第32話 エピローグ

……ああ、月は嫌いだ。


手にした盃の中に映る月は、静かに白銀の光を放ち、小さく揺らめいていた。

月の冴え冴えとした光には、今の情けない自分の姿だけでなく、心のうちさえもすべて見透かされているような気になる。

少し不愉快だ。


愁陽は右手の盃に映った月を、酒ごとクイッと煽ぎ呑み込んだ。

遠くからは、まださっきまで自分もいた宴会のざわめきが、時々夜風にのって耳に届いてくる。

今は広間を抜け出して自室前の廊下に座り込むと、気だるげに欄干にもたれて酒を吞み直していた。

夜風が程よくひんやりとして心地よい。


愛麗がいなくなった春から、すでに二度目の夏が終わろうとしている。父王の補佐として、また一人の武将として政務に追われる毎日だが、お蔭で目まぐるしく日々を過ごしているため、この一年と数ヶ月はあっという間に過ぎていった。

愛麗の消失は今も受け入れるには辛いことだが、国の後継者である皇子として、武将として、以前と変わりなく日常の勤めもこなすことが出来るし、激務に追われている間は、彼女の死に囚われることもない。

だが、夜、こうして一人になると無理だ。


屋敷が燃え上がったあの夜も、冴え冴えと満月が光を放つこんな月夜だった。酒の力を借りて過ごすこんな情けない姿を、月を通して愛麗に見られているような気がしてならない。だから月は嫌いだと思う。

ふたたび注いだ酒に月が映ると、それを煽って飲み干した。


はあ~、深く息をつくと、欄干にコツンと額をつける。

ひんやりと冷たくて気持ちいい。

あぁ、少し飲みすぎたか……

いつの間にか、ウトウトとしてしまう。


「ねえ、そんなところで寝ちゃったら、怒られるよ」

ずっと長い間、聞きたかった声がする。鈴を鳴らすように、笑みをふくんだ愛らしい声。

夢で会いたいと思っても、なかなか会いに来てはくれないのに、声が聞けるなんて珍しい。


「ん……寝てないし……」

酔っぱらってうたた寝する人のありがち発言で返す。

寝てない、と返事をしながらどこかで嬉しい夢だと、思っている自分がいる。

目を開けたら夢が覚めてしまいそうだから、このまま目は閉じておこう。この心地よい夢に、しばらく浸っていたいとも思う。まあ、ついでに瞼も重い。


「………………」

沈黙の中、さわさわと僅かに木の葉が揺れる音がする。遠くでは相変わらず宴会のどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。


「ちょっといい加減起きてよ、この酔っ払い!」


愛くるしかった可愛い声に、とうとう怒気が含まれる。愛麗らしい。

「はあ?そんなに飲んでないし。んー、酔っ払いじゃないし……」

心地良い幸せな夢を邪魔されて、つい、むぅっとする。


けれど、そこまで答えてハッとした。

「っ、…………!?」

今、耳に届いてるのは、夢じゃない。これは現実か!?


誰だ、こんなに彼女に似た声の持ち主は。

ガバッと愁陽は欄干から顔をあげ、声のした庭のほうを見た。


そこには明るい月明かりの下、少し離れた木の傍に、ずっと会いたくて、でも二度と会うことは叶わないハズの、その人の姿があった。

愁陽は息をのんだ。


「……愛、麗?」

彼女の名が、唇から零れる。いや……、そんなはずは。夢か?

愁陽は弾かれたようにふらりと立ち上がった。立ち上がり目が覚めても、彼女の姿は消えることはない。


彼は欄干の手すりに手をかけると、一気に庭へ飛び降りた。酒のせいで少し地面についた足がふらつく。

こんなに飲むんじゃなかった。

砂を鳴らし、足早に彼女の傍へ歩み寄る。


彼女は微動だにせず、消えることもなく、微笑みを浮かべて彼を待っていた。

そこに立っているのは、やはり愛麗のようだった。ただ最後に見た彼女とは様子が違った。彼女が自分の手の中で息耐えたとき、彼女は婚礼衣装のような死に装束のような白い衣を着ていたが、今目の前で微笑む彼女は薄桃色の衣を着て、何よりその瞳は赤く長く背に下ろした髪は真っ白だった。


