アナスタシア・ラ・エルゼピア 2
魔族。
大陸の南側に住んでいる者たちを、そう呼んでいる。
帝国人とは異なる肌を持ち、噂によれば、身体が大きくて力も強い。口は大きく裂け、獲物をさらってきて臓物を喰らうのだという。絵本に出てくる悪魔のようなひとびと。
けれど、目の前にいるファルザームは、普通の人間に見えた。白髪まじりの髪に、老人特有のシミが入った肌。やや赤みを帯びた瞳はめずらしいけれど、特別奇異には感じない。
――つまり、わたしの考えがまちがっているのよね。
アナスタシアはそう考えるに至った。
魔族のことは、本で読んだり噂で耳にしたことばかり。自分の目でたしかめたことは、ただの一度もない。会ったこともないのだから、どんな姿をしているのかなんて、わからないじゃないか。
「魔族の方は、みんな先生のような姿をしてますの?」
「私のような、とは?」
「ふたつ目があって、耳も口も普通の形をしているわ。指は五本だし、髪の毛もきちんと生えている。身長のことはわからないけれど、それは遺伝子的な問題もあるのでしょうし、先生だけを見て判断はできませんわね」
アナスタシアの回答に、師は頷いた。
「ゼシュタルとエルゼピアは、貴女が思っている以上に親交はあり、溝は深いのですよ」
その日から、魔族――ゼシュタルについての講義が始まった。
大陸中央に広がる森。その付近にある地では、ゼシュタルとの交流はある程度おこなわれているそうだ。過度にあの国を厭うのは、皇帝のお膝元である都と、それを中心にした貴族たち。
彼らの文明は高く、作り出す工芸品は質も高い。あちらから輸入されているものは存外に多いが、その事実を知るものは少ない。
「ゼシュタル産と知れば、売れませんからな」
「偏見だけれど、その気持ちはわかるわ。わたくしだって、先生のお話を聞かなければ、きっとそう思ってしまいますもの」
「正直でよろしいことですな。そのお気持ちを、大事になさいませ」
気候に合わせる形で、ゼシュタル人の肌は厚く硬質化している。しかし、帝国に住まいを移してしまうと、環境に身体も馴染んでくるのだろう。ファルザームの肌は、帝国人のそれと大差ないものに変容していったという。
あちらは太陽の光が多く、気温も高い。それゆえ、身体自身が作り出す熱は少なくて済むらしい。
そう言いながらもファルザームの手は、温かみがあり、柔らかい。
これもまた環境変化だというのならば、とても神秘的だと思う。もしも自分があちらへ行ったとすれば、どんなふうになるのだろう。
俄然、興味を引かれた。
城にある蔵書はやはり、帝国に分が悪いことは書かれていないし、そういったものは収められていない。
アナスタシアは外に情報を求め、ファルザームの手伝いをするという名目で、城外へ出るようになった。時に、アナスタシアが十歳になった折である。無論、護衛は付いていたが、逃げたりしなければ咎められることもなかった。今にしておもえば、子どもだから容赦されていたのだろう。
そうしてアナスタシアが十二歳になったとき。
両親が死んだ。
魔族の襲撃を受け、殺されたという。
アナスタシアはそれを聞かされても、表情を崩さなかった。心の内は荒れ狂っていたけれど、それを悟らせるような真似はしなかった。
そうするだけの術を、アナスタシアはもう身につけていた。
――ゼシュタルのひとが、どうして父さまを殺すというの。理由がどこにもないわ。
アナスタシアは考える。思考を巡らせる。
周囲の声。
ずっと囁かれていた噂。
陛下と、伯父伯母たちの態度。
アナスタシアに向けられる、たくさんの視線。
正解はおのずと知れた。
両親は――アナスタシアを育ててくれたあのふたりは、だからこそ殺されたのだ、と。
皇帝陛下が、身分も知れない孫のような年齢の娘を性欲の対象とし、何度も何度もそうしたことで生まれたのが
汚らわしい自分がいたばかりに、彼らは不幸になったのだ。
ナイフを突き立てて死んでしまいたくなった。
塔の上に立って、そのまま飛び降りてしまえばいいとすら思った。
けれど「両親の死を哀しんでいる少女を見守る」という名目で監視は強化され、アナスタシアは軟禁されたのだ。
