第5話 なんだかよくわからないけど、これは普通に明日がくる普通の夜。
都子さんは、今夜のうちに町を出なければならないのだという。
「そのうちこうなるの、わかってたの。それで、この部屋にしていたようなものだからね」
このマンションの二階は、私と都子さんの部屋を境目に、賃貸の部屋とウィークリーマンションに区分けされていた。つまり同じ階だけれど都子さんの部屋からあちらの並びは、ウィークリーマンションとして使われている区域で、住人がよく入れ替わる。
「なのでサハラさん、ついでのお願いみたいで申し訳ないけれど、これからすぐに部屋を出るわ。
それでね、次の町が決まったらこちらを届けてほしいの」
見れば、もう荷物がまとまっている。スーツケースひとつきり。
これまで普通に町内で過ごしていたのに、本当は落ち着いた生活ではなかったことが見て取れて、都子さんが吸血鬼だったとかそんなことどうでもよく、今日一日でこの荷物のことが一番心に重かった。
「承りました」
「斎藤さん、いろいろありがとう。ここ数年は穏やかに過ごせていたわ。楽しかった」
「都子さん、こちらこそ慣れない一人暮らしのところ、お世話になりました」
握手をしたあとに、都子さんもコウモリの姿に変わった。
「お元気で」
あまりにもあっけなく、ベランダからのお別れとなった。
町の明かりと暗がりの中に、都子さんは紛れて見えなくなった。
*
「大丈夫ですか」
私の涙が止まらないので、サハラさんが帰りづらそうだ。
「気持ちの整理がつかなくて」
そうだ、シュークリームとエクレアがあった。
「甘いものでも食べます」
「そうしてください」
昨日、部屋を片付けたばかりでよかった。
でも、心配して来てくれたけれど、何を話せばいいんだろう。
「ひとりで食べててごめんなさい」
「いいえ、そこは気になさらないで」
「サハラさんも、普段は血液製剤を?」
「配達をしているので、おかげさまで入手しづらいことがありません」
「そうですか。今日のような配達、利用している方は、多いんですか」
「それはそうですよ。怖がられたり、嫌われたりしたくないじゃないですか。そばにいる人に」
へんなことを聞いてしまった。
そのせいで妙な間ができてしまった。
「都子さんを助けてくださって、ありがとうございます」
そんな。
「だって、私ほんとうにお世話になってたんですから」
「退魔組織が当面うろつくと思いますが、『知らない』、そういうことにしてください。事情を知らないただの隣人であれば、基本、あの方々は人間に害を及ぼすようなことはしません。
幸い、僕はほとんど毎日お目にかかりますし、万が一何かあれば、知らせてください」
「サハラさんには、危険なことはないんですか」
「血液製剤を運び、人間への害を避ける行動を推進しているということで、僕のような存在はグレーゾーンです」
今日は、いろんなことを知ってしまったものだわ。
「え、続けてエクレアも食べてしまうんですか」
「食べ過ぎと思います?」
「スミダガワさんのケーキは誰も食べ過ぎてしまいがちです」
「いやでも、あんなことの後ですし、今日、実はお店でもいろいろあって」
「それはお疲れ様でした」
それにしても、いつまでサハラさんいてくれるのかな。時間、長くならないようにしなきゃいろいろ悪いな。
「こんなときに、いっしょにいてくださって助かりました。サハラさん。明日また、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ひとつ、気になることがあった。
「さっきから顔赤いんですけど、どうかしました?」
「あの、」
言葉を詰まらせた。
「斎藤さんおっしゃったじゃないですか」
「なんでした?」
「……可愛い、って」
え。
「おかげで調子が狂って、いつもの姿に戻ってしまったんですから。隠すつもりだったのに」
言いましたけどさ。
あの愛想のないサハラさん、コウモリの姿を褒められたことの、なにがそんなに嬉しかったのか。コウモリになったことがないただの人間なので私にはわからない。
毎日毎日顔を合わせているのに、わからないことが山ほどあることを思い知らされたこの夜、申し訳ないんだけれどこの話はここでおしまいです。私もサハラさんも、明日になればいつもの時間にまた会います。それからのことは、それからのことです。
ではまた明日。
ベーカリーすみだがわのケーキ五種は、午前中に配達される。 倉沢トモエ @kisaragi_01
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