ラブレター
砂鳥はと子
前編 三年間の手紙
生まれて初めてラブレターというものをもらったのは、今から十年前。教師生活四年目の時だった。
ちょうど梅雨の時期で、少し蒸して暑かったのを覚えている。すでに日も暮れて暗くなり、生徒たちの姿がなくなった校舎の端。
教師用玄関で、帰るために下駄箱を開けると、靴の上に手紙が置かれているのが目に入った。
エンボス加工で花模様があしらわれた真っ白な封筒。表や裏を見ても、差出人や宛名は書いていなかった。
何故こんなものが入っていたのか見当もつかない。
疲れていた私は取り敢えず手紙をカバンにしまい、家へと帰った。
帰宅して晩ご飯を食べ終えてから、さっきの手紙を思い出す。
改めて確認しても、封筒には何も書かれていない。裏返して、封をするために貼られた花型のシールをそっと剥がして開いた。
中には二つ折りにされた一枚の便箋。
取り出して見ると、そこには
『私は
とわざとらしく角ばらせた文字で綴られていた。
この亜友美というのは私のことである。
しばらくその文字列を眺めながら、事態を把握する。これがどういった類いのものかを。
まずは誰が入れたのか。
大ざっぱに校内の人間を分けると、大人と子供になる。教師と生徒だ。
教師の誰かが、これを入れたとする。
誰も思いつかない。そもそも大人がこんな回りくどいことをするだろうか。
直接声をかければいいではないか。
字体は筆跡を隠すためなのか、やたらカクカクしているが、何となく大人の字ではないような気がする。
教師でないなら生徒が書いたことになる。しかし私が勤めている高校は女子校であり、当然ながら生徒は女子しかいない。
私自身、男性とも女性とも交際したことがあるので、女生徒が女教師にラブレターを出すなどありえない、などと言うつもりはない。
それでも、本気で教師にラブレターなんて出すのか。それも私に。
私は取り立てて生徒に好かれているわけでも、嫌われているわけでもないと思うが、恋愛対象になるような部分があるかと言われたら、首を傾げざるを得ない。
ベテラン教師よりは生徒たちに年齢が近いので、親しんでくれる生徒たちはいる。
でも他にももっと人気のある先生はいるし、私はどちらかと言えば地味な人間だ。
まだ十代の女の子に憧れられる資質なんてあるとは思えない。
ならば一番あり得るのはいたずらだ。
私がラブレターをもらって面白い反応を期待した生徒のいたずら。
私は取り敢えずこの件はいたずらだと踏んで、処理することにした。
翌日学校に行った時は、少し緊張した。
もしかしたらどこかであの手紙の反応を伺うために、生徒に見られているかもしれないなどと考えていた。
しかしその日一日、特に何事もなく平穏に終った。
生徒からそれらしい反応もなく、当然教師からもない。
私はすぐにラブレターについては忘れてしまった。
それから一ヶ月ほど過ぎた七月。
まだ梅雨も明けておらず、あの日と同じくじめじめと蒸し暑さが漂っていた。
前回のように下駄箱に手紙が入っていた。
今度は水色の封筒。青空が全面にプリントされていて、まるで来る夏を待ちわびているようだ。
『亜友美先生と毎日会えるだけで幸せです』
この間の手紙と同じ角ばった文字で綴られている。
いたずらだと思っていたけれど、本気のラブレターだったのか。
それともあまりに私が何の反応もないから、焦れて再びこの手に出たのか。
この手紙だけでは何とも判断に困った。
いたずらにしろ本気にしろ、私にはどうすることもできない。
そもそも相手が誰なのか分からない。
私に出来るのは受け取って読むことだけ。
そしてこのラブレターは翌月、八月の夏休み中にも入っていた。
『夏休み中は先生に会える日が減って寂しいです』
部活動で来た時にでも入れたのだろう。
残暑も和らいだ九月。
『亜友美先生は黒い服が似合いますね。すごくかっこよくてどきどきしました』
あっという間に十月になる。
『昨日は先生とお話できて嬉しかったです』
私は誰と話したか思い出す。しかし挨拶含めたら、数え切れない。見当をつけるのも難しい。
冬が来ても、手紙は続いた。月に一度だけ届く私への手紙。
私はただ受け取り続けた。
一年経って、新たな変化があった。
いつもは日本語で書かれている手紙だったが、その一通だけは英語だったのである。
『You are everything to me』
(私にとってあなたが全てです、か)
英文なら筆跡を気にしなくていいと思ったのか、その一文はいつもの角ばった文字ではなく、さらりと素で書かれていた。
癖のないきれいな筆記で、強いて言えばaの書き方に特徴がある。
私は英語教師だ。生徒の英文ならいくらでも見る機会がある。
もしかしたらこれで送り主が分かるかもしれないと、私は気が急いた。
相手が分かったところで、教師の私は何も言えないし、何もできないけれど。
でもそっと見守らせてほしい。
それくらいは許されないだろうか。
こうして一年間、休むことなく私へ愛の言葉を伝え続けてくれた相手だ。
多少の情だって湧いてしまう。
手紙を受け取って二回目の七月。
期末試験の採点をしている時に、私の手は止まった。
日本語を英文にする問題。
見覚えのある小文字のaに私の目は引き付けられた。
それはあのラブレターに綴られた文字に似ていた。
このテストは誰のものか生徒を確認する。名前は
去年担任をした生徒の一人だった。
そして私が顧問をしている書道部にも所属している。
(ラブレターを書いたのは日野さん⋯⋯?)
