頭上で回るは観覧車

野森ちえこ

待ちあわせは観覧車

 ジェットコースターからあがる悲鳴、歓声。

 風に乗って聴こえてくるのは踊りだしたくなるような音楽。子どもたちのはしゃぐ声。

 まだ浅く透明な青空は、五月晴れというのがぴったりくるようなさわやかさだ。


 どこかアットホームな雰囲気の遊園地。

 最後にきたのはいつだったか。

 就職のために地元を離れてもう七年。すくなくとも、その間は一度もきていない。


 すれ違うのは手をつなぐカップル。

 子どもを真ん中にはさんで歩く家族連れ。

 どの顔も、楽しそうに笑っている。


 もしかしてタイムスリップしてしまったのではないかと、ちょっと本気で疑いたくなるくらい、ここは記憶の奥にある景色とおなじだった。

 そのことになんだかホッとして、だけどそのことに、なぜだかすこし悲しくなった。


 幼い日。もしも遊園地で迷子になったら観覧車へ――というのがうちの合言葉だった。おおきくて、どこからでも見えるから。


 だから――


 両親とはぐれたあの日。

 あたしは涙がこぼれないように、じっと、じっと、ゆっくり回る観覧車を見あげていた。

 ひとりぼっちが心細くて、だけどそのぶん観覧車のおおきさが心強くて。

 やがて、息を切らしながら駆けよってきたお父さんは、自分が迷子になったみたいな顔をして、くずれ落ちるようにあたしを抱きしめた。

 お母さんは、待ちあわせ場所をきめておいてよかったわね――と、おおらかに笑った。

 あたしとお父さんは、グズグズと鼻をすすりながら、何度も何度もうなずいた。


 高校生のとき。はじめてのデートできたのもこの遊園地だった。最後の締めはもちろん観覧車。

 幼いころから何度も乗って、飽きるほどよく知っている景色のはずなのに、キラキラと見たことのない輝きを放っていた。


 だけど、ふとしたときに思いだすのは、観覧車の中から見た景色ではなく、頭上で回る観覧車の姿だった。


 はぐれたら観覧車の下へ行けばいい。


 その記憶が、今日、あたしをここに連れてきたのだろうか。


 頭上で回る観覧車はあの日のまま。

 ゆっくり、ゆっくりと回転している。


 ――……バカみたい。


 もう、誰も迎えになんてこないのに。

 いくら待っていたって。

 いくら心細さに泣いたって。

 あたしを待っている人も。

 迎えにきてくれる人も。

 会いたい人も。

 大切な人も。

 もう、誰もいないのに。


 おかしなところでせっかちだった両親は、三年ほどまえに、立てつづけに逝ってしまった。だからこちらにはもう、帰れる実家すらない。


 ――やっぱり、どうかしている。


 あたしはこれほどもろい人間だったのかと、深いため息がこぼれた。


 長いあいだ、大切に準備してきたプロジェクトがつぶれた。

 ひとことでいうなら、同僚にはめられた。

 ちいさなミスから致命的なミスまで。知らないうちに、すべてがあたしの故意によるものだということになっていた。

 入念に仕組まれたのだろうということがよくわかる隙のなさだった。

 そうして『裏切り者』に仕立てられたあたしは、会社に居場所を失った。

 よほどあたしのことが嫌いだったらしい。

 そこまで憎まれるようなことをしたおぼえはないのだけれど、気づかないうちになにかしてしまったのだろうか。

 もしそうなら、謝るチャンスがほしかった。


 きっとあの日、あたしがあたしでいるための、なにかが折れたのだと思う。

 この三か月ほど、ほとんど外に出られなかった。

 花粉の季節も、桜の季節も、いつのまにか過ぎ去っていた。

