後編 気持ちは色褪せない



 私は久しぶりにあのラブレターを引っ張り出した。今でも箱に入れて大切に保管してある。三十三通の私への想いが詰まった手紙。


 どれも内容は短いけれど、これを書いてくれた人が心を込めて書いてくれたのだと思うと、切なくなる。


『先生、髪を切ったんですね。短いのもとても似合っていて私は大好きです』


『先生の授業はいつも私にとっては特別な、大切な時間です』


『いつか先生ともっとたくさんお話したいです。先生の優しい笑顔を見ていたい』


 自分の気持ちを一生懸命に伝えようとしてくれた彼女はどうしているのだろう。


 日野ひのさんかもしれないし、違うかもしれない。


 手紙に浸っているとチャットアプリに着信がある。


 確認すると年末の忘年会の場所が決まったという、別に嬉しくもないお知らせだった。 

  

 私は一つ一つ手紙をしまってリビングのテーブルの片隅に置いておいた。また後でじっくり読み返そう。

 

 

 教師にも忘年会というものはある。必ず出席しなければいけないわけではないので、参加しない人もいる。


 ただでさえ残業が多い仕事なのに、忘年会なんて出たくない人が大半に違いない。だが慣習となっているので、誰もめようなどとは言い出さない。


 私は独身で子供もいなかったし、何となく顔を出していた。


 今日は市内の駅から歩いて五分ほどの場所にあるお店で、忘年会が開かれることになった。


 店内には同じように忘年会らしき集まりが散見される。


 教師たちの集まりだからと言っても、一般的な飲み会と取り立てて変わることはない。


 気心の知れた友だちと飲んでいるわけじゃないし、楽しいのは年配の一部の教員だけである。


 酔った校長の古臭い教育論が酒の肴になるはずもなく、私は適当に聞き流しながらビールを飲む。


 隣りでは新米教師がつまらなそうにしている。


 私だって早く帰りたい。


 適当なところで席を立ってお手洗いに行く。ようやくそこで一息つけた。


 来年からは無難な言い訳でも見繕って、不参加にしたい。


 用を済まして手を洗っていると、後ろの出入り口の扉が開く音がする。


 顔を上げて鏡越しに見ると、そこには見覚えのある姿が映っていた。


「日野さんっ」


 振り返って思わず、大きな声が出てしまう。


「えっ、あっ! 先生!」


 私に気づいた彼女も驚いたように目を見開く。そういえば歯医者からここの飲み屋は比較的近い位置にあることを思い出す。


「歯医者の次は飲み屋でばったり会うなんて、奇遇ね。私たち」


「本当ですね。先生がいらしてるなんて気づきませんでした。先生も飲みに来るんですね。お酒好きなんですか?」


「お酒は嫌いじゃないけど飲み会はね⋯⋯。今日は忘年会で仕方なく」


「学校の先生も忘年会するんですね」


「そう。残念ながらね」


「残念、なんですか?」


「職場の飲み会なんて、余程仲良くなければそんなものじゃない? 疲れたからトイレに逃げて来た所」


「先生も大変なんですね」


「まぁね。日野さんも忘年会?」


「はい。職場の。私も逃げ場を探してました」


「日野さんも?」


「私もお酒はそうでもないんですけど、立場的に気を遣われることが多いので、飲み会は少し窮屈です。伯母は飲み代だけ出して、お酒の席には顔を出さないので、返って気を遣われて⋯⋯」


 日野さんは自身の伯母が経営している歯医者で働いている。身内の元で働いていると、それはそれで苦労があるのだろう。


「お互い抜け出せたらいいのにね」


 私はほんの軽い気持ちで口にした。


 だけど日野さんは違ったようで、懇願するような眼差しで見つめている。


「なら、先生⋯⋯。抜け出しちゃいませんか? 私は具合が悪くなったことにして、先生は元教え子が体調を崩しているのを偶然見つけてしまったことにすれば、何とかなりそうじゃないですか?」


 提案されて、私もそれなら行けるかもしれないなどと思ってしまった。


「いいかもね」


 きっと酔っていたから、あっさり乗ってしまった。このまま日野さんと逃げてしまえばいいと思った。


 私はその案の通りに、たまたま具合が悪くなった教え子と再会してしまい、放ってはおけないからと抜け出してきた。


 みんな特に疑問に思うこともなく、それなら仕方ないという流れになった。


 日野さんは日野さんで飲みすぎて気分が悪くなったことにして、抜け出した。


 こうして私たちはそれぞれの飲み会から脱して、年末の寒空の元に逃れることができた。


「何だか予想外に開放感がすごい」


「私もです、先生」  

 

