太田

                                                    ピピピピ ピピピピ ピピピピ ピピピピ


 スマホの目覚まし時計は今日も優秀に働いている。でも私の背中を受け止めてくれているマットレスも、私の頭を優しく包み込んでくれている枕も、同じくらい優秀に働いているから困ったもんだ。

「アラーム……二十分後にまたかけて……」

「はい。わかりました」

だらしない私の寝ぼけ声にスマホの音声アシスタントの優しい声が返ってきて、心地いい低音ボイスがまた一層私の眠気を誘う。夜のうちに掛布団を蹴飛ばしてしまっていたようで、ぐちゃぐちゃになったそれを足でごわごわ撫でながら、目が覚めてから数分経っても私は体を起こせずにいた。というか、目を開くのすらままならない。ああ、眠すぎる。

眠気に抗えない私の耳に、階下からやけに響く大声が聞こえてきた。

陽葵ひまりー、さっさと起きなさい!今日は大事な日でしょ!」

どんなスマホのアラームより、結局この声が一番目覚ましに効く。一番優秀なのはお母さんだったみたいだ。おかげでさっきよりかはいくらか目も覚めて、私は体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。まだ頭がぼーっとするけど、今日は特別な日で準備も多いし、こんなことをしている場合じゃないことくらい私にもよくわかってる。

だけど、

「ダメだあ」

せっかく起こした体を倒して、私は顔から枕に飛び込む。ふかふかの枕は私を優しく受け止めてくれたけど、流石に真正面からそこそこの勢いで飛び込んでしまったせいで鼻をぶつけてしまった。

「あぅ」

だらしない声が部屋に響いた。ほんの少しの間だけ、枕に顔をうずめて、最後の抵抗を図る。

けど、寝ていたい頭とは裏腹に、さっきぶつけた鼻の痛さが私の目を覚ましてくれた。ただでさえ高くない鼻がまた一層低くなってたらどうしよう。

体を起こす、本日二度目。スマホを開くと、友達からのいくつかのメッセージと、牛丼チェーンのクーポンのお知らせ、そして時刻は、さっきアラームが鳴っていた時から十五分が経過していた。流石にだらけ過ぎちゃったな。

ようやくベッドから立ち上がって、背伸びをしてみる。小学生の頃は、高校生になったら天井に手が届くもんだと思っていたけど、どれだけ手を伸ばしても、背伸びをしてみても、天井にはまだ遠い。結局届かないままだったなぁ。

さあ部屋の扉を開けて、階下に降りようとしたその時、また、あの声。

陽葵ひまり!いいかげん起きてきなさい!あんたが一番後悔するんだよ!」

どうしてお母さんと言う生き物は、今から行動しようと思っている時に限って声をかけてくるんだろうか。

私が部屋を片付けようとした丁度その時に、部屋を片付けなさい!私が夏休みの宿題に手を付けようとした丁度その時に、宿題はやったの?

こうもタイミングが悪いと意図的なんじゃないかとすら思えてくるけど、意図的じゃないからまたたちが悪い。でもお母さんの言う通り、今日が人生でもトップクラスに大切な日だっていうことは、私にもよくわかっている。

なんてったって、今日は高校の卒業式だ。今日まで、長いこと同じ時間を過ごしてきた友達と会う機会が減ってしまうのに加えて、四月から東京の大学に行く私にとっては、今日という日は本当の意味での別れの日になる。そう考えると、こんなにダラダラしている場合じゃない、という思いが高まってきた。急がなきゃ。


自分の部屋を出て、階段を下る。一回曲がって洗面所にやってきた。

鼻は……大丈夫、そうかな。まあもともとそんなに高くないからね。そこまで気にしていたわけじゃないから別にいいんだけど。いいんだけど!

バンドで髪を纏めて、顔に水を浴びる。突然の刺激にまだ半開きだった目が覚めるのはいいけど、流石に水が冷たすぎた。

「ひゃっ」

思わず変な声が出てしまう。お母さんたちには……良かった、聞こえていないみたい。

モコモコの泡で顔を包んで、顔を真っ白で包む。その時、洗面台の脇に置いていたスマホが鳴り響いた。


ピピピピ ピピピピ ピピピピ ピピピピ


ああもう。そういえば、さっきアラームを二十分後に設定し直したんだった。今日はなんでこんなに万物すべてのタイミングが悪いんだろうか。

「アラーム、止めて!」

「はい。わかりました」

また優しい低音ボイスが返ってきて、しかし私の心中はあまり穏やかではなかった。だって、変に喋っちゃったせいで、泡が口に入っちゃったから。泡を洗い流して、タオルで優しく顔を包む。

OK、完全に目が覚めた。

こうしてこの家で顔を洗うのも最後かと思うと、今日は色々な最後に溢れすぎていた大変だな……と、すこし憂鬱になってきた。

なんてったって、私は、生まれてからこうして高校の卒業式を迎えた今日までずっと、この家で、この街で生きてきたのだから。


十八年前に生まれてから今日まで、私は人生のすべてをこの街で過ごしてきた。この街の病院で生まれて、この街の幼稚園に通って、この街の小学校、中学校、高校に通って、この街の美容室で髪を切って、この街のスイミングスクールで泳ぎを習って、この街のスーパーに並ぶ食べ物を食べてきた。この街を出たのなんて、去年の修学旅行で京都に行った時が最初で最後くらいだ。

あ、先週隣町に買い物に行ったっけ。


と、とにかく。私の人生のすべてとも言えるこの街を離れる決断に、私はまだ胸を張れていない。もちろん東京の大学に通えるのは嬉しいことのはずなんだけど、今日までお世話になってきた街を離れてしまう後ろめたさは、大学の合格通知を受けたあの日から、ずっと私の心に居座ってる。

なーんて、ただこれまでずっと一緒に過ごしてきた友達と別れるのが寂しいだけなのかもしれないけどね。

いくら技術が進歩してスマホで頻繁に連絡を取れるようになったって、技術はどこまで行っても物理的な距離を埋めることはできない。どこでもドアとかいう昔の漫画に出てくる道具に関する論文が、最近研究者の間で話題になっているらしいけど、結局のところ完成するまでには私の寿命が三つくらい必要らしい。


そういえば私の携帯、最近バッテリーが減るのが早くなってるんだよね。新生活も始まる今、スマホを買い替えたい気持ちは少し、いや、強くある。もっと欲を言うのなら、最新のアイフォン42が欲しいんだけど、一人暮らしをするわけだし流石に親には頼みづらい。

東京の大学に行くために高校の間は必死にバイトしたから結構な額のお金が溜まってるんだけど、それでもやっぱりアイフォンはただの高校生には手が出しづらい。


 卒業式のために気合を入れて、先生に怒られないレベルのメイクもバッチリした。いつもは色付きリップと日焼け止めくらいしか使ってなかったけど、今日は軽いアイメイクにも挑戦してみた。うん、出来栄えはそこまで悪くない、はず。

洗面所を出て、リビングに向かう。テレビを見ながら制服に着替えていると、お父さんもリビングに顔を出して、服装はこれでいいのかとあたふたしていた。

 この制服を着るのももう最後なんだよね。このデザインは結構好きだったから残念だけど、これからは自分の好きな服を着て大学に通えるんだと思うと、なんだかワクワクする。

なんて考えていたらいつの間にか食卓には朝ごはんが用意されていた。これからは一人でこれをやらなきゃいけないんだと思うと改めて一人暮らしへの決意と不安が湧いてくる。頑張らなくちゃ。

席について手を合わせる。不格好な目玉焼きの黄身を割っていたら、お母さんから尋ねられた。

陽葵ひまり、今日は夜ご飯は要るの?」

「う~ん。まだちょっとわかんないけど、多分うちに帰ってくると思う!」

私の言葉にお父さんが反応した。

「そうか、じゃあ今日は豪華に行こうか!寿司でもとるかな!」

「えー、お寿司は先月配達ドローンにぐちゃぐちゃにされてから出前は辞めようってなったばっかじゃん。それより私、お肉がいい!」

あの時は本当に大変だった……ベランダに散乱するカラフルな寿司ネタとお米の映像は、今でも鮮明に思い出せる。今でもたまに、ベランダの窓のサッシから、カピカピに乾いた米粒が出てきたりするんだから、その被害の爪痕は未だに深くこの家に刻み込まれている。もうあんな思いは懲り懲りだ。

「はいはいわかりました、期待して待ってなさい」

「やったーー!」

卒業生の特権をフルに使って、お肉の約束をゲットした、でかした、私。

「しかし、卒業式の次の日にもう出発なんて、流石に早すぎやしないか?もうちょっとゆっくりしていけばいいのに……」

そう呟いたのはお父さんだ。もう、今更後ろ髪を引くようなこと言わないで欲しい。何か言葉を返そうとして、しかしお母さんに先を越されてしまった。

「あのねぇ、陽葵ひまりだって向こうでの生活があるんだから。早めに向こうに行っておいた方がいいでしょ?あなたがそんな、この子の足を引っ張るようなこと、言わないであげてよ」

「それは僕もわかってるけどさ~。でもやっぱりなぁ、やっぱり、早すぎるよー!」

かつて見たことがないくらい弱弱しいお父さんの姿に、お母さんはため息交じりに言い放った。

「いい加減に、せい!陽葵ひまりを笑顔で送り出すのが、今日のあなたの役目でしょ!」

お母さんのチョップがお父さんの頭に炸裂した。痛そーとは思いつつ、しかしグチグチ言ってたお父さんは少し面倒くさかったので、少しすっきりした気持ちがなかったわけでもない。

陽葵ひまり。お父さんは放っておいて、もう出なきゃいけない時間じゃないの?」

お母さんの言葉に時計を見ると、確かにもう家を出なければいけない時間になっていた。

残りの味噌汁を流し込んで、ごちそうさまを言いながらソファのトートバッグを掴んで、あっという間に体は玄関にあった。私も急げばこれくらいはキビキビ動けるのだ。

玄関の扉に手をかけて、その時後ろから声をかけられた。

「あ!ちょっと待って、陽葵ひまり

「なに?」

「こっち向いて、はい、チーズ」

シャッター音が鳴って、私はポーズを取る間も、急ぎ過ぎて乱れた前髪を直している間もなく、お母さんのスマホに写真データとして収められた。スマホを眺めているお母さんは、恐らく今撮った写真を確認しているんだろう。満足げな様子で言った。

「はい、OK。これおばあちゃんに送っとくね」

「ちょっと!もっとちゃんと撮ったやつにしてよ!」

「いいじゃない、ほら、この写真も十分かわいいかわいい」

「適当言ってるでしょ!とにかく、送るならほら!ちょっと待って!」

ポケットから鏡を取り出して、前髪を直す。乙女に急にカメラを向けるなんて、お母さんは何にもわかってないんだから。

鏡とにらめっこしていたら、お母さんが声をかけてきた。

「そんなことしてる暇あるの?待ち合わせ、してるんでしょ?」

スマホを開くと、ほんとだ、もうそんなに時間がない。腹立たしいが、写真は諦めるしかなさそうだ。

「ごめん!もう行くね!」

扉を開けようとした時、ちょうどお父さんもリビングから出てきた。さっきは曲がっていたネクタイもまっすぐに直っている。

「また後でな、今日はばっちり陽葵ひまりの雄姿をデータに収めるから!」

「車には気を付けてね!」

「わかってる!あ、そうだ、お父さんお母さん。今まで十八年間、お世話になりました!じゃあね!」

最後にそう言い残して、玄関の扉を閉める。お父さんの泣き声が聞こえてきた気がしたけど、泣くには少し早すぎるよ。

家の前の公園では大きな桜の木がこっちを見下ろしている。桜の木、とは言ってもまだ花はついていないけど。


はぁ……。結局今年もダメだったか。


今は西暦二千六十二年の三月九日、私が高校を卒業する日。

そしてここは北海道の右斜め下くらいに位置する、特に特徴のない普通の町。

事の始まりは十数年前、それから徐々に悪化するばかりの地球環境が原因で、日本は異常気象に見舞われるようになっていった。夏と冬が長くなって、春と秋がどんどん短くなっていった。そんな異常気象のせいで今では気候区分上、春というのは三月九日のたった一日だけを指す言葉となった。三月八日までが冬で、三月十日からが夏というわけ。ちなみに秋は九月十七日だけ。開花前線は爆速で日本列島を南から北に駆け抜けていき、桜という花は三月九日、つまり春にしか見られないとてもレアな花となり、ますますその希少性を高めた。昔は桜が二週間も見られたっていうんだから驚きだ、タイムマシンがあったら見に行きたい。


そんな状況で、日本の教育委員会は強気な作戦に打って出た。学校の卒業式を、全国の公立小学、中学、高校、大学で一律に、たった一日だけの春である三月九日に執り行うことを定めたのだ。私立でもこの日以外に卒業式を行っているところは全国でも両手の指で収まる程度らしい。ちなみにこの強行の理由は『卒業式といえば桜は欠かせないから』らしい。

でもその制度のおかげで一つの学校に来られる来賓の数が減って、卒業式の時間が減ったのはいいことだと思う。

けれど、この制度には一つだけ問題があった。沖縄から本州にかけては三月九日に問題なく桜が咲くから、卒業式の日に桜を見ることも問題なく叶うのに対して、なぜか日本で、北海道だけは三月十日に桜が咲く。

だから北海道では、春という貴重な一日に、卒業式という晴れの日に、桜を見ることができないのだ。

毎年毎年春になるたびに「来年は北海道でも三月九日に桜が見られるようになるかもしれません!」とアナウンサーは言っていた。けれどそんな予報は今年も的中しなかったみたいで、実際目の前の桜の木にピンク色は少しも見当たらない。

思い返すは三年前の中学の卒業式の日。桜吹雪が舞わない別れの日を経験したあのときから毎年、来年こそ!と思っていたんだけどなぁ。結局今年も、三月九日の北海道に桜は咲かないみたいだ。人類共通の敵みたいな存在の地球温暖化も、津軽海峡には弱いらしい。

そんな理由から、北海道の学校の卒業生は、毎年疎外感みたいなものを感じながら学校を去っていく。悲しいけど、気候や植生なんて個人にはどうしようもないことだ。


家を出てから待ち合わせ場所に向かう途中、いくつか桜の木らしいものが見えたけど、やっぱり花をつけている木は一つも見つけられなかった。桜だって花をつけていなければただの木だ。一度でいいから、桜吹雪に見送られながら学校を去ったりしてみたかった。気付かないうちに頭に桜の花びらを乗せながら、卒業記念の自撮りをしてみたかった。


小走りで向かえば時間丁度に待ち合わせ場所には到着できそうで、見えてきたそこには見慣れた顔があった。信号のない十字路の交差点に置かれた自販機の横にもたれかかって、スマホを触っている。髪で隠れて見えないけど、多分イヤホンで曲を聴いてるはず。あの子が好きなアイドルの新曲が、昨日に発売されていたから。

声をかけても気づかないかなと思い、私は彼女の元まで駆けて行って、肩をちょんちょんとつつく。こちらに気づいて、彼女は髪をかき上げてイヤホンをはずした。思った通りだ。

「おはよ!おー、なかなか決まってるじゃん」

いつも通りの元気な声、最後の日までこの子は変わらない。

「うん、おはよう。そう言うさくらも、いつもより気合入ってるね!」

「そりゃあまあ、人生一度の高校の卒業式ですから!」

そう強く言ったこの子は、さくらは、私の幼馴染だ。宝石みたいに綺麗な黒髪を首元まで伸ばしていて、毛先は軽く内側にカールしている。よく見れば彼女も、今日はいつもより気合を入れているみたいで、普段全く化粧っけのないさくらだからこそ、より今日という日への気合の入りようが伺えた。

身長は私と変わらないくらいなのに、女バスの副部長で人望もある彼女とは、思えば幼稚園の頃からずっとおんなじ道を進んできた。

でも、それも今日でおしまい。

さくらが髪をかき分けて、両耳から外した黒いイヤホンを小さなケースにしまった。私たちは学校に向けて歩き出す。

「にしても、今日は過ごしやすいね。昨日なんか布団が手放せなかったのに」

「ほんとだよ、昔の人が羨ましいわ。そういえば出発は明日だっけ?もう用意はできてるん?」

「うん、主な荷物は昨日送ったから、部屋が空っぽでなんか寂しかったよ」

今朝眠っていた布団は来客用のもの、顔を洗うのに使った洗顔フォームはお母さんのもの。今あの家にある私のものは、たった一つのキャリーケースに収まるほどしか残っていない。あの家にとって、私は来客になってしまったんだ。

