第31話 優しい風
夜空を炎で赤く染めた夜から丸二晩過ぎた翌日、都では火事の噂さであちこち騒がしくなることもなくなり、都の人たちは普段と変わらないいつもの日常に戻っていた。
愁陽はあの夜のままの格好で、鮮やかだった蒼い上衣は煤と血で黒く汚れ、ところどころ破れている。
その恰好のまま、気が付けば、あの懐かしい
あのあと、炎はみなの協力のもと、燃え広がることはなく鎮火された。愁陽は火事から逃れる人々の救護に加わり、そのあとは怪我人の手当や焼け跡の始末などに追われていた。
広い屋敷の三分の二ほど焼失はしたが、死者がでなかったことは幸いだった。
あとは家の者たちだけで大丈夫だろう。
そのあとも愁陽は城へは戻らず、どこをどう歩いて来たのか定かではなかったが、いまは草原の匂いと心地よい風が、火照った身体を冷やしてくれていた。
焼け跡からは、愛麗の遺体は出てこなかった。
火元だった彼女の部屋は跡形なく焼けたので、彼女のものも何ひとつ残っていない。
彼女が庭の外れに立つ古い高楼に居たことは、愁陽以外誰も知らなかった。
愁陽は彼女に別れを告げた後、階下の高楼の入り口の扉を閉めると、そこに火を放った。
彼女の弔いのために。
李家は有力な大貴族なのだ。一人娘の餞に古い高楼の一つくらいいいだろう。
火つけの犯人として、彼女の遺体を人の目にさらしたくなかったし、役人たちに触れさせたくなかった。
静かに眠らせてやりたい。
やっと自由になったのだ。
だから、古い高楼ごと彼女の罪を封印することにした。
屋敷からも離れて建っているため、幸い火が燃え広がることはない。
音を立てながら炎は高楼を焼き尽くしていった。彼女を縛り付けていたものが、彼女を解き放ち、いまようやく愛麗は自由になれる。
高楼の下に広がる池の湖面に解き放たれた炎が静かに映っていた。
その様子を、愁陽は池の畔に一人立って眺めていた。炎に赤く染まる頬に一筋の涙が落ちるのを拭うこともなく、ただ静かに、火の粉が夜空に高く舞い上がり登ってゆくのを見つめていた。
「愁陽さまぁーーーーっ!!」
青い空の下の穏やかな草原に、聞き慣れたマルの、自分の名を叫ぶ声が響いた。
マルと、複数の馬の蹄の音が聞こえる。
愁陽は、ぎこちなくゆるりと顔を上げた。この二日間、我を忘れたように、王の後継者の愁陽として、救助や処理など積極的に動いていたはずなのに、ここに来て気が抜けたようで、まるで自分の身体でないみたいに、ひどく重い。
城門のほうから、マルともう一頭の馬に姉姫の翠蘭が跨り、こちらへ駆けてくる。
二人はみるみる近づいて、マルが転がるように馬の背から飛び降ると、愁陽の傍へと駆け寄った。
目を見開いて、必死の形相で問う。
ずいぶん主のことを心配したのだろう。
「怪我はっ、怪我はしてないでしょうかっ!!」
がしっ、と主の二の腕を掴みぶんぶんと揺さぶり、足から頭まで確認をした。
「そんなに揺さぶるな、怪我はしてないが痛い」
「はあぁ~、よかった……ったく、もう!心配しましたよ。」
マルは安堵で思わず潤んだ目元をごしっと片腕で拭った。
あとから追いついた翠蘭は状況を見て察したのか、険しい顔をしたまま静かに馬から降りる。
息を整えたマルはあたりをキョロキョロと見回し、そこに当然あると思っていた人影がいないことに気づいた。
「あれ……?愁陽様……、愛麗様は?」
マルの問かけに、愁陽は視線を落とす。
ただ足元の若草が風に緩やかに揺れている。
「愛麗様にはお会いになれたのでしょう?」
「ああ…………」
「じゃあ、なぜ、おひとりなんですか?」
「………………」
「愛麗様は、いまどちらに?」
「風に……、なったよ」
愁陽は喉の奥がひどくひりつくような気がした。
