夢を見たスノードロップ

佐座 浪

日常

 ——心地の良い静寂の満ちる夜。誰もが月明かりに包まれて眠る都に、また一つ惨劇が咲く。


 たったの一振りで心臓を抉られ、絶命したその男の傍らには、一連の惨劇同様、一輪のカンパニュラが添えてあったという。


 ————


「……ふぁぁぁあ」


 我ながら情けないと思う程大きな欠伸を一つして、私はベッドから這い出た。


 微かにぼんやりとする視野と思考を引き摺って、冷たい水を顔に被り、朝の支度を整えていく。


 外はまだ日の出前、何をするにも早過ぎると言えるのだろうけど、これも仕方のない事。何しろ、今日は仕入れの日。モタモタしていては、せっかく花を仕入れてくれているお兄さんを待たせる事になってしまう。


 朝食を食べ終え、ようやく身支度を整え終えた私に、店の裏手から馬の足音と車輪の回る音が届いた。


 もう何度聞いたか分からないその音を合図に、お店の裏手の扉を開く。


「おはよう、スノウちゃん」


 扉を開くと、馬車の荷台に数え切れない程の花を乗せた、仲買のお兄さんが笑顔で挨拶をしてくれた。


「おはようございます。こんな早い時間に、いつも本当にありがとうございます」


「いやいや。スノウちゃんの為なら、どんな時間にだって、どんな場所にだって駆けつけてみせるとも!」


 まるで太陽みたいな笑顔を、お兄さんは浮かべた。この笑顔を見るだけで、いつも心の中がすっと明るくなる。


 それから私は、お兄さんの助けも借りて、積み荷を店の中に運び込み、代金を支払った。


 最初に出会った時、あまり多くのお金を払う事が出来ないけれど、たくさんの花を仕入れたいと正直にお兄さんに言った。今思い出しても、なんて自分勝手なんだと思う。


 でもお兄さんは、お金なんて払えるだけで構わない、君の為にたくさんの花を仕入れるよ、と言ってくれた。そんなお兄さんの優しさに今も甘えてしまっている事に、少し胸が痛くなる。


「はい。確かに、代金は頂きました。それじゃあまた……おっと! ごめんね、スノウちゃん。これを渡すのをすっかり忘れていたよ」


 そう言って、お兄さんは積み荷の中から、雪のような白さを持つ花、スノードロップが何本も差してある花瓶を差し出した。


「あ……ありがとうございます」


 差し出されたそれを受け取る。この花は私がお兄さんに頼み込んで卸してもらっている物なのだが、出来れば受け取りたくはなかった、届かなければ良いとさえ思っていた。


「……スノウちゃん。最近、何か変わった事は無かったかい?」


「……え?」


 突然表情を暗くしたお兄さんの問いかけに、心臓が大きく跳ねた。


「今朝から、帝国兵の奴らが慌ただしく動いてる。どうやら……また、出たらしいんだ。——死の花が」


「死の……花」


 死の花、というのはここ最近都に出没している、暗殺者の名称だ。死体の側に決まって、カンパニュラの花を置く事から、その名で呼ばれているらしい。


 何件もの凶行を繰り返しておきながら、今も暗殺者は捕まらずに、この街の中にいる。


「もしかしたら、その花を買いにスノウちゃんの所に来るかもしれない。だから何か変な事があったら、すぐに僕に言ってくれ。なんでも力になるから」


「は、はい……ありがとうございます」


 お兄さんの真っ直ぐな瞳を直視出来なくて、私は逃げるように頭を下げた。込み上げてくる、心を抉られるような感覚に、どうしても耐えられなかった。


「それじゃあまたね。スノウちゃん」


 馬車の音が遠くなっていく。それが完全に聞こえなくなった頃に、ようやく動くようになった手足に力を込めて、お店の表へと回る。


 もし、もし私に、心配して貰う権利はないと叫ぶ勇気があったなら、泣き崩れて懺悔するのだろうか。


 でも、実際にはそんな勇気はなくて、ただ運ばれてくる毎日を過ごす事しか出来ない。


 重い足取りでようやく辿り着いたお店の表。その扉にかけてある板をひっくり返し、花屋『アルストロメリア』の扉を開く。


 全てを飲み込める程器用ではないけれど、このお店にいる間だけは、私はきっと笑顔で居られるだろう。


 古都シュトールにある、私の花屋『アルストロメリア』。こんな事を自分で言うのもどうかと思うけれど、人通りの多い所にある訳ではないし、ましてや、特別品揃えが多い訳でもない。


