第30話 対決
青い空 光に満ちて
吹く風が 優しく過ぎる……
愛麗は高楼の窓辺に腰かけ欄干に気だるげにもたれると、眼下で炎に包まれる屋敷を見ながら口ずさんでいた。
なぜこの歌を口ずさんでいるのか、自分でもわからない。けれど自分の婚礼衣装とも死に装束ともとれる襟と袖に金糸で模様が入ったこの真白な衣が、炎を反射し赤く染まるのを見るのは気分がいい。
そのとき、バンッと勢いよく音を立てて、両開きの扉が開かれた。
「っ、…愛麗!!」
そこには息を切らし、肩を上下させる愁陽が、開いた扉に片腕をつき身体を支えて立っていた。先程の池のほとりから高楼の一番上まで、一気に走り階段を駆け上ってきたのだ。さすがに息は切れた。
滲んだ汗に前髪が額に張り付く。
ゆるりと、気だるげに愛麗は振り返る
まるで愁陽が来ることを、ここで待っていたかのようだ。
「……やっぱり来てくれたのね」
愛麗の声であって、彼女ではない、低く色香を漂わせる別の女の声。
「お前は……」
気怠げに立つ愛麗の背に見える空は、もう夜の帳が降りているはずなのに、ぼうっと赤く染まっていた。
彼女は嘲るように声を立てて笑った。
「フフフ……来ると思っていたわ。愚かな男」
愁陽は息を整えながら、ゆっくり窓辺へ近づいていく。そして低い声で問う
「愛麗をどうした」
「ひどい言い方。私も愛麗なのに」
「お前は愛麗じゃない」
「まあ、いいわ。今は機嫌がいいから。」
ねえ、見て!と、彼女が振り向き手で指し示す先には、夜空を紅く染めながら真っ赤に燃えあがる炎が見える。
まるで赤い海が、さまざまなものを呑み込んでいくように。
彼女はうっとりするように、恍惚と炎の海を眺める。
「美しいでしょ。私を抑えていたものが、崩れ落ちてゆく。みんな燃えて灰になればいいのよ」
彼女の白い頬は炎で赤く染まり、黒い瞳も赤く映し出している。
「私を閉じ込めようとするものは、すべて燃やしつくすの。私は変わる。これまでの私は燃え尽きるがいいわっ!」
高揚して彼女は叫んだ。
「やめろ」
その声は低く冷静なようだが、愁陽は顔を苦痛で歪ませ愛麗をまっすぐに見つめていた。
愛麗は細い右腕で空を切る。
「この都中、燃やし尽くしてやるわ!!あはは…きっと綺麗よ!!」
彼女はどこか壊れてしまったように嗤い、この状況を楽しんでいるようだった。
彼女はほんとうに消えてしまったのだろうか。ほんとうに狂ってしまったというのだろうか。
不安を抑えながら、さらに一歩、愁陽が踏み込む。
「そんなことは、俺がさせない。」
愛麗は振り上げた右腕を静かにおろし、愁陽へとゆっくり振り返る
「どうやって?」
愁陽は腰に下げていた剣を冷たい金属音を立てながら、静かに抜いた。
鞘から抜く瞬間、炎を反射して剣が暗闇にきらりと光を放つ
愛麗から笑みが消え、まっすぐに愁陽を見据える。
「……私を、斬るの?果たして、あなたに斬れるかしら」
握りなれた剣の柄を、もう一度握りなおす。
「都を守るのが俺の仕事だ。それに、愛麗にそんなことはさせない。彼女はこんなことを望んではいない……お前は誰なんだ」
「私は愛麗。彼女の中にいた、もう一人の私。あなたも昨夜、聞いていたのでしょう?抑圧され歪んだ心が作り上げたのが私なら、彼女の罪への恐れが作り出したのが、もう一人の私」
愛麗はつまらなさそうに答えた。
窓の外からは、人の叫ぶ声、火の爆ぜる音、建物が崩れ落ちる音、混乱の音が入り乱れているのに、それらの喧噪はまるですべてが遠いところで起こってるように、この空間だけは静かで、冷静でいられることが、愁陽は不思議だった。
そうだ、ここは
「ねえ、さっきあなたは、彼女はこんなことを望まないって言ったけど、あなた、愛麗の何を知っているの?何も知らないでしょ?」
