全てが完璧な世界で Cloud Cuckoo Banana Land

中原恵一

Chapter One: Yamada Taro

 その男が謎の少年と出会ったのは、とある貧民街の裏通りだった。


「アジア人に生まれたらその瞬間にゲームオーバー。人生失敗なんだよ」

 薄暗い通り沿いの階段に腰掛けて、若いアジア人の男がぶつぶつと独り言を言っていた。男は酔っているようで、酒の入ったビンを片手に続ける。

「白人はいいよ。どんな仕事にもつけるし、好きな女とヤりたいだけヤれる。夜道を歩いてる最中にも警官に『坊や、十三歳?』って声を掛けられることもない。最後の部分だけでも、最高の人生だぜ」

 男の話を聞くものはいない。彼の座る家の玄関から延びる階段のすぐそばにはゴミ置き場があり、辺りには腐った食べ物の匂いが立ちこめていた。治安の悪いこの一帯は夜になるとネズミとホームレスしかいない。着古したボロボロのジーンズと擦り切れたジャンパーがこの男も例外ではないことを表している。

 無職になって住んでいた家を追い出されてからというものの、男はいつもここにいた。わずかな貯金を切り崩して酒を飲むか、ヤクを打つか。男にはそれ以外に特に趣味もなかったし、家族も恋人も友人もいなかった。

 毎日、毎日、ただ通りの隅にしゃがみこんでぼうっとするだけ。自堕落で非生産的な時間が過ぎ、男は希望を見失っていた。今日もまた、この男にとってはそんな意味のない一日でしかなかった。

 しばらくして、男はよろめきながら立ち上がった。寝る準備をするためだった。

「ケッ、どいつもこいつもアジア人っていうだけで足元見やがって……。あの女、自分だってアジア人の癖に俺を――」

 通りの真ん中に一人の人影が立っているのが見えて、男は途中まで言いかけたいつもの愚痴を飲み込んだ。

 誰だろう、と思って男は目を凝らした。フードと長い前髪のせいで顔が見えないが、背丈はそこまで大きくなく子供のようだった。街灯に照らし出された彼は、男の方をじっと見つめているかのようにその場に佇んでいた。

 気が大きくなっていたのか、男は酒の勢いで罵声を浴びせた。

「おい、クソガキ。ここはお前の来るような場所じゃねえぞ。とっととウチに帰れ」

 男は持っていたビンを彼に向かって投げつけた。しかし彼は造作もなくそれをかわして、ゆっくりと男の方へ向かって歩いてきた。威嚇されたことを別段気にする様子もなく、口元には僅かに笑みさえ見せていた。

 そして彼は懐からなぜか黒いウォーキー・トーキーを取り出した。スマートフォンでも携帯電話でもなく、今時時代遅れでしかない小型の無線機だった。

「――発見」

 彼は男の前でピタリと立ち止まると、送話口を口の近くに被せるようにしてそう言った。

 二人は、男が座っていた民家の玄関前の階段に接する歩道の上で向かい合っていた。改めて彼を見ると、ヨットパーカーに半ズボン、足はスニーカーという高校生のような服装で、並んで立つと男よりも頭二つ分ぐらい背が低かった。彼の奇妙な立ち振る舞いに男もやっと異変に気づいて、投げやりながら彼に質問をした。

「……なんだお前? 俺に何か用か?」

 彼は黙ったまま、ウォーキー・トーキーを耳に押し当てて何かを聞いているようだった。男はイライラした。

「おい、てめえ。誰と話してるんだ?」

 すると彼は、楽しげな口調でこう言った。

「ごめんね。今、神様と話してるんだ」

 彼は電話越しに時折うん、うんと相槌を打っていた。彼の目は長い髪で覆われていてよく見えないが、口角が上がっており笑っているようだった。彼のおどけた態度に、男はますますイラついた。

「ラリってるのか? 薬が欲しいなら他を当たってくれ。俺はもう寝るんだ」

 酒の飲みすぎで頭痛がするのを我慢していたこともあって、男はそのまま立ち去ろうとした。

「――りょーかい。よし、これで準備は整った。後は世界を救うだけだ」

 彼は男にも聞こえる声量でそう言って、誰かとの話を切り上げた。そしてもう既に歩き始めていた男に背後から声をかけた。

「お兄さんはさ、白人になりたいの?」

 その言葉に、男は思わず足を止めた。男は彼に背を向けたまま、大声で叫んだ。

「当たり前だよ。アジア人に生まれなかったら、今頃ホームレスになんてなってないさ。全部俺がアジア人に生まれたことが悪いんだよ、全部」

 男の脳裏に今までの人生が徐に蘇ってきた。

 学校で友達の輪からハブられたこと。

 仕事をクビになったこと。

 彼女にフラれたこと。

 このところ、寝ているときも起きているときも男が思い出すのはいつも同じこと――過去の失敗や嫌な出来事が頭の中でグルグルして、こういう小さな切っ掛けでとても不快な気分になるのだった。

