第32話 愛故に(3)
平家を滅亡させ、時の英雄となった義経であったが、兄である頼朝から謂れのない怒りを買い、逃亡生活を送っていた。
頼朝が義経の実力と人気に驚異を感じたとも、梶原景時が源平合戦の時の義経との意見の相違に腹を立てたとも言われているが、真相を確かめる術はない。
一時は、義経が幼い頃に世話になった藤原秀衡の元で再起を図っていたが、秀衡が亡くなってしまった為、その道も潰え、今は後白河法皇のお膝元である京都に潜伏していた。
「今日も暑いな。」
三郎が額の汗を拭いながら、雲ひとつない空を見上げた。
「日照り続きで、作物が枯れてしまっている。早く雨が降ってくれれば良いのだが・・・。」
弁慶の言葉に皆が頷く。
地面がひび割れるほどに乾燥している。このままでは農作物の収穫に多大な影響を与えてしまう事だろう。
「もう行こう。我々はあまり外出して良い身分ではない。」
義経がそう言って、皆を屋敷に促した。
義経がこの地にいる事を、界隈では知らぬ者はいない。後白河法皇の権威が為せる『公然の秘密』というやつだ。
さすがの頼朝でも後白河法皇の元へ兵を派遣するという行為は難しく、今の義経にとって、京の都は唯一身の安全が確保できる土地となっていた。
「何か聞こえませんか?」
遠くで何かを叩くような音が聞こえ、僕はそう尋ねた。
「鼓かな?微かに笛の音も聞こえる。」
幼少の頃、山中で育った義経は耳が良い。
「義経様、行ってみましょう!」
三郎が強引に義経の袖を掴み、歩き出した。
「三郎、あまり外出はできないと言ってるだろう。」
迷惑そうな顔をしつつも、義経は少しだけ楽しそうな顔をしていた。義経がこんな表情を見せるのは久しぶりだ。
見慣れない光景に、僕は戸惑いを覚えた。
広場の中央に火を焚き、その前で舞うひとりの女性。
その女性の格好は、烏帽子に水干、腰には刀という男装。特筆すべきは身に付けた物が白で統一されているという事だろうか。
「雨乞いだ。」
弁慶が説明してくれた。
あの人は、いつからあのように舞っているのだろうか。
よく見ると、足袋が赤く染まっていた。舞いすぎで足の皮が剥けてしまっているのだろう。
既に足取りもおぼつかなくなっている。
やめさせた方が良い。明らかに限界だ。
「駄目だ、勘十郎。儀式が中断されてしまう。」
一歩前に出た僕の肩を、弁慶が掴んだ。
こんなの非科学的だ!
僕はそう言おうとして口を継ぐんだ。弁慶の表情も、苦悶に歪んでいたからだ。
雨乞いで雨など降るはずもない。
そんな事、皆も知っているのだ。
「雨だ!」
誰かが叫んだ。
弾かれるように僕は空を見上げた。
信じられない事に、さっきまで雲ひとつ無かった空に黒雲が広がっている。
「雨だ!」
「助かった、これで生きられる。」
口々に歓喜の声上げる農民たち。
こんな事が、現実で起こるなんて・・・。
「義経様、白拍子の所に行きませんか?」
「そうだな。偉業を成し遂げたんだ、労いの言葉をかけなければ。」
三郎に誘われ、僕たちはさっきまで雨乞いをしていた白拍子の元へと走った。
白拍子はフラフラと路地を歩いていた。
体力の限界なのだろう。今にも倒れてしまいそうだ。
「そこの白拍子、そなたなの舞は見事であったぞ。」
白拍子が振り返る。
「ありがとう、ござ・・・。」
体力の限界だったのか。白拍子はそこまで言うと気を失ってしまった。
既の所で義経が白拍子を抱きかかえ、倒れるのを免れる。
「おい、大丈夫か?!」
義経の腕の中、白拍子は静かに寝息を立てていた。
「何と美しい・・・。」
義経の呟きは周囲の騒音に紛れて消えた。
白拍子が目を覚ましたと、女中から連絡がきたのは、翌日の昼過ぎだった。