愛麗と高楼で別れて以来、彼女の死を認めるようで口にすることが出来なかった。
喉の奥から何かが込み上げてくる。
「……風?……っ、そんなっ!!どうしてですかっ、わからないですよっ!!」
マルが吐き出すように叫ぶ。
「だってっ……、だって!!」
「マル」
それまで何も言わず二人の傍に立っていた翠蘭が、静かに諭すようにマルの肩に手をのせて言った。
マルは信じられないという驚愕の色を浮かべて彼女を見あげるが、感情が激しく入り乱れて何を言えばいいのか、ただ口をパクパクするだけでうまく言葉にならない。
翠蘭はそんなマルに、わかっている、というように静かに瞬きをすると、愁陽のほうへと目を向け言った。
「そう、風になったの。…それが、彼女の選んだ道なのね。」
ようやく彼女の死が、愁陽の中で現実となっていく。体の横に垂れさがる両腕の、震える掌を力なく握り締める。うなだれたままの彼を、翠蘭はただ静かに見つめている。けれど、明るく問う。
「愛麗は、笑っていた?」
「……ええ。とても、優しく……」
「そう、よかった」
翠蘭が安心したように、静かに口元に笑みを浮かべた。
そんな二人がわからないと、マルは声を荒げた。
「っ、何故なんですかっ!?なぜっ、お二人はそんなに、落ち着いていられるんですか!?」
「マル。受け入れてあげましょう。これが、彼女の選んだことなの」
「でもっ!!」
「そんなに言っては、彼女が悲しむわ」
「……翠蘭様」
翠蘭に優しく諭され、マルは少しずつ落ち着きを取り戻した。
「……愛麗は……これで、よかったのでしょうか。彼女は、何のために生きて……私達は何のために……」
相変わらず、足元の若草は、春の風にそよそよと揺れている。
「さあ、私にもまだわからないわ。死ぬまでわからないのかもね」
翠蘭の長い黒髪が、さらりと風に流れるまま、彼女は言葉を続けた。
「でも、生きた時間の長さだけでなく、大事なのは、どのように生きるかじゃないかしら。彼女は、それを選んだのよ。愛麗として、生きることを」
「愛麗として……」
愁陽が震える眼差しをあげると、姉姫の穏やかだけれど力強い瞳がそこにあった。
「姉さん……、俺は、これからどうしたらいいのでしょう」
「アンタは、今のアンタのままでいればいいのよ。何も変わることはないわ。それが彼女の愛したアンタなのだから」
「姉さん……」
「……って、え、ええっ!?」
愁陽は姉のさらっと言った一言に、遅れて気づいて驚きの声をあげた。それにつられて、翠蘭も驚きの声をあげる。
「はあぁっ!?って、アンタ、まさか気づいてなかったの!?」
「いや……て、まあ、ちょっとは……そうかな?って、思ったり思わなかったり…でも、ほら!そういうことって、なかなか…ハハ…ハ、ハ……」
愁陽は乾いた笑いで誤魔化した。
「心底呆れるわぁ~!我が弟ながら、ほんっとーに、情けないわねっ!イケてない」
「そんなに言わなくてもいいでしょう。」
不貞腐れ気味に横向いて愁陽が言うと、翠蘭が笑って言った。
「フフ、愛麗も呆れて笑っているわ。」
「あぁ~、彼女の場合、怒ってますよ。」
愁陽も目を伏せて笑みを浮かべる。
「アンタもそうやって笑ってなさいよ。いつまでも泣いていては、彼女も悲しむわ」
「……そうですね」
愁陽の瞳にも少しだけ穏やかな光が戻ると、そんな三人をふわりと春の風が包み込んだ。
「あ、風が優しくなってきた」
嬉しそうに空に両手を伸ばしたマルが声を弾ませた。
三人で草原の中、青い空を見上げる。
どこまでも高く、高く、青く澄んだ空が続いていた。
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