「しっかし、三歳からの付き合いの陽葵ひまりが東京の大学に行くとはね。人生何があるかわからんもんですなー」

センチメンタルになりかけた私を、呑気なさくらの声が引き戻してくれた。

「私も東京の大学に自分が行くなんて思ってなかったよー」

軽く返して、私たちは学校に向けて歩みを進める。


さくらが昨日発売されたアイドルの新曲の感想を長々語っているのを聞きながら見慣れた道をトボトボ歩いていたら、あっという間に学校に到着していた。下駄箱で上履きに履き替え、階段を一つ登って教室に向かう。私とさくらは同じクラスだから、目指す先も同じだ。さくらの推しトークは教室に入ってもしばらく続いていた。

クラス内ではどこか浮ついた様子のみんなが卒業アルバムに寄せ書きを書きあっているようで、さくらもすぐに女バス仲間に引っ張られて行ってしまった。さくらを失った私は教室に一人ぼっちだ。クラスメイトもほとんどが中学校から持ち上がった顔ばかりだから、さくら以外に一人も友達がいないわけではないんだけど、卒業式の日というのは一番親しい人と過ごすもので、そんな日に私と過ごすことを選んでくれる人はそう多くない。声をかけてくれた何人かと寄せ書きを書きあって、あとは暇にしていた。

さくらは今頃寄せ書きを書きまくっているのだろう。私の分の寄せ書きのスペースが残ってるといいけど。

私の卒業アルバムの余白には……確認するまでもなく、まだまだ余裕はいくらでもあった。

しばらくして、寄せ書きを書き終えたさくらが教室に戻って来た。さっきよりも心なしか疲れているようで、軽くからかってみる。

「お疲れ様、人気者は大変だね」

「そんなんじゃないって。でも、疲れたのは本当かも」

あの体力馬鹿のさくらがこうもわかりやすく疲れている姿はなんだか面白い。たっぷりの寄せ書きが詰まっているであろう文集を小脇に抱えて、ひらひらと手で顔を仰いでいる。

「卒業式の後、女バスで集まりとかあるの?」

「ううん。今日じゃなくって、来週にちゃんと集まろうって話になってる。そういえば店も昨日送られてきたわ」

ここだよ、と言ってさくらはスマホの画面を見せてくれた。

そこに映るのは、隣町のショッピングモールの中にある、鉄板焼きのお店のホームページだ。高校生の打ち上げ会場としてはまあ定番のチョイスかな。このお店は確か、この前お母さんがママ友と行ったとか言っていたような……。

「ここ、豚平焼きが美味しいらしいよ」

お母さんが言っていたことをそのままさくらに教えてあげた。

「ほんと?じゃあ絶対頼むわ」

「感想聞かせてね」

「楽しみに待ってな」


弾む会話もそこそこに、せっかくなので黒板の前で何枚か写真を撮ることにした。卒業式のために気合を入れて飾られた黒板には、中央に綺麗な桜の木が描かれていて、その周りをクラスの生徒の名前が埋めている。美術部の子が早く学校に来て描いてくれたらしい。イラストくらいは桜を楽しみたい、という道民の願いがここにも表れていて、その健気さには涙が出そうになる。聞いたところによると、他全てのクラスでも黒板には桜が描かれているらしい。

黒板の下のチョーク置き場には、大活躍の末にボロボロになったピンクのチョークのかけらがいくつも転がっていた。黒板下の受け皿に広がっている粉々のピンク色は、まるで水面に浮かぶ桜の花びらのようだった。

「やったよ陽葵ひまり!卒業式の日に桜が見られた!」

同じことを思ったのか、よくわからないテンションでさくらは一人で盛り上がっている。

「やったね!道民の念願が叶ったんだ!」

私も乗ってみた、けど、

「なんか空しいな……」

「それは言っちゃダメだよ、本当に空しくなっちゃうから」

口に出してみたら本当に空しくなってきた。黒板から目を外して窓の外に目をやれば、そこにピンク色は少しも見つけられない。勝手に盛り上がって勝手に落ち込んで、私たちは何をしてるんだろうか。

って、ダメダメ。落ち込んでる場合じゃなかった。私はスマホのカメラを開く。さっき髪型を直したときに内カメラにしていたから、それ以上の操作は要らなかった。

「撮るよー!」

「はい、卒業!」

「なにその変なかけ声!」

パシャっと音が鳴る。さてさて、出来栄えはどうかな。

ありゃ、

「なんでさくらって昔から写真撮るとき半目になっちゃうの?こんな大事な日の写真まで半目じゃん!」

「修正できるからいいんです~!そう言う陽葵ひまりこそ笑いすぎて表情崩れてんぞ~!」

「だって、さくらが変なかけ声するから!」

「卒業式の日なんだからはい卒業、で撮るのは当然だね」

「なにそれ、やっぱ変!あはは!」

二人で笑いあっていると、担任の先生が教室に入って来た。

普段はシワシワのジャージを着ているのに、今日はスーツをピシッと決めていて、なんだか見慣れない光景だ。

一人の男子が、ちゃんとした格好もできたんですね、なんて先生を揶揄っていて、最後の最後までお前は生意気な奴だなと、先生も負けじと言葉を返している。その言葉にクラスのみんなは笑った、私も笑った。卒業式の緊張感は少しもなくって、みんな必死に寂しさを思い出さないようにしているみたいだった。



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卒業式はあっという間に終わってしまった、一人一人の名前を呼んでいたから言うほどあっという間ではなかったけど、私たちが高校で過ごした三年間に比べたらあっという間だ。たったこれだけの時間で私たちの高校生活が終わっちゃうんだと思うと少し寂しいような、卒業式が長すぎても退屈なだけだから嬉しくもあるような……。

退場のBGMに合わせて列を成して体育館から出て行って、そのまま私たちは校庭に出た。

校庭では後輩たちが花道を作って私たちを送り出してくれていた。私はバイトばかりしていて部活には入っていなかったから知ってる顔は一つも見つからないけど、そんな私にも後輩くんたちは、おめでとうございます!なんて、嬉しい言葉をかけてくれる。何の思い入れもない私でもちょっとウルっときちゃうんだから、バスケ部でたくさんの後輩に慕われていたさくらはヤバいんだろうなぁ。そう思って私よりも後ろにいるさくらの方に目を向けてみたら案の定、これまで見たことのないくらい号泣していた。ふふ、写真撮っちゃお。


スマホに無事さくらの号泣を収められて満足したのも束の間、気づいたら私の目からも涙がこぼれていた。

これはきっとさくらのせいだ、泣いているさくらにつられて、こっちまで泣かされてしまった。

花道も通り抜けて、校門を出る。さくらと落ちあって、お父さんとお母さんを探す。写真を撮ってもらうためだ。

校門脇の桜はやっぱり花をつけていないけど、でももう、今はそんなことはどうでもよかった。桜なんかよりも、今日この日の私たちをデータに残す方が何倍も大切だ。


「いた?」

「いない。うちのお父さんに似た人はいっぱいいるんだけど……」

「あはは!自分の親くらいちゃんと見分けてよ~!」

「難しいな……おっさんなんてみんな似るからなぁ……」

涙で顔をグチョグチョにしてるくせに、酷い言いぐさだ。そうは言いつつも私もまださくらの親はおろか、自分の両親も見つけられていないから、あまりさくらを責めてばかりもいられないんだけど。


その後、かなり時間をかけたものの、無事お互いの両親とも落ちあうことができた。私たちは、校門横に立てかけられている、卒業式と書かれた看板の前で言われるがままに写真を撮られていた。

うちのお父さんがシャッターを切ったかと思ったら次はさくらのお父さん、次はうちのお母さんの方を向いたら、すぐにさくらのお母さんの構えるカメラに目線を求められる。こんなに写真を撮られることなんてないから、なんだかだんだん恥ずかしくなってきた。だって、私もさくらも涙で顔はグチャグチャ、目も真っ赤なんだから。気合を入れた目元が崩れていないか心配になってきた。普段ならこんなコンディションでの写真なんて絶対に撮られたくないけど、でも今日ばっかりは許せる。今日だけ、だけど。


両親の撮影地獄からもようやく解放されて、私たちは学校を離れ、どこに向かうでもなくとぼとぼ歩いていた。歩道と車道を分かつ少し小高いブロックを、一本橋を渡るみたいにフラフラ歩いているさくらに尋ねる。

「どこのお店行こうか?まあ今日はどこも混んでそうだけど」

「そうだなぁ、うちの近くの高校もあるし、この近くでは厳しそうだよなぁ」

「そうだよねぇ」

早速困行き詰まってしまった。全部の学校で一度に卒業式が開かれてしまうのはいいけど、こういう時に困る。北海道でもこうなら、学校の多い東京なんてもっと大変なんだろう。街が卒業生で溢れているんじゃないだろうか。

「しっかし、改めてこの町ってなんもないんだなー。東京に行ける陽葵ひまりが羨ましいわ」

ふと、さくらがそう呟いた。

さくらのその言葉は特に意図なく放たれたものだったと頭ではわかっているはずなのに、どうしてか私にはそれが刺さった。

やっぱり、私はまだ、この町を出ていくことに後ろめたさを感じてしまっている。東京の大学に通うことを決めたのも自分で、そのために努力したのも自分のはずなのに、ふとした瞬間に後ろ髪をひかれるような感覚に襲われる。こんな曖昧な気持ちのままこの町を離れたくはないけど、そんなことを言っている間に、出発はもう明日に迫ってしまった。

「あはは……まあ、この町も悪いとこじゃないけどね……」

口先だけで弱弱しく呟いた言葉は、我ながら実に無責任だ。そんなことを言っておきながら、明日には私はこの町から離れてしまうのに。私にはそれしか返せなかった。

「まあそうだけどさ、私は家の手伝いもあるし、弟たちの面倒も見ないといけないから、まだしばらくはこの町で過ごすことになるわけだし。そう思うとなんか、退屈だなーって思っちゃうわ。しばらくってか、一生になるかもだけどさ」

あはは、と、私とさくらの乾いた笑いが、昨日までとは違って過ごしやすい春の陽気の中に消えていった。

さくらの両親はこの町で会社を経営していて、二人ともとても忙しい人だ。今日の卒業式で初めて、二人が揃っているところを見たかもしれない。

それくらいに忙しい二人の会社を手伝うためにこの町に残るさくらと、この町を離れる私。何か言葉を返したかったけど、私が何を言っても薄っぺらく思えてしまって、言葉が口をついてくれない。

「私がこのままこの町で一生過ごすことになるんなら、春に桜を見ることもできないってことだよね。なんか皮肉だわ、こんな名前してんのにさ」

「あはは、将来には地球の気候が良い方向に変わってるかもしれないよ」

「確かに。でも私にはそれを願うことしかできないよなー」

さくらがそう呟いたのを最後に、しばらく沈黙が続いた。

私たちは歩みを進めるけど、どこに向かっているのかは二人ともわかっていない。曖昧な気持ちのまま人生の流れに身を任せているだけの私みたいだ。

さくらが見られない春の桜も、私は来年になれば簡単に見られるんだろう。

さくらが好きなアイドルのイベントも、特にアイドルに詳しくない私の方が、参加の難易度は下がるんだろう。それがこの町を出る、東京に行くことの意味だから。

東京の大学に通うことは悪いことではないはずなのに、どうしてこんなに罪悪感を覚えてしまうのかな。

黙り込んでしまった私を見かねてか、さくらがおどけて言った。

「ごめんごめん、なんか暗い話しちゃったわ。どこ行く?やっぱ手堅くサイゼかな?」

その時、私の中に一つの覚悟が生まれた。私はそんなに頭が良くないから、モヤモヤしたとき、考えが停滞したとき、私は体を動かしたくなる。

「………行こう」

何を言えばいいか迷っていたさっきまでと違って、無意識のうちにそう呟いていた。

「やっぱサイゼだよね。そう言うと思ったわ」

この選択は間違ってるのかもしれない、自己満足なのかもしれない。でも、もう私の心は決まってしまった。

「桜!見に行こう!」

「は?」

頭の上に大量のクエスチョンマークが浮かんで見えるくらい、さくらは私の言葉が飲み込めていないようだった。

私たちの歩みは交差点に差し掛かった。進行方向の信号は青く光って「進んで良し」と言っているけれど、私の言葉にさくらは足を止める。

私たちと同じ方向から来た左折しようとしている車が、急に立ち止まった私たちの方を見て戸惑ってるのが目についた。ごめんなさい、渡らないので曲がっちゃってください。

私はいつも言葉足らずになってしまってよくない。あまりに驚かせてしまったことを反省して、私は再び、しかしさっきよりもはっきりと言った。

「桜だよ!花の、あの桜!見に行こう!」

ちゃんと言い直したつもりでいたけど、さくらは再び黙り込んでしまって、しばらく考え込んだ後、

「……ごめん何度聞いてもやっぱわからん!桜?どこに?道内じゃまだどこも咲いてないでしょ?」

「それなら北海道から出ればいいんだよ!本州行こう!どこが良いかな……。うん、せっかくだし東京だね!東京に桜を見に行こう!」

卒業式の日に東京で桜を見る、うん、最高の想い出になりそうだ。

目を輝かせる私と対照的に、さくらはどこまでも冷静な意見を熱量高くぶつけてくる。

「ちょ、ちょっと落ち着け!あんた今すごいこと言ってるよ!」

「私はずっと落ち着いてるよ!行こう、今から行こう!今すぐ行こう!」

「落ち着いてる人の鼻息の荒さじゃないから言ってんの!今から?どうやって?」

「どうやってって、そりゃあ飛行機でしょ!」

「当たり前でしょみたいな顔しないで!私だって歩いていくとは思ってないわ!そうじゃなくて、今から飛行機乗るの!?」

「乗ろうよ!見たくない?桜!」

「み、見たいけど……でも……」

「考えてたって始まらないよ!春はあっという間なんだから!今すぐ行かなきゃ!あ!ナイスタイミング!」

私たちが渡ろうとしていた信号は赤になってしまって、同じくその信号に引っかかったタクシーが、私たちの前に停車した。

この町でタクシーが走っているのなんてあまり見かけることはないけど、これはもう、神様も私たちに東京に行けと言っているんだろう。うん、そうに違いない。

後ろでまだ何か言っているさくらの手を引っ張って、タクシーの助手席の窓をコンコンと叩く。後ろのドアが開く。私はさくらの手を掴んだままタクシーに乗り込んで、さくらも成すすべなく引っ張られるまま私の隣に腰を下ろした。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

もうさくらの声は聞こえていなかった。いや、聞こえていたけど聞こうとしていなかった。私はタクシーの運転手さんに言う。

「帯広の空港までお願いします!」

信号が変わってタクシーが走り出した。ハンドルとカーナビを同時に操っている運転手さんに、危なくないのかなと少しハラハラしつつも、でも今は身を預けるしかない。

時間はちょうど昼の12時を回ろうとしている。何時頃に向こうに着けるだろうか。あ、モバイルバッテリー家に忘れた。流石に一度家に帰るくらいすればよかったかも……いやいや、冷静になってる場合じゃない。充電なんて向こうでどうにでもなる。今大事なのはこの熱を冷まさないことだ。

完全に東京へ行く方へと思考を始めた私に、タクシーがしばらく走って町を抜けようとした頃、ようやくさくらの声が届いてきた。

「ちょっと落ち着け!?今の陽葵ひまり、ちょっとテンションおかしいよ!」

「そうかもね!」

正直その自覚はある。今の私は、ちょっとハイになりすぎちゃってる。

「そうかもねって……だから落ち着けって!」

驚きと疑問に満ちていたさくらの声色に徐々に心配が混じり始めた。流石に私もくじけそうになるけど、ここで引いちゃダメな気がする。気がするだけだけど。

でも、ここで引いてしまったら、私は本当の意味でこの町を出られなくなってしまうような、そんな予感がするんだ。

「落ち着いてる場合じゃないよ!落ち着いちゃったら、こんなバカなこと出来ないじゃない!」

「そうなって欲しいから落ち着けって言ってんの!てかバカ言ってる自覚はあったんかい!大体東京って……あんた明日行くんでしょ!?そのまま向こうにいる気!?荷物は?すぐ帰ってくんの?」

