青春の亡骸

QUILL

青春の亡骸

 今年は桜が散るのが早かったなぁ。そんなことを思いながら新しいクラス一覧表を見ていた。私のクラスは7組で、一番階の端っこにあるクラスだった。面倒臭いなと思いつつ、階段を上がって教室に向かう。どんな人がいるのかな。

希望と不安を胸に教室に入ると、ちょうど教室の真ん中あたりの席に爽やかな笑顔を浮かべる好青年を見つけた。ハートの中心を掴まれた様な感覚だった。気持ち悪いと思いつつも、その青年をついつい目で追ってしまっていた。そんな私の一目惚れを脅かすように、私の席の前には魔物が来た。


「よっ! お、何だ? タイプの男か?」


パソコン部で同じ蓮という男子がよりにもよって前の席だ。ウザすぎる。私のことを何かとからかってくるし、何なら今のだって的中してしまっているのだからウザい。視線だけから情報を読み取ってしまうとは流石パソコン部だと思うが、私と蓮には決定的な違いがある。私はバイトをするために部活を適当なものにした。だから、彼とは熱量が違う。


「よろしくな」


「おう」


挨拶を交わすと、私はもう気になる男子を目で追うのを一旦やめた。大切な恋は心の奥にそっと仕舞っておきたい。




 クラスでアイスブレイクをすることになった。ゲームは“GOOD & NEW”というもの。

24時間以内に起こった楽しいことや嬉しいことを皆に発表する自己紹介だ。ランダムに作られた6人グループの中には私が一目惚れをした青年もいて、順番的には私が最後だった。丸刈りの野球少年や、前髪が長すぎて顔が見えない男子などがいたが、その中でもやっぱり一番美しく輝いていた。興味の無い自己紹介が続き、当たり障りの無い反応をしていたが、ついに私の好きな青年の順番がやってきた。

彼は自らを涼太と名乗った。24時間以内にあった嬉しいことを涼太くんは「最近拾った捨て猫にやっと懐いてもらえた」と言った。かわいい! とめちゃくちゃハチャメチャに萌えてしまったのだが、私はどうやって彼にアプローチするかを思案していた。その後、二人くらいを挟んで私の番がやってきた。24時間以内に思い当たることがなかった私は咄嗟に「涼太くん? っていうイケメンに出会えたことです」と、自分でも分かるくらい顔を赤くして言った。すると涼太くんは「嬉しいなぁ! じゃあ付き合っちゃう?」と笑顔で言った。私はこれが夢じゃないかと疑ったが、頬を叩いてヒリヒリしたのでこれは夢じゃないのだと確認し頷いた。グループの中で拍手が湧いた。私は照れながらも、遠くの班で蓮が私の方を見たがら泣きそうな顔をしているのを見逃さなかった。




 幸せなことが続いたのなら、どこかで大きな悲しい出来事が起こる。これは、神の定めなのかもしれない。私が彼氏が出来て浮ついていたところをつんざくような出来事だった。父が交通事故で息を引き取った。私はその時、彼氏とデートをしていた。県境を跨いでお出掛けをしている中で、お母さんから電話がかかってきていたんだ。でも、私は彼とのお出かけが楽しくて仕方なかった。どうでもいい伝言だと思って無視をしていたんだ。そして、帰りがけの電車でメッセージを見た。


「お父さんが息を引き取りました」


そう書いてあった。

私は最寄り駅で電車を降りた。

彼と一緒にいれる気がしなかったから。彼は私の深刻そうな顔を心配してくれた。けれど私は、大丈夫だと下手な演技をしたまま電車を降りた。トイレの個室に入って、息を殺して泣いた。ずっとずっと泣いていられそうだった。親の死に目に私は会えなかったのだから。でも、病院には向かわないといけないから、重い足を引きずって病院までタクシーで向かった。タクシーの運転手さんは私の暗い顔を見て、あえて何も喋りかけないでくれた。鴉の鳴き方が私を罵るみたいだった。病院に入って教えられた病室の前まで行くと、ソファでお母さんがしくしく泣いていた。私を見つけると、ハンカチで強引に涙を止めて「辛いと思うけれど、最後のお父さんの顔を見届けてあげて」とそう言った。扉を開けると、酷く痛ましい顔が私の目に映った。その瞬間から、私は涙が溢れて止まらなかった。声を上げて私は泣き喚いた。さっきまで暮れていた街はもう深い夜になってしまっていた。それから先の夜のことはもう覚えていないけれど、私にはもう朝は来ないと思った。帰宅した私は、一ヶ月ほど学校に行くこともできやしなかった。心の深い傷は、彼にどんどん依存していった。




