うと、元気でよかったと思うし、介護職員さんたちには私ができないことをいろいろやってくださって感謝の気持ちがいっぱいになる。そして次の面会日を考える。
コロナ禍で面会謝絶、面会制限ができるまではそうだった。
少し落ち着いたころ。私たちの新しい家族の形で生計を立てなければならない。市役所の障がい者担当の方に障がい者自立支援の施設に入ることを提案された。1年の期間の入所。その当初の目的は、入所中に生計をたてなおすこと。
入所の準備をしはじめたのは1月の終わりごろだったと思う。年末年始中国でコロナウイルスが蔓延して、対岸の事だとまだ暢気に構えていた時期だった。
見学や、書類がそろってうまくいけば3月、遅くても4月の半ばに入所する予定だった。コロナで3月から休校。施設も外出禁止になって。記憶の定着が難しいパパちゃんには週末帰ってきてもらうつもりだったので。そうでないと家に帰ってから手洗い、うがいもなんでも忘れちゃうので。入所時期をしばらく様子を見ることにした。
パパちゃんの退院のときは、うがい、手洗いの順番をわすれちゃう。
何をするべきか迷っちゃう。決められたことは何度もやって覚えればできるけれど。トイレの手すりの持つ手順も何回も指をさして覚える。退院する前に覚えてきた
トイレに行くのもひと仕事で。
訪問リハビリで外を歩く訓練に行くときも、冬なので洋服を着るのも面倒くさそうだった。病院は冷暖房完備だものね。洋服の脱着の介助も初任者研修で勉強していたので思いのほか簡単にできた。初任者研修はほんと短い時間に合理的に初歩の介護の事を勉強できるんだなと思った。
外から帰ってきて、うがい手洗いを忘れてしまう。うっかりすると歯ブラシをしてしまったりする。だんだん、立っていられるようになって、立って手洗いうがいをするのも週刊づいてきて。
トイレも後ろに立ってのみまもりから段々と距離を放した見守りになる。
訪問リハビリ時間内にフォークを刺すという動作を練習する。手に持たせたフォークの上に手をのせて「刺す」「刺す」と何度も言葉と動作で覚えさせる。
食事の時にフォークを出してもめんどくさくて手を出さない。手の中にフォークを持たせてさ「刺す」と言いながら食品に刺す。
これってヘレン・ケラーにいろいろ教えるアニー・サリバンじゃないか・・・
と思ったり。
コロナ禍で子供たちが在宅だったので(朝のお弁当作りもないし!)ゆっくりパパちゃんの介護をできた。誰もイライラせずに。もし学校があったら学校でのストレスで、優しくなれなかった。定期テストの応援(というなの激!をとばし)で私もヒートアップしただろう。子供たちと言えども、在宅で白じいじの介護をみていたので、手伝ってくれたりした。人の手があって、在宅介護の第一歩はよかったと思う。
コトちゃんが「パパちゃん倒れたのが今年でなくて(去年で)よかったね。去年は面会とかできたから」と言っていた。
私はコロナ禍ということで施設での面会禁止になり、面会・・・行かなくてもいいんだ・・・と免罪符をもらった気がした。
実際、コロナ禍で白じいじが倒れ入院した時も大変だっし。
世の中の方は面会をできなくてつらい方もいるんですが・・・。
薄情な娘でごめんなさい。
面会できるのに行かないと白じいじはなんで来ない?病気かと思ったといわれる。入院中は完全看護の病院でも毎日行かないとなんで?と言われる。
明日来れないよというといいよとは言うけど行かない場合は理由がいる。がっくりするし。今回は病院全体が面会謝絶なので、私もなすすべもなく。じいじもひたすら寝ていたらしい。
白じいじも白ばあばも黒じいじも黒ばあばも誰も親の介護を、誰かの介護をしていない。
介護の初めのころ白じいじ白ばあ場には「娘がいてよかった。子供がいてよかった」と言われた。面倒見てくれる人がいてよかった。と。介護するために子供がいるわけではないのだけれどといつも思っていた。
子供たちも私を見ているからか介護はしたくないといっている。
それは仕方がないかな。それはしょうがないかな・・・と思う。
父母、舅姑は自分の両親の介護をしていない。みんな兄弟にお任せだった。
