(Int.02-03) 琥珀の秘密は放課後に
教育実習生の身なれど、そして、学生という身分であるからには、ラブホテルなんかにご宿泊したとなれば、それはただではすまない。誰にも知られてはならない。ということで、わたし達は秘密を共有することになり、結果として結構打ち解けることになった。
恐竜の本も貸してくれた。
先生の言った通り、確かにいろんな種類がいる。骨格標本の横には、想像図というものが載っている。有名どころらしい、ティラノサウルスとかいう奴のページには、いくつかのバージョンの絵が描かれている。本によっても異なるが、トカゲとかワニみたいに鱗のあるものや、ヒヨコみたいにぽやぽやの羽毛が生えているもの、みっちり羽根の生えたものなどがいた。
どれも、奇妙な姿だったが、不思議と嫌悪感はなかった。
多分、すべてが死んだあとだからだと思う。
少なくとも、ある日突然、部屋に居たりはしない。
理科準備室はわたし達の居場所になり、わたし達はそこで紅茶を飲むのが常となった。
愚痴もよく聞いたし、わたしも話した。先生の場合は、ほとんど、自分についての反省だった。いわく、お酒に飲まれがちとか、どうしてあの時こうしなかったんだろう、とか。わたしは先生の言うことがほとんどわからなかった。
こんな大人にならないでね、というそのフレーズだけを刷り込まれていた。
あるとき、先生はお酒が飲みたいと言った。
当然ながら、校内は飲酒禁止(そんなルールがあるなんて知らなかった)。アルコールには弱いくせに、飲み会の類には出席しないくせに、それどもお酒は好きなのだ。
「依存しがちなの」と先生は言った。
「何に?」
「物質」
お酒とか、煙草とか(先生は煙草を吸わなかった)、薬とか(先生は薬物をしなかった)、紅茶とか、チョコレートとか、と先生は教えてくれた。
「彼氏とか作らないの?」
一度だけ、そう聞いたことがある。
「今はダメ」
短い答えだった。その断言の仕方には聞き覚えがあった。忘れようもない。わたしが人生で初めてラブホテルを訪れたときに聞いたものと同じ種類。
「そう」とわたしは言う。
恐竜のことを思い浮かべずにはいられなかった。かつては先生の夢の中に生きていて、現実世界にもいただろうに、今や骨しか残っていない生き物。仮に先生に彼氏ができたとして、夢の中のその彼は生きたままでいられるだろうか。
クラスメイトの男子を考える。どの子にも筋肉があり、腱があり、そして骨がある。結局は、必ず骨だけが残る。それは、恐竜もわたし達も変わらないのだ。
恋愛感情。
そんなものは、わたしにはなかった。
だから、わからない。
恋とはそれほど強く、生き生きとしているものだろうか。
「今はほら、鮮梨ちゃんがいるから」と言いながら、先生は掌を重ねてきた。指の腹を立てて、親指の付け根とか、小指の付け根とか、柔らかいところだけに触れるように。わたしが少し手を動かせば、自分にも骨があることを先生に伝えることができる。
でもそんなことはできなかった。
「今は、ね」
とわたしは言う。意地悪な言い方だったろうか。
「そう、今は、ね」と先生は答える。
わたし達は知っていた。
大抵の物事には終わりがあり、教育実習期間も例外ではないこと。それが終われば、先生がこの学校を去ってしまって、おそらくはもう二度と戻ってこないこと。恐竜が復活するくらいの確率で、先生がこの学校を戻ってきたとしても、その頃には間違いなく、わたしは卒業しているだろうこと。
そして、唇には骨がないことを。
放課後の話だった。
すでに秘密は何度も重ねられていた。塾帰りにラブホテルに行ったことなんて、そういう地層の遥か下にあるほどだった。生き残るだけの空気はなく、腐敗は進み、やがて骨だけが残る――残るのだろうか。嫉妬に引き寄せられてはじまった、この感情とか思い出が、なんらかの形で、いつの日か、誰かに発掘されて、どこかの博物館に、飾られる日が来るのだろうか。
カーテンが風に押しのけられて、わたし達は世界から守られる。
薄く開けた目の向こう、先生の後ろに、放課後の空がちらりと見えた。
琥珀色。
ああそのように、とわたしは思う。この瞬間こそが石となればいい。
わたし達だけのものとして、どこかに隠せてしまえば良いのに、と。
けれども、時は流れるのを止めない。
わたしはここに生きている。
そして、教育実習期間が終わった。
その日、わたしは学校に行かなかった。行って、どんな顔をして会えば良いというのだろう。なんて言えば良いというのだろう。わたしは、秘密の重さに窒息しながら、自室のベッドに引きこもっていた。今日も親はいない。一人だった。部屋は綺麗だった。