すぐには結びつかない。
日野さんはいつも教室の片隅でおとなしく本を読んでいるような子だった。だいたい一人でいるが、いじめられたりする様子はない。
面倒見のいいクラス委員の子のグループに加わっていることが多かった。
あまり喋らないけど、常に穏やかな雰囲気で、けして大人びているわけではないが、どこか悟っているようなそんな女の子。
日野さんから特別に話しかけられたり、感情を向けられた記憶はない。
(似ているだけ⋯⋯?)
もしラブレターの主が日野さんだったとしても、私はそれで何かできるわけではない。
字が似ている別人かもしれないし、日野さんが代筆してる可能性だってある。
だから、私にはどしようもない。
確認するつもりなどないし、それをしても返って傷つけるかもしれない。
だから、相手が誰でもあっても私は淡々と受け取る。それだけだ。
その年の秋。
私は書道部の教室に顔を出した。
八人しかいない小さな部だけど、みんなそれぞれ書道に熱心に取り組んでいる。
「先生、見て見て。できたー」
副部長の
「随分と乙女チックな言葉のチョイスだね」
「それはまあ、私も恋する乙女なので書かずにはいられなかったわけですよ」
「さすがほそみん先輩!」
「次はキスとか書いてくださいよー」
「おし、後輩のリクエストならこれはキスって書かないわけにはいかないなぁ! 先生いいですよね?」
「はいはい、好きに書いていいよ」
生徒たちと他愛もないことで盛り上がる。内に入ることなく書に徹していた日野さんが目に入った。
私はそんな彼女をしばらく見つめていた。
日野さんはと言えば「手紙」と惚れ惚れするような美しい字で書き上げていた。
(手紙!?)
こちらの視線に気づいたのか、日野さんは顔を上げる。ばっちりと目線が合うと、顔を赤くしてすぐに俯いてしまう。
彼女は恥ずかしがりやなところがある。
『手紙』と書いたのも何かの偶然だろう。
だからこんな反応をしてもおかしくはないのだが、ラブレターが頭をよぎる。
(あれが日野さんである確証はないんだから、考えすぎ)
私は自分の予想を振り払った。
余計なことは考えない。
生徒たちが書いた字を添削し終えた私は部室を後にする。残念だが仕事が他にもあるので付きっきりというわけにはいかない。
外が暗くなり、部活動を終えた生徒たちが部室の鍵を職員室に返却に来る。
鍵の返却は部長や副部長が返しに来ることもあるし、日替わりで返却する人を決めている部もある。書道部は後者だった。
今日は日野さんが担当らしく、彼女がやって来た。
「先生、部活終わりました」
鍵と一緒に部誌を渡される。
「お疲れ様。暗いから気をつけて帰ってね」
「はい。ありがとうございます。失礼します」
日野さんはいつもと変わることなく、その場を後にした。
彼女がラブレターの送り主というのは、私の勘違いなのかもしれない。
ふと足元に目線が落ちる。
そこには薄桃色のハンドタオルが落ちていた。私のものではない。隣りの厳つい社会科教師のものでもないだろう。
日野さんの落とし物だと思った私はそれを拾って、職員室を出た。
私はすぐに日野さんを見つける。
ドアを出て左側は職員用の玄関であり、下駄箱が並んでいる。その前に日野さんはいた。
私たちは無言のまま目が合う。
日野さんは驚いたようにそこに固まっていた。そして彼女が立っている前に私の靴箱があることに気づく。
「失礼しますっ。さようなら」
どこか怯えたように日野さんは足早に立ち去る。
「待って、日野さん」
呼ぶと彼女は立ち止まって振り返ったが、そこにはとても気まずそうで、何かを怖がっているような表情が見て取れた。
(あのラブレターの主は日野さんなの?)
