ラセン

「ねぇ・・・・ねぇ、だいじょうぶ?」

 体を揺さぶられ、僕は意識を取り戻した。

(あぁ、やっぱりね。)

 普通の人間ならば、あの高さから飛び込んだら、まず命は無いだろう。

 運良く助かったとしても、どこかしらに破損をきたしているはず。

 だが僕の体は、どこにも痛みが感じられない。

(そう簡単には死ねない、って事か。)

 小さくため息をつき、僕は目を開けた。

 だいぶ流されたのだろう、周りの景色には全く見覚えが無い。

「あっ・・・・気がついた?!」

 子供特有の甲高い声に視線を向けると、小さな男の子が1人、心配そうに僕を見つめていた。

「だいじょうぶ?」

「うん。」

 頷き、体を起こすと、少年はホッとしたように表情を崩す。

「良かったぁ・・・・。」

「君が助けてくれたの?」

「ううん、あのね、ボクがここに来たら、お兄ちゃんがびしょびしょのままここで倒れてたの。」

「そっか。」

「ねぇ、お兄ちゃん?」

「なに?」

 少年は、いつの間にか、僕の服の裾をしっかりとつかんでいる。

 見上げる瞳からは、寂しさが溢れ出していた。

(この子・・・・)

「ボクのうち、近くなの。あのね、お洋服びしょびしょだからね、ボク、お洗濯してあげる。」

 正直、一瞬迷った。

 このままいくと、僕はまた同じ事を繰り返してしまう。

 でも、この少年の瞳。

 それに、この子はまだ【恋】という感情を抱くには、あまりにも幼い。

 僕は、裾をつかんでいる小さな手を包み込んだ。

「お兄ちゃん?」

「ありがとう。じゃあ、お洗濯、してもらおうかな?」

「うんっ!」

 一瞬にして、少年の顔が輝いた。



「ヒロ、今日部活はどうしたの?」

「・・・・今日は無し。」

 鞄を放り投げ、裕雅は僕に背を向けたままベッドの上に寝ころんだ。

(そろそろ・・・・ここから出た方が、いいのかもしれないな。)

