痰
尾八原ジュージ
痰
伝染病にかかったマーゴットは、これまで働いていた娼館の裏手にある、小さな掘っ立て小屋に移ることになった。痛々しいほど痩せた青白い肌の娘は、そこで死を招く病原菌の混じった咳をしながら、静かに暮らし始めた。
通ってくる客はひとりしかいなかった。掘っ立て小屋にはひとつの灯りもなく、日が落ちればそのまま真っ暗になるのだが、男はいつもその時分にやってきた。だからマーゴットは一度も客の顔を見たことがなかった。彼女は愛撫の合間に彼の顔の凹凸に触れ、天使の彫刻のように美しい顔を想像した。
客が来るとマーゴットは必死で咳を堪えたが、その努力が実ったことは一度もなかった。病気が伝染るから来ないでほしい、と思わないこともなかったが、口には出さなかった。客が来なければおあしが稼げない、おあしがなければどこへも行けないからである。それに彼が来ない日は、彼女の元を訪れるのは、一日に一回食事を運び、洗い物を持っていく女中ひとりきりになる。その女中は死病を恐れて布で口を覆い、おまけに一言も喋らない。だから客が来ない日のマーゴットは、孤独と退屈とで、病魔が全身を蝕む前に死んでしまうとさえ思うのだ。
幸い、客は二日と空けずに彼女の元を訪れ、しかし死病に感染した様子はなかった。彼の名前も素性も、顔すら知らないままだったが、マーゴットは毎度できる限りの化粧を凝らし、できる限りの歓待をした。
娼館に来る前、彼女は画家のアトリエで雑用をしていた。彼の前で服を脱いでモデルになったこともある。
娘が男の前で裸になったことを知ったマーゴットの母親は、鞭を持ち出して金切り声を上げながら、彼女が気絶するまで打ち据えた。マーゴットが娼館に売られたのはその翌週である。
「マーゴット、母親に会いたいかい」
ある夜、暗闇の中で客がそう言った。
「母さんには別に会いたかないけど、あたしの絵が見たいわ」
マーゴットは答えた。「あたしを描いたとき、これは展覧会へ出すんだって先生が言ってたの」
マーゴットは画家の前で裸にはなったけれど、やったことは本当に絵のモデルだけだった。なぜあんなに汚い汚いと罵られなければならなかったのかわからないまま、彼女は受けた罵倒そのままに春を売ることになった。
「ここを出たら、その絵があるところへ行きたいかい」
「ええ、行きたいわ」
とはいったものの、その絵がどこに展示されているのか、そもそも本当に存在するのかすらマーゴットにはわからなかった。掘っ立て小屋の中にしばらく沈黙が流れた。
「母さん、あたしを売ったお金をどうしたかしら」
マーゴットはふと思いついて呟いた。
「きっとナントカって神様に全部あげちゃったのね。いつも拝んでたもの」
でもあの母親よりは、自分の方が神様の教えを守っているとマーゴットは思った。その怪しげな宗教の神は「他人に悦びを与えなさい」と説いていた。
喉の奥からぬるぬるしたものがせり上がってきた。マーゴットは起き上がると、与えられた大きな銅製の壺に覆い被さって、中に痰を吐いた。
掘っ立て小屋のあちこちに空いた隙間から木枯らしが吹き込むようになった頃、マーゴットの吐く痰には血が混ざり始めた。
食事は相変わらず一日に一度、それもどんどん粗末なものになっていったが、大して腹も減らなかったのでさほど辛くはなかった。
月のものがなくなり、マーゴットは毎日客の相手ができるようになったことを喜んだ。汚れた服が洗濯されなくなって久しかったが、彼女は彼のために汗と脂でべとつく髪を梳り、布切れで体を丹念に拭いた。
客は毎晩マーゴットの元を訪れるようになっていた。日が落ちて闇が掘っ立て小屋に満ちた途端、部屋の隅からぬっと現れるのだ。まるで影が固まったような人だと彼女は思ったが、やっぱり口には出さなかった。客が何者なのか、娼館にちゃんと金を払っているのか、そんなことはもうどうでもよかった。
痰はだんだん赤みを増し、痰を吐いているのか粘り気のある血を吐いているのかわからなくなってきた。マーゴットの肌はますます青白く、両目は爛々と輝き、唇だけが赤かった。彼女には、近いうちに自分は死ぬだろうという予言じみた確信があった。
