勇者史外典 第三章 烏丸久美子は巫女でない

朱白あおい/電撃G'sマガジン

第1話「死支度 致せ致せと 桜かな」

高島友奈の訃報を聞いた烏丸久美子


 廷臣たちは私を幸福の王子と呼んだ。実際、幸福だったのだ、もしも快楽が幸福だというならば。私は幸福に生き、幸福に死んだ。死んでから、人々は私をこの高い場所に置いた。ここからは町のすべての醜悪なこと、すべての悲惨なことが見える。私の心臓は鉛でできているけれど、泣かずにはいられないのだ。

 ――――オスカー・ワイルド『幸福の王子』



 窓の外から蝉の鳴き声が聞こえる。

 空気には夏の湿気と夕暮れの茜色が充満していた。

 二〇一九年、夏――

 私は大社の自室で、同僚の神官から、高嶋友奈たかしまゆうな戦死の報告を受けていた。

「酒呑童子を宿して大型バーテックス三体を討伐した後、神樹の付近にて生体反応を消失……。樹海化解除後も、高嶋友奈の生存は確認できず、死亡したことは確実と見られる……と」

 報告書を読みながら、それを持ってきた神官を一瞥する。神官は目を伏せてうなずいた。

 大社の中で私は神官であると同時に、『高嶋友奈の巫女』という立場だ。後に『七・三〇天災』と名付けられた二〇一五年のバーテックス出現の日に、勇者・高嶋友奈を見出し、彼女を四国へ導いた。

 友奈が勇者として大社に所属したのと同時に、私も巫女として大社所属となったが、私は大社に入った時には既に巫女の力を失っていた。乃木若葉のぎわかばを見い出した上里うえさとひなたにしろ、土居球子どいたまこ伊予島杏いよじまあんずを見い出した安芸真鈴あきますず郡千景こおりちかげを見い出した花本美佳はなもとよしかにしろ、全員が巫女の力を発現したのは十代前半だ。一方、私は当時すでに二十歳を越えていた。神樹の巫女として能力を発揮できる時期を終えており、そのためすぐに力を失ってしまったのだろう。

 巫女の能力を失ったために神官となったが、かつて勇者を導いた巫女という実績は大きく、私は大社の神官たちの中では若輩にも関わらず、特別視されている。だから今、目の前にいる神官も、私の前では畏まった態度を見せる。

 ――――そういうことになっている。

「ふぅ……わかった。しばらく一人にしてくれ」

 私がそう言うと、報告してきた神官は一礼して部屋から出て行った。

 ああ、死んでしまったのか、友奈。

 アイツの性格じゃ、長生きできないかもしれんとは思っていたけどな。

 大罪人として十字架にかけられ、三十代の若さで殺されたナザレのイエス。大勢の弟子たちに看取られながら、八十まで生きて大往生した釈迦。同じく歴史的世界的聖人なのに、この差はなんなのだろう。友奈はたった十四歳で死んだ。

 私はのろのろと椅子から立ち上がった。体がいつもより重く、腕や足を機敏に動かせない。体調が悪いのだろうか。夏風邪でも引いたか。

 いや、私は――

 落ち込んでいるのか。

 私は友奈の戦死を知って、精神的なダメージを受けているらしい。まさか私のようなクズに、そんな人間らしい感傷が沸き起こるなんて。

 どうやら私は、思った以上に友奈のことを気に入っていたようだ。

 机の引き出しを開け、二重底の上底を取り外した。その下には大社に入る前に世話になっていたタバコやスマートドラッグの錠剤などが隠されている。

 箱からタバコを一本取り出し、火を点けた。口にくわえ、煙を肺に吸い込む。

「……まずっ」

 四年前のタバコだから、とっくに賞味期限も切れているし、香りも味も最悪だ。ただニコチンとタールを摂取するためだけの道具に成り下がっている。

 喫煙がバレたら、安芸あたりはなんとも思わないだろうが、花本は露骨に嫌そうな顔を見せるだろうな。

 鈍った頭で、さてこれからどうしようかと考える。

 ふと視界の端に本棚が映った。大学院生時代の名残とも言える研究書や論文集の中に混ざって、絵本が四冊置かれている。絵本の著者名は『横手茉莉よこてまつり』。

「……とりあえず、アイツにも友奈の戦死は教えてやらないとな」

 横手茉莉は、七・三〇天災の日に知り合った少女だ。彼女は絵本作家になるのが夢だと言っていた。私と友奈が大社に入った後も、彼女は手作りの絵本を一年に一冊私のところへ送ってくる。最初の一冊目はオスカー・ワイルドの『幸福の王子』を絵本化したものだった。二冊目はオリジナルストーリーの絵本になっている。