だから・・・いろいろ言うんだろうな~~~~と思うようなこともたくさんあった。
母の母と、夫(実母:白ばあばのお兄さん)を介護したおしゃべり・噂好きなちょっと面倒な伯母のほうが介護に関しては分かり合えるもの。
コロナは猛威を振るっている。
パパちゃんの傷病手当は次の9月で終わってしまう。
生活を立て直さないと。
もう待てない。
月に2回帰宅できるタイミングで入所をすることにした。
パパちゃんの53回目の誕生日に入所。
前の週に家族+黒じいじとお祝いをして。写真をもっていってもらったけれど。今回は見てくれるかなぁ。
入所の日、荷物を下ろすと(コロナのいろいろな制限期間中だったので)その後一回もお部屋に入ることはなかった。話すことがほとんどできないので一年間様子はわからず。たまに職員さんに聞く程度で。前半年は月に二回帰宅できたけれど、後半は帰宅も面会も特別な許可がない限り禁止されていた時期だった。
パパちゃんが入所して20年ぶりの就職をした。営業事務。ノアちゃん、コトちゃんが家事を手伝ってくれた。
そして20年ぶりの仕事。子供たちは応援してくれたけど、何もできなくて。足を引っ張って。覚えが悪くて。
こんな状態でパパちゃんを在宅介護できるか心配だった。仕事は挫折してしまった。
それからパートに出た。
子供たちが、特にノアちゃんが、無職ってどうなの?仕事している人が一人もいないってどうなの?とパパちゃんが倒れた当初から言っていた。
そうだよね。そうなんだよね。挫折したときも、ママの年齢的に次はないんだよと言っていた。至極まともな意見。私ががんばると、子供たちも目に見える形で頑張ってくれる。
でも、この日常に介護がプラスされて・・・本当にできるんだろうか。
ずっと私は心配だった。
仕事に合わせて介護プランができるんだろうけど。
ずっと不安だった。不器用で、一つ事しかできない自分に、多少はいいけど「イライラせずに介護をできるの?25年ぶりに仕事をしてできるの?
この時は、舅黒じいじも元気で、仕事をしていないのってどうなの?と無言の無レッシャーもあった。
その後クリスマスイブにパパちゃんが掛けていた生命保険金が下りることになった。
少しほっとしたら、黒じいじと白ばあばが亡くなって介護量が減った。いくばくか、残してくれたものもあった。気が付いたら前よりずいぶん楽になっていた。
時々思い出しては悲しくなるけど。
思い出が多い分悲しみは深いのかなと思う。
子供たちを見ていて、自分を見てそう思う。
リハビリ病院に行くとき、米津玄師の『Lemon』で泣けた。片道40分ほどのドライブ中『カナリア』で泣いた『馬と鹿』でこれが愛なんだろうか。これから背負うものを何と言っていいのか途方に暮れた。LiSA『炎(ほむら)』でも泣けた。
Lemonほど若くみずみずしくはないけど、
カナリアで最後まで支えて歩いていこうと思う
馬と鹿で愛じゃなくても情なのかもと思う。愛情。友情。心情。
炎で強くなりたいと思う・・・託される前にたおれちゃったけどね。手は一生離さないし、離せないけどね。
40分強のドライブ時間しか考える時間がなかった。
泣ける場所がなかった。
たまにトイレで思い出してこそっと涙は浮かぶけれど。
台所で思い出してうるっとくるけど。
沢山の涙は、声を出して泣けるところは車の中しかなかった。
パパちゃんが倒れた後、どうしようもなくてつらかった時、
ただ涙があふれるとき。ドライブ中、心の中で「お母さん。私頑張ってるよね。ずいぶん頑張ってるよね」語りかけてしまう。認知症がどんどん進んでもう私の事なんて覚えていないのに。施設の人にリラックスした笑いをするのは本当に大切にしてもらっているのがわかるからありがたくて。ありがたくて。職員さんは気を使ってご家族のこともわかってらっしゃっていますよ。と言ってくれるけれど。ここが生きる場所だったお母さんは、とても穏やかに過ごせたと思う。
