中編 再会
急に歯が痛くなった。
忙しさにかまけて定期通院もかなり昔になる。
以前通っていた歯医者は大規模の区画整理により、かなり離れた場所に移転していた。
市内で良さそうなところをネットで探す。
評判もよく、職場からも家からも通いやすい距離にある歯医者を選んで予約した。
比較的遅くまで開いているのも選んだポイントだった。
大型連休を目前にした週末金曜日。
仕事を終えた私は歯医者に向かっていた。そこは駅からほど近い細い路地の雑居ビルにあった。
エレベーターで三階まで上る。
中に入ると待合室には誰もいなかった。
これなら長く待たずに済みそうである。
「こんばんは。予約をしている
受付に声をかける。
「⋯⋯⋯⋯」
カウンターの向こうに座る女性は何故かまじまじと私を見つめていた。
「あの⋯⋯」
「⋯⋯すみません、紺谷さんですね。初診の方はこちらの問診票に記入をお願いいたします」
渡された問診票を持って待合室のソファに座る。
私が書き込んでいる間も、受付の女性がこちらをじっと見ていた。嫌な感じの目線ではない。どこか落ち着きがなく、そわそわしている。
(新人さんなのかな)
まだ接客に慣れていないのかもしれない。
書き終えた私は再びそれを持って受付へ行く。
「ありがとうございます」
受付の女性はうやうやしく私の問診票を受け取る。こちらをじっと見ている。
その顔に私は記憶の何かが引っかかる。
どこかで会ったことがある気がする。
私の脳裏に、十年近く前にもらったラブレターが浮かんだ。
おとなしそうで穏やかで、でもどこか悟ったような雰囲気の女の子。
「
目の前の女性ははっとしたように私を見つめ返した。
「先生⋯⋯」
「やっぱり、日野さんなのね。久しぶりね」
「⋯⋯お久しぶりです」
以前よりも垢抜けて、すっかり大人の女性になった日野さんがそこにいた。
相変わらずおとなしそうではあるが、品があって安心感がある。
「まさか歯医者で日野さんと再会するなんて思わなかった」
「私も予約の名前を見て、もしかしたら先生かもしれないと思ったんですけど、本当に先生が来て驚きました」
私のことを見つめていたのはそういうことだったのだろう。
「今も元気そうで良かった」
「先生もお変わりなく」
「そうね。ちょっと今は虫歯に困ってるけど」
「うちの先生、実は私の伯母なんですけど、腕はいいので、すぐ良くなりますよ」
「そうなの。日野さんのお墨付きなら安心ね」
こうして教え子に再会できるというのは嬉しいことだ。
生徒たちは卒業後に顔を見せに来る子もいるけれど、すぐに来なくなってしまう。
そうして再会することなくまた新しい生徒たちと出会ってゆく。
同窓会に呼ばれることもあるけれど、時間の都合で参加できないことも多い。
日野さんが実際にラブレターの人かどうかはともかく、私は久しぶりの再会に大いに喜んでいた。
そして診察の結果、私はしばらく通院することになった。
会計時に日野さんが診察券に予約日時を書き込んでくれる。
「歯は定期検診しておかないとだめね。ちゃんと歯磨きしてるつもりだったんだけど。当分通うことになりそうだから、よろしくね日野さん」
「はい。よろしくお願いします。完璧な亜友美先生でもそういうことあるんですね」
「私は全然、完璧なんかじゃないよ」
「そんなことないです。私の知ってる先生はいつだって完璧でした。でも、そうじゃない先生もいいと思います。えっと、次は一ヶ月後ですね」
「ありがとう。また次もよろしくね」
私は歯医者を後にした。
日野さんと会うのは月に一度の通院日だけ。私は遅い時間に行くせいか、待合室に人が少ないこともかなり多い。日野さんの手が空いているときは、他愛もない日常の話をして時間を潰すこともあった。
昔に比べると彼女はとてもよく笑う。
以前より人と話すことが好きなようである。
私も教え子と話せることが嬉しい。
歯医者なんて好きな人は滅多にいないと思うが、日野さんと会えるのが待ち遠しくて、楽しみにすらなっていた。
しかし通院して半年がたった頃、私の治療は終わりを迎える。
「もしまた何かあればお電話してください」
日野さんはどことなく寂しそうに私を見上げる。いつもの笑顔がなかった。
「半年間お世話になりました」
これでひとまずは日野さんと会えなくなる。それは思ったよりも私にとって寂しく感じるものだった。もしかして彼女も私と同じように思っているのではないかと、自惚れそうになる。
「またね」
私は手を振った。日野さんは黙って頭を下げる。
振り返らずにエレベーターホールへと歩いていく。
後ろ髪を引かれるという言葉があるが、今まさにそんな感じだ。
最上階の七階で止まっていたエレベーターがゆっくりと下に降りてくる。
点滅する案内板をぼうっと眺めていたら、こちらへ駆けて来る足音がする。
歯科の出入り口のある方へ顔を向ければ、日野さんの姿があった。
「先生!」
「どうしたの? 私何か忘れ物した?」
「いえ、そうじゃなくて。あの、これ」
日野さんは一枚のチラシを差し出す。
「これ、定期検診について書いてあって、渡すのを忘れていました」
「わざわざありがとう」