 でも、ありがたい事にこんな所で花を買ってくれる人が居て、少しずつ常連さんも増えて来ている。それが嬉しくて、少し後ろめたい。


「花を頼む」


「いつもの、ですね。かしこまりました」


 今日最初のお客さんは、常連さんの一人で、がっしりとした体格の、噂によるととても偉いらしい帝国軍の軍人さんだった。


 お世辞にも穏やかとは言えない程目つきは鋭くて、無愛想に見えるけれど、奥さんをとても大切にしている、優しい人だ。


 軍人さんはいつも、仕事に行く前に、ここでシオンの花を一本買っていく。なんでも、戦争で亡くなられた友人に供えるのだそうだ。


 ここに初めていらっしゃった時に、死んだ友人に供える花はないかと聞かれて、追憶の花言葉を持つシオンを勧めた日の事を思い出す。


 その時に、君は思いやりがあって、賢い子なのだな。と、言われた事は今でも嬉しくてたまらない。


「こちらになります」


「ありがとう。それと、君に頼みがあるのだが良いだろうか」


「なんでしょうか?」


「急ですまないのだが、桃色のカーネーションを十一本束にしておいてくれないだろうか。仕事の終わりに取りに伺いたい」


 それを聞いて、少し心が明るくなった。桃色のカーネーションの花言葉は感謝、十一本の花束に込められた意味はあなたは私の最愛の人、という事なのだ。今それを言うのは、きっと職場に持っていくには気恥ずかしいものなのだからだろう。


「かしこまりました。確かにご用意させて頂きます」


「無茶を言ってすまない。それではな」


「ありがとうございました」


 そう言って店を出て行った軍人さんの背中はとても大きくて、いつか目指してみたいと思った。


「おいっす、スノウちゃん。今日も可憐だねぇ」


 それから時間が経って、次にいらっしゃったのは、また常連さんの一人の、顔に濃い髭を生やした、少し背の高いおじさんだった。


「えっ……と、ありがとうございます。今日はどんな花をお求めですか?」


「バラ。赤いバラの花束で」


「かしこまりました」


 おじさんが注文したのは、赤いバラの花束。女の人に目がないこの人の事だから、きっとまた告白でもしに行くのだろう。


「にしても、いくつか花屋を回ったけど、やっぱりここが一番だ。何しろ、優しくて一生懸命で、可愛いスノウちゃんが居るからな」


「お世辞でもそう言って頂けると、嬉しいです」


 カウンターに肘をついて、おじさんはそう言って笑った。女性を口説く為の話術の一つかもしれないけれど、褒められるのは悪い気がしない。


「いやいや、お世辞じゃあないぜ? ここに来る時はそういうのは抜いてる。本当だ」


 顔が熱くなっているような気がした。今鏡をみたら、自分の顔とリンゴの見分けがつかないくらい紅くなっているかもしれない。


「どうぞ、こちらです」


「おう、ありがとさん。ったく、花しか名産がねぇって言うならよ、王族のアンポンタンどもは『アルストロメリア』みたいな花屋をもっと応援してやれってんだ。そんな体たらくだから帝国との戦に負けるんだっての。ほんじゃ、またな」