 多分一冊目の絵本は、私たちに対する皮肉だったのだろう。あるいは彼女なりの忠告だったのか。それ以外の絵本は、どのような思いで描かれたのかわからない。

 私はノートを便箋代わりに使い、茉莉宛の手紙を書き始めた。手書きの手紙とは時代錯誤だが、電子メールはサーバー上に記録が残ってしまう。手書きの手紙の方が安全だ。

 勇者の戦死の情報を外部に勝手に漏らすのは、本来ならば言語道断である。だが、茉莉は知る権利があるだろう。

 横手茉莉は。

 賞味期限切れのタバコの味を感じながら、私は四年前のことを思い出していく。マドレーヌの味から過去を追想した『失われた時を求めて』の主人公に比べて、なんと下賤でロマンがないのだろう。

  

 二〇一五年七月三十日。私は大阪からバイクを走らせ、奈良県御所市へ向かっていた。

 当時、私は大阪にある大学の文化人類学研究室所属の院生だった。論文の材料として使うため、御所市の秋津・中西遺跡について調べていたら、先輩の伝手で遺跡の調査チームのスタッフに会って話を聞けることになり、現地へ向かっているところだった。

 秋津・中西遺跡は古代祭祀において重要な役割を担っていたと言われる遺跡で、ちょうど第二十六次発掘調査が行われていた。この発掘調査をもって遺跡に関する大規模調査はひとまず終了する予定となっていた。すなわち、この遺跡に関する最後にして最大の情報収集のチャンスだった。

 大阪から阪神高速を使い、奈良の葛城インターチェンジへ向かう。走行中、ワイヤレスイヤホンでスマホからラジオのニュースを聞いていた。七月になってから全国各地で続発している災害に関するニュースが流れていた。地震、台風、豪雨、観測史上初の気温の上昇……

「近年の異常気象、災害の頻発」ハンドルを握りながら独りごちる。「地球全体がおかしくなってきているな。私が生きてるうちに、人類が滅びるのを見られるかもしれない」

 大阪と奈良周辺には今のところ、そこまで大きな災害は起こっていなかった。小さな地震が一日に数回発生している程度だ。しかし、このまま地震や災害が長く続けば、発掘調査は中止か延期になるかもしれない。ただでさえ今年になって相次いだ自然災害で、日程が狂っているらしいのだ。

 午後には御所市内についた。調査スタッフに会う予定になっているのは明日だ。今日は市内をバイクで巡りながら、地形や遺跡の位置を確認することにした。

 研究の一環とはいえ、自分がやっていることにかすかな虚しさと焦燥感を覚える。

 自分の生涯の終端までが、ぼんやりと見えていた。このまま大学院の課程を終え、どこかの大学に講師として勤めながら、年に数本の論文を書いて数年か数十年か過ごす。その間に結婚して子供でもできて家庭を作るかもしれない。老教授たちが引退したら、空いた枠に潜り込んで准教授だか教授だかになり、また年に数本の論文を書いて年老いていく。人生のレールは絶望的なまでに強固で、圧倒的に万全な安全対策により、壊すことも外れることもできない。

 市内の地形の特徴をノートに書き終えたところで、ちょうど夜になった。ホテルに向かう前に買い出しをして行こうと思い、近くにあったスーパーマーケットに寄る。

 そのスーパーマーケットは、無数の墓石に囲まれた火葬場の隣に建っていた。生と死の強烈なコントラストは芸術的とさえ思える。

 私は店内で、飲み物や酒や夜飯の弁当を買っていく。スーパーマーケットの中には家族で買い物に来ている人たちも多い。私は小さくため息をついた。

 買うものをカゴに入れ終え、レジへ向かおうとした時、視界が揺れた。

 いや、揺れているのは地面だ。

 また地震が起こっている。しかし、今回の地震は数日前から続いている小さな地震ではなく、かなり大きい。震度六はあるかもしれない。

 店内の客たちが悲鳴をあげ、棚の商品が次々に床に落ちていく。

 揺れはかなり長く続いたが、やがて収まっていった。

 商品が床に散らばり、店員も客もパニックに陥っている。レジもまともに機能していない。これではしばらく店から出られなさそうだ。窓の外を見れば、もうすっかり日が落ちて暗くなっていて――