 罪悪感もなくはないけれど、私が抜けたところで誰も困らない。


「先生、これからどうしますか? 良ければ一緒に飲みませんか?」


「日野さんがそうしたいなら、是非。でも外で飲んでて見つかったら、あんまりよろしくないよね。どこか隠れ家的なお店があればいいけど⋯⋯」


 あいにく私はそんなに飲みに出ないので詳しくはない。


「宅飲み、とかどうですか、先生」


「宅飲みね。家ならお互いの職場の人間に見つからなくて済むものね。家に来る?」


 やはりこの時の私は酔が回っていた。うっかり日野さんを家に誘ってしまった。 

       

 日野さんは黙って頷く。


 これで行き先は決まった。


 私たちは駅前のコンビニで軽く飲めるお酒とおつまみを買って、タクシーに乗った。二人で、私のマンションまでやって来る。


「あんま片付いてないかもしんないけど、どうぞ」


 私は玄関を開ける。


「先生の家に来るなんて初めてです。おじゃまします」


 飲む場所はリビングしかないので、私はテーブルやソファに乗っていた新聞や雑誌を片付ける。


「その辺に適当に座って」


 私は隣りの和室の押し入れから座布団を持って来て日野さんに渡す。


「ありがとうございます。お気遣いなく」


「せっかくだから、ここは無礼講で楽しく飲もう」


「はい」


 私は買ったお酒やおつまみをテーブルに並べる。


 グラスにお酒を注いで、二人で乾杯した。


「先生とお酒を飲むなんて、すごく不思議な感じがします」


「確かに。教え子とお酒飲むのは始めてかも」


「それじゃ、私が先生と飲む教え子第一号ですね」


「そう! 第一号」


 すでにお酒が入っていたこともあり、私はかなり気分がよかった。日野さんも楽しそうにお酒を飲む。


 私たちは日々のちょっとした出来事や、世間を騒がせているニュース、趣味について、仕事の愚痴。


 そんな取り留めもない話を積み重ねた。


 どうでもいいような話で笑ったり、怒ったり、呆れたり。


 教師と元生徒という関係も曖昧になってゆく。


 それはとても心地よく、楽しくもあった。


 気づけばお酒もおつまみも空になる。


「日野さん、明日は仕事あるの?」


「土曜日なので午前中だけですけど」 


「私は午後から学校に行かなきゃいけないし、そろそろお開きにしようか」


「そうですね」


 どことなく日野さんが寂しそうに目を伏せる。


「片付けるの手伝いますね。台所に持って行けばいいですか?」


 しかしその表情はすぐに消えて、テキパキとテーブルの缶や皿をまとめ始めたので、私も片付ける。


 日野さんが皿を持って立ち上がった時だった。


 テーブルの隅に置かれていた箱が足に触れたのか、落ちた。  

  

 その箱はラブレターが入った箱だった。 


「先生ごめんなさい。これ」


 日野さんは慌てて落ちた箱と散らばった手紙を拾おうとする。


「大丈夫、気にしないで」


 私は箱が落ちたところまで急いで行くが、日野さんは手紙を拾いあげじっと見ていた。


 彼女の目にそれが触れてしまった。


「先生⋯⋯、これ」


 俯いているせいで今、日野さんがどんな顔をしているか、私からは見えない。


 もし彼女が書いたものなら、どんな反応をするのか。別人ならただの手紙の束でしかない。


「手紙よ。もう十年近く前かな。生徒からもらったものなの。懐かしくなって、たまに見返すの」


「⋯⋯⋯そんな昔のものも、大事にしてるんですね」


「ええ。生徒からもらった手紙や年賀状は全部捨てずに取ってある。どれも私には大切なもの。その手紙はね、その中でも一番大切なもの」


 私も散らばった手紙を拾い集める。


「⋯⋯⋯⋯これが一番、なんですか? どうして?」


「さあ、どうしてかしら。すごく想いがこもっているからかな。それを書いてくれた人が、大事に大事に私に贈ってくれたものだから。今までにもらったことのない気持ちがそれには込められているせいかな」


「先生はその手紙もらって、嬉しかったですか?」


「この手紙、最初に受け取った時は正直戸惑った。でも私のことを大事に想ってくれてることが分かる手紙だったから、嬉しかったよ。毎月送ってくれたんだけどね、楽しみだった」