 思えばあの日、僕が少年-裕雅-に出逢ってからもう、10年の月日が流れている。

 当時6才だった裕雅も、今はもう16才で、背丈ももう僕に並ぶくらいだ。心だって、成長しているだろう。【恋】という感情を抱いていても、全くおかしくはない年頃だ。


 6才だった裕雅が、あまりにも孤独な瞳をしていたから。

 僕は誘われるままに裕雅の家に上がり込み、そのまま居座り続けていた。

 裕雅は母親と2人暮らし。母親は、働きに出ているのだか何だかよく分からないが、滅多に家には帰って来ない。

 裕雅はいつも、1人ぼっちだったと言っていた。

 起きた時も、学校から帰ってきた時も、ご飯の時も、寝る時も。

 母親の代わりをする気なんて無かったけれど、僕は裕雅の寂しさを少しでも和らげてあげたいと思った。

 裕雅の寂しさが、僕には痛いほど分かったから。

 裕雅は「ユキ兄ちゃん」と、僕を慕ってくれた。


 学校であった事を全部、僕に話して聞かせるのが、裕雅の日課。

「ねぇ、ユキ兄ちゃん!ボクね、今日お兄ちゃんにそっくりな人見つけたの!」

 まだ幼さの残る大きな目をクルクルと動かしながら裕雅がそう言ったのは、どれくらい前のことだっただろうか。

「・・・・え?」

「ふふ。あのね、ユキ兄ちゃん、ナルキッソスにそっくり!」

「・・・・な・・・ナルキッソス?!」

「うんっ!ボクね、今日、国語の授業でナルキッソスのお話読んだの!」

 嬉しそうに笑いながら、裕雅は僕にナルキッソスの話をしてくれた。

 ナルキッソス-ナルシストの語源。

 泉に映った自分の姿に恋い焦がれ、狂い死にした男の話。

「すっごくね、キレイなお顔してたんだよ、ナルキッソス。」

 ふと気付くと、裕雅は興奮のせいか、頬をうっすらと上気させて僕を見つめていた。

 ・・・・いや。

 興奮、などでは無かった。

 様々な情報の氾濫しているこの時代、早熟な子供達が増えている事を、僕は忘れていた。

 あの光は、まぎれもなく【恋する者】の目の輝き。

 伝わってくるのは、まだ幼いながらも、僕への確かな想い。

 僕は気付かぬ振りをしたんだ。気のせいだと、自分に言い聞かせて。

 まだ幼い裕雅をまた1人にする事なんてできなくて。

 それ以上に。

 居心地のいいこの場所から、去ることができなくて。


(潮時だな。)

 少し前まで一緒に寝ていた裕雅のベッド。

 最近、口には出さないながらも、一緒に寝る事を拒んでいるのが感じられる。

 まともに瞳を合わせる事すら少なくなっているのは、恋心の裏返し。

 そして裕雅自身も、気付き始めている。

 自分の中に沸き起こってきている、僕への想いの変化に。

 眠ってしまったのか、瞳を閉じたまま規則正しい呼吸を繰り返す裕雅から視線を外し、僕はそっと部屋を出た。

 行く当てなんて無いけれど、ここにはもう、居られない。

 1人で時を過ごす寂しさに、充分に耐えられる強さを、裕雅はもう持っている。

 いずれは可愛い女の子とでも出会って、恋に落ち、幸せな家庭を築くのだろう。

(僕に・・・・この忌々しい死神の血さえ流れていなければ・・・・)

 噛みしめた唇から流れ出る血を、思い切り地面に吐き出す。

(君と彼女との恋の手助けでも、してあげられただろうにね、ヒロ。)

 思いながら、胸が痛んだ。

 それは、裕雅を手放した痛みと。恋から目を背けた痛み。

 でも。それよりも。

(さよなら、ヒロ。)

 大事な人を死なせずに済んだ、という安堵感が、僕の心を大きく包み込んでいた。



『ユキ・・・・ユキ兄ちゃんっ!』

 裕雅が僕を呼んでいた。

 泣きながら、僕の名を叫んでいた。

『行くなっ、ユキっ!頼むから・・・・』

(ヒロ・・・・)

 涙を拭ってあげようと手を差し出すが、裕雅の体は次第に遠ざかってゆく。

(ヒロ、待ってっ!)

 追いかけようとして、足が動かない事実に僕は愕然とし、足下を見た。

(なっ・・・・)

 手が、地面から伸び、僕の足を押さえつけている。

(離せっ・・・・離せよっ!)

 怖くはなかった。

 その手が誰のものであるか、僕にはわかったから。

(お願いだよ、たかゆき・・・・離してっ!)

 必死にもがくが、隆之の手は、僕を離してはくれなかった。

 その間にも、裕雅の体はどんどんと遠ざかってゆく。

『ユキ・・・・お願いだから、戻って来てよ・・・・』

 消え入りそうな声で呟きながら、裕雅はじっと僕を見つめていた。

 10年前、初めて出逢った時と同じ、寂しさの溢れ出ている瞳で。

(ヒロ・・・・ヒロっ!)

 僕の目の前で、次第に裕雅の姿が薄れてゆく。

(待って、ヒロっ!僕はいるから・・・・ここにいるからっ!)

 届くはずが無いのはわかっていながらも、僕は腕を伸ばさずにはいられなかった。

 捕まえたい。

 抱きしめたい。

 裕雅を・・・・裕雅の抱く寂しさを、包み込んであげたい。

 だが。

『ユキの事が、好きなんだ・・・・。』

 そう残して、裕雅の姿は、消えた。


「ヒロっ!」

(はっ・・・・。)

 自分の発した声に驚き、目が覚める。

 運良く見つけた空き家の一室。

 身を起こしてソファーに腰掛けながら、僕は頭を抱えた。

 嫌な予感がしていた。

 夢の中で消えていった裕雅の姿。

 僕の足を捕まえて離さなかった隆之の手。

(たかゆき・・・・僕は、どうしたらいい?)