 その瞬間、店の外側から窓ガラスに、何かが叩きつけられた。私は初め、それがなんなのかわからなかった。叩きつけられた『もの』は、赤黒い液体を溢れさせながら、ずるりとガラスを滑り落ちていった。大きさは一メートル弱くらいで、二股に分かれた縦長い物体。

 人間の下半身だった。

 上半身はない。下半身だけが千切れて、吹っ飛んできて、このガラスに叩きつけられたのだ。

 地震が起こった時の数倍の大きさの悲鳴が、店内に響き渡った。

 飛んできた欠損死体は本物か? 悪戯だとしたら悪質すぎる。誰がなぜこんなことをするのか。本物だとしたら……

 とにかく、何か異常なことが起こっている。

 私は窓の外へ目を凝らした。ガラス越しの夜闇の中、店の外で何か巨大なものが数匹、蠢いているのが見える。サイズはヒグマよりも遥かに大きく、体は全体的に丸く、不気味なほど白い。巨大な深海魚か芋虫のようにも思えた。動いているからには動物なのだろうが、あんな動物は見たことがない。しかも、その動物は地面を這っているのではなく、わずかに空中に浮かんだ状態で動いている。

 闇の中に蠢く白い化け物どもは、店の外にいた人間を巨大な口で飲み込み、噛み潰していった。停まっていた自動車も、車内にいる人間ごと次々に噛み砕いた。

 さっき窓ガラスに叩きつけられた人間の下半身は、奴らに食い殺された人の一部だったのだろう。

「人が! 食われてるぞ!!」

「いやああああ!」

 店内に悲鳴が充満する。

 私の近くにいた男の一人が、吠えるような声をあげながら、店から駆け出ていった。そして駐車場に停めてあった車に乗り込もうとしたが、車の前で白い化け物に食われた。化け物の口からこぼれた血と肉が、駐車場のアスファルトの上に落ちた。

 他にも車で逃げようとした者たちは、ある者は車に乗り込む前に、ある者は乗り込んでも発進させる前に車ごと食われた。

 無策に逃げようとしても、奴らの餌食になるだけのようだ。

 あの化け物が一体何者なのかわからないが、車を破壊できるパワーがあるなら、奴らはいずれ店の天井や壁を壊しながら、店内に侵入してくることはできるだろう。

店内の混乱がさらにひどくなる。

「助けを呼んで!」

「どこに!?」

「警察!?」

「自衛隊だろ!」

「携帯が通じない!」

 一部の男たちがショッピングカートや移動させられる棚を運び、店の出入り口前に積み上げ始めた。

 私はスマホで一一〇に電話をかける。繋がらない。呼び出し音は鳴るが、誰も出ない。一一九番にもかけてみたが、やはり誰も出ない。

「……なんだ、この状況は」

 強固で万全だと思っていた人生のレールが壊れてしまった。

 わけのわからない化け物が、簡単に壊してしまった。

 窓の外に見える白い化け物の数は三体。

 あの化け物たちが店内に侵入すれば、私も含め、ここにいる者たちは殺されるだろう。

「おい、そのガキを黙らせろよ!」

 化け物への恐怖で泣き喚いている女の子とその母親を、黒いシャツの男が怒鳴りつけていた。あの黒シャツ男は、さっき出入り口にバリケードを作っている男たちに指示を出していた。男たちの中でもリーダー格なのだろう。

 ちょうどいい。利用させてもらおう。

 黒シャツ男が泣き止まない女の子に手をあげようとした瞬間、私は男の腕を掴んだ。軽くひねって関節を極めつつ、ポケットに入れておいたボールペンを取り出し、首筋に突きつける。

「クズが。どんな状況であれ、弱者に手を出すのは感心しないぞ」

 黒シャツ男は私を睨み、悔しげに唇を噛む。だが、無駄に暴れたり抵抗したりはしなかった。「わかったよ」とボソリと言って、その場から逃げるように立ち去っていく。

 たったそれだけで周囲の空気が変わった。

 女の子の母親は感激しながら私に礼を言う。周囲の人たちからも、賞賛の声をかけられる。私は傍若無人な男を諌めて少女を救った女性として、周囲から尊敬と信頼を得た。

 さっきの一幕で、私のこの場における発言力は、かなり高まったはずだ。

「みんな、聞いてくれ! 提案がある!」

 周囲の視線が私に集まる。期待、不安、疑念、怪訝――皆の視線の持つ感情を読み解きながら、この場にいる全員に語りかける。

「あの化け物どもは、長くせず店の中に侵入してくるだろう! 車さえ破壊する力を持っていることを考えれば、バリケードも無意味だ!」

「……じゃあ、どうすんのよ」

 茶髪で少しヤンキー風の若い女が、苛立った口調で問い詰めてくる。この攻撃的な口調は、恐怖心を隠すための虚勢だろう。私は茶髪女に答えるのではなく、周りにいる全員に呼びかける。

