死神の恋

平 遊

メビウス

(あの日も雨だったっけな・・・・)

 橋の欄干に身も持たせかけ、冷たい雨に打たれながら僕は何故か可笑しくなって笑った。

「フフ・・・・」

 ちっとも可笑しくなんかない。だけど、なんだか可笑しい。

(あの日も確か、僕はここで笑っていた。そして・・・・)

 くるりと向きを変え、身を乗り出して、橋の下を覗く。

(そう、ここから飛び降りようとしていたんだっけ。)

 あの日-3ヶ月前の光景が頭をよぎる。



「やめろ!何をしているんだ!!」

 橋の向こう側に居た一人の男が、傘を放り投げて走ってきた。

 そいつは、欄干に片足をかけた僕の体を、力任せに引きずり降ろす。

「馬鹿なことはやめるんだ!」

 険しい顔をして、そいつ-隆之は僕の肩をつかんだ。

「何があったのかは知らないが、君はまだ若いじゃないか。こんな馬鹿なことはするんじゃないっ!」

 隆之は、えらい剣幕でまくし立てる。

 何も言わずに、僕はただ黙って立っていた。

 僕が何も言い返さないので、落ち着いたと思ったのだろう、隆之は表情を和らげ、僕の肩を抱いた。

「さぁ、もう時間も遅い。早く家へ帰りなさい。お家の人も心配しているだろう。」

 僕は俯いて、小さく首を振った。

 実際の所、僕には帰るべき家などないし、待っている家族なんてものも存在しない。

「・・・・帰りたくないのか?」

 僕は黙ったままコクリと頷いた。

 この場で説明するには、あまりにも面倒だ。それに、言った所で、信じてはくれないだろう。

「・・・・しょうがないな。」

 隆之はため息をつき、僕のびしょ濡れの頭をくちゃくちゃと撫でた。

「じゃあ、今日は俺の所に泊めてやる。でも、今日だけだぞ。」

 僕は再びコクリと頷いた。


「ほら、上がれよ。」

 そう言ってから、びしょ濡れの僕を見た隆之は、そのまま上がろうとした僕を慌てて押しとどめる。

「あ、ちょっと待った!」

 そして、バタバタと奥へ駆け込み、新聞紙をわんさか持って帰ってくると、僕の前に敷き始めた。

「よし、この上を歩いて上がっておいで。」

 言われたとおり、靴を脱いで新聞紙の道を歩いた。たどり着いた所は、風呂場。

「そんなにびしょ濡れじゃ、冷えちゃっただろ。ゆっくり温まってこいよ。その間に飯でも作っておくからさ。」

 人なつっこい笑顔を向け、隆之は部屋の奥へと消えた。

(・・・・面倒見のいい奴だな。)

 言われたとおり、濡れた服を脱ぎ、バスタブに浸かる。体の芯から温まる感じがした。

 風呂から上がると、僕の服は片づけられていて、着替えが用意してあった。

 僕は、遠慮無くその服を拝借することにした。

「ああ、上がったか。ちゃんと温まったか?」

 首を縦に振り、僕はワンルームの中程に置かれたテーブルの前に腰をおろした。

「きみの服、今日洗濯しといてあげるから、乾くまで俺の服で我慢してくれ。ちょっと大きいかもしれないけど。」

 隆之の言うとおり、拝借した服は僕の体には大きすぎ、袖も裾もだぶだぶしていた。

「はい、おまたせ。腹、減ってるだろ?」

 深く頷き、僕は隆之が作ってくれたご飯を黙々と食べた。隆之は、そんな僕を、食べ終わるまでずっと眺めていた。

「なぁ。きみ、名前なんていうの?」

 隆之の入れてくれたお茶をすすりながら、僕は首を斜めに傾げる。

 実際の所、僕には決まった名前など無い。

 僕の反応をどう解釈したのか、隆之はクスっと笑った。

「ああ、そう。言いたくない訳ね。じゃあ、俺が勝手に決めるよ。今日だけとはいえ、名前が無いんじゃ色々と面倒だからな。そうだな・・・・ポチ、ポチにしよう!」

(ポ・・・・ポチ?!)

