5分で読める創作のための歴史教養講座

てぃるぴっつ

第一回【歴史上人物】ナポレオンの生涯をざっくり解説【5分で読める】

今回紹介するのは世界で最も有名なフランス人、ナポレオン・ボナパルトです。


ナポレオンと聞くと「戦略家」「軍人」「皇帝」などのイメージが湧きますが、その実像はどうだったのでしょうか?ざっくりと彼の一生を紐解いて見ていきましょう。



●生い立ち


ナポレオンは1769年、コルシカ(コルス)島にある貧乏貴族の家に生まれました。

日本で杉田玄白が「解体新書」を編纂する少し前ですね。


ナポレオンが生まれた当時、この島はフランスに侵略されている最中であり、彼の生誕3か月後に同国領となります。

そのためこの島は当時まだイタリア諸国領であり、彼の出生時の名前も「ナプリオーネ・ブオナパルテ」とイタリア風の名前でした。


ナポレオンの父カルロはコルシカ人として島の独立を守るため、当初フランスを相手に戦っていました。

しかし途中でフランス側に寝返り侵略に加担したために、戦後はフランス貴族と同等の権利を手に入れました。


その結果、ナポレオンは幼少期をフランス本土の陸軍幼年学校で過ごすこととなりました。

ですがコルシカ訛りのフランス語を喋ったため、現地では馬鹿にされていました。また故郷のコルシカ島でも、フランスに寝返った裏切り者の息子ということで敬遠されており、孤独な子供時代を送ったようです。


でも孤独であったがゆえに、勉学に好きなだけ打ち込むことが出来ました。彼は数学をはじめ、歴史、政治、軍事など幅広い学問を吸収し、フランス革命以降これらの知識が活かされていきます。



●フランス革命


1789年、絶対王政を打倒する「フランス革命」が勃発。しかし革命当初、ナポレオンはこの争いに興味は無く、故郷のコルシカ島に帰省していました。


ルイ16世、マリー・アントワネットが処刑された1793年、ナポレオンはフランス軍に復帰。

極端な独裁の恐怖政治をしくロベスピエールが幅を利かす中、王政打倒の革命が自国へ波及する事を恐れたヨーロッパ各国が反革命軍を支援してフランスに攻撃を仕掛けてきます。


ナポレオンはこの反革命軍との戦いで才能を発揮。頭角を現しました。

弾道を正確に計算出来たため、彼の撃つ大砲は百発百中。イギリス・スペインの連合艦隊に痛手を負わせました。ここで少年時代に学んだ数学が活きてきたんですね。


この活躍の後、先述のロベスピエールが恐怖政治の反発を受けクーデターにより打倒されます。彼と繋がりのあったナポレオンも捕まり、15日間の投獄に処されることとなって、前線を退いてしまいました。


その後ロベスピエールを打倒したテルミドール派が「総裁政府」を結成。これにより政治を行っていこうとしますが、情勢が安定せず民衆は不安になります。


そんな中、ナポレオンがさっそうと戻ってきました。


彼はイタリア遠征を行い、アルプス山脈を越えてオーストリア・イタリア連合軍を撃破。これにより対フランスのヨーロッパ同盟を崩壊させました。


民衆はこれに大興奮!


この後イギリスとの海戦に臨みましたが、残念ながらこちらは敗北。

ですがオーストリア、イギリスという大国に立ち向かった彼の評判はうなぎのぼりでした。


情勢不安にあえぐ民衆にとってナポレオンはまさに希望の光となったわけです。


そしてついに彼はクーデターを起こし、民衆の圧倒的な支持を受けてフランス皇帝へと成り上がりました。



●ヨーロッパ支配


ナポレオンは皇帝になった後、信教の自由や財産の不可侵を認めたりと国内改革を進めました。


こうして国内でやりたいことをあらかたやり終えると、次はヨーロッパ全土の支配という野望に着手します。アレクサンドロス大王の伝記に影響されたためでした。


1805年、「アウステルリッツの三帝会戦」でオーストリア、ロシアを撃破。この戦勝をたたえて翌年に、あの有名なパリの「凱旋門」の建設が始まりました(完成は1836年)。


これに加えてプロイセンも撃破して莫大な賠償金をふんだくり、ますます調子に乗るナポレオン。


そして次に「大陸封鎖令」というものを出しました。これはヨーロッパ各国と宿敵イギリスとの通商を遮断する政策です。


しかしロシアがこれを無視してイギリスと取引をしてしまいます。

ナポレオンは当然のごとくそれに怒って「ロシアをぶっ潰す!」という心境になり、モスクワ遠征へと駆り立てられました。


モスクワへと進軍するナポレオン率いるフランス軍。

しかしロシア軍は迎撃せず後退するばかりでした。


ついにモスクワまで到達したフランス軍でしたが、そこでロシア軍はモスクワの街に火を放って都市を焼き払ってしまいました。焦土作戦です。

モスクワで食料など調達しようとしていたナポレオンはその望みが立たれて大打撃。兵士は飢えに苦しみます。

さらにそこへロシアの厳しい冬が到来。冬の戦いに慣れたロシア軍の攻撃を受けて退却を余儀なくされました。


ボロボロの状態でナポレオンがフランスへ帰ってきた時、兵士の人数は最初60万人いたのが5000人にまで減っていました。

もはや壊滅状態のフランス軍。この時をチャンスだと思ったヨーロッパ各国がフランスに攻めてきます。


そして1813年の「ライプツィヒの戦い」で敗北し、ナポレオンは「エルバ島」に流刑となりました。

しかしこの島、大陸にかなり近くて本気を出せば泳いで戻って来られそうな距離にあったんです。


そのためナポレオンはこの島を即脱出。王政が復古しつつあったフランスで再び皇帝に返り咲きます。

ですがその座も束の間。ヨーロッパ各国との「ワーテルローの戦い」に敗れて、今度は簡単に戻って来られないほど遠い、「セント・ヘレナ島」に流刑となってしまいました。この流れがいわゆる「100日天下」というやつですね。

そして彼はこの島で余生を過ごすこととなります。



●その後


ナポレオンが流されたセント・ヘレナ島はアフリカ大陸に近く、高温多湿で住みづらい環境にありました。

それに加えて自身を24時間兵士が見張っているという、厳重な監視体制のもとでの生活を余儀なくされ、その余生は非常に息苦しいものとなります。


最期はガンがもとで亡くなり(暗殺の可能性もあり)、51年もの波乱万丈な生涯に幕を閉じました。


ナポレオンの人生は恵まれない幼少期から始まり、そこから努力して、革命を経て皇帝に即位したところで絶頂を迎えました。

しかしヨーロッパ全土を支配しようと野望を燃やしたところから、彼の人生は坂を下っていく一方となってしまいました。


やはり「もっと、もっと」と、多くを求めてしまったのが、彼の失敗の原因だったのではないかと思います。何でも欲望はほどほどが一番なのかもしれません。



といったところで、今回は以上!

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