「今すぐにでもこの店を出て、助けを呼ぶべきだ!」

「でも、あの化け物たちに殺されるわよ!」

「幸いにも奴らの数はたった三匹だ! いくつかのグループに別れ、それぞれ別々に逃げれば生き残れる可能性は高い!」

 私の言葉を聞き、多くの人は困惑した表情を浮かべる。

「しかし……逃げ延びられる人もいるだろうが、逃げ切れずに殺される人もいるんじゃ……」

 気弱そうな眼鏡の男が問いかけてくる。

「大丈夫。みんなが逃げられるよう、私が囮になるから」

 私はそう答えた。


 私がみんなに話した作戦は以下の通り。単純なものだ。

 店を脱出するのは、体に問題がなく運動することができる者のみ。子供、老人、病人などは脱出者が救助を呼んでくるのを店内で待つこととする。

 最初に私が一人で店から脱出し、逃げるふりをしてあの化け物どもをおびき寄せる。先ほど店から逃げようとした男が即、あの化け物に食われたことから、奴らは人間を発見すれば迷いなく襲いかかってくるようだ。野生動物などは、人間の姿を見れば、むしろ逃げることが多いのだが。あの化け物どもの特異な習性と言える。

 店から脱出した私に、あの化け物たちは襲いかかってくるだろう。きっちり六十秒、私は一人であの化け物からつかず離れずで逃げ続け、奴らを少しでも店から離れた場所へ誘導する。

 その後、一グループ五人に分かれ、二十秒ごとに一グループずつ店から脱出する。グループに分けるのは、人は数が少なすぎれば恐怖で動けなくなり、多すぎれば行動が鈍くなるからだ。明確な根拠があるわけではないが、五人くらいが良いだろうと判断した。


 私は店の出入り口から、夜闇を見ながら呼吸を整える。

 闇の中に白い巨体が動いているのが微かに見えた。動きが機敏なわけではないが、人間が走るよりも遥かに速いスピードで空中を浮遊しながら移動している。

 ――自分の中で覚悟を決め、一気に出入り口ドアから飛び出した。

「こっちだ! こっちに来い!」

 最初は化け物どもに見つけてもらうため、敢えて声をあげながら奴らに向かって走る。

 化け物ども三匹が私に気づいてこちらに向かってきたら、方向転換。スーパーマーケットから離れる方向へ向かって逃げ始める。

 速度は向こうが上なのだから、ただ逃げているだけでは追いつかれる。私は駐車場に停められている車の間を走り、少しでも車が障害物となって化け物どもの進路が阻まれるように動いた。

 だが、化け物どもは車を噛み砕く力を持つから、障害物として充分は言えない。せいぜいちょっとした時間稼ぎに過ぎない。

 化け物どもは車をおもちゃのように押しのけ、あるいは凶悪な口で噛み砕きながら近づいてくる。

 私は駐車場を横切り、フェンスを越えて、火葬場の墓石群の中に逃げ込む。だが、化け物は墓石もお構いなしに次々となぎ倒していく。人間の死者に対し、奴らはなんの感情も抱かない。

「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」

 息があがる。足が徐々に重くなる。運動不足が慢性化している大学の研究者どもに比べれば、私はそこそこ体を鍛えている方だが、やがて走るスピードは落ち始める。

 私が店内にいる連中に対し、囮になると約束した時間は六十秒。

 そろそろ三十秒、経過した。

 六十秒あれば、私はこの化け物どもを充分にスーパーマーケットから引き離せる自信はある。

 これは六十秒間の勝負だ。

 私と化け物との勝負――ではない。

 私とスーパーマーケットの店内にいる連中との我慢比べ勝負だ。

 墓石群を抜けて道路に出る。その時、私を追っていた化け物どものうちの二匹が方向転換し、スーパーマーケットの方へ戻り始めた。

「……馬鹿が」

 私は残った追っ手から逃げつつ、再びスーパーマーケットの前へ駆け戻った。

 店内にいた人間たちが、我先にと脱出し始めていた。まだ六十秒経っていないのに。化け物たちは、店から脱出した人間たちを襲うために戻ったのだろう。この化け物どもはかなり知能が高いのかもしれない。私一人を全員で追うより、二手に分かれて、より多くの獲物を得られるように効率的に動いたのだ。