 駆け込んできた電車の中で汗を拭う。今日は彼とデートで遊園地に行く日。せっかくこんなにキメこんで来たのに時間のギリギリを攻めすぎてしまった。服装を選ぶのにも気合が入っていつもの倍以上の時間を要するのに、私はそれを逆算していなかった。というか、もう遅刻は確定だった。数分だけれど、その数分が命取り。彼に駄目な女の印象でも持たれてしまったら大変だ。私は早めに一報入れておくことにした。


「ごめんね、朝バタついちゃって少しだけ遅れます...。」


送信した数十秒後に返信が来た。


「大丈夫だよ! 俺もまだ着いてはいないから!」とのことだった。そのメールの内容の真偽は分からないが、もしも罪悪感を産ませないための嘘なのだとしたらよくできた人だと思った。深呼吸をして、電車の吊り広告に目を遣ると、出会い系アプリの広告が目に留った。こんなものをわざわざ使わないと付き合えやしない人がいるのだろうか。私にはそういう人が一定数いるのが疑問で仕方なかった。そうしているうちに、電車は駅のホームに止まった。



私は電車を駆け降り、彼の元へ急いだ。改札を抜け、春風が桜色のスカートを揺らした。彼を探していると、「着いた?」とメールが入った。「どこ?」と返信すると、向かいのカフェで待っているようだった。彼を窓越しに確認し、席へ向かう。「待った?」と聞くと、明らかに待っていたようなのに、「いや今さっき着いたばっかだよ」と彼は眩しいくらいの笑顔を私に向けた。



私たちはそこから、駅前から出ているシャトルバスに乗って遊園地へと向かった。バスの中では、勉強の話だとか部活の話だとか、いかにも高校生らしい会話を交わしていた。人と話していると、経つ時間が早く感じる。それを一番思ったのは、今だった。距離が近づくにつれ、大きく見えるようになっていく観覧車に私は胸を躍らせた。遊園地に入ると、私は彼にずっとついて行った。彼は気の向くままにジェットコースターやお化け屋敷など色々なアトラクションに乗った。ディズニーリゾートじゃなくたって、彼がいるだけで私は幸せだった。あっという間に時間は過ぎていって、蛍の光が流れ出す時間になった。夜に染まる園内で、彼は意味深なことを言った。


「ねぇ、今夜終電逃してみない?」


私は彼の甘い顔に乗っかってしまいそうになった。

けれど、アブノーマルなその言葉に私の防衛本能は動いた。


「ごめん今日は用事あるんだ」


私はその場から逃げるように立ち去ってしまった。




 数回のデートを重ねる中で、私のワクワクはどんどん薄れていった。それが恋ってものなのだろうか。分からないけれど、私は以前のようにアワアワすることもなく、上手にこなれ感を出せるようにまでなった。恋愛のスキルを上達させてくれた彼には感謝だ。メイクをササッと済ませて、身支度を整えた。今日は井の頭公園でのデートだ。井の頭線を最寄りの駅で降りると、思ったよりも待ち合わせに早く着いた。私は近くのコンビニでレモネードを買って彼を待った。改札の方を見ていると、彼は寝癖を直さないままやってきたようだった。それも全く気にならないフリをして、私たちは足並みを揃えて歩き出した。駅からは一分ほどで着いた。ほぼ最近は喋る話題も無くなってきていたが、それでも私は彼のことが好きだった。午前中はモルモットと触れ合ったり、園内を散策して楽しんだ。昼はカフェテリアで済ませた。でも、この日のデートはいつも通りじゃなかった。白鳥のボートに二人で乗った時のことだった。白鳥のボートは、ぐるっと池の中を一周して元の場所に戻ってくるように言われていたのだが、私には向こう岸にチャペルがあるように見えた。そんなことから、「私たちもあのチャペルで結婚するのかしらね」と彼に冗談を投げかけてみたのだ。けれど彼は、「チャペル? え?」と見えていないような素振りをした。明らかにもう少しで行けそうなチャペルに私がボートを進めると、彼は「そこには何もないだろ! 早く戻れ!」と珍しく怒鳴った。私には彼が今どういう状態なのか分からなかったが、私たちの周りだけ風が凪いでいるような不思議な感覚に襲われた。私は一瞬、彼の顔が別の知らない人に見えた。知らない人がしれっと同じボートに乗っていたのではないかと思い、私は怒鳴り返すと彼をボートから突き落とそうとした。ゆらゆらと揺れる池の上で、彼は本当に落ちそうになった。彼は私に一発ビンタをかますと、「何なんだよお前! 情緒不安定か!? さっさとボート戻して帰らせろよ! まったく!」と激怒した。私はその瞬間に我に返って、自分が何をしようとしていたのか分かった。私はボートを一回転させると、「ごめんなさい」と彼に謝った。そっぽを向いた彼が私に振り向いてくれることは無かった。ボートが岸辺に着くなり、彼は溜息をつきながら私の先をスタスタと歩いて行ってしまった。私は一人きりになって、妙な色の空を見上げた。




