エンド
シンとした静けさの中。
その場にじっと佇んでいると、聞こえてくるのは自分の心臓の音のみ。
(ほんとに、静かだな。)
久しぶりに感じる、穏やかな時間の流れに身を任せて、僕は木々の作り出す清々しい空気を思い切り胸の中に吸い込んだ。
時折、笑ってしまう事がある。
僕は、人間ではないのに。
僕の母は恋の女神で。
僕の父は死神で。
そう。
両親だって、人間ではない。
言ってみれば、人間達の生み出した、想像上の生物でしかない。
もちろん、その子供である僕だって。
それなのに。
僕はこうして、人間と同じように呼吸をする。
心臓だって動いている。
人間と同じ様な生命活動をし、-これが一番笑っちゃう事なんだけど-人間と全く同じように、感情の渦に大きく支配される。
両親は、役割は違えど『神』だ。
ならば、彼らの息子である僕だって、『神』ということになるのだろう。
その『神』である僕が、僕たちを創り出した人間と同じように、感情に振り回されるなんて!!
(気持ちいい・・・・)
静かにそよぐ風を受けて、僕はまた歩き出した。
この山に入ってから、もうどれくらい経っただろうか。
けれども、僕には心配する事なんて、何ひとつない。
僕はそう簡単には死ねないのだから。
いや。
心配事、たったひとつだけあった。
その心配事を避けるようにして、僕は茂みの奥へ奥へと歩みを進める。
人間の通った形跡を避けて。
光の射す方を避けて。
人間に出会ってしまう事。
それだけが、僕の唯一の心配事であり、恐怖だった。
(あ・・・・)
行く手を阻む茂みをかき分けたとたんに、眩しすぎる日差しに瞳を射抜かれて、僕は強く目を瞑った。
そして、おそるおそる開いた目に飛び込んで来た光景に、思わず息を飲む。
目の前にあったのは、まるで絵本の中からそのまま飛び出して来たかのような、美しい泉。
そう、探せばどこからか、ナルキッソスでも出てきそうな程の。
「ナルキッソス、か。」
呟いたとたん、胸に小さな痛みが走った。
まだ小さかった裕雅が言っていた事を、思い出してしまったから。
『ふふっ。あのね、ユキ兄ちゃん、ナルキッソスにそっくり!』
目を輝かせて、僕にそう話してくれた裕雅は、もうここにはいない。
「ヒロ・・・・」
誘われるようにして泉に近づき、水面に手を伸ばす。
ひと掬い、水を掬い上げて口元に運び、喉を潤しながらふと視線を落としたそこには、波紋で歪んだ僕の姿が映っていた。
(ナルキッソス、か。)
一応僕も『神』ではある。
神話と呼ばれる類についての知識だって、多少は持ち合わせている。
若さと美貌を兼ね備えた青年が、神や精霊たちに対してあるまじき態度を取ったことにより、神々や精霊たちの怒りに触れ、復讐の神より『自分しか愛せない』ようにさせられた挙句に、泉に映った自分の姿に恋い焦がれて狂い死にしたという話ではなかったか。
(いや、待てよ。確かもっと大事な何かが・・・・)
記憶の奥の奥まで探り、僕はようやく思い出した。
ナルキッソスは、産まれ落ちたその時に、予言を受けていたはず。
『自分を知らないままでいれば、長生きできる』と。
ナルキッソスが何故若くして死んでしまったか。
身から出た錆、と言ってしまえばそれまでだけれど。
予言の通りだとするならば、自分を知ってしまったから。泉の中の自分の姿を見てしまったから。
(じゃあ、僕は?)
波紋の消えた泉は鏡のように滑らかで、そこに映っている僕の姿はもう、歪んではいない。
(僕はどうしたら、死ねるんだ?)
『人間が欲するものを与えてやり、その代償として死を与える。』
これが僕の存在意義だと思っていた。
死を与えるのは、僕が父の血を引く死神だから。
だが、面倒な事に、僕には恋の女神の血も流れている。
結果、人間が僕に求めるものは、恋だの愛だのになってしまう。
(これ、正解だったのか?)