 今ここに、隆之がいてくれたら。

 唐突に、そんな事を思う。

 隆之がいてくれたら、きっと。

(僕を捕まえていてくれるんだろうね。あの「手」のように。)

 夢の中の隆之の手の温かさを思い出す。

(どうせなら、全身で出てきて、思い切り抱きしめてくれれば良かったのに、さ。)

 我が儘な自分の思いに苦笑を漏らし、僕はゆっくりと立ち上がった。

 僕が初めて愛した人間。

 初めて僕を本気で愛してくれた人間。

 求められて与えて、死なせてしまった愛しい人。

(君なら絶対・・・・)

 意識を集中させて、向かう先は裕雅の元。

(僕を行かせはしないんだろうね。)

 体を飛ばす直前、悲しげな隆之の顔が目に浮かんだ。

 だが。

(でも、ヒロが僕を呼んでいるから。)

 隆之の残像を振り払い、僕は裕雅の元へ向かった。


 裕雅がいたのは、自宅のベッドの上。

 血に染まったシーツの上で、うつろな瞳で天井を見上げながら。

「ヒロっ!」

 慌てて駆け寄って、僕はもう、手遅れである事を悟った。

 彼の枕元には、既に死の鎌の切っ先が見えている。

「あ・・・・」

 うつろな瞳が僕の姿を認め、微かな光が戻る。

「ユ、キ・・・・」

 弱々しく差し出された手を、両手で包み込む。

 動く度に新たな血液を溢れさせる傷口に、僕はそっと口付けた。

「なんで、こんな事に・・・・」

 聞くまでも無かった。

 でも、言わずにはいられなかった。

 大切な人をまた1人、目の前で失わなければならない事実に、僕は地団駄を踏みたい思いだった。

(失いたくなかったから、離れたのに・・・・)

 目頭に、熱いものが込み上げる。

(ただ寂しさを埋めただけだろっ、それなのに、何故こんな代償が必要なんだよっ!僕は彼に何も与えてないっ!)

「良かっ、た・・・・」

 ぼやける視界の中で、裕雅が微笑んだような気がした。

(えっ・・・・?)

 思わず涙を拭い、裕雅の顔を見つめる。

 裕雅の顔にはやはり、微笑が浮かんでいる。

(なん、で・・・・)

「ヒロ・・・・ヒロっ!」

「ありがと・・・・ぼく、だいす、き・・・・だった、んだ・・・・」

 裕雅の瞼がゆっくりと閉じられる。

「ヒロっ!」

 目を閉じたまま、裕雅が口を開いた。

 声もなく発した、最後の言葉。

 ユ・キ・に・い・ちゃ・ん

(ヒロ・・・・)

 僕の手の中で、裕雅の手から力が抜け落ちる。

 満たされた笑顔のまま、裕雅は息を引き取った。

(・・・・また僕は、大切な人を失ってしまったのか・・・・)

 やりきれない思いで、裕雅の手をそっと胸の上に置く。

 まだ温かい、僅かに開かれた唇に口付けて、僕は裕雅の部屋を後にした。



(もう、嫌だ・・・・)

 足の向くままに歩き続け、僕は都会の喧噪から抜け出した。

 寂しさを紛らわせたくて、身を潜ませた都会。

 けれど、人間との接触は、楽しい時間と引き替えに、残酷過ぎる思い出を僕の中に植え付けた。

 人間よりも長い生を与えられ、呪われた血をこの身に宿す僕は、この先一体何度同じ思いを味わわなければならないのだろうか。

(嫌だ・・・・もう、こんなのは・・・・)

 襲い来る絶望感に身を委ね、僕は、誘うように開かれていた山道への入り口へと、足を踏み入れた。

 薄暗い、閉ざされた空間に、己の居場所を求めて。

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