 そう言って出て行ったおじさんの背中は自由で、少しだけ羨ましかった。


「お姉ちゃーん!」


「こら! ちゃんとこんにちはしなさい! ほら、こんにちは」


「こんにちは!」


「こんにちは」


 次にいらっしゃったのもまた、常連さんの一人の、小さな女の子を連れた、お姉さんだった。


「ごめんね、スノウちゃん」


「そんな事ないですよ。元気いっぱいで、良い事だと思います」


「そう? ありがとっ!」


 そう言ってウィンクしたお姉さんは、少し子供ぽくって、可愛らしかった。


「今日はどういった花をお求めですか?」


「うーん……なんかさ、家族とか、愛とか、そういう花言葉を持った花って、無いかな?」


「それでしたら……良い家族、や家族愛の花言葉を持つサルビアなんてどうでしょうか」


「良い言葉! 決まり、それをちょうだい!」


「ありがとうございます」


 燃えるような赤色のサルビアを、丁寧に花束にしていく。この花を見ていると、さっきのお姉さんと、女の子の笑顔を思い出して、自然に笑顔が浮かんできた。


「どうぞ」


「ありがとう! またくるからね!」


「またねー!」


 女の子が精一杯手を振って、お店を出ていった。その姿は純粋で、自分というものに後ろ暗さを感じた。


「……スノードロップを一本」


「……っ! かしこまり……ました」


 そんな時、次にいらっしゃったお客さんは、見覚えない男の人だった。裾の長いコートにその身を包み、深く被った帽子の所為で、その表情は読み取れない。そして何より、注文した花はスノードロップ。それが私の心を強く揺さぶった。


 震える手でスノードロップを一輪掴み、包装する。これがそうではない事を祈りながら、お客さんに手渡す。


「……今夜だ」


「…………」


 花一輪には多過ぎるお金と白い封筒、それに聞きたくもなかった短い言葉を残して、男の人は去って行った。


 乱雑に扉が閉められた瞬間に、目の前がグラグラと揺れ、全身から力が抜ける。支えを無くした私は、カウンターにぐったりともたれかかった。


 これは、このスノードロップの売買は、仕事の合図なのだ。花屋としての、ではない。


 ——死の花、と呼ばれている暗殺者としての、だ。


 ————


 ——戦争というものが、私から全てを奪い取った。もう親の顔も、名前すらも思い出せない。


 残ったのは、私を拾った裏社会の組織、アウトリュコスに骨の髄まで叩き込まれた暗殺術と、白の髪と黄緑の目が死を象徴する花、スノードロップに似ているからと言って名付けられた、スノウ・ドロップという暗殺者としての名前だけだった。


 表の顔としてやっていたこの花屋も、最初は真面目にやる気など微塵も無かった。何をやっても、所詮私は薄汚れた暗殺者なのだと、諦めていたから。


 でもそんな時、長く続いた王国と帝国の戦争が終わった。どちらが勝ったかなんてどうでも良かった。ようやく、暗殺者として自分の役割が終わりを迎えたのだと、年甲斐も無く喜んだ。


 今までやった事もなかった花の勉強をして、きちんとお店の名前を決めて、一生懸命に花屋を続けた。私に残された表の世界で生きる為の唯一の道。それが歩けるようになった事が、どれだけ嬉しかった事か。


 けれどそれも、スノードロップと引き換えに渡された、白い封筒を開いた時に終わりを告げる。


 暗殺の指令書。それが封筒の中身だった。結局の所、私は組織の道具のままで、今まで通りいいように使われる人生しかなかった。


 組織に逆らう勇気も無いままに、私は人を殺した。殺し続けた。舞い散る血飛沫が嫌でたまらなくて、苦しそうに倒れた人に謝りたくて、カンパニュラの花を一輪添えた。


 死の花という名前が、都に広まった後もそれは変わらない。きっと一生、誰にも心配して貰う価値なんてない、暗殺者として生きていくしかないのだろう。


 それでももし、夢が叶うのなら私は——


 ————


「大丈夫か?」


 はっ、と誰かの声で我に返った。声の方を見れば、軍人さんが心配そうにこちらの顔を見ていた。


 どうやらそのまま気を失っていたらしい。店の窓から差し込んでいた茜色の夕日が、どれくらいの時間が経ったのかを教えてくれていた。


 未だに視界はグラついていたが、花屋としての自分を総動員して、なんとか立ち上がる。


「すみません……大丈夫です。花束、まだ用意出来てなくて……今から用意します」


 それだけ言って、カーネーションの花を搔き集めるように包装する。自分は今どんな表情を浮かべているのか、それを考えるのも恐ろしかった。


「きちんと休んでいるか? もし、身体に不調があるならば、一度休みをとった方が良い。ここの客は皆、君に元気で居て欲しいと願っているからな」


 アウトリュコス以外は。なんて、心の何処かで思った自分を殴る元気すら残されてはいなかった。私に出来たのは、カウンター越しに、自分を心配する言葉をかけてけれた軍人さんに向かって、無理に笑って頷く事だけだった。