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
初めてだった、自分自身の存在意義を疑うのは。
(僕の本当の存在意義って・・・・)
ナルキッソスは、自分を知ったから、死んだ。
まぁ、自分の姿に恋い焦がれて死んだのだけれども。
残念ながら、僕はナルシストではないから、自分に恋い焦がれて死ぬなんてことはあり得ない。
恋い焦がれたところで、自分自身を自分に与える事などできないのだから、簡単に死ねるとも思えない。
だけど。
(自分を知れば、本当の存在意義が分かれば、僕も死ねるのか?それとも・・・・)
「僕が欲するものを僕自身に与えることができれば、あるいは・・・・」
呟いてみたものの、実現できそうな名案は浮かびそうもなく。
泉に映る自分の姿から目を逸らし、僕はその場を離れた。
「あの・・・・大丈夫?」
声に目を開けると、女性が僕を心配そうに見つめていた。
何十年ぶりだろうか、人間と接触するのは。
人間との接触は避けていたつもりだったが、少し、気が緩んでしまっていたのだろう。彼女に声を掛けられるまで、熟睡してしまっていたようだった。
それにしても、こんな獣も通らないような茂みの中で、よく僕を見つけたものだ、彼女は。
「あぁ、はい。」
久しぶりに声を出したせいか、ずいぶんとガサついた声が出てしまった。
それを、どうやら弱っているものと、この人-聡子-は解釈したらしい。
「良ければ、そこの小屋で休んで行きません?ね?」
そう言って僕を抱えて立ち上がらせると、聡子は僕を近くの山小屋へと連れて行った。
山の中で僕は、ひたすら人間との接触を避けて過ごしていた。
人の気配がすれば場所を移動し、お腹が空いたらそこらの木の実を食べて、喉が渇いたら泉の水を飲んで。
人間ではない僕は、どんなところだって、生きてはいける。
まぁ、『神』の務めを放棄していたことは、否めないけれど。
ただ、寂しかった。ずっと、寂しかった。
寂しさを紛らわすために、僕はずっと考えていた。
長い時間の中で考えていたのは、僕が死を与えてきた人間たちの事だった。
死に値するものを、僕は本当に彼らに与える事ができていたのだろうか。
彼らは、自分の死を納得して受け入れる事ができていたのだろうか。
隆之は・・・・裕雅は・・・・
「こんなものしか出せないけど、どうぞ。」
ぼんやりと座っていた僕の前に、温かなスープが入った皿が置かれた。
立ち上る香りに誘われ、スプーンでひと掬い口に運ぶと、体の芯から温まってくるような気がした。
久しぶりの手料理の味に食が進み、僕はあっという間にスープを平らげてしまった。
「お腹、空いてたのね。」
黙ったまま、僕は小さく頷いた。
実際のところ、それほどお腹が空いていた訳ではないが、温かい手料理に飢えていたことは、確かだ。
「ねぇ、キミ。どこから来たの?一緒に来た人は?」
皿を洗いながら、聡子が僕に尋ねてくる。
まぁ、普通の人間なら誰でも気になるだろう。
ここは、時が進んだこの時代でさえも滅多に人間の立ち入らない山の奥。
山小屋があったことにさえ、僕には驚きだった。
「もしかして、自殺志願者とか?」
黙ったままの僕に、聡子はあっさりとした口調でさらに尋ねてくる。
なるほど、そのような人間であれば、ここに迷い込んできていてもおかしくはない。
そして、聡子の問いに対する僕の答えは、イエスだ。
僕は、死ぬ方法を探していたのだから。
敢えて答えはしなかったが、聡子は僕の沈黙を「イエス」と受け取ってくれたようで。
「そっか・・・・とりあえず、今日はここに泊まって行けばいいわ。」
黙ったままの僕を見て、優しく笑った。
「もうすぐ、彼も帰ってくるから。」
不思議だと、思っていた。
人間との接触が久しぶり過ぎて、恐怖を感じる感覚がマヒしているのかと思ったくらいだ。
聡子に初めて会った時、僕は全く恐怖を感じなかったのだ。
人間との接触を避けてきたのは、もう誰も失いたくなかったからだ。
接触してしまえば、近い未来に必ず失ってしまうから。
でも、聡子には何の恐怖も感じなかった。
その理由が分かったのは、『彼』が帰ってきた時だった。
「ああ、来ていたのか。」
「お帰りなさい、周平さん。」
小屋の奥に座り、僕は帰ってきた『彼』を迎える聡子を見ていた。
(ああ、そっか。そういうことか。)
聡子が『彼』に向ける感情は、恋そのもの。
このまま聡子が『彼』に恋をしている限り、僕への感情が生まれる事は無いはずだ。
僕が何もしない限りは。
(良かった。さとこは大丈夫だ。)
ただ、残念なことがひとつだけ。
『彼』から聡子へ向けられている感情は、どう欲目にみたところで、恋と呼べるようなものではない。
それでも少しだけ安心して、僕は膝をかかえて丸くなった。
入り口付近では、『彼』と聡子がまだ何やら話し込んでいる。
話し声を遠くに聞きながら、うつらうつらとし始めた時。
「おい。」
すぐ上からかけられた声に顔を上げた僕は、すぐには言葉が出なかった。
そこに、隆之が立っていた。
だが、そんなはずもなく。
立っていたのは、隆之と瓜二つの顔を持つ、周平という人間だった
「何があったのかは知らないが、君はまだ若いじゃないか。馬鹿なことを考えるんじゃない。」
(なにこれ、デジャブ?)
