いろはのいーちゃん

愛奈 穂佳(あいだ ほのか)

第1話

 夏の朝。

 今年は猛暑極めたり……な暑さだったこともあって、少しばかり遠回りになるとは思ったのですが、私は森の中を通って、その森を抜けて街に出ることにしました。

 軽井沢などの避暑地……とまではいかないですが、森の中だと多少はひんやりとしているような気がするので、そこを通ろうと思ったのです。その森は今年に限らず、何度か経由した事のある、私にとっては馴染みの森でした。

 いつもの道をいつものように歩いていたら、不意に背後から声をかけられました。

「ねぇねぇ~。ねぇ~ってばぁ~!」

 人懐こい少女の声で、いきなりなんだ?と思った私が驚きながら振り返ると――

 私は思わず我が目を疑いました。

 確かに普段着姿の幼い少女がそこに居ました。

 何故か彼女は、頭に枯れた榊の葉を乗せていました。

 森の中とはいえ、屋外なだけあって、多少はひんやりとした風が吹いているというのに、彼女の頭上の枯れた榊の葉は微動だにしていません。まるで帽子でもかぶっているかのように……彼女の頭の上にちょこんと乗っています。

 その時点でオカシイです。

 ヒトではないな、と思って私が警戒していると、

「全然遊びに来てくれないから、呼びに来たのぉ~。ねぇねぇ遊ぼうよぉ~。遊んでよぉ~!」

 と、少女が言いました。

「アンタとは遊べないし、遊ばないから、帰って」

 私は敢えて冷たくにべもない言い方をしましたが、少女は怯みません。

「えぇ~! 遊んでよぉ~!」

「帰って」

「……」

「帰れって言ってんのっ!」

「……」

 少女はふてくされた表情で回れ右をしました。

 私も回れ右をしてその場を移動すれば良かったのですが、その時の私は何を思ったのか、思わず少女に声をかけてしまっていました。

「あんた、誰?」

「 ? 」

「名前は?」

 後ろを向いていた少女は、弾むように振り返り、満面の笑みを浮かべながら即答しました。

「いーちゃん。いろはのいーちゃん」

「……は?」

 首を傾げた私に、にんまりと不気味な頬笑みを浮かべながら彼女は続けました。



「いろはにほへと ちりぬるを

 わかよたれそ  つねならむ

 うゐのおくやま けふこえて

 あさきゆめみし ゑひもせすん」


 ……『いろは歌』? 何をいきなり言い出すんだ? と、気味の悪さから怯んだ私を見逃さず、少女は『いろは歌』を繰り返し口ずさみます。



「いろはにほへと ちりぬるを

 わかよたれそ  つねならむ……」



 繰り返すごとにその声は太く低くなり、言葉にも重みが増し、私にはだんだんとその音が『呪言(まがごと)』のようにしか聞こえなくなってきました。



「いろはにほへと ちりぬるを

 わかよたれそ  つねならむ

 うゐのおくやま けふこえて

 あさきゆめみし ゑひもせすん」



 内心、すごく怖かったのですが、こんな音に負ける訳にはいかないと、私はただそれだけを強く思って、その少女を睨みつけていました。

 こういう時、『意味』を熟知しているのであれば、『お経』を唱えると身も守れるし、オバケの類も撃退できるそうですなのですが……残念ながら私はそうではないので、こんな時には気合で乗りきります。



「いろはにほへと ちりぬるを

 わかよたれそ  つねならむ……」



 幸か不幸か、『いろは歌』の意味を知らない私だったので、私はその禍々しい『音』を右から左へ受け流すよう強く意識しました。

 枯れた榊の葉を頭に乗せて、『いろは歌』を繰り返している奇妙な幼い少女。

 彼女が音を繰り返すように正面から彼女を睨み続ける私。

 何分くらい続いたのでしょう。そんな事を続けていたら、奇妙な少女は『いろは歌』を繰り返しながら、特に前触れもなく、まるで森のひんやりした空気に溶け込むように、すーっと消えていきました。


 ……いろは歌の『意味』ですか?

 色々なところに色々な解釈があるので、一度お調べになってみるといいかもしれません。

 ちなみにいろはのいーちゃん。

 感覚ですけれど、アレはキツネの類ではなかったかと……思っています。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いろはのいーちゃん 愛奈 穂佳(あいだ ほのか) @aida_honoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