それほど頭痛のない日を恨んだこともなかった。
頭痛があれば、とわたしは思った。
どんな形であれ、頭痛があれば、学校に行かない理由ができる。
弓朝先生ならわかってくれる、そういう風に考えてみた。けれども、同時にわたしの中で、声がする。そんなわけないでしょ、と。弓朝先生は確かに、わかってくれるだろう。恐竜の絶滅に諦めているようなひとだ。わたしが来ないことも、諦めてくれるかもしれない。
でも、そういうことでもないじゃない。
そうは思っても、体が動かないのも事実だった。時間は過ぎていき、遅刻は欠席となり、そして塾の時間が来た。すでに取り返しのつかない線は超えていた。後悔の念はまだあったが、それでもわたしは塾に行くことにした。一度、塾に行ってしまえば、あとはノートを取るだけだ。
清潔な場所と、単純な作業。
少しは先生のことを忘れることができるかもしれない――そう考えて、少し落ち込んだが、それも塾に着くまでだと考えることにした。シャワーを浴びて、制服を着た。
塾で講義を待つまでの時間、自分と同じ制服の子に声をかけられた。「弓朝先生、泣いてたよ」
「そう」
「こっちももらい泣きしちゃって」
「そう」
「鮮梨さん、アワワちゃんと仲良くなかった?」
どうして来なかったの、と聞かれる前にわたしは答えた。
「頭が痛かったのよ」
「ふうん。あれ? じゃそんなに仲良くなかったのかな」
「……先生、何か言ってた?」
「鮮梨さんのこと? そういえば、何も言ってなかったかも」
「じゃ、そうなんでしょ」
それで彼女とは別れた。
正直なところ、先生がわたしについて何も言っていなかったことには、驚かなかった。語るべきことがあることがあるとすれば、それはわたし達が二人きりの時の話だ。わたしがいない時の弓朝先生は、常に”アワワちゃん”なのだ。
だったらどうして泣いたのか?
多分、いたくもない学校という場所から、解放された感動からだろう。いつしかそんなことを先生は言っていた。先生なんかになりたくない。でも、博物館員にもなれない。恐竜は絶滅してしまったのだ。取り込まれた遺物が琥珀になるには、教育実習期間というのは、短すぎる。
ほんとうに?
頭の横に、ズキンと来た。
月に一度のアレにはまだ早い。風邪とは違う痛みだった。深く考えようとすると、ズキズキと来る。これでは講義を受けることなんて無理だった。わたしは家に帰ることにした。でもその前にドラッグストアに寄らなきゃならない。確か頭痛薬とか風邪薬のストックもなかったはずだ。
ドラッグストアで頭痛薬と飲み物を買った。その場で飲むのも
携帯端末を開いて、そういえば、と思い至る。わたし達は連絡先を交換していなかった。わたし達にはあの理科準備室で十分だったし、偶然を装って塾帰りに繁華街で鉢合わせることもあったが、それだけでよかった。わたしにはわたしの時間があり、弓朝先生には先生の時間が必要だ。
「どうして今日、行かなかったの」とわたしは言う。
先生みたいな言い方になった。
その事実が、殴りつけてくるかのように、頭が傷んだ。自分の唇から出た自分の言葉のくせに、まるで恨み節のように聞こえる。あの先生に純白さ付与することなんてできないが、恨みごとを言うようなひとでもない。
そのはずだ。
――ほんとうに?
わたしもまた、先生になんらかのイメージを押しつけているんじゃないだろうか。”アワワちゃん”のような、嘲笑を伴うものでないにしても。自分の見ている先生と、先生自身は違うんじゃないか。だとしたら、どこまで?
ティラノサウルスのイメージは複数ある。
残っているのは、骨だけだ。
句読点のように、頭痛が
いよいよたまらなくなり、わたしは路地裏に入る。ビールケースがあったので、それをひっくり返して座る。頭痛薬を流し込んで、一息ついた。見上げると、
そこに鳥がいた。
いつかホテルで見たマゲ鳥は、あれは翼竜という恐竜の仲間だという。
「いふ・あい・わー・あ・ばーど」
最近習った仮定法の文章を呟く。
もしもわたしが鳥だったなら。
もちろん、そんなことは起こりようがない。
でも、代わりに声が降ってきた。
「一体どこに飛んでいきたいんだ?」と言いながら、一人の少年が現れる。
あなたの頭痛は世界の危機を報せるものです。 織倉未然 @OrikuraMizen
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