エピローグ
第35話 そして僕は生きていく
ドクン、ドクン。
耳の奥で鳴り止まない鼓動。
それに合わせて聞こえる、波の音。
波?
違う。
先程まで聞こえていた波の音は、いつしか別の何かが流れる音に変わっていた。
その音の正体は分からなかったが、そんなことは些細な事のように感じた。
僕は今までに感じたことのないくらいの安心感に満たされていた。
しばらくすると、一時は聞こえなくなっていた赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
良かった。あの子も助かったのだろう。
――よく頑張ったね、元気な男の子だよ。
優しい男性の声だ。
この声には聞き覚えがある。
――ねぇ、今笑わなかった?
今度は女性の声だ。
懐かしい声だ。
僕はこの少し低く落ち着いた声が大好きだった。
――子育てってホント大変。
――でも幸せを感じるの。
僕はゆっくりと目を開けた。
目の前には随分と若いが、よく知っている二人の顔。
お父さん。
お母さん。
――今ママって言わなかった?
――違うよ『まんま』って言ったんだよ。
――もう、絶対ママって言った!
ふたりとも幸せそうに笑ってる。
――立った!見て、立ったよ!早く来て!
――ああ!もっと早くこっちに来てくれたら立った姿が見れたのに。
そうだ。
僕は立ち上がるのが遅くて大変だったって、お母さんが言ってたな。
――もう幼稚園か、早いもんだな。
――あなた、ちょっとどいて。写真撮るから。
――ひでぇ、俺も写真に入れてくれよ。
僕は泣き虫で、幼稚園に行くのを嫌がってた。
――ケンカ?
――怪我させたの?
これは小学3年生の時だ。
あの後、友達の家に謝りにいったっけ。
手を出したのは相手の方からなのに、何で謝らなきゃならないんだって思ってた。
――男の子なんだ。
――ケンカのひとつぐらいできないとな。
――お父さんがこう言ってたことは、内緒だからな。
内緒って言ってたのに、結局僕はお母さんに言っちゃって、後でお父さんが叱られてたっけ。
――制服を着ると、途端に大人っぽくなるね。
中学校の入学式。
何だか恥ずかしくて、わざと素っ気ない態度でお母さんに接した。
――高校は行きたいところに行って良いからね。
――自分で決めたほうが、頑張れると思うから。
そう言ってもらえたけど、あまり考えずに家の近くの私立高校に進学したんだ。
――ほら!番号あったぞ!合格だ!
合格発表では、本人以上にお父さんが喜んじゃって、逆にあんまり喜べなかったんだ。
でも、帰りに食べた鰻はとても美味しかった。
――ああ、どうしてこんなことに。
何だ?これは知らない記憶だ。
病院のベッドの横で、お母さんが泣いている。
お父さんもベッドサイドで俯いている。
――事故の時に頭を打ったのでしょう。
――後は意識が戻るのを願うしか・・・。
これは事故の後の出来事か。
こんなに悲しそうな両親は見たことがない。
サイレンが聞こえる。随分と遠くの方だ。
救急車?
いや、空襲だ!
「三郎、お腹すいたろ?握り飯だ食え。」
突然差し出された大きな手には、大きな握り飯が乗っていた。
「闇市で母さんの着物が売れたんだ。昨日も何も食べてないからお腹すいたろ?食え。」
一郎だ。隅田川の河川敷で亡くなったはずなのに。
「どうした?食えよ。俺はさっき食ったから腹なんてすいて無いぞ。」
そういって笑う一郎の口から白い歯が見えた。
「もう少しで日本は戦争に勝つ。そしたら腹いっぱい食わしてやるからな。」
具の入っていない塩むすびは最高に美味しかった。
豪快な笑い声。
薄明かりの中、誰かが陽気に歌っている。
「正二郎、お前もこっちに来て呑め。」
そう言って、松繁は僕に盃を差し出した。
「お前は幕府を倒したら、何をする?」
突然の質問に、僕は松繁を見た。
「俺はよ、小さくていいから商売がしてぇ。幕府が無くなれば自由に仕事が選べる。自由にだぞ。いい世の中だと思わないか?」
松繁は美味しそうに盃を空ける。
僕もそれに倣う。
酒の味は分からなかったが、心に何かが染み込んでいくのを感じた。
外からはたくさんの虫の声が聞こえていた。
まだ暗い。陽の光が差すのはもう少し後になってからであろう。
誰かが僕の布団の横に座っている。
僕はまどろみながらも、その正体がりつであることを確かめた。
何だ、りつか。
僕は安心し、もう一度夢の中に足を踏み入れた。
りつであれば心配することはない。何しろ一番信頼している人なのだから。
「ごめんね、正太。私が必ず守るからね。」
雪のちらつく夜。
小さな焚き火の横で監物がひとり物思いにふけっている。
「甚太か。」
監物は僕を一瞥するが、また炎に見入ってしまう。
「俺は、本当に正しいことをやっているのか。」
僕に話しかけているようではない。
「しかし、弱者が虐げられる今の世の中は、絶対に間違っている。」
声をかけられる雰囲気ではない。
「誰かがやらないと、良くはならないって事だ。」
監物は急に明るい声を出すと、僕に「忘れてくれ」と言い、自室に戻っていった。
今日もひとり槍を振るう漢がいる。
「信繁様、鍛錬はそろそろ終わりにして、夕飯にしましょう。」
戦のない日は一日中槍を振り、鍛錬を欠かさない信繁。
「甚八か。あと少ししたら行くよ。」
信繁よりも腕のたつ武将は見たことがない。これ以上の鍛錬など必要なのだろうか?
