特別編

アナスタシア・ラ・エルゼピア 1

 アナスタシアが恩師に出会ったのは、両親と別れて半年ほど経ったころだった。

 当時の自分は、祖父だという皇帝陛下に初めて謁見し、両親とともに部屋に下がったところを、ひとりだけ別室に招かれたことにも、違和感を覚えなかった。

 つまらなくて、遊びたい気持ちも大きかった。

 邸とは違う、広大なお城が素敵で探検がしたいと思ったのだけれど、両親はそれを良しとしなかった。ひたすらに制止し、自分たちの近くにいるようにと言い含めてきたのだ。

 珍しくも咎められたことで、アナスタシアは意地になる。

 ――ひとりだって平気だもの。父さまも母さまも、どちらもいなくってもわたしだけでだいじょうぶよ。

 そう胸を張って、案内人の男についていった。連れられて向かった先は、絵本に出てくるお姫さまの部屋のようで、アナスタシアはまるで物語の主人公になった心地だった。

 本当に莫迦で愚かだったと、振り返って思う。




「わたし、いつまでここにいるの?」

「存じません」

「父さまと、母さまはどこにいるの?」

「存じません」

 アナスタシアの周囲にいるメイドは、常に表情も声色も変わらない。淡々と答え、アナスタシアを置いて部屋を出て行く。それを見送りながら、アナスタシアはむっとなるのだ。

 故郷は大陸の西に位置し、領地には自然が広がっている。海へ出るには時間がかかるけれど、大きな湖があり、そこから流れていく川や池で、水遊びにも事欠かない。交通の便はどちらかといえば悪く、避暑には向いていないせいか、都から貴族が押し寄せてくることもない。

 地元のひとだけで完結している、そんな土地でアナスタシアは育った。

 父母と、両手の数ほどの使用人。皇帝陛下の直系にしては慎ましやかな生活だが、幼かったアナスタシアはそれを疑問に思うことなく、のびのびと暮らしていた。

 通いでやってくる庭師には特に世話になった。ふたつ年上の男の子に付いて、アナスタシアはよく森に入って遊んだものだ。領主の娘だからといって、へんに持ち上げられることもなかったのは、子どもだったせいもあるのかもしれない。

 そんなふうに過ごしてきたアナスタシアにとって、都のお城は綺麗だけど窮屈だった。探検したくとも、ひとりで出るなと怒られる。ならば誰か一緒にといっても、忙しいのだと断られるのだ。部屋の前にはいつも男が立っていて、アナスタシアが出て行かないように見張っている。

 仕方がないから本を読んだ。絵本だけではない、なんだか難しそうな文字がたくさん並んだ本が、アナスタシアの背を倍にしたぐらいの本棚にみっちりと詰め込まれているのを見たからだ。

 七歳の少女が、城の図書館でひたすら読んでいる姿は奇異に映ったのだろう。

 皇帝陛下に会ったときに見かけた男が、老人を伴って現れた。白髪が多く混じった灰色の髪。すこし浅黒い肌をして、皺の寄った顔を緩ませてこちらを見ている。

 紹介されたのは、アナスタシアの家庭教師となるべく呼ばれた男だった。挨拶を交わしたのち、案内役の男が去る。残った老教師は、アナスタシアとふたりになると、途端に態度を変えた。

「姫さまは、なにを学びたいのですか?」

「そんなの知らないわ。わたしが頼んだわけじゃないもの」

「ならばお決めなさい。こちらから言うことはありませんので」

「決めろって言われても困るわ。勉強ってなにをするものなの?」

「ほう。勉強をしたことがない、と?」

 過分に蔑みを含んだ声色は、少女にも通じた。莫迦にされたのだと知ると、かっと顔が熱くなる。

 だって仕方ないじゃない。いままで「お勉強」なんてしたことがないし、それを強いる人もいなかった。いきなりこんなところへ連れてこられて、閉じ込められて、一体なにをしろというの。こんなことは望んでいない。

 わたしだって帰りたい。領地に帰って、また森に遊びに行きたい。

 庭師と一緒に、ベリーの改良をしているのだ。二年経ってようやく実りそうだから、摘むのを楽しみにしているのに。止水工事によってできた新しい農園では、帝国南部のほうで作っている果物を栽培できないかという話にもなっている。それも見たい。生育に応じた土を作るために、いろんな泥や砂を混ぜる作業は、みんなでわいわいと話しながらするから、とても楽しい。お勉強なんて大嫌い。