急にこんな様子になるのを見たらそう思わずにはいられない。
だが、今は彼女を安心させなくては。
もしラブレターの主なら、私に何かバレたのではないかと内心びくびくしているに違いない。
「このハンドタオル職員室に落ちてたんだけど日野さんのじゃないかしら?」
「⋯⋯⋯そうです。ありがとうございます」
少し安堵したような顔で、日野さんはハンドタオルを受け取った。
「寄り道しないで帰りなさいね。他の子にも言っておいてね」
私は何も気づいていませんよと言わんばかりに笑顔を作る。
「はい、さようなら先生」
「さようなら」
私は手を振って日野さんの姿が見えなくなった後も、しばしそこに佇んでいた。
彼女が戻って来る様子がないのを確認して、私は下駄箱の前に行く。
そして自分の名前のプレートが入った靴箱の扉を持ち上げる。
そこには紅葉のイラストがあしらわれた封筒があった。
誰が入れたかなんて見ていない。
だからこれをさっき日野さんが入れたかは分からない。
でもきっと彼女なのだろうと私は確信した。
残業を何とかこなして帰宅した私は手紙を開く。
『先生の笑顔を見ていると、私はいつも幸せな気持ちになれます』
すっかり見慣れた角ばった文字で書かれている。
いつもいつも彼女はどんな思いで私に言葉を伝えてくれているのだろう。
彼女が一番に望んでいることは何なのか。
それを知っても教師の私は何もしてあげられないことが、もどかしい。
せめて彼女の高校生活が終わるまで、私は彼女の思い描く理想の教師でいられますように。
いい思い出になることが、きっと私にできる唯一の方法だ。
三月一日。
その日はとてもよく晴れていて、朝から気持ちの良い一日だった。
気温も高く、三月の上旬にしては温かで、卒業式日和と言っても良かった。
式を終えて生徒たちに頼まれて一緒に写真を撮る。
視界の片隅に日野さんが映った。
仲の良い子たちと話しているのが見える。
「先生ー、よそ見しないでカメラ見てください〜」
生徒に袖を引っ張られて、私はカメラに向き直り笑顔を向ける。
「ありがとうございました!」
「先生、次はこっちお願いします!」
卒業生たちと次々と写真を撮るけれど、日野さんが、声をかけてくることはなかった。
一人、また一人と学校を去っていき、日野さんもいつの間にか姿を消していた。
もし彼女がラブレターの送り主なら何か言ってくるのではないかと思っていたけれど、私の淡い期待のようなものは叶うことなく終った。
そして仕事を終えた私はいつものように靴箱を開ける。
桜の花が描かれた封筒が一つ。
常なら家で読む私も、周りに人がいなかったこともありその場で開いた。
それは三十三通目であり、最後のラブレター。
『亜友美先生へ
三年間お世話になりました。
私はずっと先生のことが好きで、こんな形で一方的に気持ちを押しつけてすみませんでした。
でも私はどうしてもこの気持ちをどうにかしたくて、考えた結果手紙に行き着きました。
先生がどう思っていたかは分かりません。けれど優しい先生のことだから、受け止めて見守ってくれていたのだと思います。
おかげで私は三年間、幸せな気持ちで過ごすことができました。
手紙もこれで最後です。
大好きな先生のことは忘れません。
亜友美先生、ありがとうございました』
初めて、筆跡を変えていない、彼女自身の字で綴られていた。
私は結局、受け取るだけだったけれど、少しは彼女を幸せな気持ちにできたのならそれで満足だ。
「ありがとう」
ラブレターをもらい続けた三年が幕を閉じた。
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