アナスタシア・ラ・エルゼピア 4

 ザカートに連れられて訪れた彼の邸は、当たり前だけれど、贅を尽した宮城とは違っていて、こちらもやはり故郷の生家を思い出す。

 素朴で温かな使用人たち。主人であるザカートに対する忠誠とはべつに、家族のような情愛に溢れていて、邸の中は居心地が良い。見知らぬ自分に対してもそれは同じで、帝国人であるにもかかわらず、向けられる視線は温かだった。それはきっと、ザカートに対する信頼があってこそだ。

 到着した日の晩に対面した、彼の両親――ゼシュタル王家の忠臣、三大公の現当主たるテイルダード・アセンブルアと、その妻であるモルファリータ。

 ふたりは、ザカートによく似た気質の持ち主だった。アナスタシアの背景を知らないわけがないのに、それを口に出すことはなかったのだ。

 すべてを把握していて、そのうえで受け入れる。

 彼らは言外にそう告げた。


 けれど、いいのだろうか。自分の存在は危うい。

 皇帝陛下はアナスタシアを切り捨てたけれど、その身がゼシュタルにあると知れば、おそらく接触を図ろうとするだろう。内側からこの国を崩すために、知略を巡らせるに違いない。そういう男なのだ。

 もしもそうなったときは、迷惑をかけないようにしなければならない。

 そのときこそ、この命をもって、彼らの優しさに報いなければ。


 そう考えるアナスタシアの傍らに、モルファリータが寄った。

 ゼシュタルの女性。ザカートに似た面差しと、似た色の瞳。もしも母が生きていたら、同じぐらいの年齢だろうか。

 遠い記憶の彼方にいる母は、もうぼんやりとしていた。

 忘れはじめていることに気づくと、焦燥にかられる。やはり自分は、不義理で薄情な娘だ。いや、そもそも「本当の娘」ではないのだけれど。

 どんよりとしたなにかに支配され、唇を噛む。

 去来するのは、城で別れたあのときのこと。そこからたぐるようにして、過去へ思いを馳せる。

 父は、押しつけられた「妹」をどう感じただろう。皇帝陛下に逆らうことなど出来はしない。そんな者は、あの国には存在しない。

 腹を痛めて産んだわけではない赤子を、自らの子として扱えと言われた母の胸の内はどうだったのか。

 巡り揺らぐ思考のなか、モルファリータが自分をそっと抱き寄せた。

 ザカートとは違う香りを感じた瞬間、不意に胸が高鳴る。初めて会ったはずなのに、知っている気がするのは何故なのだろう。どこか懐かしいような匂いに包まれたとき、耳元でモルファリータの声が聞こえた。


「アナスタシア。貴女に逢えてとても嬉しいわ。これから大変なことはあるかもしれないけれど、一緒に考えましょう。秘密にしないで話してちょうだいね。約束よ」


 ――母さまが一緒に悩んであげる。

 ――だから、その時は内緒にしないで、きちんと話してちょうだい。

 ――約束よ、アナスタシア。


 ふと、声が脳裏に響いた。

 叱られる覚悟をしていた幼い自分を抱きしめて、母が告げた言葉がよみがえった。


 そうだ。母は、そんなひとだった。

 母さまは、こんなふうに優しくて、温かいひとだった。



「……母さま?」

 小さく漏れた言葉を拾ったのは、おそらくモルファリータだけだろう。

 頭を撫ぜる手が深められ、もう一方の手が背中にまわされる。

「ええ、私はここにいるわ。大丈夫よ。いい子ね、アナスタシア」

「かあさま……」

 嗚咽をあげて泣く情けない自分を、モルファリータがずっとあやしてくれるから。その優しさにすがって、アナスタシアは泣いた。


 ごめんなさい。

 あのとき、我儘を言ってごめんなさい。

 最後だなんて思わなかったの。

 あれきり、もう会えなくなるだなんて、夢にも思わなかったの。

 ひとりで平気なんて嘘。

 本当はずっと寂しくて、怖くて怖くてたまらなかったの。

 父さま、母さま。

 ごめんなさい。わたしのせいで、ごめんなさい。


 モルファリータにとってはきっと、意味のわからないであろう言葉を吐き出しながら、アナスタシアは七つのころに戻り、母の胸にすがってただ泣き続けた。



 テイルダード・アセンブルアとは、泣きはらした顔のままで帝国の話をしたのだが、そこで知れたのは意外な事実である。

 アナスタシアの恩師であるファルザームは、テイルダードの大伯父だというのだ。

 五十余年前。政局で起こった、帝国との交易についての問題。反対派によって罪を負わされたファルザームは、逃げるように国を去ったらしい。罪をきせられた被害者であることはわかっていても、表立って庇うことは難しかった。

 しかし、この事件によって帝国との交易は前向きに動き出すことになり、今があるという。

「……申し訳ありません。ファルザーム先生は、わたくしのせいで、わたくしにかかわったばかりに狙われ、命を。わたくしのせいなのです、わたくしが」

「貴女はそうやっていつもご自分を責めてきたのですかな。しかし、それは傲慢ですよ」

「父上、そのような言い方はっ」

 テイルダードの弁にザカートが反論するが、アナスタシアは戦慄した。それもまた、かつて師に諭されたことだったからだ。

 ああ、この方は先生に繋がる御方だ。

 ザカートがファルザームに似ていると感じたのは、間違いではなかったらしい。

「アセンブルア公爵は、先生に似ていらっしゃいますね。先生にも、そうやってよく叱られたのです。わたくしの悪い癖なのですわ」

「亡くなった者もいますが、大伯父の弟妹は存命しております。彼がどのように暮らしていたのか。よければ貴女の口から話してやってください」

「わたくしでよろしければ、喜んで。わたくしもお逢いしてみたいです」


 正直にお話ししよう。

 ファルザームを救えなかったことを責められるかもしれないけれど。

 それでも、師が生かしてくれた命をもって、アナスタシアはここにいるのだから。




 アナスタシアがかぶる皇家の仮面は、ゼシュタルに来てから外れてしまったように感じている。

 正確には、ザカートに出会ってから、だろうか。

 彼は、アナスタシアが己を奮い立たせて仮面をかぶっていることを、いともたやすく見抜くのだ。気づいて、救いの手を差し伸べてくれる。そうやって自分の名を呼ぶ穏やかな声に、どうしようもなく心が震え、アナスタシアはいつも泣きそうになってしまう。

 傍にいると、心音が上がり身体はすぐに熱をもつ。強くあらねばと己を律し、保持していた形がどろどろに溶けてしまいそうになるけれど、そんなときはザカートの手が、唇が、アナスタシアの肌から熱を奪う。

 そうされることでアナスタシアの熔解は止まり、存在を保っていられるのだ。



 魔族の男と帝国の姫は、寄り添い、互いの熱を分け合いながら、この先の未来を共に生きていく。



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魔族の男と帝国の姫 彩瀬あいり @ayase24

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