アナスタシア・ラ・エルゼピア 3
十五歳になったアナスタシアは、誰もが振り向き、その美貌を褒めそやす美しい姫に成長していた。引く手あまたといったところだが、その破天荒な言動に難を示す者も多い。
とはいえ、まだ十五の娘だ。この先、どうとでもなる。
我儘も、可愛らしいものだ。
アナスタシアはそれらを十分に理解し、彼らの望むように振る舞い、偽りを演じた。
学のある女は嫌いだと言われたら、師に教わった知識を披露する。優秀だというご自慢の子息を言い負かし、憤怒の顔を浮かべる相手を見るのは胸がすいた。
好色そうな男――それも随分と年嵩の男から向けられる視線は身の毛がよだつ心地がしたが、それもまた勉強だと考え直した。
このときはまだ、生きていく心づもりがあったのだ。
両親はもういないけれど、アナスタシアには恩師がいた。ずっと近くで見守り、教えを説いてくれた。アナスタシアにとって、人生の師ともいえる老紳士だ。
――いつか、先生と一緒にゼシュタルへ行こう。
それがアナスタシアが求める未来になった。そのために、力を手に入れようと決めた。
皇帝陛下は、そんな自分の浅知恵など、とうに見抜いていたのだろう。
十六歳になる手前。ゼシュタルでは成人の祝いをするのだと教えてくれた師が、毒を盛られて亡くなった。
息も絶え絶えになったファルザームの傍で、アナスタシアは彼の手を握って声をかける。
「先生! 先生!」
「……姫さま。そのような顔をなさいますな」
「ですが、わたくしはようやく十六歳になりますのよ。成人ですわ。ゼシュタル流の祝いをしてくださると、そう約束したではありませんの!」
「貴女は、本当に美しく、聡明になられた」
かすれた声で、ファルザームは語る。アナスタシアは耳をそばだてるが、途切れ途切れの声は、もうほとんど聞こえない。
私をお恨みになっているでしょうか。
幼い貴女に対して、私は己のエゴを押しつけました。
ゼシュタルという国のこと。帝国が魔族と
そしてゼシュタルの知識を与え、帝国人としての常識を塗り換えさせた。
ひどく生き辛くなるであろうことをわかっていて、私は貴女にそれを課したのですよ。
私は生きた。生きすぎました。
この国でどう果てるべきか悩んでいた私は、最期に貴女にエゴを押しつけ、一矢報いるつもりでした。
ですが、貴女はよい生徒でした。
いつしか私は、貴女を育てることに喜びを見出しました。生きる目的を、生きてきた理由を見出しました。
姫。アナスタシア。
ありがとう。
貴女は、私の唯一にして、もっとも優秀な弟子でした。
大きく咳き込んだファルザームの瞳が翳る。なにかを掴むように伸ばされた手を握り、青ざめた師の顔を覗き込む。
「先生っ!」
「……ああ、空。美しき、ゼシュタルの……空」
力なく抜け落ちた手が、寝台に落ちる。
体温が低いというゼシュタルのひとは、死したときはどうなるのだろう――
アナスタシアは、ぼんやりとそんなことを考えた。
それからの日々は、じつのところよく覚えていない。
アナスタシアが生きる意味は、またなくなってしまった。
ゼシュタルとの和平交渉をおこなうため、国が動き始めたと知ったのち、皇帝陛下に呼ばれる。
久しぶりに見た祖父――父の顔は、老いてなお威厳があった。
けれど、それを怖いとは感じなかった。
皇帝に対する恐れすら麻痺していたし、そもそも喜怒哀楽の感情自体をなくしていたのだろう。なにもかもを失い、アナスタシアの内側にはもう、なにひとつ残っていない。
「おまえに任を与える。帝国の代表として赴き、魔族の男に殺されてこい。
「……はい、陛下」
「おまえの
アナスタシアの身体をなめるように眺め、皇帝は満足そうな笑みを浮かべる。
ああ、やっと死ねるのだ。
アナスタシアはそう思った。
知らないうちに亡くなった、産みの母。
自分を育てたことで、自身の親に殺されてしまった父と母。