雨乞いの後、気を失った白拍子を抱え、途方に暮れた義経は、仕方無く自分の屋敷に連れてきていた。
「白拍子が目を覚ましたというのは本当か?!」
僕は白拍子を休ませている部屋の障子を勢い良く開けて言った。
中にいる女中と目が合った。
「勘十郎様!女性の寝所に入ってくるとは何事ですか!」
凄い剣幕でまくし立てる女中。
しまった、そういう時代だった。
「白拍子が目を覚ましたんだって?」
続けて姿を見せる三郎。
その姿を見て、女中が大きなため息をつく。
「勘十郎、三郎、心配なのは分かるが、あまり感心しない行動だね。」
苦笑しながらそう言ったのは、いつの間にか僕たちの後ろに立っていた義経だった。
「入っても良いかい?大丈夫だったら声をかけてくれ。」
義経がそう言うと、白拍子は急いで着物を羽織ると布団から降りて、佇まいを直した。
「疲れているだろうから、そんなに畏まらないで良い。少し話をするだけだ。」
合図を待ち、中に入る義経。
僕と三郎も義経に続いた。女中が鋭い視線をこちらに向けてきたが、気づかないふりをした。
「疲れている所、申し訳ない。私は源義経。昨日の雨乞いは見事であった。」
白拍子の前に座り、義経がそう話し出した。
「源、義経・・・様?」
驚きの余り声詰まらせる白拍子。
「義経様とは知らず、失礼を致しました。私は静と申します。」
静と名乗った白拍子は深々と礼をした。
「そんなに畏まらなくても良いと、言ったではないか。少し話をしたいだけなのだから。」
義経が慌てて静の面を上げさせる。
「なあ、勘十郎。」
三郎が僕に耳打ちをしてきた。
「義経様の様子、変じゃないか?」
あぁ、そうか。これは恋だ。
僕はひとり納得した。
この人が義経が愛した相手、静御前なのだ。
周りの山々は雪化粧を纏い、京の都も寒さの厳しい季節に入ってきた。
義経の静に対する愛は日に日にに深くなり、今では静を側室に迎えるまでになっていた。
義経の先行きの見えない立場が、ふたりの関係を加速させたのであろう。
「弁慶、三郎、勘十郎!」
襖を勢い良く開け、入ってきたのは義経だった。
その表情には、焦りの色が濃く見受けられた。義経がこのような表情をするのは本当に久しぶりだった。
「密偵から連絡が入った。兄からの刺客が京都に入ったらしい。」
何だって?!
「そんな、後白河法皇のお膝元である、この京都に刺客を差し向けるなんて。」
「まさか、後白河法皇が裏切ったのか・・・。」
皆、苦虫を噛み潰したような表情だ。
「話は聞きました。」
義経の後ろから聞こえる凛とした声。
「静殿。」
思いもよらぬ所から発せられた声に、皆、静に注目した。
「義経様、刺客が京に入ったのであれば一刻を争います。急いで準備をして屋敷を去りましょう。今や後白河法皇でさえも信頼できぬ存在。身を隠すのが第一かと・・・。」
義経にそう進言する静。
しかし、単に逃げたとしても足が付き、追い詰められることは明白。
「私がこの屋敷に留まり、刺客を撹乱します。それで少しは時間が稼げるはず。」
「それではそなたに危険が・・・。」
しかし、義経に選択している時間は無かった。
「行ってください。必ず追いつきます。」
強い決意の眼差しで義経を見る静。
「すまない、静。無事でいてくれ。」
義経はそう言い、僕たちの方へ振り向くとひとりひとりの肩を叩き、走り出した。
「どうか、ご無事で。」
静の声が聞こえたが、誰も振り返ることはしなかった。
振り返ることで、決意が揺らぐことが怖かったのだ。
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