私たちの言い合いを聞いているのか、運転手さんがバックミラーでこちらを伺っているのに気づく。こんなに意見の一致してない二人を乗せてしまったんだから無理もない。進めばいいのか戻ればいいのか曖昧なままにしておくのも申し訳なくて、一旦さくらとの口論を止めて、前に向き直す。

「あ、大丈夫なんで、空港までお願いします!」

私のその言葉を合図にしたかのように、タクシーのスピードがグンと上がった。


その後も私たちの言い合いは続いて、決着がつくことはないままタクシーは空港に到着していた。料金は一万円を少し超えるくらい、その金額には驚いたけど、さくらのほうが私の何倍も驚いてくれていたので私はそこまで驚きを表に出さずに済んだ。しっかりカードで料金を支払って、運転手さんに軽くお礼を言いタクシーを降りたら、そこはもう見慣れた空港だ。

当日飛込みでも航空券が買えるだろうか。これまで飛行機に乗るときはいつも決まって何日も前から航空券を予約してたから、ここに来て不安になってきちゃった。そもそもすぐに乗れる東京行きの便があるかどうかもわからない。思案する私に、未だに納得のいっていない様子のさくらがもう何度目か分からない言葉をかけてきた。

「ちょっと待とう!一旦待とう!本当に行くの!?」

「だって、もう一万円払っちゃったんだよ。ここで帰ったら一万円払った意味がなくなっちゃうじゃない」

そう、ここまで来てしまえばもう引き返すのは難しい。タクシーを降りた時点で、この勝負は私にとても有利になった。

「それは、そうだけど……でも……」

歯切れの悪くなったさくらに、私は言葉を続ける。

さくらのためにしてあげたいと思って起こした行動のはずなんだけど、こうなってくるともはや私の自己満足の方が強くなってしまっている気がしてきた。というかそうなんだろう。でもやっぱり、引き返すことなんてできないから、さっき生まれた覚悟を無下にしないよう私は突き進む。

ええい、こうなったら私の気持ちをそのまま伝えるだけだ。

「ごめんね。さくらになにかしてあげたくてこんなに無理やり連れてきちゃったけど、さくらのためなんて言い訳で、本当は私の自己満足なのかもしれない。って言うか、ここまで反対されてる時点で完全に自己満足だよ。でも、これが本当の本当に最後のお願い。私の自己満足に付き合ってくれないかな?」

こんな風にさくらに無茶なお願いをすることも、もうできなくなってしまうんだろう。私はとことん自分は卑怯だと思う。最後のお願いなんて言葉を使って、こんな言い方をされてしまえば、なんだかんだ優しいさくらが断れるはずがない。それを私自身が一番よくわかっているのに、こんな言い方をしてしまっている。私は本当に卑怯だ。

さくらはしばらく黙ったままで、私も言葉が続かなくって、二人の横をキャリーケースを引いた人たちが数人通り過ぎていった。

どれくらい経っただろうか。私たちを下ろしたタクシーは新しいお客さんを乗せて走っていってしまった。行き交っていた人の影もなくなって、風ばかりが空港前の広いロータリーを過ぎていく。もう何度瞬きをしたかもわからないくらい、私にとってはあまりに長い沈黙が続く。ああ、こんな大切な日に、私はどうしてこんなことをしてしまったんだろう。なんて、後悔の念がちらりと顔を見せたその時。

とうとうさくらが口を開いた。

「…………わかった。陽葵ひまりのわがままには慣れっこだし、今回も付き合ってやるわ。でも……」

「でも?」

「最後のお願いだなんて言わないでよ。まだまだ陽葵ひまりに頼って欲しいし、私だって頼りたいんだよ」

そう言うさくらは笑っていて、見慣れたはずのその笑顔に、私はひどく責め立てられているような罪悪感に襲われた。

ゾクッと音が聞こえてくるかと思うくらいに鳥肌が立って、でもそんなことはおくびにも出さずに、私もすぐに笑顔を返す。

「わかった!これからもよろしくお願いしますね、さくらさん!」

「はいはい、こちらこそですよ、陽葵ひまりさん」

自分のことながら、しれっといつも通りに返せてしまった自分が少し恐ろしくなる。

「それじゃあ行こっか。当日でも航空券って買えるもんなのかな?」

「それは私よりもさくらの方が知ってるはずなんだけどね」

「私だって自分で航空券取るのなんて初めてだし!」

「威張って言うことか!」

さくらもすっかりいつもの調子に戻ってよかったとは思いつつ、けれどさっき私が抱えた罪悪感の行き場所はもうどこにもなくなってしまって、私はスマホの画面に目線を逃がした。

「なんか調べてみたけど、当日だといつもより安く航空券が買えるかもしれないんだって」

「マジ?ラッキーじゃん」

「ほんとそうだね。飛行機ってもしかして当日いきなり乗る方が良いのかもよ」

「それはない」

さくらには軽くあしらわれてしまって、私たちはとりあえずインフォメーションセンターを目指すことにした。そもそもすぐに乗れる東京行きの飛行機があるのかどうかも、座席が確保できるかどうかも調べずにここまで来てしまった。わからないことだらけの私たちだ、こういう時はなんでも人に聞くのが一番早い。

この空港にも何度か来たことはあったはずなのに、インフォメーションセンターを探すのにも一苦労して、ようやくたどり着いたそこで惚れそうになるくらい優しいお姉さんに手取り足取り助けてもらい、なんとか二人分の往復の航空券を手に入れた。流石に往復券を二人分も買うとその金額はなかなかびっくり仰天で、だけどその時痛んだ懐が、私の選択を実感させてくれるのと同時に、応援してくれているような気がして、不思議と悪い気はしなかった。

エスカレーターに乗って二階に上がる。私はトートバッグ一つ、さくらに至っては証書の入った筒と文集を小脇に抱えただけと、二人とも飛行機に乗るにしてはあまりに軽装すぎたおかげで、保安検査場もすんなり通り抜けることができて、私たちは待合室の椅子に腰を下ろす。私たちが乗る飛行機の離陸までは四十分ほど、そこまで余裕があるわけでもないけれど、ここまで慌ただしすぎた疲れを少しの間癒すだけの時間くらいは許されている。

チケットに目をやりながら、さくらは目の前の電子掲示板を眺めている。

「いやぁ、ちょうどいい時間の便があってよかったねぇ」

「ほんとだわ。ていうか普通はそういうのを確認してから空港に来るのよ。飛行機って一か八かで乗るもんじゃないんだわ」

「まあまあ、結果オーライだから」

「そんなんで一人降らしなんかできるのかねぇ」

その心配は誰より私がしているので安心して欲しい。大学生活よりもむしろ、一人暮らしの方が不安なくらいだ。

「しっかし、まさか窓際の席が取れるとはね。さくら、窓側がいい?」

「え、あ、ああ。どっちでも良いわ。陽葵ひまりは窓側がいいっしょ?座りなよ」

その言葉に、私は少し違和感を覚えた。さくらの返答がぶっきらぼうなのはいつものことだけど、今のそれはいつもとは何かが少しだけ違うような、私でなければ気にも留めないようななんでもない違和感を確かに感じた、ようだ気がしたんだけど……。

ダメだ、具体的な違和感の正体が掴めているわけでもないんだから、この話はおしまい。それよりも、ここまで付き合わせてしまったさくらに、せっかくゲットできた窓際まで譲られてしまったら私も立場がない。ここは少し引き下がらせてもらう。

「遠慮しなくていいって。私が付き合わせてるんだから、それくらい譲らせてよ」

私も頑なだったけど、それはさくらも同じだったみたいだ。

「いやいや、そんなん気にしなくていいって。マジで」

そう言うさくらは、やっぱりいつもと何かが違う。いつも通りに見えて、もしや無理に付き合わせてしまったことを怒っているんだろうか。

さくらは変なところで私を優先してくれがちだ、いつも私の注文を聞いてから自分の注文を決めるし、買い物だっていつだって私の行きたい店についてきてくれる。そんなさくらにこれまで甘えてばかりだったからこそ、こんな時くらいは私だって引き下がれない。

この話は終わりと言わんばかりにスマホをいじろうとするさくらに、私は言葉を続ける。

「お願いだよー、今日だけはかっこよくいさせてよー!」

「ふっ、さっきあれだけインフォメーションセンターどこ~!なんて慌ててたやつが、かっこいいねぇ」

こ、こいつ……

「それは今関係ないだろー!もう意地張ってないで大人しく窓際座ってよー!」

なんだかもう、自分でも何がしたいのかわからなくなってきた。さっきと同じだ。さくらのためと起こした行動のはずだったのに、結局は私の自己満足になってしまう。今も全く同じことをしているんじゃないかとは不安が顔を覗かせるけど、だけどこればっかりはどうしても譲れなかった。半分やけになった私に、しかし負けじとさくらも言い返してくる。

「意地張ってるのはどっちだよ!いいって言ってんだからいいの!窓側に座るのは陽葵ひまり!決定!」

やっぱりおかしい。さくらの意地っ張りは知っているけど、ここまで言っても折れてくれないのは不自然だ。

もしかして。

「さくら、飛行機が怖いの?」

「は?」

あ、この顔、当たりだな。さくらはこう見えてすぐに顔に出るからわかりやすい。

「そっか、ごめんごめん。うん、私が窓側座るよ。怖いものはしょうがないよね」

痛いところを突かれたような顔から一転、いつも通りのすました表情に戻って、さくらは言った。

「だって、飛行機なんて乗ったことないんだからしょうがないだろ!あの町で一番高いところなんて学校の屋上くらいなんだから、雲の上なんて怖くて当然だし!自分の身を守るために恐怖を感じてるんだから、生物として何も間違ってないし!」

そういえば、この子は修学旅行のちょうどその日に体調を崩してしまって、修学旅行には参加していなかった。私もあの時が人生初飛行機だったから、そのタイミングを逃したさくらが飛行機に乗ったことがないのも納得だ。

それはそれとしてさくらの言い訳はちょっとわけがわからないけど。

とにかく、ここは私が大人になろう。

「はいはい。それじゃあ。私~景色を楽しみたいから~窓際の席を譲って欲しいなぁ~」

「はっ、陽葵ひまりもまだまだ子供だね。まあそこまで言うなら、しょうがないから譲ってやるか」

「きゃー!さくらさん優しー!」

「良いってことよ」

私たちは笑い合って、生産性のない会話はその後もしばらく続いた。

余裕があると思っていた搭乗時間もすぐにやって来て、私はドキドキしながら、さくらはハラハラしながら、いろんな気持ちを抱えたまま、私たちは飛行機に乗り込んだ。


さくらに着いてく形で、両側に三つずつシートが配置された狭い通路を進んでいく。窓際に座るのは私の方なんだから、私が先頭を行けばよかったななんて思いつつ、今更それに気づいてももう遅い。人一人通れればやっとのこの通路ですれ違えるはずもない。

ただでさえ狭い通路では、頭上の棚に荷物をしまう人、窓際の席に座るために、既に席についていた人を立たせている人、まだ自分の座席を見つけられていない人、いろんな人が忙しなく動いていて、私たちがシートに腰を据えるまでにはしばらく時間がかかった。

ようやく座席を確保できた安心感で、私は思わずため息を漏らしてしまう。

「はぁ、だいぶかかったね」

同じく既に辟易した様子のさくらも、ため息で答えた。

「飛行機ってこんなに大変なんだ、私もう大旅行した気分だわ」

「気が早いなぁ」

右に作られた小さな窓の外に目をやると、いくつものキャリーケースが飛行機の中に積み込まれていくのが見えた。卒業式終わりのそのままの体でここまで来てしまったので、私たちの荷物はあそこにはない。改めて考えても流石にいきなりすぎたな。スマホの充電はもう三分の一に差し掛かろうとしていた。東京に着いたらまず最初にモバイルバッテリーを探そう。


さくらは目の前のポケットに用意されたパンフレットを念入りに読みこんでいる。緊急時の対応なんかが書かれているはずだけど、そんなものを読んでしまったら、ただでさえ飛行機に慣れていないさくらの不安が増すだけのような気もするけど。

「ね、ねぇ。飛行機って飛ぶよね?」

不安が来るところまで来たのか、さくらはわけのわからないことを言っている。こんなに弱気なさくらは始めて見たかもな、新鮮でちょっとかわいい。

「落ち着いて、これはあくまで緊急時の話だから」

「でも、わざわざこんなパンフレットまで用意するくらい緊急時になる頻度が高いってことなんじゃ……」

さくらがここまで飛行機を怖がっているとは思ってなかった。これは窓際なんて座った日には気絶しちゃうんじゃないだろうか。ここはなんとかさくらの気を紛らわせてあげないといけない。

「大丈夫だって!ほら、それならずっと推しの曲を聞いてればいいじゃん!昨日発売されたばっかりなんでしょ?」

「わかった、うん、そうだよね、私にはレンちゃんがついてるもん。大丈夫。大丈夫。大丈夫!」

自分に言い聞かせるよう繰り返しそう呟くさくら。レンちゃんというのは彼女の推しているアイドルのことだ。私も、これまでに幾度となく、曲を聴けとさくらに無理矢理イヤホンを耳に差し込まれてきたので、そのアイドルの曲は数曲くらいなら存じ上げている。たださくらほどドハマりはできなかったので、こんなに何かに熱中できるさくらが少し羨ましくもある。

だからきっと、これだけ自分の世界に入ることのできるさくらなら、そこまで心配はない、はずだ。


機内に何度かアナウンスが流れて、ほどなくして飛行機はのそのそと動き始めた。

さくらの方に目をやると、どうやらすっかり推しの世界に入り込めているみたいだ。髪で隠れて見えないけど、多分耳にはイヤホンをつけているんだろう。彼女のうっとりした顔を見れば一目でわかる。推しの曲を聴いている時のさくらの顔は何度見ても面白い。普段は強気でおすましなさくらも、好きなアイドルの前では形無しだ。

私は再び小さい窓から外に目をやって、離陸の瞬間を確かめてみることにした。何度かカーブを繰り返して、飛行機は一度動きを止める。おそらくここから本格的に加速を始めるんだろう。

その考えは的中したようで、景色が過ぎていくスピードがどんどん上がっていくのが視界によくわかった。そのスピードは次第に、シートに体が押し付けられる感覚でも味わえるまでになって、機体は轟音を鳴らしながら際限なくスピードをあげていって、ついには北海道の台地から足を離した。

この瞬間の体がふわっとする感覚は私でもまだ慣れないけど、さくらは大丈夫だろうか。そう思って横を見ると、まだ彼女はうっとりするので忙しいみたいだった。もはや飛行機が離陸したことにも気づいていないんじゃないだろうか。推しの力というのはすごい。



####################

飛行機は安定姿勢に入ったらしく、シートベルトのサインが消えた。

窓の外は一面の雲で埋められていて、その下にあるはずの北海道の大地はもう見えない。

トイレに行こうと思ってさくらに声をかけようとして、やめる。

さくらはどうやら寝ちゃったみたいだ。離陸前はあんなに怖がっていたのに、この子はやっぱりどこに行っても変わらない。

さくらの逞しさは本当にすごい。彼女がどんなときでも割と平常心を保てるのは、やっぱり運動部に所属しているからなのだろうか。それなら私もさくらに誘われた時に、一緒にバスケを始めておけばよかった。堂々としたさくらと違って、私はいつも自信が持てないから。


それは、東京の大学に行く、という選択にしてもそうだ。私はこの選択にすら、まだ自信が持てていない。何となくで決めた大学に、運よく受かったから進学する。これまで長い時間を過ごした場所を離れて。

これと言って東京に行ってやりたいことがあるわけでもないし、今の街に嫌気がさして離れるわけでもない。

流れに流されるまま、進んでいく時間の移ろいに身を任せて、確かに私の人生は変わっていく。私の気持ちは、中身は何も変わらないままだ。

親戚はみんな褒めてくれた。簡単に行ける大学じゃないことは自分が一番よくわかるし、褒められるのは嬉しい。親戚だけじゃない、先生も、クラスの子も、果てには近所のおばさんからえらいねぇなんて声をかけられたこともあった。どこから聞きつけたんだろうか。まあでも、褒められるのは嬉しい、はずなんだけどなぁ。

そういえば、さくらからは何か言われた覚えがない。私が合格を告げた時も、すぐにあの子の好きなアイドルの話に話題が移っちゃったんだっけ。さくらは変なところで鋭い子だから、もしかしたら私の考えていたことを察してくれていたのかもしれない。曖昧な気持ちのまま歩みばかり進めていく私のちぐはぐさを、この子は感じ取ったのかもしれない。気遣いかどうかも分からないさくらの、細かなことはあまり気にしないおおらかな性格は、私にとってはとても魅力的で、そんなさくらと一緒にいるのは心地いい。

当の本人は、私の左肩に頭をこつんと預けながら、気持ちよさそうに眠っている。緊張の糸が切れたからか、たまに機体が揺れることがあっても、一向に起きる気配はない。


こんな気持ちのまま、さくらを置いてあの街を離れるなんて、そんなことが許されるのかな。


ダメダメ。私はすぐ後ろ向きにばかり考えてしまう。流されるがままになってしまうのが嫌でせめてもの抵抗として考えることを辞めたくはないけど、せっかくのお出かけなのにネガティブになってばかりじゃいけない。盛り上がっていかなきゃね!私がここまでさくらを引っ張って来たんだから!


