エニルノの三領域

白沢悠

ふたつの種族

 何十人もの話し声が重なり混じりあって一つの騒音になり、ほとんど怒鳴りあうような歌声がそれを圧しては押し返される。酔いに任せた調子外れの仕事歌は肩を組んだ男たちと共に揺れていた。ときおり皿や器が重なり当たって甲高い音を散らす。

 アデッサの町の宿屋兼酒場「金のたり亭」は、昼間から酒をあおる人々で賑わっていた。予定より早く町に着いたらしい行商、仕事を待つ荷運びの男、戦時でもないのに武装している若者は用心棒か冒険者だろう。円卓を囲む丸椅子はほとんど埋まり、炊事場に面した長卓の、端に近い方が少し空いているばかりだ。その空席を隔てた片隅に、としかさの男性が一人座っている。

 彼は他の人々と同じ一室にいながら、まるで違う場所に独りたたずんでいるようですらあった。革張りの厚い本の頁を手繰っている。年の頃はおそらく四十過ぎ、いかにも学者然とした一重の長衣もせた緑色の髪も決してよく手入れされているとはいえないが、焦茶の眼には深い知識の痕跡と、尽きない探究心の光があった。

 ふいに、カウンターの中で忙しく動いていた女性がさりげなく彼の方へ向かう。客をあしらう笑みから一転、険しい顔で声を潜めた。

「どうだい、学者さん。何か分かったことは?」

 付きあいの長い相手を前にいったん破顔した男性は、すぐにまた手元の細密画をにらみ、紙の上に広げた干した葉のようなものと見比べる。彼よりいくつか年上と見えるこの女性は「金の垂穂亭」の店主でマウダ・フォメイン、学者の男性はラルク・エニルノという。

「こちらはまず間違いなく白叉草フィラでしょう。知ってのとおり、ごく一般的な薬草です。ですがもう一方、この色と形、葉脈の具合からすると……」

 ラルクは葉を指先で押し広げる。軽く周囲を窺い、人の好さそうな顔に困惑の色を浮かべた。

「おそらくこれは青種花ヒルトノファの葉でしょう。とても強い幻覚作用と鎮静作用をもつ――端的に言えば、麻薬です」

「やっぱりね。ありがとう学者さん、助かるよ」

 マウダは小さく舌打ちした。口の端を吊り上げてはいたが、見開かれた目が苛烈な光を宿している。

「鳴りを潜めていたかと思えば『千の手』の奴ら、もう勢力を立て直したらしい。昔より汚い手を使っていなきゃいいんだが」

 千の手というのはアデッサ近辺で活動する犯罪組織の名で、マウダにとっては隊商の護衛をしていた若い頃からの因縁の相手だそうだ。ラルクの困惑が心配に変わっていくのを見てとって、彼女はすっと目を細める。

「そんな顔しなくても、あたしはちょっと冒険者をせっつくだけさ。そういつも掃除ばかりさせるんじゃ可哀想だからね」

 内容とは裏腹に真剣な声音は、本題に移るという合図だった。ラルクは懐から綺麗に折りたたまれた手紙を取り出す。

「その空き家に例の、書物の民ベルディアの女の子がいたのですか」

「ああ、やっぱり学者さんはそっちで呼んだか」

 マウダがまた意地悪く笑う。書物の民とは頭部のねじれた角を特徴とする種族のこと――そして、彼ら自身の言語でその種族を表す語だ。

「――魔族って呼び方はそんなに嫌かい?」

 薄茶の眼が鋭く光る。ラルクはその眼を見返してしかし何も言えなかった。実のところマウダの言葉は決して驚くようなものではない。ラルクたち人族の言語では書物の民を指して「魔族」という。三百年とも言われる長寿、人族を上回る魔力と頑健な身体をもつ彼らを、おそらくは魔物になぞらえての呼び名だ。

「あたしは何とも思わないが、他所じゃ気をつけた方がいい。うちの客には今の一等官を引きずり降ろそうって動きに乗っている奴らもいるし、あの子だって連れて来られてすぐ、酔っていたとはいえ客にどやされたんだ」

 マウダは声を低くする。

 人族と魔族は長い間、同じ地に入り混じるようにして生きてきた。職業ごとに緩やかな住み分けがされており、人族は多く農業や工業や商業に従事し、政治や軍事や学術の担い手には魔族が多い。例えばアデッサを治める官吏の筆頭は魔族だ。学者であるラルクの知己には魔族が多く、用心棒や冒険者にも比較的多い。理由のない住み分けではなかったが、だからといって不公平だと思う者がいなくなるわけではなかった。

 今は朗らかに騒いでいる客を見渡し、ラルクはかすかに苦い顔をする。種族としては人族である彼にとて、魔族と交流があるために後ろ指をさされたことが無いわけではない。

「心得ておきます」

 うん、とマウダは硬い表情で返す。長卓下の棚から鍵束を手に取り、視線を素早く店全体に走らせる。

「あの子は奥にいるよ。給仕で信頼の置けるのは……手が塞がっているね。しかたない、あたしについてきてくれ」

 そう言うと彼女は店の奥、商談をするための個室の一つへ向かった。

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