 日野さんは拾った手紙をまとめると、一番上に乗っていた白い封筒を取り上げた。


 それは最初にもらった手紙だった。


 三十三通の始まりの手紙。


「先生っ⋯⋯、先生⋯⋯」 


 日野さんは瞳から涙を溢れさせ、私に飛びついてきた。突然のことにひっくり返りそうになりながら、受け止める。


「日野さん、どうしたの?」


「⋯⋯⋯先生」


 しゃくり上げ、ただ泣く彼女を私は抱きしめた。


「日野さんだったのね、この手紙」


 泣いていて上手く返事ができないのか、日野さんは何度も頷く。


 きっと送り主は彼女なんじゃないかとは思っていたけれど、実際にそうだと分かると感慨深くもあり、今までの様子に納得行くものがある。


 私は彼女が落ち着くまで、宥めながら待った。


「⋯⋯先生、ごめんなさい」


「どうして謝るの? 謝ることはされてないけど」


「でも、⋯⋯⋯⋯手紙。先生は優しいから⋯⋯⋯、受け取ってくれたけど⋯⋯⋯、本当は、迷惑だと思われてたんじゃないかってずっと思ってて」


「私のことを大好きでいてくれたんだもの。迷惑なんて思うわけないでしょ」


「先生⋯⋯」


 潤んだ瞳で見上げる彼女に、私は今まで胸の奥に燻っていた愛おしさが流れ出そうになっているのを感じる。


「ありがとう、私を好きなってくれて」


 だけど日野さんは首を振る。


「お願いです、それ以上は何も言わないでください。先生への好きって気持ちを、卒業式の時に私は捨てたんです。そのつもりでした。でも、先生と再会した時に、その気持ちを捨てられてなかったって気づいたんです。このままだと、一生捨てられません」


「それは捨てる必要があるの?」


 日野さんはとても意外なことを言われたと言いそうな驚きのまなこで私を見ている。


「どうせ捨ててしまうつもりなら、私に渡してくれない? この手紙みたいに」


 私は日野さんが掴んだままの白い手紙を取り上げた。


「最初に書いた手紙の言葉、日野さんは覚えてる?」


「覚えてます。忘れたりなんてしません。私の気持ちですから」


「あの時と今も気持ちが変わらないなら、今度は直接私に伝えて欲しいな」


「先生⋯⋯」


 日野さんはまた目に涙をためて、それを拭うと大きく深呼吸した。


「私は亜友美あゆみ先生のことが好きです」


「私も同じ気持ち。日野さんのことが好きだよ」


 ラブレターは形を変えて、時を越えて、

私の胸に再び届いた。

 

 

 



「先生は何をお願いするんですか?」


「こら、なぎさ。その呼び方は改めなさいって言ったよね?」


「ごめんなさい、亜友美さん。つい癖で」


 私たちは長閑な日差しに照らされながら、並んで歩いていた。家の近所の神社に初詣へ出かけるためである。


 同じように初詣目的らしき人をぽつりぽつりと見かける。


「先生って呼んでいた時間の方が長いから仕方なくないですか?」


「それは分かるけど、その呼び方されると悪いことをしてる気になるからだめ」


「亜友美さん、私八年も留年してる覚えないんですけど。もうけっこうな大人なんですけど。高校はとっくの昔に卒業してるの知ってますよね?」


「別になぎさを子供扱いしてるわけじゃなくて、倫理的に道徳的に色々考えちゃうことがあって」


「亜友美さんって真面目ですよね」


 なぎさは面白がってるのか笑う。


「不真面目よりはいいでしょ」 


 教え子と結婚した教師というのは聞いたことはある。だが、現実に自分が教え子と付き合うというのは当然ながら始めてであり、自分の選択に間違いはないのかと考えてしまうこともある。


 なぎさはすでに大人ではあるが、教え子だった事実がなくなるわけではない。


「亜友美さん、もしかして後悔してますか。私のこと」


「まさか。私いいのかなって自問自答しなくはないけど、後悔はしてないよ。なぎさといるのは幸せだからね」


「⋯⋯っ、先生ずるいっ。もー、そういうところずるいです!」


「なぎさ、呼び方」


「⋯⋯亜友美さんはずるいです。⋯⋯⋯でもそういうところも好きかも」


「ありがとう。なぎさは可愛いね」


 十年近く経って、ラブレターの言葉を受け取ることになるなんて、予想外ではあっけれど、今はとても幸せなのだからそれで良かったと思っている。


 あの手紙は三十三通目で終わったけれど、私たちの恋はこれからも続いていく。             

      

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ラブレター 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko

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