ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ

富士蜜柑

ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ

 雨。

 燦々さんさんと降り注ぐ太陽を、薄暗くなった空が覆い隠し、雨が降る。

 私は雨が嫌いだった。

 でも、今日初めて雨が降っててよかったなって思ったんだよ、はな

 だって---。






「おはようしずく!」

「おはよう、はな

 朝いつものようにはなは誰よりも早く高校へ登校していて、私が教室へ入ると真っ先に声をかけてくれる。

 冬も終わりな、独特の冷たい空気が満ちている教室も、はながいれば心地いい温度に変わっていく気がする。

 この感覚が好きだった。

 二人で他愛もない世間話を、私たち以外誰もいない教室で交わす。


「最近疲れちゃったよ」

 その中でふと、はなは小さくこぼした。

「何に?」

「毎日に」

「ん?どういうこと?」

「そういうこと〜」

 私が尋ねるも、はなははぐらかした答えしか返してくれなかった。


「あ、消しゴムだ」

 はなが右足下に落ちていた消しゴムを拾おうと、利き手ではない右手を伸ばす。

「これ無くなって探してたんだよね〜。よかったぁ」

 はなは拾い上げた消しゴムを右手で持って私に見せながら笑う。

「そう、良かったね……」

 私は曖昧な返事しか返すことができなかった。

 はなの右手首に覗く、新しめな傷跡に目が行ってしまったから。

 こういう時、どういう言葉をかけていいのか分からず、あえて何も触れないまま、その日を過ごした。






 月が変わり、桜が花開く準備を始めるような頃。

 このところ、はなが学校を休みがちになっていた。

「おはよう、はな

「あ、おはようしずく!」

 たまに学校へ来てくれる日があっても、以前のように朝一番にはなが学校へ来て、私を待っているということは無くなった。

 少し寂しいけれど、はなに会える嬉しさの方が強いから良い。

 それだけで良い。


「そういえば、そろそろ桜が咲く頃だね」

「そっか、もうそんな時期か」

はなの何気ない一言で、今更ながら刻の速さを思い知る。

「今年も一緒に桜、見に行こうね」

「うん……」

はなは私に、どこか申し訳なさそうな顔で答えた。

「ねえ、しずく

「ん?」

 ふと、はなが私に小さく声をかけた。

「私、最近頑張ってるんだよ」

 華の後ろに広がる蒼空に浮かぶ薄くなった月と、はなの儚い笑顔が重なって見える。

「……何を?」

「生きるのを」

 はぐらかした答えではなく、ストレートなはなの言葉に、私は一瞬息を呑む。

「もしかして、その右手の傷と…」

 私は勢いで尋ねてしまおうと思ったけれど、最後まで尋ねきる前に、はなの儚い笑顔につい魅入ってしまった。


「それって、どういう……?」

「雫。放課後にまた会お」

 私がはなに尋ねるも、はなは小さく胸の前で手を振って、すたすた教室を出て行ってしまった。


 放課後。

 約束通り、放課後になってもはなは現れず、私は誰もいなくなった静寂の満ちた教室を後にした。

 階段を降りて、正面玄関へと向かう途中、保健室から何か揉めている声が聞こえてきた。


「杉山さん! 親御さんがいらっしゃるまで安静にって約束だったでしょ!? なのに自分で帰るって、あなた正気なの!?」

「分かってます! 分かってますけど、しずくが。しずくが待ってるんです!」

 プライベートな会話に聞き耳を立てるつもりは毛頭なかったけれど、つい大きな声量のせいで私の耳は会話を聞き取ってしまった。

 どうやら、はなと保健室の先生の会話だったようだ。


しずくさんって、杉野さんのこと? なら、彼女には申し訳ないけれど帰ってもらうように伝えますから」

「ダメなんですよ……。それじゃダメなんです!」

「どうして? 別に体調の悪い今日、無理して行く必要なんてどこにも無いわ」

「私には時間が無いんです! 折角。折角、しずくに伝えられるかも知れないんです」

 雫の悲痛な叫び声に、私は思わず頬を濡らしてしまった。

 止まる素振りのない涙を置き去りにするように、私は無我夢中で正面玄関へと走った。






 翌日。

 私は学校へ向かわず、はなの家へ向かった。

「あの、杉野雫ですけど。はなさん居ますか?」

しずくさん。いらっしゃい」

 インターホンに出たのは、はなのお母さんだった。

 はなのお父さんに迎え入れられて、私はリビングへと上がらせてもらった。

「それで、はなは……?」

はなは病院よ」

 はなのお母さんは、俯きながら答えた。

「何処ですか? 私、行っても良いですか!?」

「ええ、私もそれが良いと思うわ」

 私の無茶振りな提案に、はなのお母さんは深く頷いてくれた。

「ちょっと待ってて。今支度するから」

 私は、はなのお母さんのご好意で、病院まで車で送って行って貰えることになった。

病院ということは、やはりそういうことなのだろう。


しずくさん」

「何ですか?」

「これ、華の手記なんだけど、読む?」

 はなのお母さんは運転中、ふと鞄の中から真っ白な表紙のノートを私に手渡した。

「勝手に私が読んで、良いんでしょうか?」

「それが娘のためな気がするの。怒られたら私のせいにしてくれて良いわ」

 はなのお母さんは、にっこり笑って言った。


 手記には、はなの日々の率直な思いが綴られていた。

 それは、高校1年の春。

 私とはなが初めて出会った日から、始まっていた。