 立ち止まったまま固まる男に、彼はまるで男の心の内が見えるかのように優しく声をかけた。

「そっか、そっか。つらいよね。そういうことなら、僕も少しは経験があるから、共感できるかな」

 男は、お前に何が分かるんだ、と言いかけたが、話すのもバカらしくなって再び歩き出そうとした。しかし、彼が放った言葉が男の足を止めた。

「――分かった。今から神様を騙すから、ちょっと待ってて」

「はぁ?」

 男は彼の方を振り返った。彼は歩道の上に立ったまま、また送話口に向かってブツブツ何か話しているようだった。

「さっきから誰と話してるんだ? お前一体何なんだ?」

 質問をしながら、男は彼の方へ再び歩いて戻った。すると彼は被っていたパーカーのフードを外した。染めているのか髪こそ金髪だったが、彼の顔はアジア人のようにも白人のようにも見え、何人なのかはよく分からなかった。

ランプの魔神ジーニー、って知ってるでしょ? 簡単に言うと、僕はそれだよ。僕はお兄さんの願いを叶えてあげられるんだ」

 彼はさも得意げに、臆面もなくふざけたことを口にした。その態度に怒りが頂点に達してきて、男は彼の胸倉をつかんでもう片方の腕で殴る構えを見せた。

「テメエ、ふざけるのもいい加減にしろよ。俺はテメエみたいなガキのごっこ遊びに付き合うほどヒマじゃねえんだ」

 しかし彼は動じもせず、男の目をまっすぐ見つめてこう言った。

「僕は世界を救いたいんだ。その第一のステップとして、まずお兄さんを救うことから始めたい。だからお兄さんが白人になりたいんだったら、白人にしてあげられる」

「ふざけたことをっ……!」

 男は本当に殴ろうとしたが、彼は全く怯む様子もない。

「でも、もし本当に僕にそれができるんだとしたら? それで全てが解決するんだろ?」

 その真剣な眼差しに男は一抹の不安を感じて、ほんの数秒の間殴るのをためらった。しかしその僅かな時間に、男の運命は大きく変わってしまった。

「もう大丈夫。僕が来たから、あなたは救われたんだ」

 彼がそう言って、男の肩に手を置いた瞬間――


 *


 次の日の朝、男はゴミ捨て場の裏にあるいつも寝床で目を醒ました。

 何か変な夢を見ていた気がするが、気のせいだろう。そんなことを考えながら、腹が減っていた男はとりあえず朝食をとることにした。

 男は食べ物を買いに近所のスーパーに行った。個人経営の小さな店で、店の主人とも知り合いだった。

 男はスナック菓子コーナーの辺りで適当に買いたいものをカゴに入れていた。

「おい、ドリトスがねえじゃねえか?」

 男はその場で大声でレジの方に向かって叫んだ。

「ごめんよー。昨日売り切れちまって、今日中に入荷されるから待っててくれ」

 店の主人もレジから動かずまた大声で答えた。

「ドリトスも置いてねえ店なんてつぶれちまえ!」

「いつも賞味期限切れの食べ物くれてやってる恩を忘れたか? クソ野郎が!」

 こんな内容でも、二人は笑いながら話していた。

 ほどなくしてレジにやってきた男は、カゴをカウンターに置いて店の主人と雑談をしていた。

「ったく、昨日は飲みすぎて何してたか思い出せねえわ。なんかすげえ悪い夢見た気がするんだけど……」

 男はスーパーの店内に無造作に放置されたバナナの箱をぼんやりと見ていたが、この時は中に何が入っているかなんて特に気にもかけなかった。

「いいじゃねえか、思い出せねえなら」

 店の主人の男は椅子に腰掛けたまま、低い声でそう言った。しかし男は目を瞑って頭に両手を押し当て、懸命に思い出そうとした。

「なんかムカつくガキがいて……、俺も俺で『白人になりたい』とか言ってたような……」

 男はおぼろげな記憶を手繰り合わせてつじつまのあった話に整理しようとしていたが、どう考えても「自分が白人になりたいと思っていて、それを叶えてくれる謎の人物が現れた」というメチャクチャな内容のストーリーしか出来上がらなかった。すると店の主人は大げさに吹き出して、爆笑しながら言った。

「お前、朝から笑わせんなよ! ハハッ、『白人になりたい』とか! バカじゃねえの!」

 彼がカウンターをバンバン叩くのを見て、男は自分が酔いすぎていたことを反省した。

「俺も黒人だしイヤな目に遭ったこともあるけど、白人になりたいとは思わないね。ホント、お前も冗談は名前だけにしろよ、タロウ」

 落ち着きを取り戻しかけた男は、店の主人の最後の言葉に何か違和感を覚えた。

「何言ってんだ? 俺の名前の何がおかしいんだよ?」

 すると店の主人はまた少し笑って、男にこう言った。

「へっ? 何、って……、お前がアジア人みたいな名前のことだよ」

 唐突に焦りを感じて、男は財布から免許証や社会保障カードを取り出して自分の顔を見た。そこには、顔立ちこそ元の自分とよく似ているが白人の顔が映っていた。生年月日も名前も性別も同じYamada Taroという名前の白人だった。男はドアのガラスに反射した自分の顔を見て、途方にくれた。

 そして男がもう一度さっきの箱を見た時、中に入っていたバナナの皮が全て白だったことに気づいた。

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