 しかし、私を追っているのが一匹だけとなり、私個人への脅威度は下がった。

 そして私は駐輪場に停めていた自分のバイクに到着した。

 跨ってエンジンをかける。

 バイクの速度なら、恐らくあの化け物一匹からは逃げきれる。

 店内にいた者たちが六十秒以上待っていれば、私が化け物どもからの距離を充分に離し、彼らは逃げられただろう。そして私が殺されていたはずだ。

 だが、彼らは待てなかった。

 恐怖心と焦りを抑えきれなかった。

 店内から逃げた者たちは、化け物どもに追われて殺されるだろう。

 私はスーパーマーケットから逃げ出した人たちの方を振り向いた。そこにいる人間たちが無惨に食い殺されているであろうことを予想しながら――


 予想外の光景があった。


 攻撃を受けていたのは店から逃げ出した人間たちではなく、あの巨大な白い化け物たちだった。

 店から逃げ出した者たちと白い化け物の間に一人の少女が立ち、化け物に向かって拳を振るっているのだ。彼女の動きを見れば、おそらく格闘技の経験者だとわかる。しかし少女の年齢は小学生くらいで、化け物との体格差は数十倍にもなるだろう。本来ならそんな子供の拳など、化け物には撫でた程度の衝撃しかないはずだ。

 だが、少女の拳を受けた化け物は、肉体の一部が崩れ落ち、少女から逃げるように距離を取る。明確にダメージを受けていた。

「ゆうちゃん! 気をつけて!」

 謎の小学生女児にそう呼びかけたのは、彼女から少し離れた場所にいる中学生くらいの少女。彼女は店から逃げようとした者たちの傍へ走って行き、叫ぶように言う。

「あ、あの! み、店の中に戻ってください! ゆうちゃんの戦いの邪魔にならないように!」

 しかし彼らは困惑するばかりで、動くこともできない。

 おいおい、大人たちより、あの子供二人の方が、よっぽどしっかりしているじゃないか。

 ……気が変わった。

 バイクで逃げようと思っていたが、私はあの少女二人のことを、もっと見ていたくなった。

 私はバイクの急発進と急転回によって、追ってきていた化け物一匹をかわす。そして、戦っている小学生少女の方へ向かった。

 少女は化け物相手に善戦している。だが、やはり形勢はよくない。一匹の化け物を殴っている間に、少女の後ろからもう一匹が突進してくる。

 少女は背後からの攻撃に気づくが、もう避けきれない。前の敵からの攻撃も迫っている。

「ガキ! そのままジッとしていろ!」

 少女は「え?」と戸惑ったような顔をして、私の方を見た。

 私はスピードを緩めずにバイクから飛び降り、一体の化け物にバイクを激突させた。同時に少女を押し倒すようにして抱きかかえ、もう一体の化け物からの攻撃も避ける。

 少女を抱えたまま、アスファルトの地面を転がる。着ていたライダースーツはボロボロになり、地面に落ちた衝撃で体が痛んだ。

「ぐ、ううう……なかなか痛いな……」

 しかし、少女は無事だ。助けることができた。

「だ、大丈夫ですか、お姉さん!?」

「ああ、ちょっと擦り傷があるだけだ……」

 私は立ち上がって、白い化け物たちの方を見る。

 バイクをぶつけた化け物は、まったくダメージを受けていない。どう考えてもバイクの衝突の方が、この女の子の拳よりも衝撃が大きいはずなのに。

「ガキ。お前、なんであの化け物と戦える?」

「えっと……わからないです……。でも、これをつけると、戦えるような気がして」

 見れば、少女の手には古びた手甲のようなものがつけられていた。少女の手には不釣り合いに大きく無骨で、錆びついた手甲だ。

 この手甲が化け物たちを倒せる力を与えているということか?

