マラッカの骨董店
鹿紙 路
◆
日に五回、空に響くアザーン。乾期の突き刺さるような太陽の光、雨期の篠つく雨。小中学校はインターと日本人学校に通ったが、送り迎えは運転手の車で、友人は同級生に限られ、マレー人の知り合いはほとんどいなかった。それでも、使用人からマレー語を聞き覚えて、華人のような顔をして路地をうろつくこどもだった。
海運会社を経営する日本人の父も、不動産コンサルタントで香港人の母も多忙で、互いにいがみ合うことだけで精一杯で、間違えてつくってしまったこどもであるわたしにはあまり関心がなかった。それが普通ではないことも、自分のふるまいや性格にどれくらい影響があるかも、うすうす気づいてはいた。一言で言えばわたしはおどおどしたこどもだった。激しやすい両親に怯えて、はっきり物を言う同級生に合わせることに疲れ果て、自分のなかで嵐のように渦巻く感情を名づけることができず、途方に暮れていた。
父の友人に骨董商がいて、かれの店に行くことは許されていた。クアラルンプールの骨董通り、白人や華人が多い薄暗い店で、わたしは籐の椅子に座って、中世に大量生産された東南アジア大陸部の陶磁器や、景徳鎮の青磁を眺めて過ごした。マラッカに支店があり、そこにはもっと大量の骨董品があった。中近世の香料貿易で富を蓄積したスルタンとその妻たちの生活用品、珍重された極薄のモスリン、緻密な臈纈染め、プラナカンの女性たちのかわいらしい化粧道具、華人の男性たちが湿度にもめげず丁重に保存した書画、旅に携行したちいさな赤銅の仏像はすり減り、名前のわからないたくさんの移民していったひとびとの写真は黄ばみ、好事家しか関心を示さない、纏足や刺血にまつわるグロテスクであったりエロティックなものは店主にそそくさと隠された。
薬箪笥のちいさな引き出しから、切手や貨幣、軍票や名刺が取り出され、じっと見つめる客たちに渡される。
いまの生活にはなんの役にも立たないものたちだ。金銭と交換はできるが、持っていたからといって手紙に貼って郵便として送ることもできないし、キオスクで新聞と交換できるわけでもない。投機のために骨董を漁るひとびとは別室で込み入った話をしているが、ぱりっとしたサロンを巻いてぽんと札束を置いて春画を引き取っていくスリランカ人の紳士も、髪を膨らませて束ね、鮮やかな口紅をさして陽気に喋り、取り置かれたポリネシアの木の仮面をごっそり持って帰るニョニャも、物体そのものを所有するためだけにこの店に来るのだ。
あるいは他人に見せびらかす虚栄心や、現代では満たされることのない欲望の代価かもしれない。けれど、過ぎ去った時代に、無数の無名のひとびとの手に触れて、たぐり寄せられない経緯を経て自分のもとにやってきたその物体に、たしかにわずかでも愛着を持つひとびと。そのひとびとと、かれらに求められ続けるモノたち――……わたしの子ども時代は、それらにあふれていた。なぜかれらはモノを愛するのだろう。なぜ骨董は残るのだろう。なぜ歴史はモノを残すのだろう。いったい過去とはなんなのか。過ぎ去って戻らないことではないのか。
過去は過ぎ去らない。わたしの身体に、眠る寝台に、通う学校に、首都の目のくらむような摩天楼に、ポート・クランから離岸するタンカーにも、ずっととどまり続ける。どこへ旅しても、母の故郷の漢字の洪水のような香港にも、父の捨てた日本にも。
父母よりも、わたしはモノと書物に親しんだ。道ばたに捨てられたスプライトの瓶も、百年後には考古遺物になる。排気ガスは規制されて、マレーシアのひとびともマスクをしなくなる。慣習は変化し、ことばは習合し離散する。わたしのなかの広東語と日本語、英語が混交して、わたしの思考をつくる。
熱帯の日差しに照らされてすべて鮮やかに見えるけれど、何事も明らかにならない。わたしはどこから来たのか。この社会はなぜできあがったのか。疑問と、書物や勉強で手に入れられる知識が、繰り返しわたしのなかに寄せては引いていく。もっと知りたい。大学では考古学を勉強しよう。文献史学では主観のなかに隠れてしまう、モノそのものが明らかにする歴史のために生きよう。砂に埋もれた遺構や、粉々になった陶器や、ずたずたに引き裂かれた布を分析して生きよう。過ぎ去って顧みられなくなった闇に分け入って、だれがそれに触れて、だれが置き捨てて逃げたのかを考えよう。だれも知らなかったことを書物に残そう。
父母はわたしの望みを理解しなかった。かれらはわたしに会計や経営のことを勉強してもらいたかったし、そうでなければ、科学や法律や、世の中の役に立つことを専攻してもらいたがった。けれど、どの科目も満点を取って、大学の入学案内を取り寄せて、考古学を勉強したい、それ以外には興味がない、と言うと、あきらめて学費を出した。
マラッカの骨董店 鹿紙 路 @michishikagami
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