その手を、繋げますか?

サトウ・レン

その手を、繋げますか?

 久し振りに育った地元の海水浴場に足を踏み入れても、あまり懐かしさは感じなかった。ぼくの生まれた家から近くにあったとはいっても、ほとんど行く機会はなかったのだから当然の話だ。地面の柔らかさを確かめるように、一歩また一歩とゆっくり歩を進めていくうちに、細かな砂のつぶがスニーカーの内側に浸食し、靴下と絡み、それが気持ち悪くも楽しかった。


 夜の海岸で子どものように砂と戯れている姿は、周りから無邪気で滑稽に見えるかもしれないが、賑わう季節を逸れた冷たい夜風の吹く砂浜にぼく以外の姿は見当たらない。いまだけはぼくがこの雄大な景色を独占しているみたいで、心地よかった。


 静かな夜から聞こえるのは、汀に寄せる波の音だけだった。


 こんな日がいつかもあって、この海水浴場での唯一の想い出といってもいい過去のその景色だけはいまになっても脳裏に焼き付いている。でも、きょうという日がその過去の想い出をより鮮明にしているようにも思えた。


 ぼくと彼と、そして彼女はかつてのクラスメートで、だからぼくたちは三人ともまだ二十歳という年齢に過ぎない。全員が生きていれば、の話だが。自ら決意でもしない限り、大抵のひとは死をリアルに感じ取ることもできず、そしてその大抵はまだこれからも生が続いていくことを疑いもしない。


 久々に故郷を訪れたのは、彼の死の報せが届いたからだ。仕事中の事故だった、と聞いている。ぼくと彼を知る高校時代のクラスメートが耳打ちするように彼の働いていた職場の劣悪さを教えてくれたが、実際のところは分からない。


 彼の葬儀が終わって、ぼくはまだ向こうに戻る気にもなれず、ひとり誰もいない海水浴場を訪れている。




 ねぇ、手、繋いでみてよ。




 波音に混じってふいに聞こえたのは、ぼくが最後に聞いた彼女の声だった。あの日はぼくひとりではなく、ふたり、だった。この海水浴場にぼくと彼女のふたりだけがいて、きょうと同じように辺りには誰の姿も見当たらなかった。


 かつて彼女は彼の恋人だった。ぼくと彼女の関係はうまく言葉にできない。



     ☆



 ねぇ、手、繋いでみてよ。




 ちいさく笑みを浮かべ、ぼくに向かって手を伸ばした彼女はあの時すでに自身の未来を決めていたのだろうか。そうかもしれないし、違うのかもしれない。ぼくの想像が合っているとは限らない。真意は彼女自身にしか分からず、それを聞くことはもう叶わないのだ。もし仮に聞けたとしても、彼女がぼくに本心を伝えてくれるとは思えないので、どうしたって確実な答えを得ることはできない。


 細かい日付なんてひとつも覚えていないけれど、あれは高校三年の夏休み明けで、ぼくたちはお互いにまだ十七歳だった。


「ねぇ、きょう暇でしょ? 一緒にいてよ」


 校門を出るぼくを待っていたかのように、ぼくの姿を目にとめて表情を変える彼女がそう言って、返事も聞かないままに歩き出してしまったので断る隙さえもなかった。断るつもりはなかったけれど、周囲に彼の姿がないかを思わず確認してしまう。悪いことをしているわけではないが、後ろめたい気持ちはある。


「どこ行くつもり?」


「場所? あぁ、あんまり考えてなかった。歩きながら考えよう」


 どこか上の空のような返答で、誘った側の返しとしては不思議な言葉だったが、彼女の性格を考えると、らしい、と言えるのかもしれない。同じものを見ていても、ひとりどこか別のところを見ている感じがするんだ、というのは彼の、彼女に対する評価で、彼は重ねて、お前にも似たところがあってそれがすこし悔しいな、と笑いながらぼくに言ったことがある。


 彼女と並んで横顔を見ると、こめかみの辺りをつたう汗に気付く。夏は終わりに近付いていたが、まだとても暑い日だった。


 結局ぼくたちが向かったのは地元に一軒しかない全国チェーンのハンバーガーショップで、ぼくは決して少食なほうではなく、夕食分には充分の量を注文していたが、彼女はそんなぼくよりも三倍くらいの量を頼んでいて、細くて小柄な彼女の姿を見ながら店員の女性が驚き心配そうな表情を浮かべていた。当然の反応だと思うし、彼女を知るぼくも驚いていた。