 そろそろなにか仕事をみつけないと、生活できなくなるなと、ぼんやり思ったのが今朝のことだ。

 買いものも支払いも、今はなんでもネットでできるけど、それもお金があればの話である。


 なにをするでもなく観覧車を見あげていると、ふいにクイクイっとカーディガンの裾をひっぱられた。


「おねえさん、まいご?」


 小学校二、三年生だろうか。十歳にはなっていなさそうな女の子が、あたしを見あげていた。くりくりとした目がかわいらしい、利発そうな子だ。


「迷子か。そうね。そうかもしれない」


 見たところ、まわりに保護者らしき人の姿はない。この子のほうこそ迷子なのではないかと思いながら、あたしは薄く笑った。

 人生にはぐれたあたしは、まさに迷子だ。


「あなたは?」

「わたしはまちあわせよ」


 答えを準備していたのだろう。少女は得意げに胸をそらした。

 カーディガンの裾はむぎゅっとつかんだままであるが。

 でも、そうか。この子の家も観覧車ここを『待ちあわせ場所』にしているのか。


ゆい!」

「あ、パパ!」


 駆けよってきた長身の男性は、スライディング土下座でもしそうな勢いで少女を抱きしめた。


「よかった。どこもケガとかしてないな?」

「してないわよ。もう。ダメじゃない。結からはなれちゃ。パパ、方向オンチなんだから」

「うん。ごめんな」


 心底ホッとしたように、端正な顔をふんにゃりとくずして、男性はもう一度少女を抱きしめた。そして、少女のすぐうしろに立つあたしの存在に気がついた。


「あ、すいません、娘がお世話に」


 あわてて立ちあがろうとした男性の言葉が不自然に途切れた。中腰でかたまったまま、パチパチと目をまたたかせている。

 まさか、ぎっくり腰にでもなってしまったのかと、ちょっと心配になってきたころ、ようやくその口がひらかれた。


「……イチコ?」


 ためらいがちに呼ばれた、思いもよらない名前に、今度はあたしがフリーズしてしまった。


 イチコ。それは子どものころのあだ名だった。

 苗字に一がはいっていることと、一月十一日生まれということから、そう呼ばれていたのだ。

 ちなみに、本名は一ノ瀬いちのせ めぐるという。


 あたしをイチコと呼ぶのは、小中学生のときの同級生くらいだが、記憶をたどってみても、目のまえの男性にはやはり見覚えがない。

 仕方なく、どちらさまですかとたずねてみれば、あからさまに傷ついたような顔をされた。

 まあでも無理ないかとかなんとかブツブツいって、やがて気をとりなおしたように、男性はまげっぱなしだった腰をのばした。


「道生だよ。道生みちお のぼる。幼稚園から小学校五年生までずっとおなじクラスだった。ミニオっていえばわかる?」


 まさか。ウソでしょう。ありえない。

 男性の名のりに、のどもとまで出かけた言葉たちをかろうじて押しとどめる。

 ミニオこと道生のことならよくおぼえている。幼稚園でも小学校でも、背の順でならぶときはいつも先頭。クラスではもちろん、学年中見回してみてもダントツでちいさい男の子だった。そうして、いつしかついたあだ名がミニオ。

 現在では、イジメにつながる可能性があるとして、あだ名禁止の学校も多いと聞いたことがあるが、ミニオなんて、まっさきに怒られそうなあだ名である。彼の場合、その呼び名にこめられていたのは、侮蔑ではなく親愛だったけれど。


 五年生の夏、ミニオが家の都合で市外に引っ越すことになったと知ったときは、それこそ転校先でイジメられるんじゃないかと、あたしもクラスのみんなもずいぶん心配したものだ。