 その日、私の家のすぐ近くにあるスーパーマーケットは恋する乙女達で賑わっていた。混雑を避けるために夕方を見計らって来たのに、結局は変わらないくらい混雑していた。店頭にはでかでかとチョコレートが並べられていて、買い物に来た男子はスーパーマーケットに入りづらそうにしていた。置いてあった味は、赤いパッケージのミルクチョコレート、白いパッケージのホワイトチョコレート、イチゴ味のチョコレートの三種類だ。私は彼氏に作る以外には用事が無かったので、いつも冒険をしたがらない彼には普通のミルクチョコレートを一つ買った。紅く染まる帰り道、レシピアプリでチョコのレシピを調べながら帰った。カップケーキならまだこの時間から作っても余裕がある。そんなことを考えていたら、自分の家の前を二軒ほど過ぎてしまっていた。再び家に向けて歩き出し、ドアを開けた。手洗いうがいをちゃっちゃと済ませ、すぐさまカップケーキ作りに取り掛かった。チョコで何かを作った経験が私には無く、レシピを見ていようがやっぱり何かを作るってことは大変なんだなと沁々思う。彼の貰った時の表情なんかを考えてカップケーキを少し焦がしてしまったり、紆余曲折はあったけれど、一応夕飯の前には作り終えた。出来上がったものを丁寧にラッピングして、あとは明日を待つだけになった。彼は私のことを明日、許してくれるだろうか。羊を三桁数えなきゃいけないくらい眠れない夜だった。




 とうとうその日がやってきた。学校で渡す予定だから、私服で着飾ることは出来なかった。けれど、バレないレベルのメイクをしたり、ボディミストでさりげなく香りを纏ってみたり、だらしない私でも彼のことを思うと女の子らしくなることができた。

準備の時間はいつもの二倍程を要し、急いで家を駆け出した。川沿いを吹き抜ける風が、私の巻いた髪を揺らした。校門をくぐると、頬を紅く染めながらチョコと一緒に想いを伝えようとする女子が見えた。その周りには、花壇の横で泣く子や友達と腕を振り上げて喜ぶ子もいた。希望と切なさが交錯するこの空間で、私はどういう存在なんだろう。ふとそんなことを思いながら上履きに履き替えた。朝のホームルームが始まって、いつもより皆がバタバタと駆け込んできた。こんな朝早くからフラれたら丸一日やる気にならないだろうに。告白する時間が逸る気持ちだけで決まってしまう周囲の女子の神経は分からなかった。さっきまで青が覗いていた空は、いつの間にやら雲に覆い尽くされてしまっていた。主要教科5教科と体育という過酷な時間割も、彼とのイチャイチャを妄想したら苦には感じなかった。けれど、6時間目の体育での外周走の途中では雨粒を含んだ冷たい風が吹いて、雲行きが怪しくなっているのは察知していた。私は晴れに縋った。帰りのホームルームが終わって、二軒横のクラスの彼にチョコを渡しに行った。教室の窓際に座る彼は、友達と楽しそうに爽やかな笑みを浮かべていた。やっぱり私の彼氏はハンサムだ。そんなことを思いながら声を掛けた。


