第34話 愛故に(5)
下山した僕たちはすぐに追手に見つかり、鎌倉へと連れて行かれた。
僕は一切抵抗はせず、静は妊婦であるから乱暴に扱わないように訴え続けた。義経は僕に対して何も指示を出さなかったが、僕に任せたかった事はこういう事なのだと思ったからだ。
僕と静は頼朝による執拗な尋問にも屈せず、義経の行き先を漏らさずにいた。
もし一人で尋問を受けていたら、義経の行き先を話さなかったという自信はない。ふたりだから耐えることができたと言っても過言ではない。
いつしか僕と静の間では奇妙な連帯感が生まれていた。
「今日、そなたを呼んだのは他でもない。」
気温も上がり過ごしやすくなってきたある日、頼朝は静と僕を鶴岡八幡宮に招き、そう切り出した。
「そなたは白拍子の名手と聞いている。八幡大菩薩に献舞する舞を任せようと思う。」
妊婦に向かって、何という事を言い出すのだ。
僕は一気に頭に血が登るのを感じた。きっと僕一人だったら頼朝に掴みかかっていることだろう。
しかし、静は僕に向かってゆっくり首を振った。「大丈夫だから」静の目がそう物語っていた。
――よしの山 峰の白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞ恋しき
――しづやしづ しづのおだまき 繰り返し むかしをいまに なすよしもがな
これは・・・義経を想った唄。
頼朝の顔が見る見るうちに赤くなり、その表情が怒りに歪んでいくのが分かる。
「貴様!この頼朝の前で義経への想いを唄うとは万死に値するぞ!」
神前に納めてあった大刀を手に取り、静に詰め寄る頼朝。静は逃げる素振りをしない。
まさか、死ぬ気か?!
急いでふたりの間に割って入る僕、しかし丸腰の僕に一体何ができるというのだ。
頼朝が刀を鞘から抜き、上段に構える。
何とか静だけでも助かる手段は無いのか?!
しかし妙案などでてくるはずもなく、仕方なく僕は静を庇い強く目を瞑った。
「お待ち下さい!」
頼朝が刀を振り下ろす寸前に、女性の声が堂内に響いた。
この声は、北条政子?!
言わずと知れた頼朝の正妻である。
「妻が夫を想うというのは当たり前のことです。行く末が分からぬ状態であれば尚の事。私が逆の立場であったのならば、同じ事をするでしょう。」
政子は立ち上がり、頼朝の元へ歩み寄りながらそう言った。こう言われては頼朝でさえ刀を納める他無いだろう。
「静殿、夫を想う心、見事です。同じ女として、妻として、とても感銘を受けました。」
嫉妬深い妻という話が有名であるが、彼女もまた夫への愛に満ち溢れた女性なのかもしれない。
蝉の声が僕の不安を掻き立てた。
照りつける日光の中、僕は廊下に座り、その時を待っていた。
障子で隔てた向こう側。僕の目の前にある室内で、今まさに静が出産しようとしているのだ。
「生まれてきたのが女子であれば助けるが、男子であれば殺す。」
頼朝の行った言葉が、頭の中でグルグルと回っていた。
かつて平清盛が助けた源氏の子が頼朝だ。平家はその頼朝に滅ぼされている。
たとえ子供であっても容赦はしない。
頼朝が自分の生い立ちから、そういう考えに行き着くのは仕方の無い事なのかもしれない。
男子だったら頼朝は容赦しないだろう。
今僕にできる事は、生まれてくるのが女子であることを願うだけだ。
障子越しの室内からは、静の苦しそうな声と静の母である磯禅師の励ます声が聞こえてくる。
先程から、静の呻き声の間隔が短くなってきたのが分かる。
「静、もうすぐですよ!頑張って!」
磯禅師の声も大きくなってきた。
出産が近いのか?!
一際大きな静の叫び声がした。
それに続いて聞こえる胎児の泣き声。
「静、生まれましたよ!」
磯禅師が歓喜と安堵の入り混じった声を上げた。
「性別は?男の子?女の子?どっち?!」
そうだ、重要なのは子供の性別。
部屋に入れない僕は、廊下で利き耳を立てる。
「あぁ、何てことでしょう?」
磯禅師の声は哀しみに満ちていた。
まさか?男子か?!
「どうか、連れて行かないで下さい。私の、義経様の赤ちゃん。」
突然。静のなき叫ぶ声が聞こえてきた。
出産直後に何事だ?!
「勘十郎!勘十郎!助けて、勘十郎!」
僕は障子を乱暴に開けると、部屋の中に乱入した。
中で見たのは、乱れた着物も気にせず赤ん坊を抱きしめ離さない静と、それを奪おうとする男の姿。
「待ってろ、今助ける!」
そう言い静の方へ一歩進んだ僕は、後ろから羽交い締めにされ、畳に押し付けられてしまった。
「悪く思わないでくれ、これも頼朝様のご意志。」
くそっ!