 思わず湯飲みを取り落としそうになり、慌てる僕を見て、隆之はおかしそうに笑った。

「冗談だよ。そんな、犬じゃあるまいし・・・・ま、今のきみは拾われた捨て犬みたいなもんだけどな。さて、なんて名前にしようか・・・・」

 腕組みをし、隆之は僕をじっと見つめる。

(捨て犬を拾った方がまだマシだったかもしれないね。)

 僕は知らんぷりしてお茶を飲み続けた。

「決めた。」

 しばらくして組んだ腕を解き、隆之は僕を見てニカっと笑った。

「お前の名前は、ユキだ。」

(・・・・ユキ?)

 感情が顔に出ていたのだろうか。隆之は僕を見て苦笑した。

「ああ、まぁな、女みたいな名前だとかって思っただろ。でもな、いいんだよ。俺の名前から取ったんだから。」

(はぁ?)

 訳がわからずに、ポカンとして隆之を見る。

「ああ、俺、たかゆき、って言うんだ。だから、俺の名前の下半分、きみにやるよ。いいだろ?」

(ああ、そういうことね。)

 僕は素直に頷いた。

「じゃあ、今日からきみはユキだ。ま、一日だけの名前だけどな。」

 くしゃくしゃと僕の頭を撫で、隆之は食器を下げに行った。

(ユキ、か。まぁいいや。)

 僕は、隆之の背中を見つめながら、ゆっくりとお茶をすすった。


 ユキ。

 隆之が僕に付けてくれた、たった一日だけの名前。

 しかし、それは一日だけではなく、ずっと使われた。隆之が死ぬその瞬間まで。

「ほらほら、起きて。はい、飯食って。」

 慌ただしく隆之に起こされ、朝ご飯を食べさせられ、僕はされるがままになっていた。

 ボーっとする僕の前でスーツに着替えながら、隆之はチラリと僕を見て、微笑む。

「ユキ。俺はこれから会社に行かなきゃならないから、家まで送ってってやることはできないけど、ちゃんと帰るんだぞ。電話なら、好きに使っていい。ちゃんと親御さんに連絡しろよ。それから・・・・ああ、そうそう。鍵ね。合い鍵置いておくから、鍵ちゃんと締めて出て行けよ。締めたら、新聞受けの中に放り込んでおけばいいから。じゃあな、ユキ。元気でな。もう、変な気を起こしたりすんじゃないぞ。」

 そう言って、ポン、と僕の頭をかるく撫でると、隆之は出勤して行った。

(性別、男。年齢、25歳前後。独身。サラリーマン。名前、隆之-たかゆき。)

 僕は、拝借していた服を脱ぎ、隆之が洗濯しておいてくれた自分の服に着替える。

(そして僕の名前は、ユキ。)

 クスッと笑い、僕は合い鍵を持つと、部屋を出た。

 ポケットの中には、何枚かの紙幣。

(さて、と。)

 通りの向こうには、スーパーマーケット。

 僕は迷わず、そちらへ向かった。


 鍵を開ける音。ドアが開く音。

 僕はじっと、暗闇の中で息をひそめていた。

 それからほどなくして、部屋の明かりが点く。

「あ・・・・何だよ、ユキ。まだいたのか!あれ、何だよこれ!」

 隆之は僕を見て驚き、そしてテーブルの上を見てさらに驚いた。

「ユキが作ったのか?これ・・・・」

 テーブルの上には、僕のお手製の料理。

 悪いけど、そこらのファミレスなんかよりは、ずっとおいしいし、見栄えもいい。

「すごいなぁ、ユキ・・・・って、違うっ!そうじゃなくて!ちゃんと帰れって、言っただろ?どうして帰らなかったんだ?」

 僕は黙って俯いた。

「はぁ、しょうがないな。じゃあ、とりあえず飯食おう。腹減ったし・・・・せっかくユキが作ってくれたんだもんな。でも、飯食ったら、帰るんだぞ。ちゃんと俺が責任持って送って行ってやるから。」

 そう言うと、隆之はスーツを脱いで、部屋着に着替え出す。

 僕は、その手をそっとつかんだ。

「ん?なんだ、ユキ。」

「たかゆき。」

 隆之は、驚いたように僕を見た。

 無理もない。

 隆之と会ってから、この時初めて僕は声を出したのだ。

「お前・・・・しゃべれるのか。俺、てっきり・・・・」

「僕、帰る所無いんだ。ここにいちゃ、ダメ?」

「えっ・・・・?」

 一瞬出来た、隆之の心の隙。

 僕はたたみかけるように、さらに言葉を続けた。

「帰る家も、待っててくれる家族もいないんだ。ねぇ、ここにいちゃ、ダメ?僕、何でもするから。」

 隆之は、無言で僕をじっと見つめた。

 心の中まで見透かされそうな、隆之の純粋な瞳。

 僕は少しだけ、隆之を怖いと感じた。

(怖い?・・・・何故?僕が何故怖がらなきゃならない?)