「りょうた!昨日はごめ...」


そう言いかけたところで遮られてしまった。


「あなた誰ですか?」


彼の後ろに座ってさっきまで冗談を言っていた男子が私に向けてそんなことを言った。


「それな! 面識無いし、能面みたいな顔で話しかけてきて森ぃ!」


その男子に同調するように私の彼もそんなことを言って笑った。私は何が起きているのか分からなくなって、汗をかいた。全身から変な汗が出てきた。私の彼は彼だ。そんなことを言ったかもしれない。でも、パニックになって私は倒れてしまった。




 六時を過ぎた頃、私は保健室のベッドで目覚めた。「いつまで寝てるのよ〜」と保健室の先生は冗談めかして言った。窓の外には生徒たちが食育の一環で野菜を育てている小さなプランターが沢山並ぶ庭がある。そこに横たわった夜闇を見つめながら、私を待ち受ける未来を想像した。今は分からないことばかりで、腹でも胃でもない治しようの無い気持ち悪さが渦を巻いている。お母さんが迎えに来る前にポカリスエットを一口飲んだ。お母さんが迎えに来て、自転車は明日乗って帰れば良いと、保健室の先生は車で帰ることを許してくれた。ただただ弱いだけの私を優しく見守ってくれた保健室の先生は本当に優しいと思う。


——私は本当に彼と、いや、涼太と付き合っていなかったのだろうか。


そんな疑問が頭をよぎった。いつもの風景が車窓を流れる速度が、いつもより遅く感じる。あの時、涼太とその周りの友人たちは本当に私を知らない様子だった。何度も数時間前の不思議な出来事を回想していると、車はもう自宅の車庫に停まっていた。


「着いたわよ」


お母さんは私に言った。私の弱い所を昔から見ているからか、風邪でも病気でもない理由で私が倒れてしまうことをお母さんは気に留めていないようだった。白いドアを開けて自宅に入ると、ほっと心が安らいだ。どんな高価な香水よりも落ち着く香りがした。私は夕食を済ませたら、何か私が他の子と違うのか聞いてみることにした。




 夕食は私の好物のオムライスと唐揚げだった。デザートにいちごも買ってあるらしく、至れり尽くせりだと思った。私が何か核心に迫る決意をする手前で、優しく拒まれているようだった。食卓に食器を並べるお母さんは、私がじっと見つめると微笑んでくれた。今は今のままで良い。そんなことを思ったりもしたけれど、私はこれから先に原因不明の不幸に何度も直面するかもしれない。そんな時にお母さんが同じように好きな料理を作って微笑んでくれる保証は無い。だから、今のうちに残酷な現実が待っていようと動き出さなきゃいけないんだ。


「私はあなたが幸せでさえいてくれれば良いのよ」


お母さんは時折、そんなことを呟いた。私はその言葉に幾度となく救われてきた。だけど、今はその言葉に流されてしまってはいけない。色々な感情が込み上げてきて、オムライスを食べながら泣きそうになってしまった。私はお皿ごと口にかきこみながら少し泣いた。オムライスをかきこみ終えた時、お母さんが口の横についた米粒を取ってくれて、また少し泣きそうになった。




 「ねぇお母さん」


台所でいちごをミキサーにかける後ろ姿に声を掛ける。私のために何かを作ってくれている後ろ姿は昔からずっと見ていたけれど、ここまでじっくり眺めたのはいつぶりだろうか。何だか懐かしくなった。


「なーに?」


お母さんは作業の手を止めなかった。


「大事な話があるから聞いてほしいの」


一瞬だけ手が止まったように見えたが、誤魔化すようにまた古いミキサーのうるさい音が響いた。


「分かった、ちょっと待ってて」


お母さんが覚悟を決めたのが分かった。粗くても美味しそうなジュースが出来上がって、お母さんはそれを手に台所から戻ってきた。


「話って何?」


お母さんはしっかり座って私の目を見据えた。


「最近気になってることがあって」


「うん」


「私、周りと違うものが見えてるんじゃないかって」


「それで?」


お母さんはそんなことを言った。まるでそれが何ともないとでも言うかのように。


「いや皆と同じ日常が送れないかもしれない恐怖と私は生きていける気がしないよ」


「あなたはあなたらしく生きればいいじゃない」


確かに最近は随分と多様性が認められる寛容な社会になってきたとは思っている。一人一人が別々の生き方をして良いし、個性を大切にするように言われる。でも、私は浮くのは嫌だった。皆と足並みを揃えて一歩ずつ成長していきたいんだ。だから私はお母さんに気持ちを分かって欲しかった。