「今できることは今やっておかないと、本当にやるべき事ができたときに、それを行う時間がなくなってしまうからな。」
信繁は今を生きる事に妥協をしない。
今日も日が暮れるまで空気を裂く槍の音が聞こえる事だろう。
「雑賀ってのは自由だ、そして何者にも屈しない。分かるか?」
力説する清正の声がでかい。
「マサさん、やっぱり次の孫市はマサさんの方が良いんじゃないか?」
「何言ってるんだ勘八、先代孫市はお前に名を託した。それはお前に何かを見出したって事だ。だから俺はそれを全力で助ける。それだけだ。」
それってただ単に面倒なだけじゃないんだろうか?
「まあそんなに深刻に考えるな。少しづつでいい、自分なりの孫市になっていけばいいんだ。」
そう言って清正は僕の肩を豪快に叩いた。
風になびく旗には風林火山と書かれている。
「勘助よ。」
晴信に声をかけられた。
「甲斐の国は、険しい山が多く貧しい。」
気持ちが逸っているのか、手に持った団扇を持ち替えたり回したりと、落ち着きがない。
「こう言っては何だが、今の時代は成り上がるのに丁度いいな。」
晴信は領主としてお世辞にも適したとはいえないことを、楽しそうにいう。
「これからは激動の時代だ。ちゃんと付いてこいよ、勘助。」
晴信は団扇を力強く振るった。
静のお腹は日に日に大きくなり、臨月が近い事を僕たちに知らせていた。
「勘十郎、この子はどのような子に育つだろうか。」
静は、愛おしそうに自分のお腹を撫でながら言った。
「願わくば、戦とは無縁な人生を送ってほしいと思います。」
どの時代であっても争いを嫌う心に変わりはない。
「親として思うのです。いつか争いの無い太平の世が訪れて欲しいと。」
障子の間から差し込む陽光に照らされて、静の黒髪が輝いて見えた。
はじめは障子から差し込んでくる小さな光だった。
それがどんどん大きくなり、ついには僕の全身は光で包まれていた。
色々な人を見た。
人それぞれの未来があり、大小様々であるが、皆それに向かって意志を持っていた。
それは全てが尊く、輝きに満ちていた。
それに比べて、僕は何と稚拙で矮小で脆弱であった事だろう。
――生まれてきたから、ただ何となく生きる。
――未練?そんなものは何も無い。
――このまま人生の幕を閉じるのも良いかもしれない。
僕とは、何とつまらない人間なのだろう。
・・・。
・・・。
違う!
そうじゃない!
彼らと共に生きた時間、間違いなく僕は何者かであった。そこには間違いなく意志があったはずだ。
僕にだって何かを為せる力がある。
許されるなら、もう一度人生を歩みたい。
このまま死んでしまったら後悔だけが残るだろう。
今だから強く思う『生きたい』と。
直後、全身を包んでいた光はどんどん強くなり、いつしか視界は白一色となった。
規則正しい電子音が聞こえる。
ドラマとかでよく聞く、心電図の音だ。
僕は窓から差し込む陽光の眩しさに堪えながら上体を起こし、辺りを見回した。
「病室?」
寝心地の悪いパイプベッド、消毒薬の独特な臭い、ベッドを仕切る白いカーテン。
ふと足元を見ると、ベッドにもたれ掛かるようにして女性が寝ていた。
「お母さん?」
僕は軽く声をかけてから、女性の肩を揺すった。
目が、合った。
「目が、覚めたの?本当に・・・?」
気が動転してるのか、うまく話せない様子の母。
「ただいま。」
突然、母が抱きついてきた。
人目も憚らず涙を流す母。
「ごめん、夢を見ていたよ。悲しくて、でもかけがえのない人達の夢。」
騒ぎを聞きつけたのか、父も姿を表した。父の目にも溢れそうなほど涙が溜まっていた。
「ただいま。」
僕はもう一度言った。
僕の目からも一筋の涙が流れた。
生きる。 要 @kan65390099
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