周平は、僕の前にしゃがんで目線を合わせると、聞いたことのあるような言葉を僕に掛ける。
(たかゆきと、同じ事言ってる。)
何も言い返さない僕に、周平はさらに続けた。
「今日はここに泊めてやる。でも、今日だけだぞ。明日になったら、家へ帰るんだ。家の人も心配しているだろうからな。」
そう言って周平は、くしゃくしゃと僕の頭を撫でた。
周平の発する言葉も声も、頭を撫でる手の感じさえも全てが懐かしくて、僕は黙ったまま声を殺して泣いた。
暫くの間、周平はそんな僕の頭を撫で続けてくれていた。
翌日。
「ほらほら、起きて。はい、飯食って。」
慌ただしく周平に起こされ、朝ご飯を食べさせられ、僕はされるがままになっていた。
それはもう、反則だと思うくらいに、隆之との出会いをそのままなぞっているようだった。
ボーっとする僕の前で仕事着に着替えながら、周平はチラリと僕を見て、微笑む。
「俺はこれから出かける。お前は明るい内に山を下りろ。ちゃんと帰るんだぞ。いいか、もう変な気を起こしたりすんじゃないぞ。」
そう言って、ポン、と僕の頭をかるく撫でると、周平は小屋を出て行った。
閉まった扉を眺めながら、僕は考えた。
なぜ今、隆之にしか見えない周平が、僕の前に現れたのか。
顔は言うまでもなく、言動の全てが、隆之そのものだ。
あの、純粋な瞳さえも。
できる事ならもう一度隆之に会いたいと、僕は心から願っていた。
でも、叶う願いでは無かったし、叶ってしまえば、また同じ事の繰り返しになるだけだ。
隆之本人ではないが、瓜二つの人間に出会ってしまった僕は、一体どうすればいいのだろう?
(考えろ・・・・きっと何かあるはずだ。)
小屋の隅に腰を下ろし、膝を抱えて思考を巡らせていると、小屋の扉が開いた。
「あれ?キミ、まだいたの?」
入ってきたのは、聡子だった。
その時、僕のやるべき事は、決まった。
「何だお前、まだいたのか!あれ、何だよこれ!」
帰ってくるなり、周平は僕を見て驚き、そしてテーブルの上を見てさらに驚いた。
「お帰りなさい、周平さん。これ、全部この子が作ってくれたのよ。すごいでしょ。」
テーブルの上には、僕のお手製の料理。
何度も言うようだけど、そこらのファミレスなんかよりは、ずっとおいしいし、見栄えもいい。
「昨日泊めて貰ったお礼です。」
「これは・・・・驚いたな。」
「それじゃ、僕、帰ります。」
僕の言葉に、周平が慌てて僕の肩をつかんで顔を覗き込んでくる。
「馬鹿かお前。こんな暗い中、1人で山を下りられる訳がないだろ。」
隆之と同じ、心の中まで見透かされそうなほど、純粋な瞳。
まっすぐに僕を見つめる周平の瞳を捕らえて、僕は聡子の方へ意識を向けた。
ほどなくして、2人同時に倒れこむ。
「お幸せに。」
小さく呟いて、僕はそっと山小屋を出た。
僕の体に流れているのは、死神の血だけではない。
恋の女神の血も流れている。
周平は、僕ではなく聡子と一緒になるべきだ。
そして僕は今度こそ、大事な人たちを、彼らの寿命が尽きるまで失いたくない。
そう思った。
(ここはいつ来ても綺麗だな。)
お気に入りの泉の傍に跪き、僕は泉を覗き込んだ。
鏡のような水面に、僕の姿が映し出されている。
(ナルキッソス、か。)
ここに来るといつも、裕雅の言葉を思い出す。
(どうしたら僕は、ナルキッソスになれるんだろうね、ヒロ。)
ふと人の気配を感じて顔を上げると。
「お兄ちゃん、ナルキッソス?」
小さな男の子が、僕を見て小首を傾げていた。
その姿はまるで・・・・
(ヒロ・・・・)
”あきらーっ!どこにいるの!”
遠くの方から、聡子の声が聞こえてくる。
僕は笑って、男の子-明-に言った。
「さぁ、どうかな?ほら、お母さんがキミを探しているよ。早く戻ってあげないと。」
「うん。またね、ナルキッソスのお兄ちゃん!」
小さな手を振って、明は聡子の方へと駆けていく。
きっと聡子の傍には、周平もいることだろう。
僕はあれからずっと、周平と聡子を見守ってきた。
2人が一緒になり、子供を授かったことも、知っていた。
だがもう、その子供があんなに大きくなっていたとは。
しかも、裕雅に瓜二つの顔だなんて。
ただ、違うところが一つだけ。
明の瞳から、寂しさは全く感じられなかった。
周平と聡子に愛され、大切に育てられている、なによりの証だ。
(良かった・・・・)
心の底からそう思った時。
ふいに、目の前に死の鎌が現れた。
死神の僕が、見間違う事なんて、ない。
ということは。
(ああ、そういうことか。)
体中に安堵感が広がる。
もう間もなく、この鎌は僕の生を終えてくれるだろう。
僕に死を与えるのは、他ならぬ僕自身だ。
自分を知り、自身の欲するものを、僕自身に与えることができたから。
(ああ、これで僕もやっと・・・・)
満たされた想いで目を閉じる。
怖れることなんてない。
だって。
『ユキ。』
『ユキ兄ちゃん!』
あの2人が、僕を待ってくれているのだから。
死神の恋 平 遊 @taira_yuu
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