 杉野と杉山と出席番号が一つ違いなことから始まった出逢い。

 そこから意気投合して、学校で話した色々なこと。

 はなのことを馬鹿にした男子を私が成敗しようとしたら、反撃されて結局はなが解決してくれたこと。

 二人で街までお互いの誕生日プレゼントを買いに行ったこと。

 お互いの家にお泊まりに行ったこと。

 数学が苦手なはなと、国語が苦手な私が、お互いフォローし合って必死にテスト勉強をしたこと。

 さまざまな思い出が、手記を通して鮮明に蘇ってくる。

 私たちの青春が、そこには広がっていた。

 しかし、手記には全くと言って良いほど、マイナスな内容は綴られていなかった。

 楽しかったこと、嬉しかったこと、笑ったこと。

 それらプラスの内容だけが、鮮明に、力強く記されていた。


 手記はノートの最後のページまで続いていた。

 最後のページには、ノートの上段に三行だけ記されていた。

『なんでこんなに一生懸命なのに、私は報われないのかな。

 生きてるのって偉いでしょ? 大変なことなんだよ

 別に同情して欲しい訳じゃない。ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ』

 と、だけ。

 その短い文章を目にした瞬間、私は強い後悔の念に襲われ、同時に涙が頬を伝ってノートを濡らした。


「じゃあ、行っておいで」

 車を降りて、はなのお母さんから面会者証を受け取る。

 私は深くお辞儀をすると、教えてもらった部屋へ向かって走り出した。

 はな、まってて。

 今行くから!






 こんこん、と小さく2回部屋の扉をノックする。

 壁には『杉山華すぎやまはな』と記されていた。

「はーい」

 中から、元気そうなはなの声が聞こえてくる。

 私は、入るね、の一言が言えず、無言で扉を開けて中に入った。


 病室には、中央に大きなベッドが一つあり、はながベッドに起き上がって座っていた。

しずく……? どうして?」

 突然の私の来訪に驚いた様子のはな

 私はその姿を目に留めると、無意識に走り出してはなの華奢な身体を思い切り抱きしめた。

「え、夢?」

「夢じゃない。現実」

 まだ理解の追いついてないようなことを言うはなに、私は両手の力を強めながら言う。

「夢だよ……。だって、ここにしずくを呼ぶつもりなかった、もん……」

 はなは、喋っている途中で小さく泣き出した。

「ごめんね。右手の傷とか、気づいてたのに何も出来なくて」

「……ううん、良い。良いの」

「辛い時は抱きしめて欲しいよね、ごめん」

「ううん。ありがと……」

 私も思わず、はなにつられて泣き出してしまう。

 しばらく二人で抱き合ったまま、涙を流し続けていた。


「私に、話したいことあるんでしょ?」

 落ち着いた後、私ははなに向き直って尋ねる。

「うん。昨日は言えなくてごめん」

「良いんだよ、事情は分かったから」

 私は謝るはなに言う。

「私ね、ガンなんだって。しかも末期の」

 華は、ぽつりぽつりと話し始めた。

「12月の時に、余命3ヶ月って言われちゃって」

「うん」

「私が休みがちだった時、あったでしょ?あの時らへんから、痛みを和らげる治療とかやってたんだけどね」

 はなは続ける。

「もうほんと、大変で。いっそ死んだ方が楽なんじゃないかって。私頑張ってるのに、色々うまく行かなくて。なんだかなぁって、こうむしゃくしゃしちゃって。この右手は、その跡」

 右手に目を落としながら言う。

「そっか……」

「うん。でもね、その時思ったの。辛くても頑張れば、少しでもしずくに会える時間が伸びるじゃん、って。そしたら、なんか頑張ろうって思えるようになってね」

 頬を掻きながら、笑って言った。


「私の話はこれで全部。でも、一つお願いがあるんだけど良い?」

「何?私にできることならなんでもするよ」

 はなは私の返答ににっこり頷くと、病室の戸棚から小さな箱を取り出した。

「桜の花のブローチ?」

「これ、しずくにあげる。一緒に見れなかった、桜の代わり」

 はなは、私の手を取ってその上に優しく乗せる。

「もうすぐ卒業式だけど、私にはもう時間がないの。だから、私の代わりだと思って、これを持って卒業式、出てもらえない?」

「それは良いけど、そんなこと言わないでよ…」

「ううん。もう自分でもわかる。多分あと数日。だからその前に、お願い」

 はなは力強く私の手を握って言う。

「……わかった。卒業式だけじゃなくて、大学に行っても、就職しても、私が死ぬ時までこれはずっと持ち続ける」

「ありがとう、しずく

 はなは安堵したような表情で、笑って私に言った。






 3日後。

 懸命な頑張りも報われず、はなはこの世を去った。

 火葬場へ向かった霊柩車を見送って呆然と立ち尽くした私を覆うように、雨が降り出した。

 でも不思議と、今日初めて雨が降っててよかったなって思った。

 だって、はなの居ないこの世界から私を洗い流してくれるような気がするから。


 2週間後。

 私ははなから受け取ったブローチと共に、卒業式に出席した。


 4週間後。

 はなと共に、進学を目指していた大学の入学式に、私は出席することになった。

 はなの両親から受け取った、はなが生きた証でもある手記を持って。

 当然、胸にはブローチをつけて。

はな、行こ!」

 私は、今日から始まるキャンパスライフを夢見て、勢いよく走り出した。

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