 それは、僕が初めて人間に抱いた恐怖心。

 何故僕が隆之に恐怖心を抱いたのか。

 その時の僕には理解のできないまま、僕はその感情を押し殺した。

「それは、本当なのか?」

 しばらくして、隆之はやっと口を開いた。

 僕はコクリと頷く。

「信じて、いいんだな?」

 もう一度、僕は深く頷いた。


 隆之が僕に惚れるのには、そう時間はかからなかった。

 僕が隆之の家に居ついてからというもの、確実に、隆之は僕を好きになっていった。

 僕には、隆之の感情の変化が手に取るように分かるのだ。

「ユキ・・・・もう、寝たか?」

 同居を始めてまもなく、寝て暫くすると、隆之は必ずこう聞くようになった。

 僕は、眠ったフリをする。

 隆之は、返事をしない僕の顔を確認すると、ためらいがちにおやすみのキスをする。

(ああ、完全にオチたな。)

 唇から流れ込む、溢れんばかりの感情に、僕は頭がクラクラした。と同時に、また、恐怖心が湧き起こった。

(何だ、一体・・・・何で僕が怖がらなきゃいけない?)

 訳のわからぬ怖さから逃れようと、僕は僅かに身をよじる。

 隆之の唇が離れた。

「おやすみ、俺の・・・・ユキ。」

 『俺の』

 隆之は確かにそう言った。

 隆之は、僕を欲しがっている。

 僕を見つめる優しい眼差し。そして、時折見せる、切なげな瞳。

 欲しがっているのなら、くれてやればいい。

 今までだって、ずっとそうしてきた。

(でも、そうしたらたかゆきは・・・・)

 そう思って僕はやっと気づいた。

 僕を悩ませていた、恐怖の理由に。


「おかえり。」

「ただいま、ユキ。」

 言うなり僕らは熱いキスを交わす。

 腰に回った隆之の手が僕の上着の中に入り込むのを感じて、僕はさっと体を離した。

「あ・・・・お風呂のお湯入れっぱなし!」

 さっさと風呂場へ駆け込む僕の背中に、隆之の視線が痛いほど感じられる。

 わかってる。

 わかってるんだ、隆之が僕を欲しがっているのは。

 僕だって、隆之を嫌いな訳じゃない。いや、むしろ。

(好きだからこそ・・・・)

 しかし、隆之の感情に限界が来ているのも分かっていた。

(くそっ、どうすればいいんだ、僕は・・・・)


「ユキ・・・・」

 切ない瞳が、僕を捕らえる。

「だめだよ、たかゆき。」

 押し返した腕ごと、隆之は僕の体を抱きしめた。

 強く押し当てられた唇から、激しい感情が渦を巻いて僕の中に押し入って来る。

(限界、なんだな。)

 もう。拒みきれない。

 そう感じたとき、フッと、体の力が抜けた。

 と同時に、僕の心を恐怖が支配する。

「ユキ・・・・俺はいつまで待てばいい?」

「たかゆき・・・・」

 僕は隆之の首にぎゅっと腕をまきつけ、首筋に顔を埋めた。

「好きだよ、たかゆき。だから僕は、たかゆきを失いたくないんだ。」

 恐怖が、僕の心の中で増大する。

「だから・・・・」

 だめなんだよ。

 その言葉が、感情の渦にかき消された。

 僕も結局、隆之にオチていたのだ。

 この僕が。人間である、隆之に。

「バカだな、ユキ。俺はずっと、ユキの側にいるよ。約束する。ずっとユキの側にいる。」

(ずっとなんて、いられる訳無い、のに・・・・)

 涙が一筋、目尻から零れ落ちた。

 感情が、暴走し始める。

「愛してる、俺のユキ。ずっと、一緒にいるよ。」

 もう、何も考えられない。

 僕は隆之に全てを与えた。

 隆之が欲するものを、全て。

「愛してるよ、ユキ。」

(僕もきっと、たかゆきのこと『愛してる』んだ。だから、失いたくない。失いたくないのに・・・・)