私も少し眠ろうと思って目を瞑ると、次に気づいた時には飛行機が高度を下げようとしていた。少し眠りすぎてしまったな。なんだかんだ私も、忙しなさにやられて疲れていたらしい。さくらはまだ寝ているみたいだけど、起こさなくても良いかな。この後の着陸の時に結構揺れるから、どっちみちその時に目を覚ますだろう。

ふと窓の外に目をやると、そこには小さかったり大きかったり、いろんな形の大きさの建物が並べられた東京の街が半分。一転、青一色で塗りつぶされた東京湾が半分、いきなりやって来た私たちも迎え入れてくれてるみたいにのびのびと広がっていた。そんな景色を横目に、高度はぐんぐん下がっていく。


ミニチュアみたいだった建物が徐々にリアリティを増していって、気づいた時にはすぐそこに空港の滑走路があった。ガタガタと大きな音と揺れを感じて、全身で機体が東京の地面を踏みしめたことを実感する。エンジンの轟音を合図に飛行機はみるみるうちに速度を落としていく。

流石のさくらも今の音と揺れで目を覚ましたみたいだけど、いまいち自分の置かれている状況がわかっていなさそうな、そんなポヤポヤした顔をしていた。

「おはよう、今自分がどこにいるかわかる?」

寝坊助さくらに声をかけてみると、気の抜けた声が返って来た。

「あ、ああ……あぁ?くしろ……?」

だめだこりゃ。寝ぼけても道民の心がけは失っていないあたりがとてもさくららしい。

自分が東京に来ているなんて知ったら、驚きすぎてまたあのタクシーの中でのやり取りを繰り返すことになったりするんじゃないかと、少し不安になってきた。私はできるだけ優しく丁寧に声をかける。

「落ち着いて聞いてね。今ここは羽田空港、羽田空港ってどこにある空港かわかる?」

「えぇ……んないきなり……大体どの辺よ?道央?」

「いい加減北海道から離れなさいっ!」

軽く頭を小突いてみると、ようやくさくらははっきりと目を覚ましたみたいで、徐々に自分の置かれた状況を思い出しているようだ。すべての記憶を取り戻したさくらは驚いたように言った。

「うわ!せっかくの初飛行機だったのに、私ほとんど寝ちゃったんだけど!」

「えー、今更?あんなに気持ちよさそうに寝てたくせに」

「帰りは絶対起きてるから!見てろよ!」

さくらは高らかにそう宣言した。起きてたら起きてたでずっと怖がっていそうだけど。そう言いかけて、やめる。別にこれ以上余計なことを言う必要はないか。

人の流れに流されるままに飛行機を降りて、数時間前とは比べ物にならないくらい広くて複雑な空港内を歩く。私からしてみればもう何度か見た景色だったけど、さくらからしてみればどこを見ても新鮮だらけのようで、普段は私の方が遅い歩行スピードは、ここに来て逆転した。いつも私に合わせてくれている歩幅は、今日は自然と控えめになっていて、それがなんだか嬉しかった。

もう何分歩いたかもわからなくなってきたその時、モノレールの駅を示す案内表示が見えてきた。

……って、そういえば忘れてたけど。

「私たち、どこに行こうとしてたんだっけ?」

私が頭に浮かべたのととまったく同じタイミングで、全く同じ疑問をさくらに投げかけられた。そうだ、すっかり忘れていたけど、私たちが遥々東京までやって来たのは桜を見るためだった。北海道ではまだ見ることのできない、春に咲く桜を。

「そうだなー、やっぱり桜の名所を目指す?こっちならいくらでもあるだろうし」

「贅沢な話だよまったく、一つくらい北海道にも分けて欲しいわ」

さくらはため息をつきながらそう言った。そんな無茶を言われたって東京も困るだろう。私はスマホを取り出して、検索をかけてみる。

「あはは。えーっと、都内の桜の名所……目黒川、六義園、上野恩……ねぇさくら、これなんて読むの?」

「おん、ちょう?公園?わからんけど、写真見る限り良さそう」

「ね。どこも良さそうで決めきれないよ」

スマホの画面いっぱいに広がった桜の写真はどれもとっても綺麗で、目を惹く遠慮がちな淡いピンクは、小学校の頃に教室で見たそれと全く変わらない鮮やかさで変わらず私を受け入れてくれているような気がして、それが少し嬉しかった。あの時は確か、春に桜が見られないことが悔しくて泣いてしまった私を慰めるために、さくらが学校のパソコンを使って見せてくれたんだっけ。

私と桜の確執はそれだけ昔から始まっていたんだ。

でも、あの時とは違う、今スマホの画面に映る桜は、私の、私たちの手が届く桜だ。あの時から今日まで、そこまで長い時間が経ったような気はしないけど、あの時は画面の向こうの世界でしかなかった景色が、今はこんなに近くにある。けれど、だからこそ、私はどれに手を伸ばせばいいのか決めることができなかった。

「ダメ!もう全部の桜を見たい!選べるわけないよ~!!」

「無茶言うなって。そしたら、陽葵ひまりの新しい部屋に一番近いところ、とかで考えてみれば?ついでに陽葵ひまりの新居も見に行けたら一石二鳥じゃん」

「なるほど……さくら、さっきまで寝ぼけてた割には頼りになるね」

「寝ぼけてたは余計だわ」

私の部屋の近く、桜の名所なんてあったっけ?いや、たしか……

「……そういえば、私の部屋から桜が見えるかも」

「マジ?」

マジだ。あれは確か内見の時、オートロックの玄関を抜けて、階段を登った先にあった二階の角部屋。あの時に見せてもらった部屋の窓から一本の木が臨めた。アパートから通りを挟んだ目の前が小さな広場になっていて、そこの一角に一人ポツンと陣取っていたあの木には、ソメイヨシノと書かれたプレートが巻かれていた。

「窓の景色も写真に撮ったから間違いないよ……ほら!」

「……ホントだ。……って、もしかして……」

「うん、桜、私の部屋で見ない?名所には負けちゃうかもしれないけど……」

「いや、それは全然いいんだけどさ、でも引っ越しは明日でしょ?まだ部屋には入れないんじゃないの?」

「ううん、近くに住んでる大家さんに言えばもう部屋に入れるはずだから、たぶん行けると思う!」

桜を見られるだけじゃなく、さくらに部屋を見せることもできるなんて、良いことづくめじゃないか。さくらは一瞬悩んだ様子を見せていたけど、すぐに納得した表情を浮かべて言った。

「うん、私も陽葵ひまりの部屋、行きたい!」

「そう言ってくれると思った!」

決まりだ。

目指すのは私の部屋。これまで長い時間を過ごしたあの部屋ではなくって、これから長い時間を過ごす部屋。



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こっちの私の部屋を目指すには、バスに乗る方法と電車に乗る方法の2つがある。お母さんがいる時はいつもバスに乗っているから電車はまだ数回しか使ったことがないけど、バスは乗り場が多くて少しわかりづらい。道に迷って帰れなくなる、なんてことがあったら大変だから、今日は電車を使おうと決めていた。

到着したモノレールの駅には大きな路線図が頭上に飾られていた。スマホのアプリを使ってもいいんだけど、料金だったり乗り換え駅だったり、私は路線図を見た方がわかりやすいと思う。アプリはいつまで経ってもわかりづらいままだ。数年後にはもっとわかりやすいアプリが開発されることを願って、今は頭上に張り巡らされたカラフルな蜘蛛の巣とのにらめっこに勤しむ。

「これは、なに」

私の新しい城の最寄りの駅名を探していると、横からさくらの怪訝そうな声が聞こえてきた。

「これは路線図だよ、私たちが行きたい駅は大体あの辺にあるはずなんだけど……」

「そういうことじゃなくって、これ全部線路なの?駅なの?」

「うん、路線図ってそう言うものだよ」

さくらは黙り込んでしまった。なにか癇に障ることでも言ってしまっただろうか。

「これ、北海道全部の駅より多いんじゃない?」

「まあ、最近北海道の駅、どんどんなくなってるもんね」

「いや、北海道の衰退の話は今どうでもいいのよ。なにこれ!複雑すぎんでしょ!陽葵ひまりはこれが読めんの!?なんで読めんの!?私たちは今どこにいるの!?」

バスケ部で培われたのであろうよく通る声で急にまくしたてられて少し驚いてしまったけど、同時に私は納得した。そりゃあ、こんな複雑な路線図をいきなり見せられて、さくらが困惑しないはずもない。私だって最初に見た時はわけがわからなかったのに、まだ数度しか東京に来ていない身分で、すっかりあの時の驚きを忘れてしまっていた。いけないいけない、初心忘るべからず。

「まあまあ落ち着いて、目指す駅と今いる駅さえわかってればいいんだから。私たちが今いるのはあそこの下の方の駅で、行きたいのは……」

「わかった、一旦待って。落ち着くわ」

「ああ、どれくらかかりそう?」

「二分」

まあまあ長いな。

「じゃあその間に駅探しとくね」

「任せたわ」

そう言ってさくらはまた黙り込んでしまった。えーっと、確か山手線が通ってるはずだから、山手線を探して……山手線って輪っかになってるんだよね?あった、あんなに綺麗に線路が輪っかになってるなんて、線路を敷くとき大変だったんだろうなぁ。

えーっと、高田馬場は確か左の方だったから、新宿……新大久保……あった。駅名が長いから見やすくて助かるな。

ここから山手線に乗るには……

「オッケー、もう大丈夫。目指す駅はどこ?」

丁度私たちがすべき次の行動がわかったところで、ようやくさくらの頭は北の大地から離れて、羽田空港までやってきてくれたみたいだ。まずはモノレールに乗るよとさくらに伝えると、モノレールって日本にもあるんだ!なんて楽しそうにしていた。

改札を通って、ホームに降りるのとほぼ同時にやって来たモノレールに乗り込む。車内には不思議なレイアウトでシートが設置されていた。

四人掛けのボックスシートがあれば、進行方向に向かって平行に伸びるロングシートもあって、大きな荷物を置くための荷物置き場まで備えられていたりもする。北海道の電車とは全く違った車内は未だに見慣れないし、新鮮に驚いてしまう。車内の様子は、電車というよりはバスの方が近いのかな。

周りの人はみんな大きな荷物を抱えていて、持ち物と言えば卒業証書となんてことないバッグくらいしかない私たちみたいなのは圧倒的に少数派だった。大荷物を抱えた人たちが荷物置き場に荷物を運ぶ横で、身軽さのおかげもあって私たちはロングシートに座ることができた。さくらはロングシートの一番左端、私はその右隣に座る。さくらは電車に乗るときはいつもこうだ。端の席が空いていたら真っ先に座るし、端の席が空いていなければ、他の席がどれだけ空いていようと絶対に座らない。私は私で景色を見るのが好きなので、端の席よりも向かいの窓の外を眺めやすい真ん中あたりの席の方が好きだ。

なので、二人で電車に乗るときはいつも、一番端に座るさくらの横に私が蓋をする形で座るように、自然となっている。

別に、こういう座り方が良いね、なんて話し合って決まったわけでもなく、長い時間二人で行動を共にするうちに、言外に自然と出来上がっていたルーティンみたいなものだ。そればっかりは、北海道にいようと、東京に来ようと、なんにも変わらなかった。

「しっかし、本当に東京に来ちゃったなー。まだ現実感ないんだけど」

座り心地のいいシートに腰を据えて一息ついて、さくらはそう言った。

ここまで引っ張ってきておいてなんだけど、私も同じ感想だ。

「ほんとね、数時間前まであの街で卒業式に出てたはずなのに、もう遠い昔のことな気がしてるもん」

「なんかわかるわ。卒業式とかもう先月くらいの感覚」

「それは流石に前過ぎじゃない!?」

次から次へと大きな荷物を抱えた人たちがモノレールに乗り込んできて、私たちの目の前にも大きなキャリーケースを転がしている外国の人が立った。ああ、景色が見えなくなっちゃった……

「ていうか、なんかお腹空かない?むこう着いたらなんか食べようよ」

さくらに言われて初めて、確かにお腹が空いていることに気づいた。あんまりに怒涛すぎる時間が続いていたせいで、空腹に気づけていなかったみたいだ。

「確かに、それなら私お肉食べたいな。本当だったら今日は家に帰って美味しいお肉を食べるはずだったからさ」

「へー、羨ましい。うちは手巻き寿司の予定だったわ。うちってご馳走と言えばすぐ手巻き寿司になるから、正直飽きてきてるんだけどさ……」

「えー!手巻き寿司いいじゃん!道民なら海鮮食べないと!」

車内の混み具合は増す一方で、荷物の分も相まって、もうこれ以上は入らないんじゃないの、というところでちょうど扉が閉まった。たくさんの荷物とたくさんの旅行者と二人の身軽な女子高生を乗せたモノレールが、左に進んでいく。

「道民が海鮮ばっかり食べてるってのは偏見だね。私だって肉が食べてたいんだわ」

「それじゃあ今日は肉を食べよう!牛かな、豚かな、鳥かな?」

「ここまで来るのに大分金使ったからなぁ、一番安いのってどれだっけ?」

「牛じゃないの?牛が一番体大きいし」

さっきから、前に立ってる人のキャリーケースが膝に当たって少し痛い。向かいの窓もたくさんの乗客の体で遮られてしまって見えないし、この窮屈さはまだ慣れないなぁ。本格的にこっちで暮らすようになれば、私も毎朝満員電車に揺られるようになるのだろうか。

「なんだよそれ、どういう理論?」

「だって、体が大きければたくさん肉が取れるはずでしょ?肉がたくさん取れれば安くなるってこと!」

「うーん。説得力があるようでないような……」

「まあ細かいことはいいじゃん、牛で決定で!」

「別に嫌いじゃないから良いけどさ……」

モノレールは次々と駅を通り過ぎていく。度々停車する駅では降りる人よりも乗って来る人の数の方が多いみたいで、ただでさえ混雑していた車内は一層窮屈になっていった。最初にシートに座れて本当によかった。こんなにぎゅうぎゅう詰めの満員電車で、人口密度最下位の北の大地から来た私たちなんて、簡単にぺしゃんこになっていたことだろう。