そう言われて、愁陽は何も答えられなかった。
「あなたに再び会わなければ、今でも私はもう一人の私のままでいた。私は愛麗に奥深く閉じ込められて、今も暗闇のまま目覚めることもなかったでしょう」
愁陽の声が、僅かに震える
「……俺が、彼女を追い詰めたの…か……?」
もう一人の愛麗は、無邪気に笑って両手を広げた。そして、声も高らかに言い放つ。
「いいえ!あなたが魂を解き放ってくれた!私を、自由にしてくれた!そうね、私はやっぱりあなたに感謝すべきね」
彼女は首を傾げて、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「俺が幼き頃、いっしょだった愛麗はいま、どうしている?」
彼女は興が冷めたというように笑みを消し、不貞腐れるように言う。
「さあ、知らないわ。私には関係ないもの」
「お前はいま、あの歌をうたっていただろう」
そう、二人が
空になりたいと、幼い夢を語ったあの日も
再会した桃の木の下でも
二人にとって大切な思い出の歌を、今も自分が扉を開ける前に口ずさんでいるのが聴こえた。
だが、彼女はさらに不愉快そうに眉を寄せた
「彼女なんか知らないわよ!しつこいわねっ!用がないなら、もう行くわ」
そう言うと、彼女は窓辺を離れ愁陽の脇を抜けようとするが、その前に、愁陽が素早く動いた。
愁陽は愛麗の前に立ちはだかり、カチャと音を立てて剣を彼女へと突き付ける。
僅かに愛麗が息をのみ、剣先へと冷たい視線を移した。
「っ、…頼む。俺に、このような真似をさせないでくれ。俺は、お前に刃を向けたくない。……約束を、破らせないでくれ」
「……やくそく?」
彼女は怪訝そうに言った
愁陽が愛麗に向けて優しい笑みを浮かべる
「ああ……お前を、守るって約束をしただろう」
彼の言葉に愛麗が目を見開く。
一瞬の沈黙のあと、彼女は声をたてて笑った
「あはは……よくそんなこと覚えていたわね」
「ああ、実は子供の頃から思っていたよ。もっとも俺の助けなんて、必要なさそうな姫だったけど」
彼は伏目がちに、子供の頃の愛麗を思うようにふわりと笑って言った。
そして、目の前の女の中にいる幼馴染の姫に、届くように願いながらゆっくり言葉を紡ぐ。
「……愛麗。これからは一人じゃない。俺がついているから」
静かに立つ彼に、愛麗がゆっくりと近づくと、白い細い手で彼の頬にそっと触れた。
愁陽には幼馴染の姫の瞳を見たように思えたが、それも一瞬のことで会いたい彼女が現れることはなかった。
女の口角が緩やかに弧を描き、低く色香を含んだ声音で言う。
「フフフ……ほかの男のものになるのに?」
「ああ…そうだった。それは、ちょっと問題だな」
愁陽はほんの少し肩を竦めた。
目の前の愛麗は少し黙って、そして無表情のまま問う。
「愛麗を愛しているの?」
「そうだと言ったら」
僅かな沈黙のあと、愛麗は彼の頬から触れていた手を払うように放すと、高らかに笑い叫んでいた。
「……っ、馬鹿馬鹿しいっ!私は言葉なんて信じないわ!気まぐれだもの」
「愛麗……」
愁陽の低く悲しそうな声が響く
愛麗はいきおいよく振り返り、彼に向けて両手を広げた。
「さあ、選んで…っ!私を斬らなければ、私は都中に火を放つわ!……さあ、どうする?私一人を選ぶのか、都の者たちを選ぶのか!……あなたのことだもの、もちろん、多くの者たちを取るのでしょうけど」
高揚してゆく愛麗とは対照的に愁陽は冷静だった。
「愛麗。人の命を天秤にかけることなど出来ない。たとえ一人と多くの者でも」
愁陽は綺麗な眉間をわずかに寄せて、静かに懇願するように続ける。
どうか、自分の言葉が幼馴染みの姫に届いて欲しいと願う。
