浜辺に、電話の音が
松樹凛
第1話
ああ、退屈だと小夜子は思った。
ぬるく湿った砂を蹴り上げながら、浜辺を歩く。八月も終わりに近づいた海岸は人気も少なく、パラソルの下で寝転がっている数組のカップルと、ビーチボールで遊んでいる男の子たちの姿が見えるだけだった。
そもそも、海になんて来たくなかったのだ。風はべたついていて気持ち悪いし、ちょっと歩いただけでサンダルが砂だらけになる。おまけにクラゲのせいで泳げない、となればやることなんて何もない。
足を止めると、サンダルからとび出した人差し指が目に入った。変な足の形、とため息をつく。右足の人差し指だけが、おかしなくらい長いのだ。家族のなかで、小夜子だけが生まれつきそうだった。そのせいで、プールの授業のたびに嫌な気持ちになる。ましてや海なんて、もってのほかだ。
「今年はお盆に休みが取れなかったからなあ」
父さんの言葉を思い出す。
「小夜子も、ピアノの練習ばっかりじゃ嫌だろう。せめて、最後の土日くらいは出かけるか。海なんかどうだ。海岸にコテージがあって、バーベキューもできる。ほら、前に子供キャンプで行ったところがあっただろう」
子供キャンプ。なんていやな言葉だろう。三年生のときに、父さんの提案で無理やり行かされたっけ。友達作りのためだ、とか何とか言って。もちろん、小夜子にはちゃんとわかっていた。子供キャンプっていうのは、友達といっしょに行くところであって、友達を作りにひとりぼっちで行くところではないのだ。
その父さんは今、コテージの前にあるデッキチェアでぐうぐう眠っている。口をあけていびきをかいているせいで、大きな金歯がよく見えた。となりの椅子では母さんが、胸に手を置いた格好のまま、首だけを横に傾けて眠っている。大きいミラーのサングラスをかけて、売れなくなった歌手みたいだ。サングラスのレンズに、退屈そうな自分の顔が映る。
家族がみんな寝ていると、自分だけ仲間外れにされているような気持ちになる。ひとりぼっちで捨てられた子供の気分だ。もちろん、夕方になれば二人とも起き出して、バーベキューのための買い物に出かけるだろう。父さんが言うところの「お楽しみ」だ。でも、それまではまだ何時間もある。
「退屈」
声に出して呟くと、ますます気分が沈んだ。ひときわ大きな波しぶきがくだけ、つま先を濡らす。
電話の音が聞こえたのは、その時だった。
スマホの着信音とは違う、もっと古臭いベルの音だ。映画やドラマの中でしか聞いたことがないようなやつ。誰かの電話が鳴っているのかと思ったが、あたりに人の姿はなかった。浜辺を歩いているのは自分だけだ。
小夜子は足を止め、耳をそばだてた。確かに聞こえる。すぐ近くだ。音のする方に数歩進むと、色あせたパラソルの影からとつぜん真っ赤な電話ボックスが姿を現した。外国の絵葉書に描いてあるような、丸い屋根のついた立派なやつだ。扉は半開きになり、海からの風にぎいぎいとゆれている。ベルの音は、その中から聞こえていた。
ためらいながら、ゆっくりとボックスに近づく。ベルの音が大きくなった。
「もしもし」
小夜子は扉をそっと当て、受話器についた砂をはらうと、それを左の耳に押し当てた。おもちゃみたいに軽い。
「サヨコなの?」
電話の向こうから声がした。女の人の声だ。変な雑音が混じっている。波のなかで貝殻がぶつかっているような音だった。小夜子は短パンのすそをぎゅっとつかみ、聞き返した。
「誰?」
「お母さんよ」と女の人は言った。「あなたの本当のお母さん」
ぎょっとした。
何を言っているのかわからず、真っ赤な受話器を耳から離してまじまじと見つめる。波の音がすうっと遠ざかった気がした。
「サヨコ?」
電話の声が繰り返す。小夜子は電話ボックスから飛び出すと、もと来た道を逃げ出した。汗がふき出して、首筋を伝う。太陽は少しだけ傾き、誰もいない浜辺に自分の影が細く引っ張られて伸びていた。
コテージに戻ると、両親は二人とも起き出していた。
「どうしたの?」
息を切らした小夜子の姿を見て、おどろいたように母さんが言う。
何でもない、とうつむきながら小夜子は答えた。
バーベキューのあいだも、小夜子はずっとうわの空だった。
あのおかしな電話の声が、耳にこびりついて離れない。
顔を上げて、両親を見る。父さんは網にこびりついた肉のきれっぱしをトングの先ではがそうとしているところだった。脂がしたたり、火の手が高く上がってそのたびに母さんが文句を言う。二人とも、すでにだいぶお酒を飲んでいた。
夢にしてはリアルすぎた、と小夜子は思う。
「小夜子、マシュマロがあるぞ」
黒くなった網を外しながら父さんが言った。黙ってうなずき、竹串を受け取る。炭火の勢いはすっかり弱まり、くずれた灰の奥がわずかに赤くなっているだけだった。
「二学期になったら合唱祭ね」