 信じ難いことだが、そもそもあの化け物どもの存在自体が信じ難いことだ。とにかく今は、どんな超常現象でも受け入れるべきだろう。

「お姉さん、助けてくれてありがとうございます! 大丈夫です、今度はきっとあのお化けをやっつけますから!」

 いや……この手甲よりも、白い化け物よりも、こんな子供のくせに人のために危険な戦いをしようという少女の存在が、超常現象そのものだろう。

 少女は近づいてくる化け物たちの方へ向き合い、拳を構える。

 ……この子は格闘術の心得はあるようだが、状況が適していない。格闘技や武術には、すべて『想定している戦いの状況』というものがある。リングの上で戦うのか、町中や路上で戦うのか。体重による階級分けはあるのか。急所攻撃は可能か。武器を使うのか。防具はつけるのか。等々――武術ごとに想定は違っていて、力を発揮できる状況が異なる。空手家と剣道家が戦った時、空手ルールならば空手家が勝つし、剣道ルールなら剣道家が勝つ、という具合に。この少女が使っている格闘の技術は、『鉄の手甲をつけて巨大な化け物を殴って倒す』という状況には、あまり適していない。

「アドバイスだ」と私は少女に言う。「敵を殴る時は足で地面をしっかり踏め。腰の回転を意識して、自分の体ごと相手にぶつかる気持ちで殴れ。手数やフットワークの軽さより、一撃の威力を重視するんだ」

「え? ……は、はい、やってみます!」

 突然言われても、普通は実践できるものではない。

 しかし少女の拳の振るい方は、私の一言で劇的に変わった。

 少女の拳は一撃で化け物を粉砕する。

「……いいぞ、その調子だ。殴る時は大きく声を出せ」

「はい! うおおおおおおおお!!」

 さらに少女の拳の威力が上がる。この子は間違いなく格闘の天才だ。

 二撃目、三撃目と拳を振るい、少女の小さな拳は他の化け物の巨体も打ち壊した。倒された三匹の化け物は、空気に溶けるように消えていった。


 化け物たちがいなくなった後、私たちはスーパーマーケットの中に戻った。

「ゆうちゃん、大丈夫!?」

 中学生くらいの少女が、小学生女児に心配そうに声をかけている。

「大丈夫! このお姉さんが助けてくれたから」

 と、女児は私を見て言った。

 私はさっきからスマホで一一〇番と一一九番に電話をかけているが、今度は呼び出し音すら鳴らない。

 どうやら電話で救助を呼ぶことはできなさそうだ。

「あの……ゆうちゃんを助けてくれて、ありがとうございました。怪我は……大丈夫ですか……?」

 ボロボロになった私のライダースーツを見ながら、中学生の少女はぎこちない口調で言う。うつむきがちで、私と目を合わそうともしない。人見知りするのだろうか。さっき店の外で、大人たちに強い口調で避難を呼びかけていた時とは別人のようだ。

「服が破れただけだ。かすり傷は負ったが、大きな怪我はない。受け身は得意な方だからな」

 しかし、この服装のままでは少々見苦しいな。

 小学生の少女は私を見上げて言う、

「私、高嶋友奈って言います。お姉さんは?」

「烏丸久美子だ」

「えっと……ボクは横手茉莉と言います」

 おどおどと中学生の少女も名乗った。

 高嶋友奈と横手茉莉。明るく元気な年下の少女と、少し陰があって人見知りの年上の少女。対象的だった。

 私は電話で助けを呼ぶことを諦め、スマホでSNSに繋いで情報を探す。現代において、最も早く情報が出回るのはSNSだ。

 SNS上では、私たちと同じように、白い化け物に遭遇したという情報が出回っている。化け物に家族や友人を食い殺されたという書き込みも多い。

 書き込み内容をよく見ていけば、幾つかの地域では極端に化け物による被害が少ないことがわかってくる。

 その地域の一つは、四国だ。

 四国内でも化け物に遭遇したという情報がわずかに出回っているが、全国各地で起こっている惨状に比べれば、圧倒的に被害報告が少ない。

「……四国だな」

「え?」

 横手茉莉が怪訝そうに私を見る。

「私は四国へ向かう。そこが安全らしい。……お前たち、親や家族はどうした?」

「途中ではぐれちゃって……」

 高嶋友奈は表情を曇らせてそう言った。

 横手茉莉は黙り込んで、何も答えなかった。

「四国が安全地帯だったら、お前らの家族もそこへ向かっているかもしれんな。私と一緒に四国へ行くか?」

 二人は顔を見合わせて……その後、うなずいた。


 私が化け物にぶつけたバイクは無惨に壊れてしまっていた。バイクの後部につけていたリアボックスも壊れていたが、その中に入っている荷物は無事だ。荷物の中から服を取り出し、スーパーマーケットのトイレで着替えた。