「確かにそうかもしれないけど、私はやっぱり友達と同じものを見て笑って生きていきたい。真夏の夜空に打ち上がる大きな花火の大きさも美しさも幻想じゃ多分量れない。だから、私の身に起こっている真実を知りたい。」


お母さんは私の言葉を聞いて目を潤ませた。


「あなた成長したわね」


笑いながらそう言うお母さんを一人っ子の私がこれからは支えていかなきゃいけないなと思った。


「乾杯」


私たちはいちごジュースを飲んだ。

真実を知る覚悟はできていた。




 私はその日、どんなことを言われようとも動揺しない、感情を見える形で出さないという意味で全身を黒でコーディネートした。お母さんもそれには賛成してくれて、同じように合わせてくれた。病院までの道は車をお母さんが出してくれることになった。


「もう戻ってこれる日がいつになるか分からないからね」


お母さんはそう言って、噛み締めるようにエンジンをかけた。病院に向かう道中、お母さんの好きな曲のプレイリストからスキマスイッチの「奏」が流れてきた。早速泣いてしまいそうになって、車の窓を開けた。1時間くらいかかって、東京の比較的中心にある大きな病院に着いた。全面ガラス張りの病棟は、近未来感を出しつつも目の前にあるケヤキの木々を温かく映していた。受診までは1時間も待たなかった。

思ったより心の準備時間が短かったななんて思いつつ、重い扉を開いた。陽の光が差し込む真っ白な病室が眩しかった。私はこんな明るい所に居てもいいのだろうか。そんなことを思うくらい黒く武装してきてしまったことを後悔していると、椅子に座ることを促された。


「今日はどんな症状で来院されましたか?」


優しい笑顔に俯きながら症状を答える。


「なるほど、一週間ほど病院内で症状を観察させていただいて、その程度や具合によってこれからの治療を決めさせていただきます。」


そんな返答の後に、「そしてこれは推測でしかないんですが...」と本題に切り込むような前置きをされた。

ごくりと唾を飲み込んで、全身の鼓動を感じた。深呼吸をして、「いいです」と病名を告げられる準備をした。


「       」


聞いたことの無い名前だった。

でも、まだ初期の症状で進行はしていないということだった。程度によっては閉鎖病棟での入院も検討しなければならない病気なのだそうだが、私はその必要が無いという。でも、ということは私が彼と付き合っていた間の記憶も、そもそも彼と付き合っていたということも幻想だったのだろうか。そう考えると、何だか虚しい気持ちになる。そして、切なくさえなってくる。


「早期発見ができて良かったです」


優しく微笑む医者に信頼関係が芽生える。


「それでは誓約書に記名をお願いします」


私はこれからを保証してもらう意味で名前を記した。入院も想定してある程度生活できるものはお母さんが持ってきてくれていたから、もう入院が早速できるということだった。お母さんは「頑張ってね」と、何かまだ言いたげな様子で言った。私は「ありがとう」と言うと、リノリウムの廊下で手を振って別れた。遠くに小さくなっていくお母さんの背中をいつまでも見ていた。




 バインダーを持つ看護師さんに、生活の記録をされる毎日。5日目にしてまだ慣れないが、幻覚などがまだ見えたりするのだから仕方が無いと思う。今日の午後にはこれからの治療内容が決まるらしい。