人形のようなメイドたちと、監視する男。
唯一、温度を持っている存在は、低体温種族のファルザームとは、皮肉なものだ。
「お悔やみを申し上げます、姫」
「世辞は結構です」
「姫さま」
「わたくしは、七つの折に彼らから離れ、それから一切会うこともなかった不義理な娘ですものね。皇帝陛下の庇護のもとに育ち、あのような辺境の果てに辟易し、五年間、足を踏み入れることすらしなかったのですわ。このような事態になっても涙ひとつ見せず平気な顔をして城内を歩きまわり、両親のことなどとうに忘れて――」
「そう、言われたのですかな」
「――っ」
ファルザームの静かな声が、部屋に響いた。
「姫さま。ご両親のことを思い出しておあげなさい。繰り返し、何度も思い出しなさい。人は忘却する生き物です。大切な記憶はたやすく失われます」
「……先生も、そうなのですか?」
「私はあちらで追われる身となり、境界の森を踏破しました。身分を偽り、姿を偽り、エルゼピアの民のように振る舞いながら生きてきました。今となっては、こちらでの時間のほうが長いほどだ」
思い出さないようにして生きてきたけれど、老いてくるに従い、望郷の念が沸き起こる。
だがもう、あちらのことをうまく思い出せない。
思い出したくても、ふわりとしか浮かんでこなくなってしまった。けれど、
「貴女のおかげです、アナスタシア姫」
「わたくしが、なにを……」
「その瞳。美しい空の瞳に出会ったとき。私はゼシュタルの空を思い出しました。何十年ぶりでしょう。どれほど嬉しかったことか、おわかりにはなりますまい」
ファルザームは微笑み、アナスタシアの手を取った。かさついた手のひらからは、ほのかな温もりが届く。
押し出されるように、アナスタシアの脳裏に母の声がよみがえった。
お転婆で、トラブルに巻き込まれることも多かった幼いころ。
大人を巻き込まずに解決しようと足掻き、結果的におおごとになってしまったことがある。
さすがに叱られる覚悟をしたアナスタシアを、父も母も、頭ごなしに否定したりはしなかった。注意はされたけれど、それだけだ。ただ、へたをすれば命にかかわる事態に発展した可能性もあったことから、なにかあったときは隠さずに話すように言い含められた。
怒ったりはしないわ。けれど大人を頼りなさい。母さまが一緒に悩んであげる。
だから、その時は内緒にしないで、きちんと話してちょうだい。約束よ、アナスタシア。
母の手の温もりが、ファルザームのそれと重なり、涙がこみあげる。
この手を握ってくれた両親は、もういない。この世のどこにも存在しない。
いない。
もう、二度と会えない。
ポタポタと涙が零れ落ちた。
城に閉じ込められても、ほんのすこしだけどこかで期待していた。
伯父たちが参上するように、父もやってくるのではないだろうか。
その折に、こっそり姿を見るぐらいのことはできるのではないだろうか。
会いにきてくれたりはしないだろうか。
アナスタシアが出した文は、届いているだろうか。
七歳で別れ、十歳になるころには、己にまつわるさまざまな噂を理解できる分別がついた。
それでもまだどこかで、縋っていたのだ。
いつか、監視もなく外に出て、西へ。懐かしい故郷へ足を踏み入れたら、きっと両親に会える。
どこかへ逃げたりなんてしない。
ただ、姿を見て、声を聞く。
それだけでいい。
もう一度、父と母の姿を目に焼きつけたい。
そうして、十二歳になった今。それが二度と叶わない夢になったことを知り、アナスタシアは声をあげて泣いた。
あのとき、両親の言うことを聞いていたら、こんな未来はなかったのかもしれない。
――父さまも母さまも、どちらもいなくってもわたしだけでだいじょうぶよ。
幼い自分の、なんと愚かなことか。
ひとりで平気なわけがないのに。
押し寄せる後悔に、泣いて、泣いて。
声が枯れるまで泣きつくして。
そうしてアナスタシアは、涙を封印した。
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