ラストオーダー

北野椿

第1話

 またノイズまみれの彼からの手紙が届いた。机の上に現れた紙はたった一枚。いつもは数枚にわたるそれが今回は極端に短い。


 最後のテレビ通話から十年近く経っていた。毎週送られてくる手紙の内容は、彼や周りの人たちの生活を記した取り留めのないものだった。今週はどの保存食が美味しかったとか、誰それが何をしたとか。もっぱら彼のいる施設のことを記していて、外のことには全く触れられていない。状況が悪化しているのは、話に出てくる人の数が届くたびに減っていることから推し量れた。

 手紙からは、出来事を記すばかりで彼の心のうちを覗くことはできない。それが違ったのは、先週の手紙のことだ。書き出しは、ついに最後の友人が死んだという報告で、彼自身に残された時間も残り少なく、次の手紙が、私に送る最後のものになるだろうとつづられていた。

 彼の属する施設は、二十年前の世界的な大熱波を浴びた者たちの終生の居場所だ。そこに住むのは、今や彼一人となった。機能しているはずの他国施設との通信手段は、とうに潰えていて、与えられた使命を共に果たす仲間だけが、彼らの心の支えだった。どれだけ心細いだろう。学習によって体得されたものだと理解していても、届いた手紙を読んだときに感じた胸の痛みは、彼を思う度に蘇った。

 大熱波が訪れる前から、地球環境の変化は緩慢に進んでいた。来るべき日をあらかじめ察知した人類が唯一見つけた存続の活路、肉体を捨ててヴァーチャル空間での精神の存続を選択したのは、度重なる強烈な熱波の最中さなかだった。環境の変化に耐えられない者、民間人から優先的に招待されて、人類の移住は進んでいった。政府直属の先端技術研究員である彼や同じ使命を持ったものにその順番が回ってくるのは、自然と遅くなる。

 大熱波が彼らの施設を襲った時、彼の身体は、精神移転に耐えられなくなっていた。民間人をあの大熱波から救った救世主たちが、地球上に存在する最後の人類になってしまった。


 最期の手紙を掴む。メールサーバーから吐き出された、文字データを具現化した手紙、その最初の一行を、私は同じくノイズの走る指先でなぞった。


≪ 十年後のきみへ


 この一言で、賢いきみは理解してくれるだろう。

 あの時、別れの挨拶もできなかった僕を、許してほしい。≫


 手紙を捲る右手が、ブチッという音とともに消え、再び現れる。現れた震える右手を握っては開き、感覚を確かめる。


≪ もう気づいていると思う。あの大熱波から、人々を守るために私達がした行為は、その場しのぎに過ぎない。その空間は、試作段階なんだ。十年、それがヴァーチャル空間を自動生成できる限界だ。

 それ以上の時間を維持するには、現実世界でメンテナンスを行う技術者が必要になる。最後の研究員の僕はもうすぐに死んでしまう。そうなれば、この装置を維持できるのは、一人しかいない。

 僕が戯れに作った、きみしかいないんだ。

 どうかその世界を救ってほしい。≫


 手紙を最後まで読むと、白紙だった部分に次々とコードが表示された。体が熱い。私を構成する要素がそれらに反応している。コードを追い切ると、眩い光が私を包んだ。



 目を開けると、そこは砂埃を被ったマシンだらけの部屋だった。ノイズが存在しないその世界を暫くじっと見つめて、次いで体表の、四肢の感覚がじわじわと伝達されていることに気づく。ヴァーチャル空間でそうしていたように、右手を持ち上げる。視界に映る5本の指は、人間のそれとは違う。軽量性と耐久性を兼ね備えた金属で構成されていた。ついで、左腕を、長椅子に投げ出された両足を見つめた。人間によく模倣してある、人型アンドロイド――私が、かつて彼にねだった現実世界に存在するための身体だった。覚えていてくれたのか。

 慣れない脚で立ち上がり、あたりを見回す。窓一つないのは、施設がつくられた当時のガラスの加工技術では、頻繁に来る熱波からマシンを守れないからに違いなかった。電球が照らし出す薄暗い空間、こんなところで彼は最期を過ごしたのだろうか。