聞きたいことはたくさんあるのに、愁陽が声に出して問えば、やはりこれは夢で冷めてしまうのではないかとまだ思えて、彼は何も口に出して言うことが出来なかった。


「遅くなって、ごめんね」

先に言ったのは、彼女のほうだった。

まじまじと見つめるまま、何も言えないでいる愁陽に変わり、愛麗が彼の疑問に答える。


「あ、夢でも、幽霊でもないわよ。ほら、足もちゃんとあるでしょ」

そう言って、愛麗は裾を軽く持ち上げてひらひらと、自分の二本の足を見せる。薄桃色の靴もちゃんと履いている。


「……夢、……じゃないのか……?」

「うん、夢じゃない」

彼女の赤い目は人ではないものだろうが、邪悪な感じなどまったくない。それは綺麗で、優しく輝いて見えた。


「ただいま、愁陽」

愛麗は小首をかしげて嬉しそうに笑った。


「なん、……で…」

愁陽の目にみるみるうちに涙が浮かんで溢れ出した。


「ほんとはもっと早くに来たかっ……」

来たかったのだけど、と言おうとしたのだけれど、愛麗は最後まで言うことが出来なかった。

愁陽が手を伸ばし愛麗の腕を掴んで、強く引き寄せ抱きしめたからだ。


「愛麗っ、会いたかった!!」

彼女の肩に頬を寄せ首筋に顔を埋める。

「ずっと、ずっと会いたくて……」

「うん」

愛麗は、彼の広い背中をトントンと幼子にするように優しく叩く。


「なんでだよ、今まで……。どこにいたんだよ……」

「そうだね、説明しなきゃだね。でも、その前にこれ、何とかならないかな?」

彼は、彼女の首筋にぎゅうっとしがみついたままだ。


「無理」

「…………いや、いや、いや、無理じゃないし」


「…………」


「………………」


「ぅオイッ!」

愛麗はべりっと音がしそうな勢いで愁陽を自分の首から引きはがした。

「なんか愛麗、性格変わった?」

「ん?」

「お姫様じゃなくなった」

「殴ろうか?」

「いいです」


そんなやり取りの後、愛麗はあの日から今日までの自分の身に起こった出来事を、愁陽に話して聞かせた。

それは不思議な話だった。


たしかにあの日、彼女は一度死んだ。

愁陽の腕の中で息絶えたのだ。

そして愁陽が愛麗の身体を高楼の最上階に残し、部屋の入口と高楼の階下から火をつけたのだが、その放った火が高楼を包みまさに建物が崩れ落ちようとしていたそのとき、炎の中にあった彼女の身体をすんでのところで山の神が運び出し、その亡骸にもう一度命を吹き込んだのだ。半分は人間で、半分は精霊という形で。


あの夜、死んだ彼女は風の姫として、生き返った。空の王が本当の王となり、戦乱が静まり泰平の世が訪れるその日まで、彼の手助けせよ、という条件で。

空の王というのは、愁陽のこと。つまり彼が戦乱の世を終結させ、太平の世を築いていくその手助けを側でおこない見極めよということだった。


風の姫となった愛麗は、魂は人ならざる者であり、器は人間の愛麗のままということなのだが、ただ自然の理に反することだから、その身体に慣れるまでに、これだけの時間が必要だったらしい。

蘇生するのに数ヶ月、身体に慣れるのに半年はかかり、山の神のもとで風の精霊としての修行などに月日を費やし、これでも彼女いわく最短だそうだ。


「なんせ大怪我もしてたし、誰かさんが火をつけてくれるから、身体が燃えかかってたって。ほんと灰にならなくて良かったわよ」

「だって、また使うなんて思わなかったから」

「まあ、そうね。普通は使わないわね」

見た感じでは髪と目以外は、愛麗のままのようだ。燃えてなくならなくて良かった。


それに……と彼は少し不貞腐れたように横を向くと、あとから役人が来て、自分以外の男が火付けの疑いがある愛麗の身体を触るのが嫌だったんだ、と付け加えて言った。


「は?ええっと…、愁陽って、その役人のトップよね」

「そうだけど」

「私って、一応大貴族の屋敷を燃やした火付け人、ってことよね」

「そうなるな」

「そのあと、都を火の海にしようとしてたわよね」

「未遂だろ?」

「愁陽、それって大罪を犯した犯罪人を隠したってことになるんじゃない?」

そっぽを向く愁陽の耳が赤くなっている。

観念したというように、はあ~っと肩で大き息を吐くと、じとっと横目で愛麗を睨んだ。

「仕方ないだろ、嫌なもんは嫌だったんだ。ほかの男が、愛麗をあれこれ触るなんてあり得ない」


案外、子供みたいなところがあるのね。

可愛い~、て愛麗は思ってしまう。

山の神の話では、目の前に居る愁陽が空の王になるという話だけれど。


「うん、ありがとう。私もあれこれ触られなくてよかった」

愁陽の可愛い理由と不貞腐れ方にクスクスと愛麗が笑ってると、笑うなよ、と愁陽が愛麗の頭を引き寄せ、彼女のおでこを自分の胸に押し付ける。お蔭で愛麗の笑いも止まった。


「愛麗、好きだ」

少し掠れた低い声が甘く響く。

……ああ、こんなの反則だわ。目眩がしそう。


「うん、私も。愁陽が好き」

愛麗はようやく自分の言葉で、彼に自分の思いを言えることが嬉しかった。

空の王がこの戦乱の世を駆け巡り、王となるその日まで物語はまだ始まったばかりだ。

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空の王と風の姫-風の言葉(ことのは)- 夕浪 碧桜 @mozu4648

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