ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ
富士蜜柑
ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ
雨。
私は雨が嫌いだった。
でも、今日初めて雨が降っててよかったなって思ったんだよ、
だって---。
「おはよう
「おはよう、
朝いつものように
冬も終わりな、独特の冷たい空気が満ちている教室も、
この感覚が好きだった。
二人で他愛もない世間話を、私たち以外誰もいない教室で交わす。
「最近疲れちゃったよ」
その中でふと、
「何に?」
「毎日に」
「ん?どういうこと?」
「そういうこと〜」
私が尋ねるも、
「あ、消しゴムだ」
「これ無くなって探してたんだよね〜。よかったぁ」
「そう、良かったね……」
私は曖昧な返事しか返すことができなかった。
こういう時、どういう言葉をかけていいのか分からず、あえて何も触れないまま、その日を過ごした。
月が変わり、桜が花開く準備を始めるような頃。
このところ、
「おはよう、
「あ、おはよう
たまに学校へ来てくれる日があっても、以前のように朝一番に
少し寂しいけれど、
それだけで良い。
「そういえば、そろそろ桜が咲く頃だね」
「そっか、もうそんな時期か」
「今年も一緒に桜、見に行こうね」
「うん……」
「ねえ、
「ん?」
ふと、
「私、最近頑張ってるんだよ」
華の後ろに広がる蒼空に浮かぶ薄くなった月と、
「……何を?」
「生きるのを」
はぐらかした答えではなく、ストレートな
「もしかして、その右手の傷と…」
私は勢いで尋ねてしまおうと思ったけれど、最後まで尋ねきる前に、
「それって、どういう……?」
「雫。放課後にまた会お」
私が
放課後。
約束通り、放課後になっても
階段を降りて、正面玄関へと向かう途中、保健室から何か揉めている声が聞こえてきた。
「杉山さん! 親御さんがいらっしゃるまで安静にって約束だったでしょ!? なのに自分で帰るって、あなた正気なの!?」
「分かってます! 分かってますけど、
プライベートな会話に聞き耳を立てるつもりは毛頭なかったけれど、つい大きな声量のせいで私の耳は会話を聞き取ってしまった。
どうやら、
「
「ダメなんですよ……。それじゃダメなんです!」
「どうして? 別に体調の悪い今日、無理して行く必要なんてどこにも無いわ」
「私には時間が無いんです! 折角。折角、
雫の悲痛な叫び声に、私は思わず頬を濡らしてしまった。
止まる素振りのない涙を置き去りにするように、私は無我夢中で正面玄関へと走った。
翌日。
私は学校へ向かわず、
「あの、杉野雫ですけど。
「
インターホンに出たのは、
「それで、
「
「何処ですか? 私、行っても良いですか!?」
「ええ、私もそれが良いと思うわ」
私の無茶振りな提案に、
「ちょっと待ってて。今支度するから」
私は、
病院ということは、やはりそういうことなのだろう。
「
「何ですか?」
「これ、華の手記なんだけど、読む?」
「勝手に私が読んで、良いんでしょうか?」
「それが娘のためな気がするの。怒られたら私のせいにしてくれて良いわ」
手記には、
それは、高校1年の春。
私と
杉野と杉山と出席番号が一つ違いなことから始まった出逢い。
そこから意気投合して、学校で話した色々なこと。
二人で街までお互いの誕生日プレゼントを買いに行ったこと。
お互いの家にお泊まりに行ったこと。
数学が苦手な
さまざまな思い出が、手記を通して鮮明に蘇ってくる。
私たちの青春が、そこには広がっていた。
しかし、手記には全くと言って良いほど、マイナスな内容は綴られていなかった。
楽しかったこと、嬉しかったこと、笑ったこと。
それらプラスの内容だけが、鮮明に、力強く記されていた。
手記はノートの最後のページまで続いていた。
最後のページには、ノートの上段に三行だけ記されていた。
『なんでこんなに一生懸命なのに、私は報われないのかな。
生きてるのって偉いでしょ? 大変なことなんだよ
別に同情して欲しい訳じゃない。ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ』
と、だけ。
その短い文章を目にした瞬間、私は強い後悔の念に襲われ、同時に涙が頬を伝ってノートを濡らした。
「じゃあ、行っておいで」
車を降りて、
私は深くお辞儀をすると、教えてもらった部屋へ向かって走り出した。
今行くから!
こんこん、と小さく2回部屋の扉をノックする。
壁には『
「はーい」
中から、元気そうな
私は、入るね、の一言が言えず、無言で扉を開けて中に入った。
病室には、中央に大きなベッドが一つあり、
「
突然の私の来訪に驚いた様子の
私はその姿を目に留めると、無意識に走り出して
「え、夢?」
「夢じゃない。現実」
まだ理解の追いついてないようなことを言う
「夢だよ……。だって、ここに
「ごめんね。右手の傷とか、気づいてたのに何も出来なくて」
「……ううん、良い。良いの」
「辛い時は抱きしめて欲しいよね、ごめん」
「ううん。ありがと……」
私も思わず、
しばらく二人で抱き合ったまま、涙を流し続けていた。
「私に、話したいことあるんでしょ?」
落ち着いた後、私は
「うん。昨日は言えなくてごめん」
「良いんだよ、事情は分かったから」
私は謝る
「私ね、ガンなんだって。しかも末期の」
華は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「12月の時に、余命3ヶ月って言われちゃって」
「うん」
「私が休みがちだった時、あったでしょ?あの時らへんから、痛みを和らげる治療とかやってたんだけどね」
「もうほんと、大変で。いっそ死んだ方が楽なんじゃないかって。私頑張ってるのに、色々うまく行かなくて。なんだかなぁって、こうむしゃくしゃしちゃって。この右手は、その跡」
右手に目を落としながら言う。
「そっか……」
「うん。でもね、その時思ったの。辛くても頑張れば、少しでも
頬を掻きながら、笑って言った。
「私の話はこれで全部。でも、一つお願いがあるんだけど良い?」
「何?私にできることならなんでもするよ」
「桜の花のブローチ?」
「これ、
「もうすぐ卒業式だけど、私にはもう時間がないの。だから、私の代わりだと思って、これを持って卒業式、出てもらえない?」
「それは良いけど、そんなこと言わないでよ…」
「ううん。もう自分でもわかる。多分あと数日。だからその前に、お願い」
「……わかった。卒業式だけじゃなくて、大学に行っても、就職しても、私が死ぬ時までこれはずっと持ち続ける」
「ありがとう、
3日後。
懸命な頑張りも報われず、
火葬場へ向かった霊柩車を見送って呆然と立ち尽くした私を覆うように、雨が降り出した。
でも不思議と、今日初めて雨が降っててよかったなって思った。
だって、
2週間後。
私は
4週間後。
当然、胸にはブローチをつけて。
「
私は、今日から始まるキャンパスライフを夢見て、勢いよく走り出した。
ただ抱きしめて欲しいだけなんだよ 富士蜜柑 @fujimikan
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