「どれだけ食べるんだよ」


「お腹、空いたの。悪い?」


「いや、別にいいけど。普段そんなに食べないだろ」


「そういう気分になる日ってあるでしょ。食べたい時に食べておかない、と。いつ食べられなくなるか分からないんだから」


 口の端にケチャップを付けながら、急ぐように食べる彼女は途中で残すとばかり思っていたのだが、完食してしまい、どうだ、と自慢げにぼくの顔を見た。最後のほうは無理やり詰め込んだ感じで、表情は苦しそうだ。


「……で。自棄食いの理由は?」


「んっ? 別に自棄なんて起こしてないよ。……うん。自棄は起こしてない。起こしてないけどね。それとは別に伝えておきたいことがあってね。……あいつと別れたんだ」


「なんで?」


「ねぇ、海に行かない?」


「急になんだよ。まずその別れた話を――」


「まぁいいからいいから。向こうで話すよ」


 ぼくの返答などやっぱり聞く気もないみたいで、海へ行くことはもう彼女の中で決定事項になっていた。内心で溜め息を吐きながらも、その提案を拒絶はしなかった。そこにかすかなあまい期待を抱いていたことは否定しない。


 ハンバーガーショップを出て海に着くころには、食べ過ぎで苦しそうになっていた彼女の表情も和らいで見えた。


 夜風はもう秋との境目にある頃だと感じさせてくれるように冷たくなっていて、ほどよく心地いいのだけれど、ひと気のない、墨に染められたような夜の海岸にはすこしだけ恐怖もある。


「ねぇ例えば、私がこうやってさ――」


 そう言って彼女がぼくに向かって手を伸ばす。




 ねぇ、手、繋いでみてよ。




「――って言ったらさ。どうする?」


 彼女は差し出した手のひらをぼくに見せて、その手はぼくをどこかに誘っているようだった。その手がゆらゆらと揺れて、それをじっと見つめるぼくの内心を察しているのか、彼女が、くすり、と笑う。


「ごめん。ぼくは――」


「私たちは似ているね。やっぱり。きのう、あいつに同じことしたんだ。どうしたと思う? ……私の急な行動に、あいつ、迷わずに私の手を握ったの。だから別れた。私たちは一緒にいるべきじゃない、って思って。ねぇあなたはこの手をなんだと思ったのかな。ほら、怒らないから言ってみなさい」


「それは……」


「その口ごもった感じが、もう答えを言ってるみたいなものね。本当に分かりやすい性格だ。あなたはあいつみたいにもうすこし鈍感にならないと、残りの人生、苦しむよ。まだまだ人生は長いんだから。あと勘違いしないように言っておくけど、彼のことは何も関係ないよ。明日、私の誕生日なんだ。……あなたと初めて話した日のこと覚えてる?」


「あんまり覚えてない。確か三人で休み時間に話したのが、最初だったような」


 嘘だった。放課後、偶然に彼と彼女が教室で話しているのを見掛けて、それに気付いた彼に呼ばれて、三人で話すことになったのが最初だ。細かい経緯までしっかりと覚えている。ぼくと彼は中学から一緒で、わざわざ使ったりはしないが、親友と呼んでも反論は来ないだろうくらいの関係だったので、もちろん彼が彼女に好意を寄せていることには気付いていた。


 ぼくも彼女も、もうすぐ十八歳になる。彼女はきっとそのことが言いたいんだろう。


「嘘ばっかり……。覚えてるくせに。まぁいいや、私、死のうと思っている、……って、もし言ったらどうする?」


「十八だから?」


「ほら、やっぱり覚えてる。あの話をしてた時、私たちだけが意気投合して、あいつだけ、首を傾げてたね」


「そうだね」


「意気投合してたよね?」


「したね」


「でも、私の手を握ろうとはしないんだね」


 十八歳までに見える世界こそがすべてで、それ以降に待っているのは惰性だけだ。そんなやりとりで意気投合するぼくたちを、彼は不思議そうに、そして不満そうに眺めていた。


 彼と彼女の関係が恋人同士に変わっても、ぼくと彼女がふたりで話すことはよくあり、こういう似通った感覚があったからだろう。本当にただ話すだけだが、それでも嫌な気持ちになるだろう、と想像はできたので、彼には知られないように気を付けた。


