少年の私の夏空
坂梨 青
少年の私の夏空
夏の夜。私は会社の同期と仕事上がりに近くのビアガーデンで酒と会話を楽しんでいた。日没後だというのにじんわりと汗をかく暑さである今日はビールが美味くないわけが無い。
「あー! やっぱり夏の仕事上がりにはビールでしょ!」
同期が最初に頼んだビールを一気に七割ほど飲みきる。ジョッキの内側に彼女の口の中に入りきれなかったビールの泡がゆっくりとガラスを伝いながらビールそのものと混ざり合う。私も彼女につられて同じくらいの量のビールを飲み込んだ。喉から食道、胃を求めていた冷たさとアルコールが循環し、仕事の疲れがほんの少しだけ和らいだ。
「あまり飲み過ぎないようにね」
既に頬が赤くなりかけている同期に口だけの注意をすると、おつまみとして注文した一口サイズに切られたイカの一夜干しを一味とマヨネーズをつけながら、一欠片口にする。同期もまた、それを口にした。
「美味しいよね! イカ! もう一匹頼む?」
同期の質問に私は簡単に頷き、その後箸で同期を軽く指差す。
「一匹じゃないんだよ。イカの単位は一杯」
なんで知ってるのと言わんばかりに目を丸くする同期。私もこれは幼い頃人に教えてもらった事だ。あれは、確か私が小学生の頃、母の実家に帰省した夏休みだった。
海沿いの田舎に住んでいた母は毎年夏休みになると私と一緒に実家に帰省していた。平屋の一軒家は祖母が一人で住んでいたので、タンスの上などの高いところには埃が溜まっていた。それの掃除をする為に帰省していたので、私は邪魔をしないよう近所の海で泳いだり貝殻を拾ったりして遊んでいた。真夏の雲ひとつない青空が海の美しさをより一層引き立てる。
私はその海と空の美しさを楽しみながら、波止場を歩く。ふと、空を見上げると、青空の中にウミネコが忙しなく飛んでいた。
波止場にあるコンクリートの固まりに腰掛けながら夏の風景を楽しんでいたら、ふと、背後から気配がした。母が掃除が終わったと呼びに来たのかと思い、振り返ると、そこには見覚えのない少年。近所の子どもだろうと思ったので私は立ち上がり、声をかけた。
「ここら辺に住んでいるの?」
私の質問に少年は頷き、手を差し出した。
「海、好きなの?」
今度は彼が私に質問をした。私は少年と同様に頷いた。
「なら、面白いもの見せてあげる。ついてきて」
少年は差し出していた手を使い、私の手をそっと握りしめ、自分に引きつける。私は特に用事もなかったので、そのまま彼の引く手に体を任せた。
数分歩いただろうか。そこは、海の近くに住んでいる人々にとっては見慣れた小さな平屋の家。数歩下がれば屋根瓦が小学生の私でも見ることが出来るほどの高さの家は、家の中から潮の匂いがした。
「面白いものって何?」
私の質問に手を繋いだままの少年はいたずらっ子のような笑みで返した。さらに強く手を握り、少年は平屋の家の裏側に案内した。家の角を曲がる直前、私の聞きなれない音が耳を支配した。何かをひたすら動かしているようなモーター音。その独特な音は確実に家の角を曲がったら私の知らないものがあるのを意味していた。数歩更に歩くと、その音の正体が分かった。
「ほら。面白いでしょ?」
少年の言葉と共に現れたのは私が想像していたもの以上だった。円筒状の機械が回転しながら先程の機械音を鳴らす。その機械の外側にまるで洗濯物を干すかのように白い何かが回転していた。遠心力でその何かが思いっきり伸びているように見えた。その光景だけで、私は思わず口角が上がってしまった。
「うん。これは何?」
「いかぐるぐる。そのままだよ」
彼の言葉で私は回転している何かを理解した。イカなのか。それが正直な感想だったが、あまりにもシュールな光景に再度笑うしかできなかった。
「へぇ。凄いね、これ。何匹くらいついてるのかな」
「杯」
私の言葉を遮るように言われた言葉。私はそれを理解せずにオウム返ししてしまった。
「パイ?」
「イカの単位だよ。一匹じゃなくて、一杯って言うんだよ。不思議だよね」
間違えたらここの人達に怒られるよと付け足し笑う少年。そこでやっと開放された私の右手は若干汗ばんでいた。その手を使って、いかぐるぐるで回転するイカを指さしながら数える。
「そうなんだ。一杯、二杯、三杯……うーん。回ってるから分からないや」
当たり前だが、思わずやってしまった自分の行為に苦笑していたら、少年もそれにつられるように笑った。
「沢山回っている。それだけでこんなに楽しいんだよ。ここに折角来てくれたなら、見ないともったいないよ」
夏の暑さで私と彼の額にはじんわりと汗が吹き出ていた。そのままコメカミを伝い、地面に落ちる。そんな私たちにお構い無しにイカは無心に回転していた。
「そうだね。ありがとう。こんなに面白いものを教えてくれて。ねぇ。名前は?」
私の最後の質問に少年は答えることはできなかった。それは、私の母が私の名を呼び、迎えに来てくれたからだった。
「今行く!」
母に簡単に返事をし、少年に別れの挨拶をしようと振り返ると、そこには少年の姿はなく、ただ無心に回転するいかぐるぐると青空だけだった。
「あれ?」
私の独り言を聞いていた人は誰もいなかった。
ふと、小学生時代の夏を思い出していた私は同期が冷えたジョッキを私の頬に当てることで我に返った。
「なにぼぉーっとしてるの? おかわり、きてるよ」
私の冷たいという軽い悲鳴に重ねるように同期が笑顔で話しながら新しいビールが入ったジョッキを手渡す。どうやら無意識のうちに最初の一杯は飲みきってしまったようだ。それを同期が自分のものと一緒に頼んでくれたのであろう。夏の暑さを和らげる為に、ビールを一口飲む。あの時は味わえなかった冷感は無意識に私の口元を緩めた。
「話の続きなんだけど、今年の夏休みはどこに行く? 沖縄は去年行ったし、今年は九州の海沿いとかどう?」
恐らく、旅行の話をしていたのであろう。私が上の空で相槌をうっているのを気にせずに彼女は話していた。
九州の海沿いと聞いて、私は先程の思い出の地を再度訪れるのも悪くないと思い、彼女に提案した。
「それならいい所あるわよ。何十杯ってイカが遠心力で回転する機械があって、それでこんな感じの一夜干しを作ってるんだって。海沿いだから泳げるし。朝市なんかもあって、魚食べ放題だよ」
食べかけのイカの一夜干しを指さしながらビールを口にする。私の話をきいて、同期は目を輝かせた。
「なにそれ?! 楽しそう?! 行こう! ねぇ、それ何ていう機械なの?」
アルコールが体内を循環し、頬が赤く染まっていた彼女だが、そんな事を感じさせない勢いがあった。私はふと、あの時の名前も知ることが出来なかった少年の心情がやっと、理解できた。ゆっくりと口角を上げて私は少年と同じ笑みを浮かべた。
「いかぐるぐる」
少年の私の夏空 坂梨 青 @bzaoiro
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