「愛麗。俺の言葉は、もう届かないのか。俺が、何を言ってもお前には、聞こえないのか」
そんな彼に相反するように、愛麗は黒い
「何を言っても無駄よ」
「愛麗っ!」
愛麗は、もう話はこれで終わりとばかりに息を吐く。そして、自ら剣先に向かう。
愁陽の剣先が迷うにように微かに揺れた。
「さあ、私を斬るといいわ。けれど、あなたに愛麗の身体が斬れるのかしら」
彼女は彼を追い詰めるように、低く言う。
「いいえ、あなたには出来ない。もう行くわ」
そして、剣先から身体を逸らし一歩踏み出そうとした次の瞬間、愁陽が動く。
「やめろ!!」
鋭い声とともに、彼の剣が振り上げられた。
けれど。
振り上げられ斬りかかろうと構えられた剣先は震え、柄を握る彼の手は白くなるほど強く握られるだけで、その剣を振り下ろし目の前の彼女を斬ることは出来ない。
愁陽は眉根をきつく寄せ、苦しそうに顔を歪ませ葛藤していたが、やがて瞳を強く閉じると、顔を背けた。
ゆっくりと、剣を持つ手が下ろされる。
「…………行けよ。俺には、お前を、斬ることはできない……」
顔を背け俯く彼を見て、勝ち誇って狂喜するかのように、女は高らかに笑い叫んだ。
「愚かな男!これで、すべてが完成する!もう、誰にもワタシを抑えることはできない!ワタシは自由になるんだわ!」
「……そう、私は自由だわ。お別れね」
聞き慣れた彼女の声に、はっとして愁陽が顔をあげる。
そこに見えたのは、紛れもなくふわりと微笑んだ愛麗だった。
「っ、愛麗っ!」
「愁陽」
優しく包み込むような微笑みを浮かべて、愛麗は両手を広げて愁陽に歩み寄った。
そして彼に会いたかったと、もう苦しまなくていいのだというように、強く、強く彼を抱き締めた。
彼の手にある剣先とともに……
愁陽は、一瞬何が起きたかわからなかった。
ただ掌を伝わる忘れたくても忘れることのない肉を貫いていく嫌な感覚を、信じることができない。
頭の中で警鐘を鳴らし、身体の中を戦慄が走った。
肩に寄せられた愛麗の唇から、深く息が漏れ、苦しそうに耐える息遣いになる。
愛麗の身体から弾き出された女の影が、ぼうっと離れたところに浮かんでいた。
「何故なの!?」
女は激しく怒り叫んだ。目と口を剥きだしている。
愁陽は力が抜け、崩れそうになる愛麗の身体を抱き締めたまま、剣を抜くことができない。抜けば傷口から血が噴き出すだろう。そんなことをすれば、彼女を救うことができなくなる。しかしこのままでは……どうすればいいんだ
彼女を失うのが怖くて、まともに冷静な判断が出来ない。
「…あ、いれ…い……」
やっと出た彼の声は、掠れて震えていた。
愛麗は心の中で、何度も愁陽に謝った。こんな役目を彼にさせてしまったことは、本当に申し訳なく思っている。
これ以上はもう彼を苦しめたくはない。
愛麗は、腹部に刺さった剣を抜くために、愁陽を突き飛ばした。
焼けつくような鋭い痛みに気が遠くなりそうだ。
霞む視界に、信じられないものを見るように呆然と、泣きそうに顔を歪めて立つ愁陽が見える。
ああ……ごめんね、そんな顔させて。
話すことが出来ないから、心の中でもう一度詫びる。
せめて笑っていよう。
脚から力が抜けそうになるのを、ふらつきながらも何とか踏ん張る。
まだ最後の仕事が残っている。
「……これ、で……、いいの……。これで……」
愁陽と、もう一人の彼女にと、そして自分に言う。
精一杯力を振り絞り、もう一人の自分という影と対峙する。
「……自分で作り上げた偶像は、自分で壊さなければいけない。だって……、私は、自分でいたいから……っ」
もう表情もなくぼやけるように立っていた影は、何も言うこともなく、静かにすうーっと消えていった。
