第33話 愛故に(4)

 大和国の山中に逃げ込んだ僕たち義経一行は、山の中ほどにある無人のお堂に身を隠していた。

 雪は日に日に深くなり、裸になった木々に白い葉を纏わせていく。

 寒い。凍えてしまいそうだ。

 囲炉裏に灯した小さな火だけが、冷えきった体を温める唯一の手段だった。

 このままでは、刺客に見つかる前に凍死をしてしまうかもしれない。

 お堂の扉が開き、雪と共に山伏の格好をした弁慶が入ってきた。

「この山には追手が少ない。どうやら静殿がうまくやってくれたようだな。」

 弁慶が肩に乗った雪を払いながら、そう言った。

「義経様、いかがなさいますか?」

 何を「いかがなさる」のか。

 お堂に身を寄せる全員が理解していた。

 京の屋敷に残してきた静をどうするのか、未だにその答を出せずにいるのだ。

「我々のはっきりとした場所も分からず、ましてや女の身。言いづらい事ではありますが、静殿は・・・。」

「言うな、弁慶!」

 弁慶に言われなくても、静が辿り着けないであろうという事は、義経も理解している。ただ心がついていかないだけなのだ。

 お堂に重苦しい空気が充満した。

 今は追手の目を他に向けられているが、いつかはこの山にも探索の手が入るだろう。

 そうなったら、少人数である僕らには太刀打ちできる手段がない。

 いや、それ以前に餓えと寒さで全員が死んでしまう事だって考えられる。

 視線が義経に集まった。

 囲炉裏の火に視点を落とす義経。苦渋の決断を下さなければならないところまで、事態は切迫しているのだ。

「決断が遅くなってすまなかった。」

 義経が重い口を開いた。

「これから九州に渡り、力を蓄えようと思う。皆、付いてきてくれるか?」

「もちろん、どこまででも付いていきますわ。」

 お堂の扉が開き、いち早くそう答えたのは女性の声だった。

 入り口に皆の視線が集まる。

「静殿!」

 そこにいたのは、両肩に雪を乗せ、今にも凍傷になりそうなほど赤紫に変色した指をした静の姿だった。


 大和国の山中から、刺客の目をかいくぐり大阪湾を目指す。

 口で言うのは簡単だが、その行為は困難を極めた。

 頼朝の刺客は時を追うごとに増え、刺客の目を避けるためにさらに険しい山道を進む。

 歩みは思うように進まず、ただ体力と精神だけがすり減っていく。

 特に女性である静の消耗が激しかった。

「静殿、大丈夫ですか?」

 義経が静に手を差し伸ばす。

「このあたりは足場が悪いので滑りやすいです。さあ、私の手に掴まって。」

 義経の助けを借りながら山中を進む静。泣き言も言わずよく耐えているが、そろそろ限界だという事は、誰の目にも明らかだった。

「すいません、私のに体力が無いばかりに。」

 静は息が上がり、今にも座り込んでしまいそうだ。

 そんな静を優しく抱きとめる義経。

 早くこのふたりを、少しでも安全な地へ連れていきたい。僕は心底そう思った。

「義経様、下がって。」

 弁慶が岩陰から山の斜面を伺いながら、指示を出す。

 弁慶が指差した方向に目をやると、数人の男たちが何やら話をしながら歩いているのが見えた。

「追手だろうか?」

「恐らくは・・・。今の季節に山に入るのは、狩人ぐらいですから。」

 なるほど。

 山歩きに慣れていない足取りからして、彼らが狩人では無いことは明白だ。

「矢で射りますか?あれぐらいだったら、すぐに片付きますよ。」

 三郎が肩に担いだ弓を外しながら、義経に聞いた。

「いや、やめておこう。こちらには女性もいるから、もし切り合いになったら分が悪い。上手くいったとしても追手の死体が見つかれば、この周囲に潜伏していた事がばれてしまう。」