「あと何駅?乗り過ごしたりしてないよな……?」

「安心して、私たちが行きたいのは終点だから。あと……三駅くらいじゃない?」

「そっか」

それまでずっと前を向いていたさくらが急にこっちを見てきた。私の顔に何かついてたかと少し不安になる。

陽葵ひまり、外の景色見えなくていじけてるんでしょ」

「いじけてはいないけど、まあちょっと残念だよね。せっかくの都会の景色、見たかったしさ」

「でも、陽葵ひまりの部屋に着く前に桜が見えちゃったらもったいないし、今は景色が見えなくてもそれはそれでいいんじゃね?」

この子のこういう前向きさというか、楽天さは本当にすごいと思う。私も見習いたいんだけど、一朝一夕で真似できるものでもないからさくらはすごい。

「確かに。でもそしたら、これから私の部屋に着くまでずっと気を付けてないといけないんじゃない?」

「……やばいね。下向いて歩くしかないじゃん」

「ぶつかりまくるだろうね、電柱とか、壁とか」

モノレールの次の停車駅は、終点にして私たちの目的の駅だと告げる車内アナウンスが流れた。当たりの人たちは電車を降りる準備を始めて、車内が少しだけざわつく。

「まあ陽葵ひまりは石頭だから大丈夫か。中学の頃にも廊下で激突した男子に怪我負わせてたもんね」

毎度毎度、さくらはどうしてか私に都合が悪いことばかり覚えている。だからさくらの語る私の話は不名誉なものが多い。私はさくらの良いこともちゃんと覚えているのに、なんとも不公平な話だ。

「なんでそんなことばっか覚えてんの!ていうか、怪我って言ったって相手が転んじゃってちょっと掌を擦りむいただけだから!頭の固さ関係ないから!」

私の必死の反論も空しく、さくらにはああそうだっけなんて、するりと左に受け流されてしまった。大体、その時の怪我がただの擦り傷だったことなんてさくらだって覚えてるはずなのに、その情報は言わないあたりさくらの意地の悪さがよくわかる。


モノレールは終点の駅に到着した。ここからは、一世一代の乗り換えという山場に、私たちは臨まなければいけない。

ぞろぞろと軽くなっていくモノレールの車内にあって、特に荷物もない私たちはしばらくシートに座ったまま、人が降りきるのをボーっと待っていた。私もさくらもあまりせっかちな方ではないので、結局ホームに降りたのは私たちが一番最後になってしまった。

人の流れについていくように、私たちは山手線の乗り場を目指す。山手線ならたくさんの人が利用するだろうから、人が多く歩いていく方についていけばきっとたどり着けるはず。迷うことなく歩みを進める私に、さくらはすごいじゃんなんて言ってくれたけど、なんだか騙しているみたいで申し訳ない。私はただ人の流れを追いかけているだけなんだけど……

まあさくらが満足してるならいいか。


ギャンブルの結果は大勝利に終わった。つまりは私たちは、一度も迷うことなく浜松町駅の山手線の乗り場にやってくることができたのだ。

「すごいよ陽葵ひまり、もうすっかりシティガールの顔つきじゃん」

「なにそれー、褒めたってなんにもあげないよ」

口ではそう言いつつも、しかし内心ではかなり喜んでしまっている私がいる。なんてチョロいんだ、私。

しかしここまで来ても、まだまだ油断はできないのだ。これだけの試練を乗り越えて来てようやく挑める最終ミッション、内回り外回りという二択が、私たちには残されている。

「いいですかさくらさん」

「はい!陽葵ひまり先生!」

敬礼とともにさくらが答えた。この子は結構ノリが良い。

「私たちはこれから山手線に乗りますが、山手線には二種類あります」

「二種類?」

「内回りか、外回りか。私たちが行きたい駅は高田馬場という駅です。高い低いの高いに、田んぼの田に、馬に、場所の場です。私たちはどちら回りの電車に乗るべきか、わかりますか?」

「はい!陽葵ひまり先生!内回りだと思います!」

さくらは路線図を一瞥することもなく即答した。つまりは今さくらは適当なことを言っているわけだが、

「……正解です。まあ正直割と真反対にある駅だから、どっちに乗ってもそこまで変わらないんだけどね」

「よっしゃ。やっぱり私の勘は鋭いのよ」

それをこんな無駄なところで発揮しなくても……。

さくらに問題を出してから、浜松町と高田馬場がほぼ真反対にいることに気づいたけど、これならどっちに乗ろうとあまり損をした気分にはならないので、私にとってはかなりありがたい。ここまで来てしまえば、そう迷うことも無いだろう。


ホームに降りて、ちょうどやって来た山手線に乗り込む。

先ほどとは違って大きな荷物を抱えた人こそ少ないけれど、それでも車内に人は多い。空席もちらほらあるけれど、車内の端っこの席には全て先約があるようで、さくらはつり革を掴んでいる。

私たちと同じように、卒業式終わりと思われる学生の集団も多く目についた。なんだか私たちまで東京の女子高生になれた気分だ。錯覚なんだけどね。

「ここまで来れば、私たちも東京の女子高生に見られてるんじゃない?」

さくらがそう呟いて、体温がほんの少しだけ上がったような気がした。 

本当に、この子とはどうも考えが似すぎてしまって、なんだかとても恥ずかしい。この気恥ずかしさをさくらにもぶつけてやらないと不公平だ。

「すごいね、今私もまったく同じこと考えてた」

「あら、私たち、似た者同士ね」

「あはは!それ何キャラ?」

しょうもない話をしているうちに電車はすぐに発車して、そしてすぐに隣駅に到着した。北海道じゃ考えられない駅間の短さに、さくらは驚きを隠せていない様子だ。

「み、短!歩けよ……」

これはダメだ。東京の女子高生はこんなこと言わない。


山手線の駅で二番目に新しいと言う高輪ゲートウェイを過ぎ、やけに人がいっぱい降りて、そしていっぱい乗って来た品川を過ぎ、山手線は走っては止まりを何回も繰り返して、東京の街を円状に縫っていく。

「でも、少なくとも私たちが北海道から来た、とは誰も思わないだろうね」

「それは間違いないわ。こんな身軽な奴らが飛行機乗ったなんて、考えもしないでしょ」

「ほんとにね、飛行機が墜落して脱出してきた人くらい荷物少ないもん」

「脱出の時は手荷物を持つなって書いてあったから、もし私たちが乗ってた飛行機が墜落してたら、証書とアルバムは海の底だけどね」

さくらの縁起でもない言葉を聞いて、私は海の底に沈んでいく卒業アルバムの映像を頭に浮かべる。いくつも書かれたメッセージがしょっぱい水に溶けていく……ああ、油性ペンでメッセージを書いておけばこんなことには……って。

「ちょっとやめてよ、まだ帰りの飛行機もあるんだから。縁起でもない」

そうだ、私たちは帰らなくちゃいけないんだ。東京に着いて、電車にも難なく乗ることができて少し安心していたけど、まだまだ気を抜いてはいけない。

「縁起もなにも、墜落云々言い出したのは陽葵ひまりだし」

さくらの鋭い一言に、私は何も返せず黙ることしかできなかった。


山手線はその後も歩みを止めずに、渋谷、原宿、新宿、流石に聞いたことのある地名をいくつも通り過ぎていく。そんな中さくらはと言えば、実物の東京の街並みを目に入れたい気持ちと、私の部屋に到着する前に桜を見てしまわないために、窓の外を見まいとする気持ちの狭間で葛藤しているようだ。アイドルの写真が後ろに挟まった、やたら分厚いスマホに目をやって外を気にしないよう頑張るけど、一瞬気になって窓の外をチラ見してはすぐに思い直してスマホに目線を戻す。そんな健気な目線移動を繰り返しているさくらの変に律儀な姿は、なんだかとても可愛かった。


新宿を過ぎれば私たちの目指す駅はもうすぐそこにあって、山手線は高田馬場駅に到着した。

私たちの他に降りる人は少なく、制服を着ている人は私たち以外には見当たらない。学生街と聞いていたけど、高校生はそんなに多くないのかな?

改札を抜けて駅を出ればそこには人が溢れていて、右に左に前に後ろに、東京という街は目指すべき場所が多いらしい。

背の高いビルに囲まれた広すぎるロータリーは何度来ても慣れないけど、私がしっかりしなければしょうがない。私以上にあたふたしているさくらの手を取って人混みの中を進んでいく。

よくわからないアクセサリーを売っているおじさんに声をかけられても無視して、髪の長いお兄さんが配っていたポケットティッシュはちゃっかり受け取って、何回もすれ違う人とぶつかりそうになりながら、さくらの手は離さないまま、なんとかロータリーを抜けるには至った。

さくらはすでに疲れてしまったようで、繋ぐ必要がなくなって離した手は、ほんの少しだけ紅潮したさくらの頬に当てられている。人混みにやられて暑くなってしまった顔をクールダウンしているんだろう。さくらはなぜか、いつも手が冷たいのだ。そのことについて本人は、心が温かいからね!と口癖のように言っているが、多分ただの気のせいだと思う。

「お疲れ様、大丈夫?」

「……うん、だいじょぶだいじょぶ」

頬に手を当てたままで、さくらは答えた。

「本当?人混みに酔っちゃったんじゃないの?大分疲れてるみたいだけど」

「いや、違くてさ。あんなに人がたくさん歩いてて、しかもここって新宿とかにも近いじゃん?だから、もしかしたらこの人混みの中に、レンちゃんがいるのかもって思うと……きゃっ!」

さくらの顔が一層赤みを増した。赤くなっていた理由は疲れではなく照れだったらしい。私の心配を返して欲しいんだけど。ていうか、きゃっ!って。乙女か。いや、推しの話をするさくらはいつも乙女だったな。

「はぁ……元気そうでなによりだよ」

流石の手の冷たさも収まってしまったのか、それとも照れが少しは収まってきたのか、さくらは体勢を整え直して、もう行けるぜと言っている。

駅前を抜けてしまえば人通りに苦しめられることはなく、幸運なことに桜の木を目にすることもないまま歩くこと数分、住宅街にさしかかって私たちは一旦立ち止まる。ここからのルートをド忘れしてしまった。さくらが隣から、そんなんで一人暮らしなんかできんのかよ~なんて煽りを入れてくるのを軽くいなしつつ、マップのアプリを開く。

「えーっと、ここが交差点で、松屋が右上だから、北は……」

「こっち?」

「いや、そっちじゃなくてこっちじゃない?」

「でも松屋が右下だからさ……」

「いや、松屋は右上なのよ」

三人寄れば文殊の知恵とはよく言うけど、私たち二人が集まると知恵の総量は低下する気がする。話し合いとも呼べない談合はしばらく続いて、ようやく進むべき道を見つけたので歩き出す。と、その時、一つ良いことを思いついた。後ろを歩くさくらの方を振り向いて尋ねる。

「っていうか、夜、そこで買うのはどう?」

私の指さす先にあるのは、散々ルート探索の目印にさせてもらった牛丼のチェーン店だ。約束通り牛肉だし、ここならテイクアウトもやっているから、せっかく訪ねる私の部屋で桜でも見ながらご飯を食べられるのは悪くないだろう。それに……

「えー。せっかくの奢りなのにそこでいいの?もっと豪華なものにすりゃいいのに……」

さくらは少し不服そうだ。その反応も想定通りで、モノレールでの話し合いの末、今日の晩御飯はさくらの奢りということに決まっていたのだ。

私がかなり強引にさくらをここまで連れてきてしまったので、奢らせてしまうことを強めに遠慮はしたけど、さくらは聞く耳を持ってくれなかった。それなら牛丼のテイクアウトにしてしまって、少しでもさくらの負担を軽くすれば、私も気が楽で良い。

「いいのいいの!散々地図見るのに助けてもらったんだから、お金落としていかないとね!」

「向こう側も売ったつもりのない恩を返されてびっくりするだろうよ」

最後まで不服そうなさくらだったけど、店頭に据えられたメニューを眺める目は割と楽しそうだった。チーズを乗せるか乗せないかで頭を抱えている姿を見ると、ずっとそのままのさくらでいて欲しいと思ってしまう。

私は大根おろしが乗った牛丼に決めた。さくらが店内で会計を済ませる間、私はのぼりの前に立って、部屋までのルートをもう一度確認しておくことにした。せっかくの牛丼が冷めちゃったらもったいないからね。

「うえーい、牛丼だぜー」

紙袋を引っ提げてさくらが店から出てきた。証書の筒も一緒に紙袋に突っ込んでいるけど、いくら筒で守られているからって、少しくらい抵抗感みたいなものはないんだろうか。

「それ、牛丼の汁とかつかない?」

「だって、細長くてちょうどいいから」

あまりにさも当然と言った顔でそう答えるるさくらを見ると、これ以上の追求は無意味に思えた。私たちはまた歩き出す。



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「あの大家さん、ちょっと怖そうじゃなかった?」

「う~ん。いきなり私たちが訪ねたから、びっくりしちゃったんじゃない?」

大家さんの家を訪ねて部屋の鍵を受け取った後、私たちはそこからほど近くの私の部屋を目指して歩いていた。本来であれば明日こっちに来る予定だった北海道の人間が、今日いきなり訪ねてきたのだから、大家さんが驚くのもしょうがない。確かに、今日の大家さんはこの前話をした時よりも声のトーンが低い気はしたけど、もしかすると本当に私なのかどうかを疑っていたのかもしれない。

「それもそうか。まさか引っ越し前日のやつが飛行機に乗って遥々遊びに来るとは思わないわな」

「大家さん、三回くらいカレンダー見てたもんね。自分が日付を勘違いしてるんじゃないかって思ってたんだよ、きっと」

大家さんを驚かせてしまったものの、部屋の鍵は無事ゲットすることができた。よく考えれば、大家さんが外出をしていたら私たちは部屋に入れなかったわけで、こんなに行き当たりばったりが上手くいく私たちは結構運がいいのかもしれない。

大家さんの家はアパートから歩いて一分くらいのところにある。困った時にはいつでも頼ってねとまで言ってくれていて、一人暮らしに不安を抱えている私としてはとても心強い。

どこで買ってきたのかわからない、恐らく大家さんの趣味と思われるサルのストラップがつけられた鍵を手にした今、私の部屋はもうすぐそこにあるのだ。この角を右に曲がれば、私の部屋のあるアパートが見えてくる……

「ちょっと待って!」

新居を視界に迎え入れようとしていた私の肩が掴まれて、良く通るさくらの声に、私は足を止める。

「どうしたの?」

陽葵ひまりさぁ、家の前に桜の木があるって言ってたよね」

「うん。窓から見えるから……って!」

そうだ、私はようやく気付いた。このまま曲がってしまえば、私のアパートと一緒に、桜の木まで視界に入ってしまう。せっかくここまで手間も時間もお金もかけた末に手が届きそうな桜だ、なんとなく見えてきた桜で終わらせたくはない。

「そっか、見えちゃうよね、桜」

「でしょ、気を付けてかないと」

「どうする?後ろ向いて歩く?」

結構本気で提案をしたつもりだったけど、さくらには冗談と思われてしまったみたいで、私の案は軽く受け流されてしまった。

結局手で視界を制限しながらアパートに向かうことになった。

張り込みをする刑事みたいに、さくらは曲がり角から恐る恐るアパートの方に目をやる。

「どう?桜、見えそう?」

「うーん……あっ!」

伸ばした首を慌てて引っ込めて、見てはいけないものでも見てしまったかのような反応を見せるさくら。ちょっと見えちゃったわと言うさくらの言葉を頼りに、左側の視界を抑えながら、ゆっくり、それでも確実にアパートを目指す。


カンカンと音を立てながらアパート外に取り付けられた鉄の階段を登って、扉を二つ過ぎれば私の部屋はそこにある。

鍵を差し込んで右に回す……回s……回せない。

「あれ?」

「どしたん?」

「いや、鍵が回らなくって……あ、左回しか」

逆側に鍵を倒せば簡単にカチャッと音が聞こえて、開錠が済んだことを教えてくれた。

「実家の鍵は右回しだから、あんまり慣れないや」

「……おお」

「ん?どうかした?」

「いや、実家って言ってるなぁって思っただけよ」

言われてはっとした、あの家は、北海道のなんてことない町にあるあの家は、もう私の家ではなくなってしまったんだ。私の家はここなんだ。扉の鍵が左回しの、この部屋なんだ。

扉を開けると、実家の私の部屋より少し広いくらいの、空っぽの部屋が広がっていた。なにも置かれていない状態でこれくらいなら、色々を運び込んだらもう少し手狭に感じるんだろう。部屋の中に光を一杯に取り入れてくれる窓からはできるだけ目をそらして、私たちは部屋に足を踏み入れる。