「久美子さんは科学者なんですか?」

 高嶋友奈は私が着ている服――白衣を見て、物珍しげに尋ねる。

「いいや、科学じゃない。大雑把に言えば、歴史研究者の見習いといったところだ」

 子供に文化人類学だとか考古学だとか言っても、理解できないだろう。

 そもそも文系の研究者は理系と違って、白衣を着る必要性はない。この服は、なんとなく人とは違うことをやってみたくて、着続けているだけだ。

 大学に入ってしばらくした頃、平穏な生活に飽きて、『他人とは違う、変わった行動』をとにかくなんでもやってみた。犯罪以外なら、思いつく限りのあらゆることをやった。目の前にいる少女二人が嫌悪感や吐き気を催しそうなことだって何度もやっている。

 文系なのに白衣を着るというのは、その頃に始めた『変わった行動』の一つだ。

 けれど大学院生になる頃には、『変わった行動』を繰り返すうちに、それ自体がルーティン化してしまい、何が変わっていて何が普通なのか境目がなくなってしまった。それからは敢えておかしな行動はやらなくなったが、白衣は惰性で着続けている。

「研究者……学者ですか。頭がいいんですね!」

 高嶋友奈は目を輝かせた。

 その純粋な目に、私は苦笑する。

「学者ってのはこの世でトップクラスの馬鹿の集まりさ。自分の専門分野以外については無知無能だからな」

 破れたライダースーツはスーパーマーケットのゴミ箱に捨て、私は店の外に出た。高嶋友奈と横手茉莉もついてきた。

 化け物が現れた後、車で逃げようとして化け物に食われた男がいた。彼は自分の車に乗り込もうとして殺されたが、私は噛み砕かれたその男の死体のそばへ行く。

「う……」

 横手茉莉は死体を見るのがつらいのか、途中で立ち止まって目を背けていた。

「きついなら、それ以上近づくな」

「は……はい……。すみません……」

 横手茉莉は死体から離れた場所に留まり、高嶋友奈も彼女を心配して付き添っている。

 私は人の形を留めていない死体のズボンのポケットに手を入れる。案の定、中には車の鍵があった。

 鍵を持って車内に入り、エンジンボタンを押すと、問題なくエンジンがかかる。ガソリンの量も充分に残っているようだ。

 私は車を動かし、横手茉莉と高嶋友奈の隣に停めた。

「乗れ。これで四国へ向かう。道に問題がなければ、半日もあれば着けるはずだ。途中で警察署にも寄ってみるつもりだが、この状況だと救助は期待できないだろうな」

「…………駄目です」

 そう言ったのは高嶋友奈だった。

「駄目? 何がだ?」

「私たちだけで逃げるのは駄目です。スーパーに残っている人も一緒じゃないと」

「…………おい、簡単に言うなよ」

 私はスーパーマーケットの方へ目を向けた。

 店内にはまだ十数人ほどの人間がいる。化け物が倒された後、多くの人が店から逃げ出していったが、それでもかなりの人数が残っている。老人や子供もいる。

「まさか、あの大人数で移動しようと言うんじゃないだろうな? 集団移動は危険が大きすぎる。それにあんな人数じゃ車で移動できない。無理だ」

「でも、店の中にいる人たちを放っておけないです。みんなと一緒じゃないなら、私は行けません」

 高嶋友奈は譲らない。

 どうしたものか。

 これから四国へ向かう道中、またあの化け物と遭遇するかもしれない。化け物は日本各地で出現しているらしい。もし遭遇した場合、化け物と戦えるのは高嶋友奈だけだ。

「…………仕方ない、わかったよ。このあたりの車から使えそうなものを何台か選んで、分乗していくしかないだろう」

「あの、だったら……この途中で見かけたんですけど、バスは使えないですか」

 恐る恐るといった様子で、横手茉莉がそう言った。


 スーパーマーケットの駐車場の端にマイクロバスが停まっていた。駐車スペースに収まっているわけではなく、乗り捨てるように置かれている。

 バスの中に入ると、何が起こったのかわからないが、女が一人床に倒れていた。頭から流血している。脈を測ると、既に死んでいた。

 運転席を見れば、エンジンキーが刺さったままになっている。

 このバスなら店内の客全員を乗せられるだろう。私は中型免許を持っていて、マイクロバスの運転もやったことがある。

 私はバスの中から女性の死体を運び出し、駐車場のアスファルトの上に横たえた。

 横手茉莉は死体を見ると口元を押さえ、地面に膝をついた。

「うっ……はぁ、はぁ、はぁ、ひぃっ、はぁ」

 彼女の顔は青ざめ、過呼吸のように息の仕方がおかしくなっていく。 

「あ、いけないです!」