それでもお母さん。私、早くに施設に入れてしまってごめんね。もっとやってあげられることなかったかな。認知症で何度も同じことを聞くの、ちょっと大変なんだよ。職員さんたちはとても辛抱強くお世話してくれるね。入れてもらえてよかったんだよねきっと。パパちゃんがたおれちゃって。介護になっちゃったんだよ。会えなくてごめん。
きっとおかあさんは「いいよ、私の事はいいよ。後でいいから、自分のことを自分の家庭をさきにしなさい」と言ってくれる・・・そんな気がして。そんな母でした。
人間の尊厳とは何なんだろう。そう思える最後でした。
壊れていく母を見るのがつらかった。でも会わないのもどんな風にしているかわからないのもつらい。コロナが免罪符だった。
黒ばあばが倒れた時、元気なパパちゃんと、もし、介護が重複したら、一番重いお母さん(白ばあば)を施設に入れる方向で考えようと話していたけど。本当にその日になった時はずっと後悔していた。でもね、でも、パパちゃんが倒れて、入所してくれていてありがとうと思ったよ。薄情な娘でごめんね。
パパちゃんも私も一人っ子同士だったから親を最後まで見るつもりでいた。
それは結婚した当初から思っていた事。だから終の棲家も同じ市内にしたんだよ。
介護が必要な時に、家を長く開けなくて済むように。パパちゃんの通勤時間は長くなってしまうけれど。
二人で四人を最後まで見るのだと思っていた。
パパちゃん、小学生のころ犬を飼っていた時、いつまでたってもうるさく鳴くからと、パパちゃんが学校行っている間に親が保健所に犬を連れて行ったことがあったらしい。パパちゃんはずいぶん後悔したと話していた。生き物は最後まで見ること。そうでなければ飼わない事。縁をつながないこと。我が家の飼い猫になった元野良猫たちを家に入れてすぐ、病気が続いて費用がかさんだ時・・・ごめんね・・と言ったら「家族だから」と言っていた。
パパちゃんが倒れた初日。猫たち・・・このまま飼えるかなと思ったのも事実で。猫も家族だから絶対に守らなきゃと思ったのも事実で。10秒ぐらいそんなことを思った。
家族だから最後まで。それはパパちゃんがずっと思っていたこと。
ずっと守らなければいけないこと。
じいじとの同居も、ごめんね・・・と謝った時があったと思う。
インフルエンザ後で白じいじ・白ばあばと同居か、施設入所とケアマネージャーと話したときも迷わず同居で・・・と言ってくれた。
家族だから
ありがたく過ごさせてもらっていたから、舅姑:黒じいじ黒ばあばのことも大切におもえた。
だから、倒れたのかな。
自分を抑えていたから壊れて。元の自分に戻ったのかな。
家族だからできない事。
対立・分裂する家族もいる中で。
たぶん・・・いや・・絶対・・・私たちは幸せな家族の部類に入るのだとはおもうのだけれど。
いまでも腹が立ってしまうこと。どうしようもないことなんだけど。
やっぱり言いたい。
「倒れるのが5年、早すぎるよ」
に尽きる。
最近は号泣してしまうことが少なくなった。
少しだけ泣けるぐらいになった。忙しいのもあるんだけど
子供たちも笑えるようになった。
私も仕事をしたころから、子供たちが手助けしてくれるとわかった。
子供たちも嫌な様子はなかった・・様に思える。できることを手伝う。10分だけ家族のために自由な時間を10分だけ分けてもらう。そうお願いしていた。
子供たちは、私が倒れたら、死んでしまったら困る・・・・の一点みたいだ。
私も子供たちを一人の人間として、相談することが増えた。
もう一方の客観的な目。うっかり母さんな私の大切なアドバイザー。
私がおかずをつまみ食いすると咎められる。
「どっちが親かわかんない!」
その通りです。頼りないですが・・・親です、って反省する。
たまにブチ切れる。突然怒り出す。
その塩梅がわからないって・・・よく言われます。
突然ブチ切れるのは・・・前からなんですけどね・・・(猛省)
そして3年目に突入。
大変なことばかりではないんだと思う。
パパちゃんとの長い在宅介護が始まる。
今度は障がい者の在宅介護。
新しい家族の形で。
また新しい世界の扉を開ける。
リスタート。
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