母さんはマシュマロを一つ取り、そのまま口のなかにぽいと入れた。またその話か、と竿子はため息をつく。
「合唱祭は十月だよ。まだ三か月も先」
「でも、練習はもっと前から始まるでしょう。それに、伴奏をやるんだったら……」
やっぱり、だ。去年の合唱祭のときも、母さんは同じことを言っていた。基本的に伴奏をやるのは音楽の先生なのだが、もしクラスにピアノを弾ける子がいる場合は立候補してもいいことになっている。母さんは、小夜子に手を上げてもらいたがっていた。
「小夜子ならやれると思うけどなあ。この前の発表会だって、すごく上手だったじゃない。恵美先生もほめてたもの」
母さんが言う横で、父さんがしきりに頷いている。小夜子はぶすっとした顔でマシュマロを串から外し、クラッカーにはさんで食べた。
二人とも、わかってない。
ピアノを弾くのは好きだった。得意だし、自信もある。合唱曲の伴奏くらいなら弾けるだろう。でも、伴奏をやる子はすごく目立つ。練習のあいだずっと、音楽室の前に出てみんなの前でピアノを弾かなくちゃならない。
知らない人たちの前で弾くのはいい。でも、クラスの子たちの前で弾くのは嫌だった。
「大丈夫よ、小夜子なら」
母さんがそう繰り返した。にっこり笑った顔は、だけどお酒のせいで真っ赤だ。小夜子はいら立ち、木製のテーブルを力まかせにたたいた。
「何にもわかってないんだから」
燃え残った炭がくずれ、灰になって舞い上がる。母さんたちがびっくりした顔でこっちを見るのがわかった。
ごちそうさま。
小夜子は立ち上がり、二人と目を合わせないようにして飛んできた虫を右手ではらった。テーブルをたたいた手のひらが、いつまでもじんじんと痛んでいた。
真夜中になると風が強くなった。
窓ガラスの鳴るカタカタという音を聞きながら、いっそのこと屋根が吹き飛んでしまえばいいのにと思う。いつもより硬いベッドで寝がえりを打ち、シーツにあいた虫食い穴の影を見つめる。眠れなかった。
目を閉じるたびに、電話の音が耳の奥で鳴り響く。
ついに小夜子は枕をどけて起き上がり、ベッドの下に足を下ろした。隣のベッドでは、母さんが猫のように丸まって眠っている。父さんのベッドはここにはなく、階段を上ったロフトの上だったが、ぐっすり眠っていることは見なくてもわかった。二人とも、小夜子と違って寝つきがいいのだ。特にお酒を飲んだ日は、もう絶対に朝まで起きない。
小夜子は足音を忍ばせて慎重に部屋を抜け出ると、コテージの居間を横切って玄関のドアを開け、倒れていたサンダルを起こして履いた。ランプの明かりが、不格好な足の形を照らし出す。
普通、子供は親に似るはずなのに、と小夜子は思った。でも、自分は両親のどちらにも似ていない。足の指だってそうだし、手の親指が変に短いのも自分だけだ。それに、小夜子は左利きだったが、父さんも母さんも右利きだった。二人は前向きな性格だけど、小夜子は違う。いつだって悪いことばかり考えて、だから六年生になった今でも友達がいない。
「何でだろう」
もしかしたら本当に、自分は二人の子供じゃないのかもしれない。むかし図書館で借りた本で、そういう話を読んだことがあった。橋の下で拾われたとか、養子に出されたとか、あるいは病院の新生児室で間違いがあったのかも。
ああ、だめ。また悪いことを考えてる。
首を振り、やわらかい砂の上を歩きだす。夜の浜辺は真っ暗だった。月に照らされた海の方がむしろ明るくて、砂浜は真っ黒な海の底みたいに見える。聞こえるのは、風と波の音だけ。まるで世界中の生き物がみんな死んでしまったみたい。
風が冷たい。上着を着てくればよかったと小夜子は後悔した。
ふいに、またあの音が聞こえた。電話の音。まるで小夜子を呼んでいるかのように、空っぽの浜辺に響いている。
音のする方向に小夜子は歩いた。途中で一度、海に近づきすぎたせいで波をかぶり、寝間着のすそがぐっしょりと濡れてしまった。昼間よりも、海が大きくなった気がする。潮が満ちたのかもしれなかった。
ぼんやりとした光が見えた。真っ赤な電話ボックスから漏れ出した明かりが、一本だけ残ったロウソクのように空っぽの砂浜でゆらめいている。小夜子は高鳴る心臓を押さえて中に入り、扉を閉めた。カタカタとガラスが鳴り、足元から冷たい風が入ってくる。
「もしもし」
小夜子は受話器を取り、耳に押し当てた。
「ああ、よかった」電話口の声が言った。「もどってきたのね」
「あなた、誰なの?」
「お母さんよ。あなたのお母さん」
小夜子は首を振って言い返した。
「ねえ。わたしのお母さんはここから二百メートル離れたコテージのなかで、ぐっすり眠っているの。たっぷりビールを飲んでたから、ベッドを引っくり返したって起きないと思う」
「その人じゃない」
女の人は言った。ため息まじりの声だった。