「おじゃましまーす」

「おじゃましまーす」

「なんで陽葵ひまりまで人の部屋みたいな反応してんの」

「だってまだ私のものなんて一個もないし、しょうがないよ」

空っぽの部屋はまだ誰のものでもないみたいにすました顔をしているように見える。不動産屋さんとお母さんと一緒に、内見に来たあの日となんら変わりのない室内を、自分ごとに思えと言う方が無理な話だろう。

「確かに。そしたら文集でも置いてけば?どうせ明日にはまたここに来るんだし」

「うーん。でもみんなからの寄せ書きとか振り返りたいしなぁ」

私の言葉にさくらは少し不思議そうな顔を浮かべている。

「ええー。寄せ書きなんてあんなに大量にあるんだから、一晩じゃあ読み切れないでしょ」

その言葉にもちろん悪意はかけらもなく、バスケ部のエースで人望もあるさくらが当たり前に浮かんだ疑問をただ投げかけているだけなのは当然私も理解しているけれど、しかしその言葉は発言者の意図なく私に突き刺さる。消え入りそうな声で私は答えた。

「……私はそんなに寄せ書きが多く集まるほどお友達が多いわけではないので……」

「あ、なんかごめんね」

ここまで来るとその謝罪すら私には突き刺さる。言葉を失う私に気を遣ってくれたのか、さくらが無理矢理明るい声で言った。

「な、なんか暗くなっちゃったわ。桜見よう、桜!」

荷物はとりあえずまだ綺麗なままのキッチンのシンクに置いて、私たちは窓に背を向けるようにして部屋の真ん中に立つ。あんなに毎年願っては叶わずを繰り返してきた景色は、もう私たちのすぐ後ろに広がっている、はずだ。背とうなじの先に、桃色の景色が待ち構えている。そう思うとなんだか、見えない何かに背中を撫でられているような感覚に襲われた。体が少し震えてしまって、それはさくらにも伝わってしまったみたいだ。

陽葵ひまり、緊張してる?」

「し、してないよ」

「はは。手でも握ってあげようか」

「だからしてないってば!」

どれだけ否定しても私の誤魔化しなんてさくらにはお見通しだ。ただそれは……

「ただ振り返って桜見るだけなんだから、そこまで緊張することないって。陽葵ひまりは変なところで緊張しいだからなー」

逆も然りなのだ。さくらが嘘をついているのも私にはわかる。

つまりは私たちは、仲良く二人でただの桜の木に緊張している。別に桜なんて、北海道にいても一日遅れで見られるのに。

どうしてか、春の日の桜の文字列に私たちはビビってしまっている。どうしようもない道民の性を治めるには、本当に手でも握っておいた方が良いのかもしれない。そう思ってさくらに声をかける。

「やっぱり、お願いしようかな」

「え、マジ?まあ陽葵ひまりが言うなら繋いでやるか……」

「ふふ、ありがと」

本当に提案に乗ってくるとは思わなかったとでも言わんばかりの、さくらの虚を突かれた表情はとても面白かった。掴んださくらの手はやっぱり冷たくって、こんな時まで変わらないいつも通りの手の冷たさがまた面白くて、つい私は笑い声をこぼしてしまった。当然さくらに尋ねられる。

「なに?なんか面白いものでも見つけた?」

「いや、さくらの手、冷たいなぁって」

「……それだけ?」

「うん。それだけ」

「幸せな奴だねぇ」

「ほんとにそうだね」

この部屋にも、私のものを一つ確かに見つけられた気がした。


「それじゃあカウントダウンで振り返る、でいいね?」

私の提案にさくらも首を縦に振る。同意の合図だ。繋いでいる右手がギュッと握られて、そこからも準備OKの合図は読み取れた。私は口を開く。

「それじゃあ行くよ?せーの!」

「3!」

「10!」

二人の口から出た数字はまったく違っていた。まったく、こんな時まで私たちは締まらない。

「ちょっと陽葵ひまりー、私十秒も待てんわー」

「でも三秒は早すぎない!?」

「こういうのは一思いに行っちゃった方がいいんだって」

抜歯を嫌がる子供に言い聞かせるみたいな口調でさくらはそう言った。

結局カウントは三から始まることに決まった。いざ仕切り直して。

「せーの、」

「「3、2、1!!」」


繋がれた手がいったん離れて、また逆側の手が言葉なしに再び繋がれた。振り向いた先には窓の中に謙虚に顔を出す桜の木があって、まだ物も何もない、カーテンもない部屋から望めたあまりに薄い桃色に、私は言葉を失った。

私たちは窓に近づいていって、新鮮で見覚えのあるその景色をもっと視界に映したいという思いは、言外に共有されたみたいだった。日が沈む予感だけをうっすらと感じる傾き具合の太陽に右側だけを照らされて、一本の木がそこにでーんとすまし顔で立っている。

たった一本の木に、もう一色としか認識できないくらいたくさんの花が開いている。

こう見るとその色は、ピンクと言うよりも白に近いのかもしれない。

去年の春、の次の日から私の頭の中に浮かべていた桜のイメージ映像は、鮮やかなピンクから徐々に色を失っていって、今目の前に顔を見せている花と同じ色に落ち着いた。そういえば、本物の桜って、こんなに白かったんだ。

しばらく続いた部屋の中の沈黙は私の声で破られた。

「奇麗だね」

少し間を置いて、さくらもそれに答える。

「うん。奇麗だわ」

さくらの言葉はシンプルだ。左手がぎゅっと握られたのを感じて、やっぱりそこからも同意の意思がはっきりと伝わってきた。

「奇麗、だよね」

「うん、奇麗だよ」

それっきり、またお互いに黙り込んでしまって、部屋に再びの沈黙が流れた。


何を言うにも嘘になってしまう気がして、私は写真を撮るのも忘れて窓の外を眺めていることしかできなかった。さくらも同じようにボーっと外を眺めていて、太陽が傾いて行くのが目からわかるくらいの時間が経過した頃、入口の方からビニール袋の擦れる音がして、私たちは同時に振り返る。

「誰もいない……」

「多分、牛丼の袋に入ってた割り箸が倒れたのかも」

「なんだ、ビックリして損したわ」

「お腹空かない?」

「空いたかも。この一瞬で急激に空いたかも」

「だよね。食べよっか」

「うん」

突然訪れた物音に引き戻されて、私たちはようやく窓から離れることができた。

机も椅子も当然ないので、私たちは床に座ってパクパク牛丼を食べる。二人とも窓の方を向いていて、桜をおかずに牛丼を食べているけど、本当にそれだけの何でもない時間が続いた。

「桜、奇麗だよね」

「うん。奇麗」

「なんか、奇麗で終わっちゃうね」

「わかる。言葉を挟む余地がない感じする」

「私、泣く準備とかしてたもん。結局意味なかったけど」

「私も、ハンカチってどのポケットに入ってたっけとか考えちゃったわ。結局意味なかったけど」

「まあでも、奇麗だよね」

「うん。奇麗」

「牛丼、美味しいね」

「うん。美味しい」

「さくらのも一口ちょうだい。私のもあげるから」

「いいよ」

その後も奇麗以上の賛辞はどちらの口からも出てこなくって、好きな丼ものの話題でひとしきり盛り上がるだけの時間が流れた。ようやくスマホに意識がいったので写真を撮ろうと思ったら、もう充電は数パーセントしか残っていないようで、慌てて数回シャッターを切ったらバッテリーがなくなってしまった。最後の力を振り絞ってようやく見つけられた桜の木を写真に収めてくれた私のスマホに、心の中で敬礼を送る。

「携帯、充電切れちゃった」

「え?陽葵ひまりも?私ももうあんまり残ってないんだけど」

こんなところまで私たちは気が合うようで、しかしそれは決して喜ぶべきことではない。遥か遠くの街で、土地勘がなくスマホも使えない女子高生二人、というのがどれだけ危機的な状況か。わずかに充電が残っているさくらのスマホでなんとかするしかなさそうだけど。

突然、ここまでさくらを連れてきた責任を思い出した。これで携帯が使えず帰りの飛行機を逃しましたなんてことになったら……。想像するだけで恐ろしい。

「帰り、どうしよう……」

「でも、チケットはもう取ってあるんでしょ?」

「うん、一応発券も済んでるよ。文集に挟んである」

「なら大丈夫じゃない?私のスマホもちょっとだけ生きてるわけだし。まあうちに連絡入れるのには困るかもしれんけど」

「そっか、焦りすぎる必要もないね」

こんな時でも調子の変わらないさくらに押されてつい納得してしまったけど、よく考えれば全然大丈夫な状況ではないはずなのだ。だけどさくらの言葉には不思議な説得力があって、不安を感じる暇もなく、この子が大丈夫と言うなら大丈夫なんだろうな、なんて思ってしまっている自分がいる。これが幼馴染の信頼というやつなのだろうか。

念のため文集を箱から取り出して開いてみる。万が一、せっかくゲットした帰りの分のチケットを無くしていたら、と一瞬よぎってしまって、再確認をして安心がしたかった。

開いたページには一年生の頃に行った校外学習の時の写真が並んでいて、チケットも二枚、しっかりとそこに挟まれていた。さくらは牛丼を食べ終えたようで、私が文集を開いているのに気づいてページを覗き込んできた。

「このページ、私たちの写真少ないんだよなー」

「そうそう、迷子になってたからね。二人で」

それを皮切りに、私たちは二人とも、文集を眺めながら思い出を語るモードに突入してしまった。思い出話と言うだけでも楽しいのに、卒業文集として写真がいくらでも残っているのだ。もう私たちを止められるものはなにもなかった。

話題はどこまでも遡って行って、ついには幼稚園時代にまで時計が巻き戻ってしまった。

「さくらは本当に、すぐ私のこと馬鹿にしてくるんだから。覚えてる?覚えてないよね。幼稚園の頃、さくら、私にハシビロコウって言ってきたんだよ」

「え?なにそれ、全然覚えてない。そもそもハシビロコウって、なに?」

「鳥だよ、灰色の鳥。全然可愛くないやつ。私、その時に調べてからずっと、ハシビロコウのボーっとした顔が忘れられないんだから」

「鳥かぁ……ほんとに覚えてないわ」

「まったく。スマホの充電さえ残ってれば今すぐにでもハシビロコウを見せてやれたのに……」

「な、なんだよー。そんなこと言ったら、私の手が冷たいって最初に言いだしたの陽葵ひまりだから!」

「それは別に悪口じゃないもん!事実だし!」

「いやいや、まず私の手は冷たくないし、悪口かどうか決めるのも私だから」

「ハシビロコウよりマシでしょ!」

「だからハシビロコウ知らんのよ」

「それならそのやたら分厚いスマホで調べてみなさい!」

「貴重な充電をそんなことに使えるか!」

くだらない言い合いは際限なく続いて、当たりが暗くなったことに気づいて、ようやく私たちは帰りの飛行機の存在を思い出した。


「やばっ!今何時?」

「えっと、飛行機離陸まで、あと二時間半くらいだわ」

「って、あ……」

さくらの言葉が突然途切れた。

「どうしたの?」

「ごめん、充電切れたわ」

その言葉に、わずかだけ顔を見せていた私の不安が、一気に距離を近づけてきたような気がした。かろうじて繋がっていた命綱がとうとう途切れて、私はフワフワした曖昧な場所に投げ出されたような気分になる。手を伸ばそうにも掴めるところはどこにもなくて、覚悟していたはずのスマホが使えない不安は、思っていたよりも私の心に深く影を落としていた。私が無理を言ってさくらをここまで引っ張って来たのに、最後まで責任を取れませんなんて、そんなの許されるはずがない。さくらはきっといつもみたいに軽く流してしまうだろうから、せめて私だけは、私たちの街に帰るまでは、責任を忘れてはいけないんだ。

「ど、どうしよう。モバイルバッテリーとかも持ってないんだよね?」

そうは思っても、不安に飲まれまいと出した声はあまりに弱弱しくって、さくらが普段と様子の変わらない言葉を返してくれるのを、手を伸ばす先を求めているみたいだった。

「まあ、桜の写真も撮れたしいいんじゃない?」

想定通りのさくらの言葉は想定通りに私に安心を与えてくれて、だからこそそれに甘えてはいけないんだと改めて思い出すことができた。

「よし、それじゃあ、早いうちに空港に向かおうか!」

「そうそう、スマホなんかツーショ撮れればもうお役御免よ」

「うん……なんか、さくらってすごいね」

「そうなんだよ。私って結構すごいんだ。陽葵ひまりさんはこんなに長いこと一緒にいたのに、随分気づくのが遅かったねぇ」

全くこの子は、どこまでも調子のいいやつめ。

「はいはい、ノロマで悪かったですよー」

牛丼の空き容器は袋にまとめて、証書と文集をバッグにしまえば荷造りは完了だ。どうせ明日にはまたここに来るんだから、文集と証書くらいなら持って帰る必要はないかもとも思ったけど、せっかくの卒業の証はできるだけ長く近くに置いておきたかった。

荷物をまとめる私に、さくらが声をかけてきた。

「そうだ。最後に文集の寄せ書き、書き合おうよ」

その提案は願ってもないものだった。幸いなことに、私の文集の寄せ書きのページには広く空けられたスペースがあるのだ。そう、このために空けてたんだ。さくらの寄せ書きのために、残していたんだ。うん。そういうことにしよう。

「いいね。あ、でも飛行機に遅れちゃうから、急ぎ目でね」

「あいよ」

バッグから文集を取り出して、さくらに手渡す。私もさくらの文集を受け取ってさあ何を書こうかと迷っているうちに、さくらは胸ポケットに忍ばせていたサインペンでさらさらと私の文集にメッセージを書き出した。

流石、メッセージ交換の頻度が高い人間は違う。すぐ近くにペンを忍ばせておくくらいでないと、次々襲い来るメッセージ交換の波には対応できないんだろう。中学くらいの頃は、さくらと自分の交友関係の幅の違いに悩んだりした日もあったけど、最近ではさくらすごいなぁ……くらいの感情しか出てこないのは、成長のお手柄なのか罪なのか。

私はと言えば、バッグから筆箱を取り出し、直近数カ月は使っていない変な色の蛍光ペンに、小学校の卒業記念に貰った鉛筆なんかに惑わされつつ、さくらがメッセージを書き終わったらしいタイミングで、ようやくサインペンを掴んでいた。

さくらに急ぎ目で、なんて言っておいて、待たせているのは私の方じゃないか。慌ててさくらの文集を開きかけて、その前に一つ提案してみる。

「あ、メッセージは各々の家に帰ってから見ることにしない?」

「それがいいわ。目の前で読まれるのとか恥ずかしすぎるし」

約束も無事取り付けたのでいざさくらの文集を開く。目に飛び込んできたページは数えきれないくらいたくさんの寄せ書きで埋められていて、一面に広がる色は私の文集のそれとはネガとポジがまったく入れ替わっている。

丸かったり角ばっていたり、大きかったり小さかったり、整っていたり粗ぶっていたり、多様な文字で埋め尽くされたページの中に、私に許されたスペースはそこまで多くないようだった。数ページをめくってようやく見つけた空き地に、私はメッセージを残すことにした。時間もスペースもそこまでないから、あんまり多く言葉を残さなくても不自然にならないのが少しありがたい。


何を書くかは少し迷って、『ハシビロコウ、調べろ!!』と残しておいた。

書き終えて一瞬で、もう少しまともなことを書けばよかったと後悔を覚えたけど、サインペンは私に後退を許してくれない。一度書いた言葉は消せないのだ。

この取り返しのつかなさこそが、文集の寄せ書きの価値を高めているのかもしれない。一度口に出した言葉を取り消すことができないのと同じように、人生に一度しかない文集に消せない文字を残す。それはやり直しの利かない学生生活を締めくくる最後の儀式として、これ以上ないやりとりなんだろう。戻れなさに価値があるんだから、咄嗟に思いついたメッセージだってそう悪いものじゃないんだって思える。というか、そうでも思っていないと自分のメッセージのあまりのしょうもなさに、やられてしまいそうなのだ。

