Report on D-76 (of CAT)

長々川背香香背男

Report on D-76 (of cat)

 写真棟にはかつて数年の間、D-76という名の猫が住み着いていた。

 D-76という名称はモノクロフィルムの現像液であるコダック社の同名の薬品に由来する。ある日、唐突に写真棟に迷い込んできた件の猫が、学芸員に追い回された末に薬品棚に放置されていたD-76のボトルを軒並みひっくり返した事件が命名の発端となったという。

 同報告によるとD-76は追っ手から逃れ、その足で昇降口隣のロッカールームを縄張りと定めたらしい。

 D-76は世間一般の猫に輪をかけてゆずり葉で飾り水引きを結んで裏白をあしらった上で伊勢海老を咥えさせたくらい無愛想に過ぎる性格をしていたが、寂しがり屋の学科生達の施しによってその食生活はかなりの高水準を保っており、さらにロッカールームにはデスクトレーに持ち主不明の白衣を敷いたD-76専用の寝床が用意されていたし、いつでも用が足せるようにとロッカールームの窓は夜間もD-76の髭分だけ開かれるようになった。おおらかというべきか不用心というべきか、ともかく学科生達の無私の協力によって、D-76は何不自由の無い生活を送っているように見えた。

 もちろんロッカールームには若干というにはいささかきつすぎる程の酢酸や現像液、古くなった印画紙等々のケミカル臭が常に漂っていたし、そこに若く怠惰な学生連中の履物や作業着の放つ芳香が混ざり合い、最早臭気を越えた何かが充満していた。しかしながらD-76は数年間、側から見るかぎりはこの上なく快適そうな様子で写真棟のロッカールームに鎮座していたのである。

 時には放置されたカラー印画紙の外箱をご自慢の爪で引き裂き、またある時には乾燥棚のバラ板の上で毛繕いをするなどして、一部の学生の恨みを買ったりもしたが悪びれるそぶりも見せない様子が帰って被虐趣味過多の芸術家気取りどもの心を鷲掴みにしたりもした。

 学科生の間ではD-76の姿を写真に収めることが一種の日課のようになり、D-76も満更ではない様子でそのフォトジェニーを存分に発揮した。

 そんな蜜月関係も3年目に差し掛かろうかという或る日、D-76が忽然と姿を消した。

 言うまでもなく学科生たちはパニックに陥り様々な憶測、流言飛語、フェイクニュースの類が写真棟の内外を飛び交った。

 誰かが家に連れ帰ったのだという者、連れ帰った誰かが猫鍋にしたと勘繰るもの。猫鍋を喰ったと嘯くもの。そもそも猫鍋は鑑賞するものであって食い物ではないと否定するもの、ことここに至って多学科による誘拐だと主張しキャンパスを行く放送学科生を片っ端から尋問する強硬派まで現れた。

 そんな混沌の最中、ある学生が撮影した写真が棟内の掲示板に張り出された。それは森山大道に工業用アルコールを静脈注射して目を潰した上、レンズを外した一眼レフでしたたか殴りつけてから写ルンですで撮影させたようなひどい写真だったが、写真は被写体が全てである。

 印画紙に焼き付けられていたのはカラー暗室の通路と前室を区切る暗幕を今にもくぐらんとするD-76の後ろ姿であった。

 D-76の姿をカラー暗室付近で目撃したという報告は、それまでに一度も寄せられていなかった。おそらく前室に設置されている自動現像機が立てる騒音が、D-76のお気に召さなかったのだろう。ありとあらゆる場所に現れ学科生の寵愛を欲しいままにしてきたD-76が唯一近寄らなかったカラー暗室。そのカラー暗室に足を踏み入れんとするD-76の後ろ姿。それが意味する所はただ一つ。

 D-76はカラー暗室の通路を通り南の島へ行ったのだ。

 D-76について語ることは、大暗室の21号室にまつわる噂や、自動現像機の中で暮らしているおじさんの噂、かつて放送学科に在籍していた超エロい女、文芸学科生がひた隠しにするメガネを象った邪神像の噂などなどと同様に学科生達の間で次第に忌避されるようになった。

 その後何度か断続的に勃発した放送学科生からのお礼参り(ロッカールームのガラスが割られ、昇降口にかんしゃく玉が撒かれ、「静止画はバカ」と書かれた身も蓋もないビラが撒かれたなど)の時にだけ、それぞれの脳裡にふと、D-76の悪びれる様子のない超然とした表情がよぎるのであった。

 

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