「……どうぞ」


「ありがとう。君に倣って、花言葉を勉強しているのだが、これは中々に面白いものだな。今度、是非話を聞かせて欲しいのだが、良いだろうか?」


「……喜んで」


「……それではな」


 きっと自分を気遣って、そんな話題を振ってくれたのだろう。でも、そんな軍人さんの顔を見るのが辛くて、目を合わせる事さえしなかった。遠ざかっていくその大きな背中を見ながら、心の中で、ごめんなさい、と何度も謝る。


 そして、最後のお客さんだった軍人さんがお店を出た時、花屋としての私は終わる。代わりに今日これからは暗殺者としての、私が始まる。


 夜に紛れ、ただの一振りで心臓を抉り出す。今日の仕事もこれで終わった。何度も心の中で謝りながら、カンパニュラの花を一輪添えて、お店に戻る。


 血に濡れた凶器を手に、お店で立ち尽くした。分かっていた、分かっていたんだ。本当は花屋の私なんて存在しない。これが私の全てなんだって。


 こうしていつまでも、私は仮初めの自分を作って、花屋のカウンターに立ち、花屋のスノウを演じきる。そして、仕事の依頼が来れば、本当の私に戻って人を殺す。それを続けるだけの人生だ。


 そんな事を何回も何回も繰り返して、今日もカウンターに立った。ここにいる時だけは、きっと私は私を捨てられる。花屋のスノウで居られるのだと思って。


 何もかもに疲れて、ぼんやりと店の外を眺めていた時に、誰かが花屋の扉を開けた。


「……おう、スノウちゃん」


 おじさんだった。いつもの陽気な雰囲気は何処かへ飛んでいってしまっていて、ひどく沈んだ表情をしていた。


「大丈夫……ですか? 何かあったんじゃ……」


「シオン。シオンの花束をくれないか? 地味な包装で構わない」


「シオン……!」


 それがどういう事か、すぐに分かった。どうして、おじさんがこんなにも辛そうにしているのか、を。


「あの軍人の野郎に聞いた。これは死者に贈る花なんだってな。俺の古い、悪友に贈ってやりたいんだ」


「……どうしてその方は、亡くなられたんですか」


 おじさんの表情が少しだけ動いた。すぐにこれが失言だった事に気付いて、咄嗟に口を押さえた。


「良いんだ、構わない。心配してくれたんだろ?」


「……すみません」


「頭を上げてくれ。スノウちゃんは何も悪くない」


 おじさんはそう言ってくれたが、心の中は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「死んだのは俺の古い悪友だ。今巷で噂になってる死の花、あれにやられた」

「えっ……!?」


 全身を雷に打たれたようだった。心臓を直に掴まれたみたいに苦しくて、汗が滝のように背中を伝う。


「あの馬鹿、さっさと縁を切れって何度も言い聞かせたのに、まだ裏社会なんてもんと繋がってやがった。それで昨夜にやられちまったのさ。お調子者だったが、根は優しい奴だった。だから俺は、これをあいつに贈ってやりたい」


「分かり……ました」


「恩に着る」


 自分を必死に引きずって言葉を紡ぐ。それ以上は言うべき言葉が見つからなくて、ほとんど何も言う事も無いままにシオンの花束をおじさんに渡した。


「……どうぞ」


「……ありがとう。またな」


 元気の無いおじさんの背が、私の心をメッタ刺しにするようだった。けれど、そんな事は関係無いと言わんばかりに、今日もスノードロップが一輪、封筒と報酬を残してお店から消えた。


 ——そんな事があっても、私は花屋のスノウという人間を殺して、人を殺める。こんなに胸が痛くて、もう二度と殺しなんてしたくない思っていても、弱い私に出来る事は、仕事の依頼が来ないように祈る事だけだった。


