角をもつ娘

 マウダは扉を軽く叩く。見た目よりも重い音がした。

「あたしだ。開けるよ」

 そっと鍵を回して扉を開ける。店を切り盛りする合間をって来ているとは思えないほどの慎重な動作に、しかし違和感を覚える間もなくその理由を察する。

 肘掛けのある大きな椅子の上で、角の生えた少女があたかも身を隠そうとするかのように小さくなって座っていた。歳は人族でいえば十四か十五くらいに見える。真新しい生成の服に身を包み、薄青の長い髪もきちんと整えられてはいたものの、ラルクを凝視する目にはっきりと見える怯えの色は隠せない。

「昨日話したろう? このおじさんがしばらくあんたを預かって、知りあいの魔族に住みこみの働き口がないかあたってくれるんだよ」

 よく通る声を努めて和らげてマウダは話す。少女は瞬時に体を強張らせた。何を言ったものか決めかねたラルクは曖昧に腰を折る。少女も慌てて頭を下げた。三百年の寿命をもち外見から年齢を測りがたい種族ではあるが、その所作は外見相応の、あるいはより幼い子供のそれに見える。

「やっぱりあたしみたいな物騒なのより、学者さんみたいな人の方が落ち着くのかね」

 彼女の様子はとても落ち着いているとは言いがたい。それでもマウダは満足げにうなずいた。ラルクの物言いたげな視線に苦笑して、つい今しがた入ってきた扉に手をかける。

「会ったばかりでこれなら十分さ。あたしは外した方が良いかもしれないね。学者さん、昼飯はまだだろう? 作ってくるから待っていなよ」

 一方的に告げ、あっという間に去っていった。

 行き場を失ったラルクの視線はしばらく扉のあたりを彷徨さまよい、それから魔族の少女へと移った。魔族にしては小さな体がさらに縮こまる。それでも否応なしに目を引く暗灰色のねじれた角は、表面の傷も少なく、節目もはっきりと整っている。外見に見合った年齢だろうという推測はあながち間違ってはいないようだ。

 ふと気づくと、澄んだ黒い眼が戸惑いを帯びてラルクを見ていた。悪い癖が出てしまった。苦笑を浮かべて少女の向かいに腰を下ろす。多少ほぐれた気分で、何から話したものかと考える。

「私はラルク・エニルノ、学者です。あなたの名前は?」

 少女は答えない。

 人族の言語は分からないのだろうか。彼が知る限り、ほとんどの魔族は人族語を話せるはずだが。ともかくも魔族語で同じ内容を伝えようとする。人族語とは違う独特の声調を思い出しながら、ぎこちない発音で繰り返す。

 少女の表情はわずかに戸惑いを見せたまま固まっていた。

 言葉が通じていないのか、答える気がないのか、答えられないのか。判断しかねたラルクははたと思い至って懐を探る。思いついたことをいつでも書き留められるようにと持ち歩いている紙と硬筆――紙は書き損じた手紙などの裏――を取り出し、魔族語の文字を書き連ねて三度みたび名を尋ねる。

「……エスティ」

 初めて聞いた声は消え入りそうにか細かった。

「では、あなたのことはエスティと呼びましょう。変えてほしければいつでも言ってください」

 ラルクはつい安堵の笑みをこぼしながらそう言い、同じ言葉を書いて見せる。

 返事があるより先に、扉の叩かれる音がした。エスティが身をすくませた。

「学者さん、悪いけど開けてくれないかい。手が塞がっているんだ」

 急いで扉を引くと、香ばしい匂いが部屋に流れこんでくる。この短い間にマウダがこしらえてきたのは垂穂亭名物の軽食だ。川魚を揚げて濃いめに味をつけ、たっぷりの香味野菜と一緒に薄焼きの生地で挟んである。酢漬けの根菜との取り合わせがラルクにとっては馴染み深い。

「あたしの奢りだよ。ふたりで食べな」

 エスティはおそるおそる包みを取り上げて、一口かじる。浅く息を呑む音がした。伏しがちだった目を丸くしている。黒と見えた眼が光が入れば深い青だと分かる。ややあって二口三口と食べすすめる彼女にラルクは安心した。ここの店は酒場も兼ねており、体を動かす生業の客が多いこともあって、少しばかり味つけが濃い。いや――彼は内心で訂正する。だからといって口に合わないかもしれないとは、思い込みが過ぎた。

 二人の視線に気づいて顔を上げた彼女に、マウダは得意げに笑いかけ、ラルクは目を逸らした。エスティはちらちらと様子を窺いながらもまた食べはじめる。マウダは店に戻らずにその様子を見ていた。

「話は弾んだかい?」

「名前を教えてもらうのが精一杯でした」

 へえ、とマウダが眉を上げる。

「なんて名前なんだい」

「エスティというそうです。長さからして正式の名ではなく、人族に呼ばれる通称の方でしょう」

 魔族の名は長く、また他者が呼ぶことは非礼にあたる。魔族同士は姓で呼びあうが、複雑な韻律をもつ姓の発音は人族には難しいため、人族はたいてい名の途中を省いた通称で魔族を呼ぶ。紹介の手紙を書くためにはいずれ姓名とも聞かなくてはならない。これは思ったより難しいかもしれない。

 ところがマウダは卓の端を一瞥して怪訝な顔をする。その視線の先には筆談に使っていた書きつけがあった。

「この子は人族語も分かるよ」

 耳元でささやく。ラルクが思わず食事の手を止めたのを視線で咎める。幸いエスティは夢中で川魚の揚げ物を頬張っていた。そういうところばかりは町で見かける人族の子と少しも違わない。

 マウダは微笑ましげに口元を和らげていたが、その目は遠くをにらんでいた。

「見ている限りじゃ育ちも良い。この子を見つけた冒険者の話では、限られた材料で簡単な料理をしていた跡もあったそうだ」

 今度は食事を止めずにラルクは思案する。酢漬けの根菜をかじると酸味が鼻に抜けていく。エスティは彼が名を尋ねたその言葉の意味を理解していなかったのではない。そうだとすれば、どう答えたものか、あるいはひょっとすると答えるべきでないのかを考えていたのだろう。おそらく彼女はラルクとの距離を測りかねている――そしてこういうとき、彼は待つことを選ぶ。

「良いことです。働き先でも重宝がられることでしょう」

 冗談めかして言うと、マウダが意地悪く目を細めた。

「学者さんのところでもね。料理をする暇がないのは分かるけど、一昨年おととしみたいに体を壊されたら堪らないよ」

「気をつけましょう。しばらくは同居人もいることですから」

 苦笑を返す。依然として行儀良く食事を続けるエスティの様子をそれとなく窺いながら、ラルクはもう魔族の知己を思いつく限り思い浮かべていた。少女の表情に差す怯えの影を思う。マウダとは長い付きあいだが、今度の依頼は動植物の鑑定とはまるで違う、難しく責任の重い仕事になりそうだ。

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エニルノの三領域 白沢悠 @yushrsw

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