 鬱憤を晴らすようにまくしたてた。顔が熱くなって、涙がこみあげてくる。

 アナスタシアは気づいた。

 帰りたい。父さまと母さまに会いたい。

 自分の望みは、それなのだと。

 ――なにそれ、まるで子どもだわ。このひとも、きっと笑うのよ。

 顔を伏せるアナスタシアの耳に届いたのは笑い声ではあったけれど、それは想定していた嘲笑ではなく、とても穏やかなものだったため、驚いて顔をあげる。柔和な笑みを浮かべた老人は、ゆっくりと手を伸ばしてアナスタシアの頭に触れた。

「きちんと勉強をされているではありませんか。生きとし生けるものへの愛、貴女はそれを知っている。良いところでお育ちになりましたな」

「……あなたは笑わないのね」

「どうしてそう思われる?」

「土まみれの田舎者は汚いって、父さまのお兄さまやお姉さまっていうひとたちが言ってた」

「それを信じなさりますか」

「汚くないわ。みんなそんなひとじゃないもん」

「そのとおり。大陸に生きる者はすべて平等。差などありはしない。貴女は信念を貫きなさい。ですが、それをどう表現するかが大事です」

 体面という言葉をご存知ですか?

 巧みな誘導で、老人は貴族社会の在り方を話しはじめた。アナスタシアは引き込まれるように耳を傾ける。授業は続き、気づけば陽はすっかり傾いていた。

「姫さま、この続きは明日以降で」

「うん、わかったわ」

「まずは、そこから改善してまいりましょうか」

「そこって?」

「言葉遣いですよ。今の姫さまは素直で可愛らしいものだと思いますが、おそらくはさげすまれます」

 師の言葉は辛辣だったが、それはアナスタシアを導くためのものであることは、今日のやりとりでわかっている。

「わかりましたわ。わたくし、がんばって改めますわ」

「……そのお言葉は、なにを参考にされたので?」

「おかしい? 絵本のお姫さまは、みんなこんなふうだったわ。都のお姫さまって、こんななのかなって思ってたのだけど」

「まあ、よいでしょう」

 それも愛嬌といえば愛嬌だし、極めれば、遠回しな嫌味にもなるだろう。

 そう思ったので、敢えて矯正はしませんでしたと、のちに、師は楽しそうに語った。

 おかしいのなら、とめてくれたらよかったのに――と、アナスタシアは思う。染みついてしまった言葉遣いは、いまさら変えられない。




 師の名前は、ファルザームという。姓は述べなかったが、貴族でもなければわざわざ名乗るひともいないため、不思議には思わなかった。

 ファルザームは図書室へ赴くと、アナスタシアに一冊選ばせる。それが、その日の講義だ。皇帝が座する宮城には、古今東西、あらゆる本が収められている。

 あるときは地図帳を広げ、帝国が出来上がってきた歴史を学んだ。国が集まり、廃れ、繋がり、分断し、戦いに敗れ、蹂躙され、滅んではおこり、世界は新しくなる。エルゼピア帝国がいかにして大きくなっていったのか。ファルザームは語った。それは決して綺麗ごとではない歴史だ。

「帝国を悪だと称されますか?」

「ええ、とっても」

「だとすれば、それは姫さまの傲慢ですな」

「どうしてよ」

「彼の国は、ひどい暴君によって民は虐げられておりました。小国だからこそ、隅々にまでそのちからはおよび、逃げ出そうとする者は問答無用で斬り殺される。本人だけではなく、家族にまで手は伸びましたし、一族郎党すべてに責がおよんだといいます」

「そんなこと、どこにも書いてないわ」

「巧みに隠していたのですよ。表面上は、統率の取れた国家でした。ですが、その統率は恐怖によって制御されたもの。皆、必死だったのです」

 姫さま。一方の考えだけを見てはなりません。知る努力をなさいませ。


 ――この方は、いったいどんな生き方をしてきたのかしら。

 アナスタシアは疑問に思う。周囲にいた大人たちとはまったく違う言動をする一方で、はみ出した行動はなく、抜きん出ることもない。誰よりも頭が切れそうなのに、それを誇らないのだ。

 だからアナスタシアは、ファルザームに問うた。

 師は、知りたいことは呑みこまず、質問をしろと常々言ってきたから、彼に問うことにした。

 あなたは、どんなところで生まれ、どんなふうに過ごしてきたのか、と。

 すると彼は答えた。

「アナスタシア姫。私の故郷はゼシュタルです」

「ゼシュタル?」

 それは、帝国の歴史を語るうえでは外せない国。憎き敵国、恐るべき魔の一族。

「ええ、魔族ですよ」

 師が、笑みを浮かべた。



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