 すっかり明かりの落ちた街を慌ただしく動き回る帝国兵の目を掻い潜り、標的の住む家に難なく侵入を果たす。


 小さめテーブルや椅子、何かの花や本棚などがうっすらと見える居間を抜けて、奥の扉に耳を当てる。


 中からは、二人の人間が静かに寝息を立てている音が聞こえる。呼吸の音からして、おそらくは大人一人と子供一人、だろうか。


 仕事はこの家にいる人間を皆殺しにすること。幸いにも、この家にはこれ以上人の居る気配が無い。


 音を立てないように、ゆっくりと扉を開け、中の状況を素早く把握する。部屋の中にあったのはベッドだけで、その上ではすうすうと寝息立てている人間が二人。


 素早くその側に忍び寄り、大人の方に向かって凶器を振り下ろす。急所を抉って仕留めたならば、騒がれる前に子供も仕留める。


 ——その時、だった。偶然だったのか、それともそうではなかったのか。それは分からない。けれど、雲が晴れて、月光が家の中に差し込み、寝ている二人の顔を照らした。


 ナイフが刺さる直前に、私の手が止まる。その人達は、お姉さんと女の子だった。何度もお店に来てもらって、楽しい思い出をくれた人だ。見間違える筈がない。


「あ……あ……!」


 何かに導かれるように、私は今自分が入ってきた扉の方を向いた。月光は居間をも明るく照らし出し、そこにあったサルビアが、燃えるように咲き誇っている。


 ——それでも、殺せ、殺せと、指令の声が頭の中に木霊する。震えながらも、手は勝手に仕事を終わらせようと動き始めていた。


 いくら駄目だと言って自分を止めようとしても、身体が言う事を聞いてくれない。


 今にもナイフを振り下ろそうとした時、私は頭の中に響く声が増えている事に気付いた。


 お兄さんが言ってくれた言葉、軍人さんが言ってくれた言葉、おじさんの元気の無い背中、それぞれが走馬灯にみたいに目の前を駆け巡って、一緒に止めようとしてくれている。


「スノウ……ちゃん……?」


 そして最後は、いつのまにか薄く目を開けていた、お姉さんの言葉が私の手を止めてくれた。


 ふうっ、と花屋のスノウとしての自分が帰って来たのが分かる。それと同時に、お姉さんが完全に目を覚ます前に、ここを飛び出した。


 怖かった。もし冷たい目で見られたらと思うと、身体が勝手に動いていた。屋根伝いに花屋まで戻って、自分の部屋の扉にもたれかかる。


 そうしたら、涙が止まらなくなった。わんわんと、声を出して泣いた。自分が情けなくてたまらない。正直に全てを話す事も出来ずに、逃げ帰って来てしまった。


 それからいくら泣いただろう。もう分からない。分からないけれど、涙も枯れた頃に、自分は暗殺者のスノウ・ドロップなんかじゃなくて、花屋のスノウ・ドロップだったんだって事だけは分かった。