暴れる僕を押さえつけるために、二人、三人と男が手を伸ばす。
何が意志だ!赤ん坊を殺すことが、そんなに大層な意志だというのか?!
しかし、三人がかりで押さえつけられてしまっては、手の出しようがない。とうとう、静は赤ん坊を取り上げられ、その場に泣き伏してしまった。
「勘十郎、お願いです。あの子を助けて。」
懇願する静。
僕の中で何かが切れた音がした。
僕はもう一度、全身に力を込めた。手足が千切れてもいい、そんな思いを込めて。
「抑えきれん!」
渾身の力を込め、何とか立ち上がった僕は急いで男の後を追った。
随分と時間がかかってしまった。
間に合うのか?
そんな不安が僕の中で頭を持ち上げる。
「いったい、どこに行った?!」
屋敷を探したが、赤ん坊どころか男の姿さえ見つける事ができない。
外に行ったのであれば、探す事など不可能に近いぞ。
「勘十郎様、由比ヶ浜に急いで下さい。」
すれ違いざま、見覚えの無い一人の男が僕にそう告げた。
「私はかつて、義経様と元で戦場を駆けた者。私の言うことなど信じられないかもしれませんが、どうか由比ヶ浜へ急いで下さい。」
僕は少し迷ったが、その男の言葉を信じる事にした。それ以外、道は残されていないのだから。
馬屋へ行き、使えそうなの馬を探す。
馬には既に馬具が付いていた。
さっきすれ違った男と同様に、密かに義経に忠義を示す者がいるということだろうか?
しかし、考えている暇などなかった。
由比ヶ浜まではそれほど遠くない。義経の子が殺される前に、何とか由比ヶ浜まで到着しなければ!
街道に植えられた松の木が、物凄い速さで後方へ移動していく。
馬の息は上がり、今にも倒れてしまいそうな程だ。
可哀想だとは思うが、執拗に鞭を打ち、走る速度を落とすことを許さなかった。
由比ヶ浜までもてば良い。
馬の顎が上がり、口角に薄っすらと泡が浮かんでいる。
ごめん。もう少し頑張ってくれ。もう少しで、由比ヶ浜に到着するんだ。
潮の匂いがする。微かに波の音も聞こえてきた。
由比ヶ浜だ。
そう思った直後、馬は後ろ足で立ち上がると、そのまま後ろに倒れ込んだ。
何とか受け身をとり、立ち上がる僕。
馬はそのまま横になり、激しく呼吸をしていた。
「ごめんよ。そして、ありがとう。」
僕は馬に向かってお礼を言うと、そのまま海岸に向かって走り出した。
由比ヶ浜まで、あと少し。
走ったとしても、それほど時間はかからない距離だ。
潮の匂いは随分と濃くなった。波の音はさっきより遥かにはっきりと聞こえる。
足元は土から砂に変わり走りづらくなったが、苦にはならなかった。それだけ目的地に近くなったという事なのだから・・・。
肺が痛い。
心臓が爆発しそうなほど、強く脈打っている。
それでも僕はがむしゃらに足を運び続けた。高校生の僕のままだったら、こんなに頑張れなかっただろう。
急に視界が開けた。
砂浜に到着したんだ。
幸運なことに、静の赤ん坊を探す必要など無かった。屋敷でよく見た武将、安達清常が、目の前で生まれたばかりの赤ん坊を抱いていたからだ。
僕は最後の力を振り絞って、清常に体当たりをしてその手から赤ん坊を奪い取った。
激しく泣き出す赤ん坊。
良かった、まだ死んでいない。
「勘十郎殿、どうしてここが?!」
動揺を隠せない清常。
「いや、そんな事はどうでも良い。今すぐその子を返すんだ。」
「嫌だ、この子は僕が守る。」
清常が一瞬、言葉に詰まった。
分かっている。清常だって子供を殺したい訳ではないのだ。
「分かってくれ勘十郎殿、頼朝様の命令は絶対だ。それに、守ると言っても丸腰のそなたに何ができる?」
自分の腰を確認して気づいた。急いだあまり、僕は刀を持ってきていなかったのだ。
「それでも渡せない。子供も守れずに、これから我々武士は何を守っていくというのだ。」
僕は赤ん坊を抱きしめ、清常に背をむけて座り込んだ。「頼む。分かってくれ勘十郎殿。私はあなたまで斬りたくはない。」
刀を持たない僕に勝ち目など無いことは明白だ。せめてこの子だけでも守りたい。
僕は赤ん坊を強く抱きしめた。
次の瞬間、突然意識が遠のいていくのを感じた。
さっきまで聞こえていた赤ん坊の泣き声も小さくなり、聞こえるのは定期的に寄せては返す波の音のみ。
いや、もう一つ。
徐々に大きくなる心臓の拍動の音。
いつしか拍動音はどんどん大きくなり、周りの音すべてをかき消してしまった。
不思議な気分だった。
今にも斬られてしまうであろうこの瞬間に、僕の心はこれまでに感じたことのない安心感に満ちていた。
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