「もう書いたの?随分早かったけど、どんな悪口書かれたのかなー。楽しみにしとくわ」

「はいはい。とっておきの悪口だから、ちゃんと帰ってから読んでよね」

「え?ほんとに悪口書いたの……?悲しい……」

「白々しい演技はやめなさい」

「ばれたか」

部屋を後にするその瞬間まで、私たちはずっと私たちのままだった。きっとこの先もずっと私たちのままでいられるんだと、信じたくなるくらいに変わらない。

サルのストラップをジャラジャラいわせながら、今度は鍵を右に回して、アパートを後にする。

先ほどの大家さん曰く、どうせ明日また使うんだから、鍵はそのまま持ってていいよ、とのこと。バッグの内側の小さなポケットに鍵を忍ばせて、私たちは来た時と変わらない道を、再確認するみたいになぞっていく。

鉄の階段を下って、ようやく手の届いた桜の木を最後にもう一回だけ拝んで、牛丼屋、駅前ロータリー、高田馬場駅、浜松町駅、モノレール、そして、空港。


私の不安とは裏腹に、何かに引っ張られているかのように私たちの体はついさっき降り立った空港に運ばれていた。スマホがなくても、意外と何とかなるものだ。

だから大丈夫って言ったでしょ、とどや顔のさくらも、もう一度飛行機に乗らなければいけないことを思い出して顔を引きつらせている。行きにあんなに爆睡していたんだから帰りもどうせ平気なんだろうけど、不安がるさくらは深刻そうな表情を崩さなかった。もしかして、行きの飛行機で熟睡していたように見えて、一度乗ったことで、より一層空を飛ぶことへの恐怖が高まってしまったのかもしれない。

私たちが空港に到着した時間は、飛行機の離陸までには割とギリギリで、わたしたちはまっすぐ、いや、たまに道を間違えつつも、空港の職員の人たちの助けも借りて、定刻十分前に保安検査場を抜けることができた。

軽くではあるものの、空港内を走ったせいで止まらない息切れを収めていたら、横にいた女バスのエースにもっと運動習慣付けた方がいいよなんて口うるさく言われた。ちょっと運動神経がいいからって調子に乗っちゃって、もう飛行機にビビッていても助けてあげないことにしよう。帰りの飛行機も窓際を取れていたら、さくらを窓際に追いやってやったのに。

搭乗ゲート近くまで歩く際中、ガラス張りの窓から滑走路を眺めると、ここからじゃそのサイズがイマイチよくわからないくらいに大きな飛行機が、ぶつかることもなくうごめいていて、私たちの乗る飛行機を探してみたけれど、すぐに諦めた。

途中見つけたコンビニでお茶だけ買って、搭乗ゲートに到着した途端に搭乗開始のアナウンスが流れた。先ほどまで文集に挟んでいたおかげでシワも折り目も一つもなかった紙の搭乗券は、保安検査場を慌ただしく抜けたおかげですっかりよれたり傷がついてしまっていて、搭乗ゲートの機械がQRコードを正しく読み取ってくれるか少し不安だったけど、それもすっかり杞憂に終わって、私たちは無事搭乗手続きを完了した。

ここまで来れば流石に安心していいだろう、この飛行機が墜落でもしない限り、私たちは少なくとも北海道には帰ることができる。

帰りも一向に進まない機内の列に待たされながら、無事に座席に腰を据えるや否や、さくらはすらっと伸びる髪をかき分けて、イヤホンで耳に蓋をした。行きと同じように推しの声で飛行機への恐怖を和らげる作戦だ、きっと彼女の耳には聴き馴染んだアイドルソングが流れていることだろう。さくらの恍惚の表情を見れば、この子がどれだけリラックスしているかがよくわかる。

そして、行きには推しの曲だけで満足できていたはずだけど、それだけでは足りなかったのか、シートベルトのゆるみを直していた私の左腕にさくらの右腕が絡められた。少しびっくりしてさくらの方を見ると、いつもの飄々とした表情はそこにはなくって、やっぱりこの子はまだ飛行機に慣れていないんだと気付いた。可愛いやつめ。

左の通路を挟んで辛うじて見える窓からの景色を見るのに飛行機が動いたことを知って、次第にそれが全身に感覚として伝わってくるまでにスピードが上がる。上昇するスピードは止まらなくって、しばらくの大きな音を合図に後体がふわっと浮いて、その瞬間私の左腕に絡まる腕がきつく締まった。

今度は、さくらの方もを見ることもせずに、左腕に感じる少し心地のいい圧迫感に身を委ねていた。


シートベルトの着用サインが消えて、それとほぼ同時に左腕の感覚も弱まってきて、さくらの方に目をやると、案の定すうすうと寝息を立てていた。今度は私がさくらの右腕に強く腕を絡めてみると、さくらはむぅ……なんて窮屈そうな声を出している。その反応がなんだか面白くって、また腕を強く絡めてみると、やっぱりむぅ……と声が返ってきて、暗い機内で一人、私は笑いをこらえていた。私の右隣に座っている人も眠っているみたいだから、あんまりはしゃぎすぎてもいけない。


でも、この目で桜を見ればなにか考えが変わるかも、なんて思っていたけど、桜を眺めてこうして北海道に向かう飛行機に乗っている今と、つい先ほど東京に向かう飛行機に乗っていたあの時とで、何かが変わったような実感は少しもなかった。あれだけ長い間待ち望んでいた春の桜を確かにこの目に焼き付けたはずなのに、私は何にも変わっていない。

それでも確かにわかったことがあって、結局時間は進んでいくし、結局環境は変わっていくのだ。これでいいのかななんて悩んでいる間にも、これが私の選ぶ道だと目線を定めて進んでいる間にも、誰にも等しい時間が流れていて、きっと何もかもが私の心の整理なんか待ってくれないまま変化していく。その無常さが、容赦のなさが、私の悩みなんて些末なものに見せてくれるから、それが今の私にとってはありがたくも感じてしまう。

それと同時に、引き返すことのできない人生で私が一つだけ選んだ道なのだから、きっとそれは価値のある選択に違いないんだ、とも思える。

別の選択肢にはもう手が届かないからこそ、そんな引き返せなさこそが私の選択に価値を与えてくれる、はずなのだと。

だって私は、春の桜にあれだけの期待を持てていたんだから。

大人から見れば大したことのない年月だったとしても、それだけの時間をかけて想ってきた桜にあれだけの価値を感じられていたのなら、それだけの時間をかけて選び出した選択にだって、同じくらいに価値を与えてやれるはずなのだ。

あの町を離れる選択だって、きっと間違いではないんだと、虚勢でもいいから胸を張って、取り返しのつかない選択を私が正解にしていけばいい。

と言うか、そうすることくらいしか、私にはできないし。

結局、そうやって胸を張っていくしかないから!


随分長く考え込んでしまったみたいで、気づけばシートベルトの着用サインが再び灯って、飛行機は間もなく着陸しますよとアナウンスが告げられた。

機内が明るくなってもさくらはまだ目を覚まさないけど、また行きの時みたいに着陸してからああもう帰って来たんだ、なんて寝ぼけながら呟くんだろう。飛行機が動き出す前にあんなに怖がっていたさくらはどこへやら、気持ちよさそうに眠るさくらの顔を覗き込んでみて、すぐに頭を引っ込めた。なんだか、見ちゃいけないような気がしてしまって。


やっぱりけたたましい音を立てながら、飛行機は問題なく滑走路に足を付けて、程なくしてシートベルトの着用サインが消えた。飛行機が完全に動きを止めた合図だ。

着陸の衝撃でようやく目を覚ましたさくらに声をかけてみる。

「おはよう、今自分がどこにいるかわかる?」

「うぁ……う~ん、……おびひろ?」

正解しちゃったよ。

「はい正解。それじゃ飛行機降りよっか」

飛行機を降りて殺風景な通路を歩くと、心なしか東京よりも涼しい気がした。このひんやりが桜の開花を阻んでいたのかと、改めて実感する。

一日で東京と北海道を往復することなんかないから、こんな大移動でもしなければこの寒暖差に気づくことはなかっただろう。

二人ともスマホは使えないので、帰りも贅沢にタクシーを使うことに決まって、私たちは駅前ロータリーに並んでいたタクシーに乗り込む。

このままいけば、きっとそう遅くなり過ぎない時間にはお互いの家まで帰れるはずだ。

タクシーが走り出して、メーターの表示をグングン上昇させながら、私たちの体を運んでいく。明るかった空港前を抜ければあとはひたすら真っ暗な道が伸びるだけで、窓の外を眺めてみても、返ってくるのはたまの民家の窓明かりと、あとはガラスに映るうっすらとした自分の顔だけだ。東京は住宅街でもあんなに明るかったのに、数時間もしないうちにこれっきりの明るさに包まれることができるなんて。私が思っているよりも、私に見えているよりも、世界はずっと広いんだと、そう思えた。

陽葵ひまりって窓の外眺めるの好きだよね」

突然さくらにそう声をかけられた。

「うん、なんか楽しいじゃん」

「今暗すぎてなんも見えんけど」

「今は別に外を眺めてるわけじゃないから」

「そっか。しかし東京はどこも眩しかったなぁ」

「ほんとにね、電気代とか凄そうだよね」

「確かに、いくらくらいなんだろ」

「百万とか?」

「でも、函館の夜景で百万ドルだから、それ以上でしょ」

「えーっと、一ドルって何円だっけ?」

「二百円くらいじゃなかった?」

「そしたら……二億以上だね」

「一日だけでそんな金が動いてるのか……東京ってやっぱすごいわ」

「ね」

この会話を聞いている運転手さんは何を思うんだろう。私たちのこの姿を見て東京帰りとは思わないはずだけど。少なくとも、大分不思議に見られてることは確かだろうな。

「明日早いん?」

「うん、七時のバスに乗る予定」

「そっか、農協前のバス停だっけ?」

「そう、農協全然遠いのに名前だけ農協前の、あそこ」

「なるほどね」

二人で話し合って、高校の前までタクシーに運んでもらうことに決まった。わかりやすい場所だし、お互いの家までの距離も同じくらいだしちょうどいい。

「しっかし、改めてとんでもない一日だったなー」

「あはは、無理矢理付き合わせちゃってごめんね」

「いや、なんだかんだ感謝してるよ。こんな経験したJKなんて私たちくらいだろうし」

「それならよかった……」

それが聞けただけでも、私に気を遣ってくれただけかもしれないけど、シンプルなさくらの言葉はとっても嬉しかった。

「トートバッグ一つで北海道と東京を行き来する人間なんかそういないだろうよ」

「まあ、証書と文集だけの人に言われてもしょうがないんだけどね」

「それもそっか」

もっと話すべきことがあったのかもしれないけど、どこまで行っても私たちは変わらなくて、あっという間にタクシーは見慣れた校門の前に停車した。

夜も遅い分、行きよりも割り増しになっていた料金をしっかり支払って、お世話になったタクシーが走り去っていくのを見届けたら、ようやく私たちは帰って来たんだと胸を張って言っていいだろう。

さくらは夜の光のない校舎を眺めている。

「本当に帰ってきたね。もう既にこの校舎が懐かしいわ」

「今日の午前中にはまだ使ってたはずなのにね」

「なんか、こうも静かだと、忍び込みたくなってくるな」

「ええ……」

「最悪見つかっても今の私たちならギリギリ許されるでしょ」

「そうだろうけど……」

歯切れの悪い私の反応が伝わったのか、さくらは少し考えこんでから言った。

「……やっぱやめよう。あんま意味ない気がする」

「それがいいと思う。大人しく帰ろう。頭で思ってる以上に体は疲れてるだろうし」

「そうね、それじゃあ」

「うん、バイバイ」

「またね」

さくらの家と私の家は、高校からは全くの逆方向にあるから、さくらとはここでお別れだ。

結構大事な別れ際のはずなのに、昨日までと何ら変わりのない淡白な別れの挨拶は、まだこの町での今までの生活が続くんじゃないかと錯覚してしまうくらいには、いつも通りのありふれたものだった。

さくらは最後までさくらだったなぁ。

慣れ親しんだ通学路を行けばほどなくして実家が見えてきた。そうだ、あれが私の実家だ。

実家の前の公園に立ち寄ってみるけど、やっぱり桜の木は花をつけていなかった。だけど、朝見た時と何ら変わりのないはずのその木は、なんだか少し違って見えた、ような気がした。この木ってこんなに大きかったんだなぁ。

首を上に傾ける私を北海道の冷たい風がさらって行く。

流石にこの時間になると冷えるな。あったかいおうちに、さっさと帰ろう。







####################


暑さに目を覚ますと、昨晩被って寝たはずの掛布団がベッドの脇にクシャクシャになって落ちていることに気づく。

昨日まで散々お世話になった掛布団も、こう暑くてはお役御免だ。毎年この時期の急激な温度の落差には全く慣れないけど、この居心地の悪さが夏の訪れを感じさせてくれるから、私はそんなにこの落差は嫌いじゃない。

スマホを開くと時刻は五時五十五分。ゾロ目だ。なんかラッキー。通知を見るとさくらからメッセージが来ていて、昨日あの部屋で撮影した写真が数枚送られてきていた。

さくらの撮った写真を見ると、なぜだか、ああこれはさくらが撮った写真なんだなぁと一目にわかってしまう。具体的に、構図が特徴的だとかフィルターがどうとか、これと言った共通点に当てがあるわけではなくって、さくらが特別写真撮影の技術に長けているようなこともないはずなんだけど、不思議とさくらの撮った写真はすぐにわかる。

送られてきた数枚の写真もやっぱりさくらの撮った写真だなぁと思えて、そんないつも通りがなんだか面白い。

窓から撮った桜は夕焼けに映えていて、それをバックに撮ったツーショットはもはや桜の木が主役なのか私たちが主役なのかわからないくらいに、桜の木は画角の端っこに控えめに顔を出していた。

他にも東京の街並みの写真が何枚も送られてきて、最後に送られてきていたのは、灰色の鳥の写真だった。文集に込めたメッセージは無事に届いたみたいだ。



アラームが鳴る前に目が覚めたのなんていつぶりだろうか。暑さのおかげかもしれないけど、少しは私も成長できてる、んじゃないかな?なんて調子に乗ってみる。

窓の外に目をやると公園の桜が花をつけていた。見慣れたはずのその桜は不思議と新鮮に感じられて、やっぱり桜はピンクじゃなく白いんだと改めて思う。二日連続で桜を眺めることのできる贅沢さを噛みしめつつ、枕元のスマホを充電器から外して、窓を開けて一枚写真を撮ろうとして、


ピピピピ ピピピピ ピピピピ ピピピピ


スマホの目覚まし時計がようやく仕事をしたらしく、いつもは先を越されてばかりのアラームを、今日はしゃっきりとした気分で止めることができた。朝から随分気分がいい。

改めてまたスマホを構えて、窓の外の桜をシャッターに収める。こうしてみると、昨日見た桜にも負けていないくらい、うちの桜も結構奇麗じゃないか。


リビングに降りるとまだ誰もいないみたいで、まだ目を覚ましていない見慣れた家の中をあっちに行ったりこっちに行ったり。荷造りは昨日済ませたはずなのにどうして私はこうも段取りが悪いんだろう。バタバタ騒がしくしたおかげでパンパンになったキャリーケースを力任せに無理矢理閉めたら準備は完了だ。

全ての準備が整い、後は家を出るだけとなった頃にはお父さんもお母さんも目を覚ましてきて、そしてとうとうその時間はやってきた。

「スマホは?」

「持った」

「航空券は?」

「空港で取る」

「この前お父さんにもらったお守りは?」

「……」

階段を上がりさっきさよならをしたはずの私の部屋に戻ってきた。枕元に転がっていた薄緑色のお守りを掴んですぐに玄関へ引き返す。

「持った」

お父さんは少し落ち込んでいるように見えた。最後の最後まで悪いことしちゃったかな。

落ち込むお父さんをよそに、お母さんが口を開く。

「よし!それじゃあいってらっしゃい!」

お父さんもそれに続いて、

「元気でいてくれれば、それが一番だからな!」

「向こうに着いたら連絡してよ?」

「いや、飛行機に乗ったらにしよう」

「それなら空港に着いてからも……」

「もういっそバスに乗ったらで……」

「ああもう!わかったわかった!それじゃあね!私行くから!」

最後くらい、もう少し綺麗な別れ際のままいられないのかね。まあこれもこれで我が家らしいか。

「じゃあね」

「いってらっしゃい」

二つの声に背中を押されて、私はこれまで長い時間を過ごしてきた家のドアをくぐる。扉を閉めると一枚隔てた向こうからはお父さんの泣いている声がうっすら聞こえてきた。私も少し目が潤んでしまったけれど、これはきっと春の花粉がまだ残っていたからだ。