 お客さんを裏切らない、裏切りたくない、もう二度と、絶対に。


 そう思ったら、自然に身体が動いていた。今度は恐ろしいからじゃない。自分のして来た事の全てを打ち明ける為に、私は歩き出していた。


 廊下を抜けて、お店の中に出る。花の並んでいる棚を抜けて、扉に手をかけようとした。


 コンコン、と誰かその扉をノックした。気のせいだとも思ったが、もう一度その音が聞こえて、それが気のせいじゃないのだと分かった。


「はい——えっ……!」


 扉を開けると、そこに立っていたのは軍人さんだった。まだお店を開ける時間には程遠い。それを軍人さんが知らない筈はない。


「少し、君と話がしたい。時間を貰えるだろうか」


 軍人さんは、いつもみたいな鋭い目で、私の目を真っ直ぐに見た。何故かは分からないけど、断ってはならないような気がして、首を縦に振った。


「何の……話ですか?」


「昨夜、王国の裏組織、アウトリュコスが壊滅した」


「嘘……!! ……あ」


 軍人さんの話に、思わず大きな声を出してしまった。それくらい信じられなくて、奇跡みたいな事だった。でも、すぐにそれを私に言う理由に辿り着いて、少し震えた。


 誰が見ても分かるくらい動揺していたと思うけれど、軍人さんは何も見ていないかのように話を続けた。


「残党達を取り調べた所によると、どうやらスノードロップと呼ばれる暗殺者を使って、対抗組織の人間や、裏社会の反対派の人間を始末していたらしい」


 もう一度、肩が震えた。でも、今の私なら進める。

もう怖気づく事なんてない。花屋のスノウを、こんな何も出来ない子供を好いてくれた人を裏切る事なんて出来ない。


「わ、私が——」


「——アルストロメリア」


「えっ?」


 私の言葉を遮って、軍人さんは突然にそう言った。


「花言葉は確か、未来への憧れ。そうだったな?」


 返事する代わりに、首を縦に振った。


「私が偶然ここに立ち寄ったあの日。長年の戦で、供養すらしてやれなかった友人に贈る花を君が選んでくれたあの日に、私はアルストロメリアの花言葉を知った。そして、亡き友人の面影を見た君の、瞳の中にあった苦しみを取り除いてあげたい、そう思った」


 何を言われているかが分かって、自分の耳を疑った。


「仲買の青年に聞いた。君がスノードロップを好いているとは思えないのに、仕入れ続けている事を。バラ好きの壮丁に聞いた。毎回毎回、スノードロップを一本だけ買っていく、奇妙な人間がいると」


 淡々と話す軍人さんの言葉の全てが、信じられなかった。


「奴らは慎重だ。中々尻尾を出さなかった。けれど昨日、ようやくこの店から出ていった男の後をつけて、奴らのアジトを叩く事に成功したんだ。情けない事に、随分と時間がかかってしまった」


「でも、でも私はたくさんの人を、おじさんの友達だって! 昨日の夜は、女の子とお姉さんを——!!」


 思わず叫んでしまった。軍人さんが私の為にアウトリュコスと戦ってくれた事は、痛い程よく分かった。でもだからといって、私の罪が消えるわけじゃない。昨日だって、あろうことか、ずっと励ましてきてくれたお姉さんを手にかけようとしたのだから。


「——手にかけてはいない筈だ。さっき、いつも子供連れで来ている女性から、君の事を頼むと強く請われたからな」


「…………」


 驚くあまりに、口を開いたまま言葉も出せなかった。


「君はきっと、自分の事が許せないのだと思う。でも私はずっと、君の誠実さに救われて来た。私だけじゃない。仲買の青年も、バラ好きの壮丁も、子供連れの女性も、どんな形であれ、皆君に救われて来たんだ」


 いつも無愛想で、笑っている所を見た事が無かった軍人さんが、少し恥ずかしそうに笑っていた。その笑顔が眩しくて、暖かくて、枯れたと思っていた涙が溢れて止まらなくなった。


「もし君が、それでも自分を許せないというならば、私の所に来るといい。だがもしも、花屋を続けてくれるのならば……私はまた、ここに花を買いに来てもいいだろうか?」


「はい……はいっ……! 喜んで……!!」


 身勝手な願いなのは分かっている。でも、それでも私は、ここで花屋が続けたい。それが贖罪になるなんて思わないけれど、気づいたらそう答えていた。


「……ありがとう、スノウ。また後でシオンの花を買いに来る」


 いつものように大きい背中を見せて、軍人さんは扉の前に立ち、ノブに手を掛ける。


「そういえば、君はスノードロップの花言葉をきちんと知っているか?」


 その時、軍人さんはふっと思い出したかのように、私に問いかけた。そんな事を聞かれるとは思ってなくて、思わず正直に答えてしまった。


「いいえ……知りません。私はこの花の事が嫌いで……そんな気にはなれなくて」


「この花には、君も知っているように死にまつわる花言葉もあるが、希望、という花言葉もある。君の未来に、それがあるように祈っているよ——それではな」


 さっきの優しい笑顔を見せてから、軍人さんはお店を出ていった。今までこの花の事も、自分の事も憎んで生きてきた。でも、これからはこの花の事も、もしかしたら自分の事も好きになれるかもしれない。


「おーい! スノウちゃん!」


 いつのまにか、お兄さんが花を卸してくれる時間になっていたらしい。私はいつになく軽くなった心と身体で、裏手の扉を開いた。


 ——ここは古き都シュトール。どんな花をも育てる豊かな土壌を持つこの都には、一人の少女が営む、多くの客に愛された花屋があるという。

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