そして、自分の師となったばかりに、やはり殺されたのであろう恩師。
みな、アナスタシアのせいで、命を失くした。
生きているかぎり、この連鎖はきっと続いてゆくのだろう。
ならば、これは好機だ。
先生が話してくれたゼシュタル。そこに住んでいるひと。
会いたい。
会ってみたい。
強く、そう思った。
大陸中央は、最北端で育ったアナスタシアには、むわりとする熱気だった。
ゼシュタルの服が軽装な理由は、こういうことなのだと知る。
広大な森。木立のおかげで影があり、湿り気を帯びた土と、通り抜ける風が心地よい。実地でしか学べないことは、やはりたくさんある。
そうして初めて出会ったゼシュタルの民は、「人」だった。
絵本で見たような異形な者などでは決してない。アナスタシアとなんら変わらない、ひとりの男性だった。
陽に焼けた健康的な肌は、帝国南部に住む民を思わせる。
襟足にかかる程度の黒い髪は艶やか。太陽の光にも映えるが、印象的なのはやはり瞳の色だ。
ファルザームよりも明るめの、赤と橙を混ぜたような色。西の空を彩る夕焼け色の瞳は、故郷の空を彷彿とさせた。
夕刻まで遊んで、真っ赤に燃えた空の下、走って家路を辿った。
あの懐かしい風景。
――思い出しなさい。大切な記憶はたやすく失われます。
かつてファルザームが言ったことを思い出す。
ああ、先生。貴方のおっしゃるとおりです。わたしは、いつのまにか忘れていました。
貴方はわたしの瞳をゼシュタルの空と形容しましたが、ゼシュタル人の彼も、わたしが知っている空の色をしていらっしゃいます。
懐かしくて、ずっと望んで、いつか帰りたいと願っていたあの場所の。
ゼシュタルの高位貴族のザカートは、やはりアナスタシアを警戒しているようではあった。
当然だ。皇族の姫にもかかわらず、供の一人も連れていないなど有りえない。疑ってくれと言っているようなものだった。
けれど、仕方がないのだ。これはアナスタシアに課せられた任であり、独りでおこなわなければならない仕事なのだから。
毒を盛る手段として、もっとも簡単なのは食事だろう。アナスタシアは彼と飲食を共にするよう心掛け、異文化交流の名のもとに互いの料理をくちにするよう、誘導を試みた。
ザカートは愚かな男ではない。こちらの意図を見抜いてしまうのではないかと、いつだって気が抜けなかった。
毒物が混入していたとしても、わからないでしょう?
笑いながらそう言われたときは、生きた心地がしなかった。おまえの浅い考えなどお見通しなのだと、嘲笑われているような気がして、身体が震えた。
ふたりきりの暮らしは、想像していたよりもずっと穏やかで、アナスタシアの心はほぐれていく。凍りきって固まっていた心が、ゆっくりと溶けていくにつれ、隠し持っている毒の存在が重しになっていった。
どうすればいいのか、わからない。
わからなくて、心が痛い。
師が亡くなって以来、からっぽだったアナスタシアの中に、新しく生まれた感情。
空白を埋めたのは、どこか師に似たゼシュタルの男。
いやだ。
殺せない。
もういやだ。
わたしのせいで、誰も死んでほしくない。
ならばいっそ、
ああ、そうだ。どうしてそうしなかったのか。
わたしはずっと、生きながら死んでいたのだから。
けれどなぜか心は悲鳴をあげる。
たくさんのひとを殺したくせに、身の内に生まれた欲にすがりたくなる。
生きたい、だなんて。
どこまでも醜い欲望を彼に容認されて、決意は脆くも崩れ去る。
アナスタシアは知った。
ゼシュタル人の肌は、温度が低くて硬い。
けれど唇は柔らかく、ほんのり熱を帯びている。
その奥。咥内も同様であり、舌もやはり少し温かいのだと、ザカートに教えられた。
幾度となく、思い知らされた。
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