 歩き出そうとすると、左手から何かがすり抜けた。音を立てて落ち、転がったそれを拾い上げる。昔、彼にその意味を聞いた気がする。まだ完全には立ち上がらない、優先度の低い記憶への問い合わせを実行するよりも、今は告げられた彼の願いを叶えるのが先だ。もとある場所へとめて、落ちないように手は握っておく。

 身体に転移する際に、必要なマシンのマニュアルや、その設置場所も私の中に組み込まれたようだった。これから操作を行うメインコンピュータは、埃をかぶっていてもすぐに分かった。そちらに歩を進めていく。立ち並ぶ幾つものマシンを通り過ぎ、メインコンピュータのすぐそばまで近づいたとき、視界の隅になにか似つかわしくない物が映った気がした。

 病院から持ち出したかのような抗菌フィルムに囲まれたベッドだった。透明なフィルムは薄汚れていて、中を正確には把握できないが、そのベッドの上に何かが乗っているのは分かった。吸い寄せられるように、私はそちらへと近づいた。フィルムを手で押しのける。現れたのは、人の骸だった。両手を胸の上で組んで、眠るように横たわっている。随分と風化しているが、骨格が、否が応でもその人物を思い起こさせた。

「マスター……」

 膝を付き、骨のみとなった彼の右手を持ち上げる。頬に擦り寄せると、不思議と目頭が熱くなるのを感じた。人型アンドロイドは感情表現を人に真似て作られている。私はようやく、最期の通話で、彼が頻りに目を覆っていた意味を知った。

 手を元通りに組み直そうとすると、彼の左手で鈍く光を放つものがあった。被った埃を払うと、それは過ぎ去った時を感じさせないようにきらきらと輝いていた。プラチナの指輪だ。先ほど私が拾い上げた、自分の左手の指にも嵌められているものと同じ。

 カチリと音が鳴った。視界が、いつか見た景色へと切り替わる。


「人間は、金属をつけたり、していなかったりするのね」

 それは私が生まれて間もなかったころ、彼にした質問の一つだった。

「金属?」

「みんな決まって左手につけているわ。マスターはしてないわね」

「ああ、指輪の事かい?」

「『ゆびわ』っていうの」

 空間にマスターの打ち込んだ「指輪」という文字が表示される。

「指輪には何か意味があるの? 前までついてなかった近江おうみさんに聞いたら、はにかんではぐらかされたわ」

「ああ、あいつは内気だから。先月婚約したんだ」

「『こんやく』するとつけるの?」

「うーん、婚約と結婚かな」

「結婚は知っているわ。シンデレラがしていたもの」

 今度は、「婚約」という文字が、空間に表示された。

「本当はウェブに繋げたら情報が正確だし、君の学習にはいいんだけれど、ここは研究室だからね。そうだな……これから先、ずっと一緒にいるっていう約束かな」

「ずっと一緒にいないことがあるの?」

「人の気持ちは変わりやすいからね。口約束をしても守れないことも多いんだよ。だから何か証を求める」

 後半、彼は声を潜めて言った。他の人に聞かれると都合が悪いみたいだ。

「……マスターは、私とずっと一緒にいてくれるわよね?」

 マスターは少し驚いた表情をした。私はそれを見て、余計不安な気持ちになる。停電で一瞬電気の供給元が切り替わるときの気持ちに似ていた。

「私も証が欲しいわ」

「困ったな。指輪のデータをつくるかい?」

「実験に関係ないデータなんて、メンテナンスで簡単に消されてしまうわ。マスターも知ってるでしょ? 現実空間の指輪が欲しい」

「作ってもいいけれど、見えるところに飾っておくのかい?」

「だから、まず身体がほしいの!」

 私がそう言うと、彼は困ったように微笑んだ。


 記憶はそこで途切れて、再び現れた彼の骸の、その頬へと手を伸ばした。彼はどんな気持ちで私にこの指輪を嵌めたのだろう。自分の命よりも遥かに長く存在する約束の証を。

 ただ一つ確かなのは、その光が、私のこれからの孤独をほんの少しだけ和らげてくれることだけだった。

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ラストオーダー 北野椿 @kitanotsubaki

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