愛麗は最後の賭けに勝った。
日に日に強くなるもう一人の自分に支配され、自我が完全に消えてしまうことを恐れた。もう一人の彼女になったとき、いったい自分は何をしてしまうのか怖かった。結局、火を放ってしまったのだが。
姉の死の告白のあの夜、すべてを手放すふりをして、一度身体とココロをもう一人の自分に明け渡した。今度は自分が彼女の中で眠り、もろとも葬ることができる機会を待つために。
大きな賭けだった。
もしかして、彼女の中でそのまま目覚めることができず、外に出てくることができなくなるかも知れない。
けれど、愁陽がきっとそばにいてくれる。それだけだった。
きっと大丈夫。そう信じて、機会を待っていた。
そのために彼にもずいぶん辛い役をさせてしまった。酷いことも言った。
けれど、きっと自分が消えて彼女が残ってしまっていたら、もっと愁陽を傷つけ続けたことだろう。
でも、これでもう、もう一人の自分に怯えることもなく、本来の愛麗としていられる。彼にも愛麗のまま別れができる
愛麗は、まだ炎で赤く染まる夜空のほうを見た。けれど彼女の瞳には、青く懐かしいあの空が見えた。
空に向かって、血に赤く染まった手を伸ばす
「……愁陽、見て、青くて、ほんとキレイな空……、いつも、こんなふうに、なりたいと、思って…」
最後まで言い終わらないまま、愛麗の身体が崩れ落ちようとしたのを、愁陽が抱きとめる。
「愛麗っ!愛麗…っ、しっかりしろっ」
床に崩れ落ちぐったりとした身体を抱き締める。ゆっくりと愛麗が瞼をあげる
「……もう少しで、手が届きそうなのに……、届かないのね……」
口元に弱々しく笑みを浮かべて言うと、また震える手を伸ばそうとする。
その手をとり、愁陽が身体ごと抱き締める。
「……動くな」
愛麗の白い衣装を、真っ赤な鮮血が染めあげている。
止血をしなければ……っ、そう思うのに、傷口に手をやるも流れ出る血を止めることが出来ない。
戦場で多くの者の死を見届けてきた彼には、彼女の傷の状態がどうであるか、一目瞭然だった。死ぬな、愛麗、まだ言いたいことがいっぱいあるんだ。
ともにやりたいことだって、たくさんある。
どうすればいい。考えろ!愁陽は自分を叱咤する。
血に染まった手で愁陽の腕に触れた愛麗が笑みを浮かべる
「……震えて、る、の?」
「大丈夫……、傷は、そんなにひどくないからっ」
彼女に生きて欲しくて嘘をついた。
「ふふ…、おかしいね。一国の将でも震えるなんて……」
「喋るな」
「……でも、そんな、あなたでいてね、ずっと……愁陽なら、きっとあの空になれるわ、ほんとよ……っ……」
彼女の身体を抱き締め、愁陽の声が震える
「頼むから……、喋らないで、くれ」
愛麗が血を吐いた。
彼女は今にも消えそうな声なのに、彼の懇願を無視して笑みを浮かべ明るく続ける。
「……そうだわ、……あなたが、空なら、私は風に、なるわ。風になって……、大好きな人たちの傍にいるの……困ったときは、助けてあげる」
「やさしくて…、あたたかい、風……、愁陽…」
「ん?」
「…………眠く、なってきちゃった……少し、眠って、いい……?」
「……だめ、だよ、…愛麗……」
愁陽の瞳から涙が溢れ落ちた。彼女の頬を濡らしていく。
もっと愛麗の笑顔をしっかりと見ていたいのに、涙が邪魔をする。
愛麗は優しい笑みを浮かべている。
青い空……、光に満ちて……
愛麗が、消え入りそうな声で、歌う。
吹く…風は…、やさ、し…く……、す……、ぎ…………
彼女の細い腕が力なく床に落ちた。
「っ、愛麗……、愛麗っ!!」
彼女の黒い
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