 高嶋友奈が慌てて、自分の服で死体の頭の流血を拭った。

「ごめん、ゆうちゃん……ありがとう……」

 死体から血が見えなくなると、横手茉莉の呼吸もやっと落ち着いてきた。

「どうしたんだ?」

「茉莉さんは、血を見るのが苦手で……」

 高嶋友奈がそう言うと、横手茉莉は頷いた。

「はい……ごめんなさい。さっき駐車場にいた時は、血の近くを通らないようにしていたので、まだ大丈夫だったんですけど……」

 何かトラウマになるような出来事でもあったのかもしれない。

 まだ顔は青かったが、横手茉莉はアスファルトに転がされている女性の死体を見ながら言う。

「ところで、その女の人は……?」

「バスの中で倒れていた。死んでるよ」

「死っ……!」

「殺されたのかもしれんな。こんな状況なら、恐怖心やパニックから人間同士で争いが起こって、殺人まで発展することもあり得るさ」

 海外で起こるデモや暴動では、死人が出ることだって珍しくない。今、この国で起こっている惨状は、そんなデモや暴動以上の大事件だ。

「この死体は」私はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。「未来の私たちかもしれんぞ。大人数で移動すれば、内部で争いが起こるリスクを常に抱えることになる」

 横手茉莉も高嶋友奈も苦い顔を浮かべながら、女性の遺体を見下ろしていた。

「だが、とりあえずは内部争いより、あの白い化け物どもの方が脅威だ。どれくらいの数がいるのかわからないしな……。SNSを見た限り、日本中で遭遇している人間はかなり多いようだが」

「もしあのお化けが出てきたら、私が戦ってみんなを守ります。それに、茉莉さんもいますから」

 高嶋友奈はそう言った。

「コイツがいると、何かあるのか?」

「茉莉さんは、あのお化けの居場所がわかるんです」

 私は横手茉莉を見る。彼女は「はい……一応……」と自信なさげに答えた。

 高嶋友奈が化け物を倒す戦士なら、横手茉莉は化け物の居場所を探るレーダーというわけか?

 それが本当だとしたら、こいつらは本当に馬鹿だ。なぜなら、横手茉莉と高嶋友奈にとって最も安全な方法は、二人だけで逃げることだったからだ。


 せめてもの弔いにと、バスの中の女性の死体は、火葬場近くの墓地の中に置いた。

 その後、店の中にいた人間たちに四国へ向かうことを話した。

 四国へ行けば安全だという情報に疑念を抱く者もいたが、バスで全員一緒に移動すること自体に反対する者はいなかった。化け物と戦える高嶋友奈と共に行動することが最も安全だと、みんなわかっているだろう。

 全員がバスに乗り終わったところで、私はゆっくりと発進させた。

 横手茉莉と高嶋友奈の二人は、運転席の後ろの座席に並んで座っている。バスを走らせ始めてすぐ、高嶋友奈はウトウトして眠ってしまった。横手茉莉の肩に頭を預け、寝息を立てている。その無防備さを見れば、高嶋友奈が彼女を信頼していることがわかる。さっきまで異形の化け物と戦っていたとは思えない、あどけない顔で少女は眠っていた。

 高嶋友奈が眠ると、横手茉莉が私に尋ねてきた。

「烏丸さん……あの時、なんで笑ってたんですか?」

「あの時?」

「ボクとゆうちゃんがスーパーマーケットに来たのは、ちょうど烏丸さんが最初に一人で店から出て来た時だったんです。烏丸さんが一人で囮になって、あの化け物を引きつけて、店の中のみんなを逃がす作戦なのかと思いました。すごい……勇気のある人だって思いました。でも……」

 横手茉莉は言葉を濁す。

「なんだ? はっきり言えよ」

「囮になって逃げている時も……あの化け物たちが方向転換して店から逃げた人たちに襲いかかった時も……烏丸さん、笑ってました……」

「気のせいだろ」

「…………」

「笑うわけないだろう。あの時、私は殺されかけてたんだぞ。全然笑える状況じゃない」

「……そう、ですよね……。見間違いです。すみません、変なこと言って……」

 察しが良い子だな、と思う。


 私は今、この状況が楽しいんだ。


  

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続きは2021年11月30日発売の単行本

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勇者史外典 第三章 烏丸久美子は巫女でない 朱白あおい/電撃G'sマガジン @gs_magazine

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