私は受け取る。だが日野さんはそこに立ち止まったまま、何か言いたそうに私を見つめたり、目を逸したりする。
「他にも何かあるのかな?」
「いえ⋯⋯」
日野さんは俯く。
エレベーターが三階へ到着して、扉が開いた。
私は乗り込もうとしたが、彼女が気になって前に進めない。
「ねえ、日野さん何か私に伝えたいことがあるみたいだけど、そうなら遠慮せずに言っていいのよ。日野さんとはしばらく会えなくなっちゃうし」
エレベーターはゆっくり扉を閉めると、階下へ降りて行ってしまう。
日野さんは顔を上げると、まだ何か迷っている様子が伺えた。
私は彼女が少しでも話しやすくなれるように微笑む。
「あの、先生⋯⋯。私、久しぶりに先生に会えて、話せてすごく楽しかったんです」
「うん。私も日野さんとお喋りできて楽しかったよ」
「本当ですか?」
「もちろん」
「それで、えっとー⋯、もっと先生と話したいなって思ってて」
「半年あったとは言え、話せるのは月に一回だったもんね。ちょっと物足りなかったよね」
私が言うと日野さんの目がきらりと輝き出す。まるで水を得た魚のように。
「はい。私も何だか物足りなくて、先生とたくさん話せたらいいなって」
「せっかく再会できたんだから、今度はプライベートで思いっきり話すのもいいよね。連絡先交換する?」
健気な日野さんを見て、思わず私はそう口走っていた。
「したい、したいです。先生!」
花が咲くように輝く笑顔を見せる日野さん。
きっと彼女がまだ私の生徒ならこんな選択肢はなかった。特定の生徒と親密になるのは不平等だからだ。大人になった今なら⋯⋯。
こうして、私たちは連絡先を交換して来月食事に行くことになった。
世間はもう師走になっている。
師走の名に相応しく、教師である私も忙しくしていた。
そんな合間に日野さんと食事へ出かけるのは、息抜きにもなるし、純粋に楽しみだった。
大人になった教え子と食事をするなんて、六年前にあった同窓会以来だ。その同窓会だって、何人も教え子たちがいて、二人きりは初めてである。
やはりラブレターをくれた相手かもしれないと思うと、少し特別な気持ちが残っているのは確かだ。送り主が全く別の相手だと、滑稽なことではあるが。
日曜日のお昼頃、私は彼女との待ち合わせ場所である、駅前にいた。予定時間より早く来たのだが、すでに日野さんが待っていた。
歯医者で会った時は制服を着ていたので、私服姿は初めてだったがすぐに分かった。
年相応であるが、控えめな可愛らしさがあり目を引いた。
「日野さーん、待たせてごめんね」
「先生!」
親を見つけた子犬みたいにすぐに私の傍に寄って来る。
(何だろう、デートみたい)
我ながらバカなことを考える。
「今日の先生、いつもよりおしゃれですね。すごくかっこいいです」
私を見渡して日野さんが褒めてくれる。
「ありがとう。日野さんもすごく可愛いよ」
「そ、そうですか? ありがとうございます」
顔を真っ赤にして、恥じらう様は本当に可愛いし、やはり変な勘違いをしそうになる。取り敢えず今はこの時間を楽しもう。余計な気持ちは捨てて。
「それじゃあ、ランチに行きますか」
「はいっ。先生とランチに行けるなんて夢みたいです」
「そこまで言ってもらえるなら、たくさん楽しませないといけないかな」
「お気遣いは無用です。私は先生と話せるだけで、楽しいですから」
真っ直ぐな笑顔を向けられて、私も悪い気がちっともしない。
私たちはこの辺りで評判のカフェレストランへと向った。
そこは小さなお店ではあったが、スープカレーが美味しいと地元では有名だった。
日野さんが行ってみたいというので、ここを選んだ。
中庭に面した窓際の席に通される。窓の向こうには透き通る青空が広がっている。
「私、前からここに来てみたくて⋯⋯。でもまさか先生と来られるなんて思ってもみませんでした。十年前の私がこうして先生とランチするなんて知ったら、驚くと思います」
「そうね。私も日野さんと一緒にでかけるなんて、十年前は想像もしてなかった」
私たちは同じスープカレーを頼んで、その美味しさを堪能する。食も進むし、話も進む。
「先生は他の元生徒とも会ったりしてるんですか?」
「滅多にないかな。同窓会くらいで。前に駅で教え子に声をかけられたことがあったけど、意外と会わないものよ」
「先生、他の人ともよく出かけてるのかなって思ってました」
「あなただから特別なんだよ。ラブレターをくれたかもしれないあなただから」と私は心の中で呟いた。
私はまだ、あの時の手紙の相手を知りたいのだろう。
ここで日野さんだと分かっても、どうしようもないと言うのに。
「今のところは日野さん『だけ』ね」
「⋯⋯私だけ」
彼女は陶然とした面持ちで呟く。
(そんな顔されたらますます相手が日野さん以外ありえなく思える)
私はどうしたいのか、どうすべきなのか。
「ちょっとだけ先生の特別、なんですね。私」
「そうかもね」
特別なのは否定しようもない。
胸に何とも言いようのない感情が溢れるている。
私はこの感情がどんなものか答えを知っているけれど、見ない振りをした。
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