 隆之に愛されながら、僕の瞳からは涙が止まることなく流れ続けた。


「喉、乾いたな。」

 照れ臭そうに僕を見て、隆之は立ち上がり、そそくさと服を着る。

「ちょっと、酒でも買ってくるよ。待ってろよ、ユキ。」

 布団に横になったままの僕の頭をクシャっと撫で、隆之は出て行った。

 永遠に、出ていったのだ、この部屋から。

 何故なら、隆之がこの部屋に戻ってくることはもう無いから。

 隆之が出ていって程なく、キキーッという耳障りなブレーキ音。それに引き続き、ドンッという鈍い音。

(だから、だめだって言ったのに。)

 止まりかけた涙が、再び流れ落ちる。

 僕は手の甲で涙を拭い、自分の服を身につけた。

 ゆっくりと、部屋を見渡す。

 隆之と、ユキとして過ごした3ヶ月。

(忘れない・・・・絶対に。)

 僕は、今正に息絶えようとしている隆之の元へと体をとばした。


「ユキ・・・・」

 全身血まみれになりながら、隆之は必死に僕の方へと這って来る。

「だめだよっ、あんた!動いちゃ!!」

 通りがかりの人間が、そんな隆之を必死で止めようとする。

 しかし、その手を振り払い、隆之は僕の方へと手をさしのべた。

「ごめん、ユキ。俺、ずっと一緒に・・・・居るって、言った、のに・・・・」

 僕は、腕を伸ばして隆之を抱きしめた。

「ごめん、な、ユキ・・・・」

「いいんだ、いいんだよ、たかゆき。さぁ、もう目を閉じて。ゆっくりおやすみ。」

「おやすみの、キスは?」

 苦しそうに顔を歪めながら、隆之は僅かに微笑む。

「キスして、くれな、きゃ・・・・眠れそう、も、ないな・・・・」

(だから、たかゆきを失いたくないんだって、言ったのに!!)

 やり切れない想いを胸に、僕は隆之にキスをした。

 最初で最後の、僕から隆之へのキス。

 僕は、隆之の瞼の上に手をかざし別れを告げた。

「おやすみ、僕の・・・・たかゆき。」

 遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。

 僕はその場から姿を消した。



(あの時僕を止めたのが、たかゆきじゃなかったら・・・・たかゆきはまだ生きていたんだろうな。あの家で。)

 懐かしい、隆之の家を思い出す。

 たった3ヶ月、過ごしただけの家。

 3ヶ月など、僕にとってみれば、ほんの一瞬に過ぎないはずなのに。

 その一瞬は、僕を大きく変えてしまった。

(あの時、たかゆきと出会っていなければ・・・・)

 僕の存在意義そのものを。

(僕が、死神じゃなかったら・・・・)

 そして僕は、初めて心の底から自分の出生を恨んだ。

(僕は、存在していちゃいけないんだ。)

 恋の女神と死神の、気まぐれの恋の末に生まれた子供。僕に近づく人間は、全て僕に恋い焦がれ、そして、僕を手に入れたとたんに、死の鎌が振り下ろされる。

 今までどれほどの人間が、僕に恋い焦がれ、手に入れた代償として死を迎えたか。

 でもそれは、仕方のない事だと。欲しいものを与えてやった代償だと。それが僕の存在意義だと、そう割り切っていたはずだったのに。

(たかゆきだけは、失いたくなかった・・・・)

 橋の下を流れる川をボーっと眺めているうちに、僕は全てが嫌になった。

(こうやって、僕はまたきっと、大切な人を失うことになるんだろうな・・・・)

 そう思うと、いてもたってもいられず、僕は欄干に片足をかけた。

「やめろ!何をしているんだ!」

 橋の向こう側から、一人の男が傘を放り投げて走ってくる。

(ふふっ、あの時と全く同じだ。ただ違うのは・・・・)

 構わず、僕は思いきり欄干を蹴り、宙に身を躍らせた。

(僕が本気だってことかな?)

「あっ・・・・何て事を!」

 上から、男の声が降って来た。

(いいんだ、これで。僕は存在していちゃいけないんだから。)

 クルクルと回転しながら、僕は落下し続ける。

 そして、もうすぐ川面という時。

 ふと、疑問が湧いた。

(でも、死神って、死ねるんだろうか・・・・)

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