まずはお母さんに伝えるのだそうで、私が知るのはその後。首を長くして、私はその結果を待った。病院にある本棚から目に留まった文庫本を適当に読んでいく。前じゃこんなことは自分からしなかったよな。そんなことを思ったりする。ありきたりな恋愛小説を読み進めていると、昼食の時間になった。ファストフードばかりを好んで食べていた私からすると、きんぴらや煮物など和食ばかりの毎日は億劫にもなるが痩せて美人になれるならと思って今日も箸を進める。1時間ほどゆっくりと咀嚼して、結果が出るまではあと2時間になった。私はまた本を開くと、主人公二人は窮地を乗り越えようとしていた。私もこんな感じで乗り越えられるのかな。自分と重ねながら読んでみると、本って面白いんだなと新たな発見をした。そんなこんなで時計を見たらもう3時過ぎになっていた。お母さんは今、どんなことを知らされてどんな顔をしているのかな。そうやってあれこれ考えていると、ガラガラと病室の扉が開いた。廊下に立っているお母さんは、雨降りの午後のような憂鬱そうな顔をしていた。


「お母さん、私どうだった?」


お母さんは、私のベッド横の椅子に腰掛けて、私をしっかり見据えてから口を開いた。


「2ヶ月くらいで退院できるらしい。これは大分良い方だって。」


2ヶ月か。地味に長いなと思ったが、今はまだ2月だ。2ヶ月療養を取って、春からまた私は普通の生活に戻れる。そう思うと安心できた。お父さんが突然この世界からいなくなって、私は目の前が真っ暗になった。でも、前には進んでいかなきゃいけない。そのための一歩を、私は踏み出した。




 朝起きてからは、リハビリがある。水を踏んで歩くリハビリだったり、本格的に体を動かすリハビリだったり。私はそれを面倒に感じたが、そんな毎日を生き抜く中で、嫌なことからは目を逸らせるようになった。そんな日々の途中で、知人が面会に来てくれたらしかった。誰だろうとワクワクしていると、病室の扉を開けたのは同じパソコン部の蓮だった。


「よっ!」


何故か蓮は、レザーのジャケットを着たりして格好つけていた。


「よっ、そんで何で来てくれたの?」


「い、いや、顧問のやつにジャン負け行けって言われてそれが俺だったんだよ」


絶対照れ隠しだと思った。そういう所は純粋で可愛い奴だ。蓮は、私のベッド横の椅子に座った。よく見ると、手には花束を抱えている。


「それどうしたの?」


「いや、これも顧問のやつに渡されたんだよ!リナリアって花らしいけどな!」


これも嘘だって私はもう分かっていた。


「ありがとう」


私は微笑みかけて、彼から花束をもらった。


「それとさ」


「なに?」


「あいつと付き合ってたっていうのも幻想だったと思ってる?」


私はドキリとした。

彼がその事を知っているということは……。


「あいつとお前は確かに付き合ってたんだよ。それは間違えじゃない。でも、あいつは浮気してんだよ。俺さ、あいつの裏垢見つけちゃったんだけど、別の女と嬉しそうに写ってやがる。だからさ、お前が見てた青春が幻想だったんだよ。」


苦しくて、息が吸えなくなった。蓮の口から吐き出された真実の数々が、私の淡い思い出を引き裂いていった。でも、目の前の言葉が私の今までの全て。

おかしいと思っていたんだ。感染症を言い訳にキスを拒まれたことだったり、色々な違和感が線になった気がした。私はお父さんが亡くなって以来、初めて泣いた。蓮は、私が泣き終えるのを待ってくれているようだった。1時間くらいボロボロと泣いて、やっと心が落ち着いた。


「色々教えてくれてありがとうね」


「いや、お前も可哀想だなって思ったよ。でもさ、お前が良いなら俺がいくらでも青春描いてやるからよ」


「え?」


私は蓮の言葉を頭の中で反芻した。

それってまさか……。


「あのさ、もっとはっきり言ってくれない?」


私が毒づいて言うと、蓮は今日会ってから初めて笑った。温かい。そう思った。この浴槽の中でずっと溺れていたいと思った。でも、まだ療養生活は続いていく。


「じゃあまた今度、あそこのケヤキ並木の下で待ち合わせな。」


彼が言った言葉に私は頷いた。久々に指切りげんまんをすると、彼は「待ってるぞ」とだけ残して病室を去っていった。私は今さっきまで自分のことを青春の亡骸だと思っていた。でも、私を彩ってくれる人は近くにいたんだ。灯台下暗しだ。彼が持ってきたリナリアの花を眺めながら、下の売店で買ってきたいちごを食べた。美味しい。食べ終えると、これからの未来に希望を抱きながら温かい気持ちで微睡んだ。ところで、リナリアの花言葉って何だっけ?

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