 そのわりに、いざ離れてしまえば、あっさりと記憶の彼方へ消え去ってしまったのだが。


「高校生になったころから急激に身長が伸びだしてさ」


 大人になってから中学までの知りあいに会ったりすると、すごい驚かれるのだと長身のミニオは笑った。それはそうだろう。あたしだって驚いた。

 顔つきだって当時はかわいい系だったのに、今は力強い精悍な顔立ちに変貌している。


「イチコは変わらないな」

「そうかな」


 ほめられているのか貶されているのか。曖昧に笑って、不思議そうにこちらを見あげている結ちゃんに視線を落とす。


「おねえさん、パパのおともだち?」

「うん。小学校の同級生なの」

「じゃあ、おうちにかえれるね。よかったね」

「え」

「だっておねえさん、まいごなんでしょ?」


 ❉


 危なかった。

 おうちにかえれるね。

 結ちゃんの素直な言葉が胸に突き刺さって、急激にこみあげてきたものをとっさに飲みくだした自分をほめてやりたい。


 ――そうなのよー。あたしも方向音痴で。


 一瞬つまらせた声には気づかなかったふりをして、あたしは冗談めかしてそう答えた。

 誤魔化せたのかどうか。自信はない。

 なにはともあれ、なりゆきでミニオ父娘と一緒に園内を回ることになった。


「姉の子なんだ。だから、ほんとうは姪っ子」


 メリーゴーラウンドの、上下する白馬に乗る結ちゃんに手を振りながら、ミニオはおもむろに話しはじめた。


「最初はふつうに『おじさん』て呼ばれてたんだけど、なんか変な目で見られることがあってさ」


 誘拐犯に間違われそうになったり、そうでなくても、若い独身男が幼い子どもをあずかっているという状況に『説明』を求められることも多かったのだという。

 それを見かねたのか、あるとき結ちゃんのほうから『今日からわたしのパパにしてあげる』といいだしたらしい。


「自分がどうすればまわりの負担にならないのか、どう振る舞えば大人がよろこぶのか、結の基準はいつもそこなんだよな。おれたち大人が、そうさせてしまってる。情けない話だけど」


 未婚で結ちゃんを出産したミニオのお姉さんは、本来とてもまじめな人だったらしい。でもそれが、裏目に出てしまった。

 仕事も子育ても、すべてを完璧にこなそうとして、それができなくて、やがて重度のアルコール依存におちいってしまったのだという。現在も入退院を繰り返しているのだとか。


「姉はもともと両親と折りあいが悪かったんだけど、結を生む生まないでめちゃくちゃ揉めてさ。今も絶縁状態のままなんだ」


 結ちゃんの父親について、お姉さんはかたく口をとざしているのだという。

 だから、ほんとうの父親がどこの誰なのかミニオも知らないらしい。


「姉は人に頼るのがものすごくへたくそな人だから、気にはしていたんだ。連絡もマメにしてたし。でも……気づけなきゃ、意味ないよな」


 どれほど自分を責めてきたのか。疲れはてたような笑みは、いっそ清らかで透明だった。

 とにかくお姉さんには治療を最優先にしてもらわなければならないと、叔父であるミニオが結ちゃんをあずかることにしたのだとか。


 なんだか、とてもミニオだと思った。

 いくら背が高くなっても、どれほど男らしい顔になっても、この人は間違いなく、あたしの知っているミニオだ。


 幼かったあのころ、落ちこんだり傷ついたりしている人が近くにいると、彼はきまって自分の失敗談を語りだした。ミニオの、いかに自分がダメであるかという謎のアピールを聞いているうちに、なにを落ちこんでいるのかがわからなくなるという、これまた謎の効能があった。


 おたがい大人になった今はそれほど単純にはいかないけれど。というか、失敗談というには重すぎるような気がするけれど。

 それでも、もうすこしあたしもがんばってみようという気になったのは、やはりミニオ効果だろうか。


「パパ! おねえさん!」


 回転を止めたメリーゴーラウンドからおりた結ちゃんがにこにこと駆けよってくる。

 透明だった青空が、いつのまにか薄い朱に染まっていた。


「つぎで最後かな。結、なに乗りたい?」

「ダメよパパ」

「え、なにが?」

「こういうときは、おねえさんにもちゃんときかなくちゃ。だからモテないのよ」


 まいったなと笑うミニオにつられて、あたしも笑ってしまった。声をあげて笑ったのはいつぶりだろう。


「ええと、どうする?」

「そうね。遊園地の締めといったら、やっぱり観覧車じゃない?」

「さんせー!」


 あたしのまえを、はずむような足どりで歩くのは、ちいさな新しい友だち。

 転ぶなよと、笑いながらあたしのとなりを歩くのは、おおきくなった懐かしい友だち。

 そして、幼かった日も、大人になった今も、変わらずあたしの頭上で回る観覧車。


 はぐれてもまた、ここにくればいい。

 ふとそう思う。


 たとえ誰も迎えにこなくても。

 たとえ誰も待っていなくても。

 観覧車はゆっくり、ゆっくり空にのぼって。

 ゆっくり、ゆっくり地面におりてくる。

 そしてまたのぼって、おりて、のぼって、おりて。

 止まることなく回りつづける。

 人も、似たようなものかもしれない。

 そう思えたら。

 きっとまた、歩きだせる。



     (了)


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