「本気で、死ぬつもり?」


「冗談だよ」


 すこし強まった風の冷たさに背すじは震え、つられるようにして肩がすこし上がった。


「本当に?」


「もうすこし先の未来も見てみたいし、ね」


「あいつにも同じこと言った?」


「なんで? もちろん言わないよ。だってあいつは私が手を差し出しても、そこに死ぬなんて意図を読もうとしないもん。どうしたんだろう、と思っても、とりあえずは心配そうに握ってくれるだけ。あなたと違って、優しくて、鈍感だから。そんなひとは巻き込めないよ。こんなことを言うのは、あなただけ」


 優越感がそこになかったか、と言えば嘘になる。どんな理由であっても特別な存在として彼女は、彼ではなくぼくを選んだのだから。だけど近い距離で、じっと逸らすこともなくぼくを見る彼女のまなざしはそんな想いを虚しくさせていく。


 彼女の目に耐え切れず、視線を下に向けた先で、誰かが片付け忘れたのだろう一本の尽きた線香花火の残骸が落ちている。


「あいつにはなんて?」


「別れの言葉を告げて、もうそれからはしゃべってない。別れよう、って言った時ね。泣いてた。これは馬鹿にしているわけでもなんでもなく、本当に、心の底から羨ましい、って思う。だって私は誰かの感情に自分の心を寄り添わせて泣くなんて絶対にできないから。私たちと違って他者を慮る優しさがあって、それはどこまでもこの世界では尊いのよ、きっと。いまでも間違いなく、好き。誰よりも。残念だけど、この気持ちは変わらないからね」


 最後に付け加えられた一言は、ぼくの内心を透かして、からかうようだった。


「別に残念でもないよ」


 悔しいから言い返すことにしたけれど、これは嘘でもない。だってもしも彼女が気持ちを簡単に変えてしまえるひとだったら、ぼくの彼女に対する想いも変わっていたはずだから。


「……でも、だからこそ、あなたを選んだ」


「どういう意味だよ……」


 どれだけ彼女との間で感覚を共有しようとも、ぼくと彼女はただの同類でしかなく、どれだけ感覚の噛み合わない部分が多くても彼女が好意を深めていける相手はいつまでも彼だけなのだ。立場が変わっても別の立場に入っていける関係ではないのだ、ぼくたちは。だから彼がぼくの立場になることもない。


「分かってるくせに。ねぇ、一緒に行かなくていいの? 行こうよ」


 彼女がまた、ぼくに向けて手を差し出す。その手がちいさく震えていることに彼女だって気付いているだろう。




 ねぇ、手、繋いでみてよ。




「嫌だ」


「そっか」と彼女がほほ笑み、溜め息をついた。「嘘つきだね。似ていると思ったんだけどな、あなたと私は。勝手にひとりでおとなにでもなったらいいよ。……うん、そのほうがいいよ。そのほうが」


「ごめん」


「そっか、止めないんだ」


「止められたい?」


「もしもそんなことしたら、草葉の陰で呪い続けてやるから」


 近寄る彼女が、ぼくの胸もとあたりに顔の上半分をぴたりと付けた。下を向くと、彼女の頭が見え、彼女の姿に覆われてしまった線香花火の残骸は、ぼくの目にはもう映らない。


「理由、ぼくからは絶対に聞かないよ」


 死を選ぶことに、ぼくが具体的な理由を探すような人間だったならば、彼女は絶対にぼくなんて選ばなかったはずだ。彼女も口にはしないだろう。明快な言葉に嵌め込んでしまう虚しさを知っているはずだから。


「うん」彼女の声はすこし掠れていた。「ごめん。すこし濡れちゃったね。あと、めずらしいからって、あんまり顔は見ないでね」


「見ないよ」


「そんなにじっと見ながら、よくもまぁそんなことを……」


 と彼女が恥ずかしさを隠すような笑みを浮かべて、そしてぼくから距離を取った。


「ねぇ」


「何?」


「本当にいいの? 最後にもう一回聞くよ」


 彼女が、ぼくに向かって手を伸ばした。




 ねぇ、手、繋いでみてよ。




 ぼくを誘う気のないその手には、握り拳が作られていた。



     ☆



 波音に消されていく鈍色の声に背を向けて、ぼくは歩きはじめた。

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