 義経はそう言うと、さらに山を登り始めた。すぐに静がその後を追う。

 声に出す者はいないが、皆疲れきった顔をしていた。

 無理もない。頼朝の怒りに触れてから、気の休まる時などほとんど無いのだ。

 終わりの無い逃亡生活。

 先行きの見えない不安が、皆の体と心を蝕む。

 仲間はどんどん減り、両手の指の数を少し超える程までになった。

 それでも僕たちは逃亡を続ける。微かに残る希望がある限り。

「皆、大阪湾に着いたぞ。」

 助かった。皆の表情が少しだけ緩んだのが分かる。

 後は鈴木重家の準備した船に乗り込み、九州に辿り着けば、頼朝でさえ手出しがしづらくなる。

「ここも安全ではありません、一刻も早く出立しましょう。」

 重家が船上から皆に促した。

 そうだ。いつ刺客の目に留まるか分からない。ゆっくりしている余裕など無いのだ。

「これより我々は陸沿いを九州へ向け西へ進み、豊州を目指す。」

 義経の指示を受け、船が帆を張り港を後にした。

「静、体調は大丈夫か?」

 義経はすぐさま甲板に腰を下ろした静の元へ行き、体調を気にかける。この時代、このように女性を気遣うことのできる男性はきっと少ない。

「義経様、ありがとうございます。少し疲れていますが腰を落ち着ける事ができたので大丈夫です。」

 そう言う静の顔からは血の気が失せ、白色をしていた。無理をしている事は誰の目にも明らかだった。

「まずいな。これは荒れるぞ。」

 西の空を見ていた弁慶が目を凝らして言った。

 はるか西の空には黒色の雲が広がっていた。心なしか空気が湿り気を帯びている。

「波が高いな。」

 義経も気づいた。

 しかし引き返すわけにもいかない。大阪へ引き返せば、待っているのは頼朝が放った刺客との衝突だけだ。

 現実とはこうも無情なものなのか。

 僕たちの乗った船は、みるみるうちに嵐に巻き込まれていった。


「何故こんなにも上手くいかないんだ!」

 何度も拳で床を叩きながら、義経が苛立ち顕にした。彼がここまで感情を表に出すことは、とても珍しい。

 それだけ追い込まれてしまっているということだろう。

 静の体調不良も義経に余裕がなくなってしまった要因のひとつだ。

 大阪湾から出航した僕たちは、瀬戸内海で嵐に会い、無残にも東に押し流され、大和国に漂着した。

「あんなに苦労して船に乗り込んだのに、振り出しに戻されてしまった。」

 皆の消沈ぶりは尋常ではなかった。

 噂を聞きつけ、既に大阪には刺客の手が及んでいることだろう。

 今潜んでいる山小屋だって、いつしか追手に発見されてしまう事だろう。

 山小屋に到着してからも静の体調は改善せず、嘔吐を繰り返していた。既に胃の内容物は無くなり、吐瀉物に含まれるのは胃液のみ。

 何とか症状を和らげて上げたいが、こんな場所では医者を呼ぶこともできない。

「静殿、もしかして私の子がお腹に?」

 静が頷く。

「何故、黙っていたんだ。」

「義経様のご迷惑になってしまうと思い・・・。」

 静の思いは痛いほど理解できた。逃亡を余儀なくさているこの状況で、自分が妊娠しているなど言えるはずも無い。

「辛い思いをさせてすまなかった。」

 義経は苦虫を噛み潰したような表情をした。その表情は自分の不甲斐なさを呪っているように見える。

「勘十郎!」

 突然、名を呼ばれて僕は困惑した。

「静を連れて山を降りろ。妊婦であれば兄も乱暴などしないはずだ。」

 義経にとっても、これは苦渋の決断であろう。

「我々はこの後奥州へ向かう。道中のことを考えると、静を連れて行くことはできない。」

 義経の決断は仕方のない事だった。奥州への道のりは、これまで以上に困難な事は容易に想像ができる。静をこのまま連れていけば、母子共に命の保証はできない。

「義経様・・・。」

 静はそれ以上何も言わなかった。

 別れが辛くないわけがない。今生の別れになる可能性はとても高いのだから。

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