ある夜、マーゴットは客に「死ぬ前にあたしの絵を見たかったわ」と言い、その途端激しく咳き込んだ。痰壺の上に屈もうとしたとき、
「こっちへおいで」
客が言って、マーゴットの手を引いた。彼女は思わずその場に痰を吐き出したが、それは床ではなく、客の手の上に落ちたらしかった。
「これでお前の絵を描いてやろうね」
客は低い、優しい声でそう言った。
朝、マーゴットが目を覚ますと客の姿はなく、ベッドから少し離れた床の上に、赤いもので女の顔が描かれていた。それはまだ蚤で荒く削っただけの彫像のように単純なものだったが、自分の顔だということはすぐにわかった。
マーゴットはとても愉快になり、喉を仰け反らせて笑った。
客は夜毎に、マーゴットの痰を手に受けて絵を描いた。暗闇の中で絵を描けることを、もはや彼女は不思議と思わなかった。
熱が下がらなくなり、マーゴットは昼も夜もぼんやりと過ごした。何をしていても夢の中にいるようだった。一度食事を残して以降、器に入った水だけが差し入れられるようになった。
床に描かれたマーゴットは日に日にその精密さを増し、ぼんやりした目で見るとまるで瞬きをしたり、口を動かしたりしているように見えた。日があるうち、マーゴットは床の絵と話すようになった。
『あんた、自分を不幸だとは思わない?』
あるとき床のマーゴットがそう言った。ベッドに寝ていたマーゴットは、熱に浮かされた頭で考えた。
「ちっとも不幸だと思わないわ。昼間っから働かずにこうして寝ていられるし、嫌な客をとらずにすむし、話し相手にあんたがいて、夜はお客さんも来るしね」
『それはいいわね』
マーゴットはベッドを降りると、銅壺の中に痰を吐いた。最初のうち、マーゴットはその中身を定期的に、小屋の隅に掘られた便所に捨てていた。しかし最近はそれも億劫になり、壺の中には彼女が命を吐き出した残滓がべっとりと溜まっていた。
その夜、客はマーゴットの髪を撫でながら「お前、自分を不幸だとは思わないかい?」と、床のマーゴットと同じことを尋ねた。
「思わないわ。だって……」
昼間と同じマーゴットの答えを、彼は静かに聞いていた。
「お前がよくしてもらっているんで、安心したよ」
客はマーゴットの頬に口吻をした。「それじゃあ、ここの人たちにお礼をしなきゃいけないね」
「でもあたし、何にも持っていないのよ」
「いいや、たくさん持っているよ。一体どうやってお前は、こんなに幸せになったんだい?」
「あたしはねぇ……」
マーゴットは客の胸に頭を寄せ、これまでのことを思い出した。
「あたしがこんなに幸せになったのは、この小屋に来てからよ」
客は今度はマーゴットの額に口吻をし、お前はなんて賢いんだろう、と嬉しそうに褒めた。
「マーゴット、今なら外に誰もいないよ」
客がそう囁いた瞬間、彼女は何を為すべきか理解し、立ち上がった。
銅の壺を抱えたマーゴットは、よたよたと掘っ立て小屋の外に出た。夜空にいくつもの星が瞬いていた。冷たい空気を吸い込むと、手足に新鮮な力が湧いてきた。彼女の足は、娼館の人々が飲み水を汲むための井戸へと向かった。
井戸にたどり着いたマーゴットは、その中を覗き込んだ。水面に星灯りが映り、きらきらと輝いていた。その小さな夜空に向かって、彼女は壺の中身をすっかりぶち撒けた。
マーゴットが小屋に戻ると、真暗闇の中から客の腕が伸びてきて、彼女を抱きしめた。
「えらかったね」
「ええ、善いことをしたわ」
そのままマーゴットは目を閉じた。
次の朝、水を運んできた女中は、掘っ立て小屋の中でマーゴットが死んでいるのに気付いた。死体を中に残したまま、小屋は燃やされた。
ほどなくして、抱えている娼婦や従業員、それに客たちの間に死病の感染者が相次ぎ、娼館はあっという間に潰れた。建物は焼かれ、後には何も残らなかった。
痰 尾八原ジュージ @zi-yon
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