公園の桜はさっき見た時よりも鮮やかさを増しているような気がして、キャリーケースから手を放して、最後にもう一枚写真に撮った。


農協から少し離れたバス停に到着したのは、乗ろうとしていたバスが発車する五分前のことで、田舎故に便数の限られたバスを逃すことはなんとか避けられた。

まあこの辺のバスはいつも決まって五分遅れくらいで運行してるから、多少の遅れくらいなら取り返せるんだけど。

やっつけ仕事で雑多に置かれたベンチに腰掛けて、キャリーケースの上に小さいバッグを置いて、バッグの中から取り出した航空券を確認する。うん、時間には大分余裕がある。

昨日の経験も生かして、スケジュールの最終確認をしていたその時、

陽葵ひまり~!」

突然誰かに名前を呼ばれた。

「おはよ~」

この気の抜けた挨拶は、

「あなたがここに来ることは、すべてお見通しでしたよ!」

もはや感心してしまうほどに適当なことをペラペラ語るその声は、

「さくら!?なにしてんの!?」

さくらだ。スマホから顔を上げて声のする方に目をやると、そこにはさくらがいた。昨日ぶり、というか、昨日は別れた時間が大分遅かったから、ついさっきぶりと言っても過言ではない。まだ驚きが抜けない私に、さくらはいつも通りの飄々とした態度で続けた。

「なにって、そりゃあお見送りでしょ」

「そんな当然みたいに……」

そういえば、昨日の帰りのタクシーでの会話を思い出す。あの時はなんでもない会話として流していたけど、あの時から探りを入れられていたのか。

「それで昨日、今朝のことを色々聞いてきたんだね」

「そ、サプラーイズ」

そう言って、さくらは手を広げ、サーカスのピエロみたいにお辞儀をして見せた。本当に驚かされてしまったのがなんだか悔しくって、少し言い返してやりたくなった。

「早起き苦手なのに頑張ったね」

「そりゃあもう、こんな日くらい寝ぼけてられませんって」

ちょっと小突いてやった気でいたら、帰ってきた言葉は思いのほか真っすぐに嬉しくって、さくらの言葉に少し照れてしまったことがまた悔しかった。

「あ、バス来た。朝早くからご苦労だねぇ」

呑気な言葉を呟きながらスマホを取り出して時間を確認するさくら。

朝陽を照らしながら近づいてきたバスには人の影はなくて、機械的に開かれた扉に誘われるように、重いキャリーケースを頑張って持ち上げて、私はステップを上がる。わざわざこの時間にここまで来てくれたさくらに最後のお礼でも言おうとして振り返ると、そこにはまたも当然のように、バスに乗り込まんとしているさくらの姿があった。

「さくら!?なにしてんの!?」

あまりに咄嗟のことすぎて、さっきさくらがバス停に現れた時と全く同じ反応を見せてしまった。驚く私に反応を返すさくらの態度もまたさっきと変わらなくって、ここまで来ても、さも当たり前みたいなさくらの顔はやっぱり崩れない。

「え?空港行くんじゃないの?」

「私は行くけど……そこまで来てくれるつもりだったの?」

「そりゃそう、じゃない?」

お互いの当たり前がぶつかり合って、二人とも困惑したままで、そんな私たちの戸惑いには気づいてくれないバスは、さっさと扉を閉めて走り出す。左手で抑えるキャリーケースが、バスの動きに合わせて少しだけ転がろうとして、私は左手に力を込めて、グッとそれを抑える。

走り出したバスには正真正銘私とさくらの二人っきりで、どちらの当たり前が一般的な感覚なのか、私たちには判断のつけようがないくらい、今この世界に私たち以外の存在の息遣いを感じなかった。機械的に、そしてひたすらに安全に、静かな町を静かに駆けていくバスは、どんどん私たちを外の世界から切り離していくような、そんな不思議な感覚を覚えた。ずっと立っていてもしょうがないので、荷物置き場にキャリーケースを置いて、私たちは二人掛けのシートに腰掛ける。窓際の席で、明るさと目線の高さのおかげで昨日の夜よりも見渡しやすい車窓を眺めながら、左に座るさくらに尋ねてみる。

「ついてきてくれるのは嬉しいけど、昨日も行った空港だよ?楽しくないでしょ」

「別に空港を見に行くわけじゃないしなぁ」

「それもそうだけどさぁ。私、てっきりバス停で解散するもんだと思ってたよ」

「それだけならこんな早起きしてないわ」

さくらはどこまでも正直だ。私だって別にどうしてもついてきて欲しくないわけじゃないし、ここまで言われてなお引き下がる必要もないだろう。

農協前から空港まで、数えきれないくらいあるであろうバス停をすべて無視して、バスは私たちを一直線に空港へと運んでいく。

「バス停、全然停まんないね」

「ね。こんな朝早くから飛行機乗る人なんて、いないんだよきっと」

「でも、飛行機の座席は結構埋まってたけどなぁ」

「その人たちはいったいどこから来てるんだろ……」

「う~ん。別の空港?」

「帯広を経由して東京に行く人……道北民か?」

「なるほどなぁ。謎はすべて解けたね」

「いや、直接行けばいいだろ」

さくらの言う通りだと思う。


バスが動きを止めたかと思えば信号に引っかかっただけのようで、やっぱりバス停をいくつも横目に見ながら、誰も乗ってこない静かな車内に、私とさくらが二人きり。これだけ広い車内で、どうせこの先も誰も乗ってこないんだから、もっと広々と車内を使ってもいいだろうに、私たちはせせこましく二人掛けのシートに腰掛けている。

その狭さが一層、世界と私たちを切り離しているような気がした。

世界中に私たち二人だけみたいだ。

バスはやっぱり、バス停をいくつも飛ばして走っている。

陽葵ひまりが東京にいれば、ライブの遠征の時の宿に出来るだろうから助かるわ」

「ああ、いつでもおいで。何なら一緒にライブに付いて行ってあげるよ」

「いや、それはいい。ライブは私とレンちゃんだけの時間だから」

「なんだよー、けち」

さくらの好きなアイドルはグループアイドルだったはずだけど、この子の目にはたった一人の女の子しか映っていないらしい。

「でも、昨日まであんなに寒かったのに、今朝にはもう布団蹴飛ばしてたからね。この落差はやっぱすごいよ」

「わかる、私も布団吹っ飛ばしてた」

「すごいじゃん、リアル布団がふっとんだじゃん」

「もう毎年この会話してない?」

「してる。なんかもう風物詩だよね」

「夏の訪れを感じるわ」

「それで言ったら、桜も見た?」

「見た見た。わざわざ桜見るために学校通って来たんだから」

「おー、気合入ってるねえ。どうだった?」

「奇麗だったわ。ま、奇麗だったけど、昨日陽葵ひまりが見せてくれた桜には、敵わないかな!」

「なに急に持ち上げて。まあでもありがたく受け取っておきますよよかったよかった」

「なんだよ、せっかくかっこつけたのに冷たいなー」

「でも私は逆のこと思ったなぁ。時間とお金はかかってないけど、昨日あの部屋で見た桜の方より、うちの実家の前の桜の方が奇麗……?奇麗と言うより、なんか……大きい感じがした」

「大きいか……それはなんかちょっとわかる気するかも。絶対気のせいなのに、なんか去年までとは違った感じあった」

「だよね。……あ」

「どした?……あ」

次に停まるバス停は、空港のターミナル前だそうだ。二人っきりの時間は、もうおしまいらしい。



####################


携帯に紐づけた電子マネーで運賃を支払って、再び重いキャリーケースを持ち上げてバスを降りるとそこは、昨日も来た空港だった。当たり前のことだけど。

「いやぁ、バスって安いわ。昨日のタクシー代でバスなら何往復できるんだろ」

「それは、まあスピードを求めたってことでさ。スピード代だよ」

「そういうことにしとこう……あ、そうだそうだ」

「ん?」

そう言って、ポケットからさくらが取り出したのは封筒だった。

嫌な予感がした。私だってそこまで察しが悪いわけじゃない、それを見れば、さくらが次に言い出しそうなことくらい薄々想像がつく。私は先回りをすることにした。

「いやいや、昨日のあれは私のワガママだから。お金のことも覚悟したうえでさくらを連れていったんだから、それは受け取れないよ」

「え?なんのこと?」

返って来たのは困惑で、

「え?」

思わず私も困惑で返してしまう。

「いやこれ、ハシビロコウのイラスト。調べてみたら結構かわいかったから、餞別にちょうどいいやって思ってさ」

やっぱり飄々としたトーンであんまりに想定外の答えが返ってきて、今日何度目か分からない呆然の時間が流れた。

「ハシビロコウ……?イラスト……?さくらが書いたの?」

「うん。てか、陽葵ひまりが調べろって書いたんじゃん。ほら、受け取ってよ」

「はぁ……」

特に閉じられているわけでもない封筒の蓋を開けて、さかさまにして振ってみると、紙の擦れる音と共にノートの切れ端が落ちてきた。

二枚に折りたたまれた紙を開くと、可愛くデフォルメされたハシビロコウのイラストがデカデカと描かれていた。下にはさくら特有の丸っこい文字でハシビロコウと書かれている。ご丁寧なことに色までしっかりと塗られた妙にクオリティの高いハシビロコウが、こちらをまじまじと見つめていた。

あまりに突飛な封筒の中身に大層驚かされて、無表情なハシビロコウのすまし顔には笑いがこみあげてきて、それでも一番に湧き上がって来た感情は、

「ああーー!!はっずかしいーー!!」

それだけだった。

「まあまあ、勘違いは誰にでもあるものだから」

さくらにフォローされるけど、今はそれすらも恥ずかしさを加速させる。

「もう、今すぐ忘れて!さっきの会話!」

「いやぁ、さっきの陽葵ひまり、結構カッコいいこと言ってたけどなぁ」

「うるさい!忘れて忘れて忘れて!!!」

もう恥ずかしさに耐えられなくて、あれだけ離れたくないと思っていたはずのさくらと今すぐにでもお別れしたい気分だった。こんな形で未練を断ち切りたくなんかなかったけど、にしたってさっきのあれはあんまりに恥ずかしすぎる。ああもう!

「あ、あとこれも貰っといてよ」

「はいはいわかりましたよ!はいどうもありがとう!次は何!?」

さっきと同じ色と形の封筒を再び手渡されて、今度は実写のハシビロコウでも渡されるのかと思って、封筒を開けようと……。

開け……あれ?封が閉じられてる。

この厚み、重み、もしかして……。何かに気づいた私に気づいたさくらがにやっと笑みを浮かべて、言った。

「それ、昨日のタクシー代と航空券代、往復分入ってるから」

「あーーーーーー!!」

完全にしてやられた。すべてはこれを、私に文句を言わせずに受け取らせるための、さくらの企みだったのだ。

完全にさくらの手のひらの上で転がされたことが悔しいやら、さくらのスマートさに舌を巻くやら。二つの封筒を手に、私は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


陽葵ひまりー、機嫌直してって」

「別に機嫌悪くしてないし」

「してんじゃーん。変なことして悪かったって。でもああでもしなけりゃ受け取ってくれなかったじゃん」

「それは、そうだけど……そうなんだけど!」

流石にバスよりは人の数の増えた空港ロビーで、せっかくのお見送りなのに、私たちはいつもと変わらない、いや、何ならいつもよりもしょうもない諍いにふけっていた。いや、諍いというよりは、へそを曲げた私をさくらがたしなめているだけか。

「ハシビロコウも頑張って書いたから、ね?」

「それはそれで嬉しいけど……嬉しいんだけど!」

「もう私はどうすりゃいいのよ」

「……ジュース買って」

「はぁ……?まあいいけど……」

そう言い残してさくらは少し離れた自販機の方へ歩いて行った。

戻ってきたさくらの手にはペットボトルのリンゴジュースが握られていて、それを見てようやく、変な意地を張ってワガママを溢してしまったことに気づいて、さくらが大人しくそれに従ってくれたことがまた悔しかった。

「てか、そういう陽葵ひまりは、私の寄せ書き見たん?」

リンゴジュースを手渡しながらさくらはそう問うて来た。

さくらは私の寄せ書きを受けてイラストまで用意してくれたのだ、私もさくらの寄せ書きは読んだけど、一枚写真に撮ったくらいで、それを受けて特別なことをしたわけじゃない。ここにもまたさくらと私の差を感じる。


なんか、さくらだけ、この一晩で急に大人になってない?

成長していないのは私だけじゃない?

そう叫びたくなるのをグッとこらえて、置いて行かれた気分を悟られないよう澄ました顔を浮かべながら言った。

「見たよ、結構いいこと書いてくれてたね」

「まあね、我ながら結構気に入ってんだ」


私たちの会話を、良い声のアナウンスが遮って、どうやら保安検査場を抜けないといけない時間が来たみたいだ。

「もう行かなきゃ」

「そっか、早いね」

「早いかな?」

「早いよ」

キャリーケースを掴もうとして、空振った。そうだ、さっき荷物として預けたんだった。貰ったリンゴジュースはバッグにしまって、手持ちの小さなバッグだけ抱えていると、なんだか昨日を思い出す。

保安検査場の前までやってきて、これが本当の本当に最後の時間だ。

「じゃあね」

私が左手を振って、

「うん、バイバイ」

さくらは右手を振った。


####################


保安検査場を抜けた先は、さっきまでいたロビーよりも狭く、その分人の数もさっきと比べて増している気がした。

搭乗口近くのシートに腰掛け一息つく。

搭乗ゲートに姿を見せていないらしいお客さんの名前を大きな声で繰り返し呼びながら、小走りでかけていくCAさん。携帯電話を耳に当てながら、誰に見せているのか、繰り返しペコペコ頭を下げているスーツを着たおじさん。これから始まる旅にワクワクが抑えられないようで、とっも大きな声で楽しそうに会話している、大学生と思しき集団。待合室に置かれたモニターから流れる、道内の桜スポットを紹介している朝の情報番組。朝の静かなバスの中とは比べ物にならないくらいにあたりは騒がしくって、活気はさっきよりも増しているはずなのに、どうしてだろう。

今は、宇宙を漂うみたいに、ひとりぼっちになってしまったみたいだ。

ふと、バッグからスマホを取り出して、写真のアプリを開く。

保安検査場越しの、大きく手を振るさくらの写真、朝家を出る時に見た、桜の写真。

数枚遡って、一枚の写真を見つけた。

『あっという間の春を、ありがとう!』

やけに丸っこい文字で書かれたそのメッセージに思わず笑みが零れて、ちょうどその時、メッセージアプリの通知が届いた。

送り主は、やはりと言うべきかさくらだ。何やら写真が送られてきたみたい。

通知の欄をタップしてメッセージアプリを開くと、届いていたのは、保安検査場越しに小さく手を振る私の写真だった。


私の乗る飛行機の搭乗案内が始まった。席を立って、チケットのQRコードを読み取らせて、搭乗ゲートをくぐる。

飛行機に乗り込むまでの狭い通路には、等間隔に小さなガラス張りの窓が置かれていて、そこからは夏の日差しがこれまた等間隔に覗いている。

昨日とは全く装いを新しくしたけど、それでもまだ急激な暑さには対応しきれていない気がする。整ったリズムで日に照らされながら、大きな鉄の機体の小さな入口に向けて、私は大きく確かな一歩を積み重ねていく。

「暑っつ……」

バッグの中に手をやるとひんやりしたものが手に当たって思わず頬が緩んでしまう。やっぱり、季節が変わっても、冷たいままだなぁ。


飛行機に乗り込んで、窓際のシートに腰を下ろす。左側の小窓から日差しが強く差し込んでいて、私は軽く腕をまくった。


夏はまだ始まったばかりだ。



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太田 @yamaiuotani

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