「本当のお母さんはわたし」
「うそ」
「信じられないよね」甘い、慰めるような声で彼女は言った。「よくわかる。でも、これは本当のことなの。だからサヨコ、こっちにいらっしゃい」
「こっち?」
「わたしたちのところよ。あなたの本当のお父さんとお母さんのところ。ずっと、あなたのことを待ってたの」
電話ボックスに波がぶつかる。真っ黒な海のなかから白い泡が生まれ、パチパチと弾けて消えていく。サンダルと足のあいだに水が入り込み、くすぐったかった。
小夜子は大きく息を吸った。
「本当のお母さんなら」と彼女は言った。「わたしのことを知ってるよね。何でも」
「ええ」
「本当に、何でも?」
「もちろん」
くすくすという笑い声。
「試してみる?」
小夜子はちょっと考えて、電話の向こうの相手に聞いた。「わたしの名前──小夜子だけど──の由来は何?」
「あなたが生まれたのが、すごく静かな夜だったから」
彼女はすぐにそう答えた。正解だ。少なくとも、小夜子が両親から聞いていた話と同じだった。声から離れるように、一歩後ずさる。背中がガラスにぶつかり、大きな音を立てた。
「わたしの好きな男の子、知ってる?」
「五組の原田くん、でしょ」
心臓がきゅっと音を立てた。
「去年、緑化委員でいっしょだったのよね。背が低いけど、サッカーが上手」
「どうして」
知っているのだろう、と思う。原田くんのことは誰にも言っていない。小夜子だけの秘密だった。それに、彼には他に付き合っている女の子がいるのだ。
「かわいそうに」
やわらかい声が心に触れた。
「ね、元気出して。男の子なんて、大したことないんだから。付き合ったって、結婚できるわけじゃないんだし」
「別に、そんなんじゃ……」
「こっちにくれば、そんな心配をしなくて済むのよ」
夜が濃くなった。いつの間にか、くるぶしのあたりまで波に沈み、ねっとりとした水が肌に絡みついている。女の甘い声が誘うようにゆっくりと、小夜子の心に沈みこんできた。身体が重くなり、腕を上げているのすらおっくうになる。
「もう質問はおしまい?」くすくすと、また彼女は笑った。「何でも聞いてもいいのよ。好きな食べ物とか、クラスで嫌いな子のこととか、サンダルを履きたくない理由とか……」
「……さいごの質問」
小夜子はしぼりだすようにして言った。意識が遠のく。今にも眠ってしまいそうだった。
「わたし、立候補した方がいいと思う?」
「伴奏者に?」
彼女はおかしそうに言った。
「もちろん、やめた方がいいに決まってる。だって、伴奏って言ったらみんなの中心だもの。すごく目立つし、色んな子たちと話さなきゃいけない。小夜子、そういうの苦手でしょう? 友達だってほとんどいないんだし、目立ったら何を言われるかわかんないわよ。三年生のときだって一回、そういうことがあったじゃない。友達なんてトラブルのもと」
ああ、その通りだと思う。
この人はわたしのことを本当によくわかっている。倒れるように一歩進み、爪が白くなるくらいに受話器を強く握りしめた。
「いいのよ、無理なんかしなくて。どうせ上手くいかないんだもの。人間には向き不向きがあるんだって、小夜子もわかっているでしょう」
正解、正解、正解。
まるで自分の心を読まれているみたいだ。
ごうごうという波の音に囲まれて何も考えられなくなる。
いつの間にかひざまで冷たい水にしずみ、足元はやわらかい砂に変わっていた。サンダルがずるりと脱げる。裸になった親指の先に、硬くとがったものが刺さった。千切れて取れた、小さなカニのハサミだった。
ふいに、自分でも理解できない怒りが小夜子の胸にわき上がってきた。
何で、そこまで言われなくちゃならないの?
「さあ。もう質問はおしまい。こっちにいらっしゃい、小夜子」
「うるさい」
「え?」
「うるさい!」小夜子は叫んだ。「言っとくけど、わたしは立候補するから。伴奏者になって、みんなと話して、友達になるから。全然わたしのこと、わかってないのね!」
小夜子は受話器を叩きつけ、ガラスの扉を力任せに押し開けた。
その瞬間、波の音がぱっと消え、浜辺に静けさが戻ってきた。ゆっくりとサンダルに足を通し、その場で足踏みをする。電話ボックスの床は硬く、乾いていて、さっきまでの出来事がまるでうそのようだった。
小夜子は大きく息を吸い、誰もいない砂浜を振り返らずに駆け出した。足元では白い砂が跳ね、空には星たちの浜辺が広がっている。
全部、夢だったんだ。彼女はそう思うことにした。
それからコテージに戻り、母さんのとなりのベッドにもぐりこむと、朝まで一度も目を覚ますことなくぐっすりと眠った。
浜辺に、電話の音が 松樹凛 @Rin_Matsuki
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