ワールズエンド

柴田彼女

ワールズエンド

 もう春も近いのに、数羽の白鳥はまだ人工池にぷかぷか浮かんでいた。

 餌づけ用として近くにパン屑も置いているが、ほんのわずかな小遣いを愛嬌のない鳥に分け与えてやるほど僕は優しい子どもではない。足元では小鴨が喉の奥で声を潰すように鳴いていた。四阿で年寄りが新聞を握り締めながらラジオに耳を澄ましている。


 *


 休日の図書館は、僕が言うのもおかしな話だろうが子どもが多くて鬱陶しい。小学生の子どもたちは母親や下のきょうだいと児童書コーナーで幅を利かせ、中学生は主に女の子の集団ばかり、しかもそういう子たちは大体肩を寄せ合って、歳不相応に派手な洋服がたくさん載った雑誌をめくっては薄く、けれど紛れもなく耳障りな声をあげるのだ。キイキイとした彼女たちの鳴き声は、僕に錆びついた蝶番を思い出させる。誰かあの子たちの喉に油を差してあげたらいい、感謝されるに違いないから。

 僕は春から六年生になる。重厚な硝子扉を押しロビーへと入ったお母さんは、今度小学三年生になる妹と手を繋ぎながら、

「ショウは?」

 と訊ねてきた。お母さんの顔には「どうせショウはママの選ぶ本なんか読んでくれないものね」と、太く赤い文字で書いてある。そりゃそうだろ、という台詞を飲み込みながら僕は、いつものとこ、と短く返す。お母さんは何も言わず、妹の手を引いてそのまま児童書の部屋へ入っていった。さして気にせず僕も階段を駆け上がりカウンターの人たちに頭を下げてその脇を通り抜ける。カウンターと巨大な本棚の群れの透き間、幅の狭い階段を踏み外さないよう慎重に上り、写真集が集められた棚の前に立つ。

 僕は、小説より漫画より絵本より、紙芝居より伝記より画集より、何より写真集が好きだった。

 写真は、僕が未来永劫見ることのできない、けれど確かに存在していた「いつかの何か」を正確に切り取っている。もちろんその写真と同じ場所にその写真と同じものが、その写真とほとんど変わることなくその写真のように今も存在しているかもしれない。それでも今そこにある“それ”は、この写真に写っている“これ”とは明確に違うのだ。

 僕はそういう事実を持つ、写真、という存在が好きだった。

 どういうふうに撮ってあるから、どういう色で撮ってあるから、どういう人が撮ったから、どういう人が撮られているから――僕の興味はそういう種類の興味とは全く違う場所にある。お母さんは僕のそういう話を心底つまらなそうな顔で聞く。

「ショウは頭がいいのねえ」

 僕にそう話すお母さんは、夜の十一時を過ぎたころその言葉を変える。お母さんはちびちびと酒を舐めながらテレビを見ているお父さんに、

「ショウって普通の子と違うっていうか……理屈っぽいのよね。今はまだいいとして、中学校とか高校でいじめられないか心配で。私が中学校のころ、いじめられてた子って大体理屈屋だったのよ。ねえ、あの子大丈夫かしら?」

 お父さんはテレビからお母さんへと目線を移し、

「そういう年になってみなきゃわかんないだろ」

 と言った。お母さんは不満そうな声でお父さんに「父親の自覚がない」だとか「どうせ厄介事はぜんぶ私の責任になるんでしょう」だとかぶつぶつと文句をこぼす。再び画面に目線を戻したお父さんの顔は、僕の話を聞くお母さんの顔とよく似ていた。二人は廊下の僕に気づかない。



 写真集を三冊抱え、慎重に階段を下りる。さらに下りた先、近くの棚から適当なエッセーを二冊ほど手に取り写真集の上へ重ねる。エッセーに目を通す気はさらさらなかったけれど、お母さんは僕が文章ばかりの本を一冊も選ばないと信じられないくらい機嫌が悪くなる。

 お母さんはたくさん文章を読めば僕がいい子になると信じている。

 妹はお母さんがそういうふうにしか考えられない人だと知っている。

 妹は僕よりもうんと頭がいい。

 だから、妹はお母さんが薦める本をたくさん読む。そうしておけばお母さんが自分を叱らないと知っている。自分にだけは優しい顔を見せてくれると知っている。

 僕は妹が学校でいじめられていることを知っている。

 僕は妹が学校で保健室にしか行けないことを知っている。

 僕は妹がお母さんにそれを知られないよう保健室や担任の先生たちへ、

「わたしのことは全部、お父さんだけに伝えください」

 と何度も頭を下げて頼み込んだことを知っている。

 僕はお父さんがときどき僕たちの学校へやってきて、この世の終わりみたいな顔して先生たちと話し合っていることを知っている。

 お母さんは、何も知らない。

 僕は妹に、何もしない。


 カウンターで本を借り、児童書のコーナーへ行く。お母さんは大量の伝記の前にしゃがみ込み妹と話し込んでいた。妹はお母さんの目を見、うんうんとわかりやすく「わたしはお母さんのお話を聞くことが本当に楽しいです」とお母さんに教えてやっている。僕にはお母さんが心底嬉しそうに見えたし、妹はそうでもなさそうに見えた。

 妹が一冊の伝記をぱらぱらとめくりだしたところを見計らって、

「お母さん」

 と話しかける。お母さんは、んー、といいながら僕を一瞥し、しかしすぐ、

「メグちゃんまだ二冊しか決まってないから。ショウも座って、何か読んで待っててよ」

 と僕に言い、

「あ、メグちゃん。こっちはどう? ママはこれがいいと思うんだけど。面白そうよね?」

 妹へ細かい文字がつらつらと並ぶ、どこかの誰かがどう生きて、何をして、いつどのように死んだのかが書かれた本を渡した。妹は「わあ! ホントだ、面白そう! あれ……でもこれ、去年読んだ気がするー!」などと言いながらニコニコと口角を上げる。お母さんは「ええ本当? メグちゃん、いつ何を読んだのかも覚えてるの? すごい!」と嬉しそうだった。妹の目の奥が笑っていないことにお母さんは気づかない。

「ねえ、僕ちょっと池のほう行ってくる。あとで戻ってくる」

 僕が言うと、お母さんはやはり、んー、と生返事をした。どうせあとで「一人で勝手にどこ行ってたの」と怒られてしまうのだろうな。フォローするように妹が、

「お兄ちゃん、あとでねー!」

 と僕に手を振った。妹の顔はお母さんからは見えない。妹は口角すら上げていなかった。



 玄関を出、狭い道路を渡り、桜を縫うような配置の階段を上る。もうすぐ春がくるとはいえ池の水を撫でながら吹く風は僕の両耳をきんと冷やし、小さな痛みを残した。

 僕は池の横、舗装された道をゆっくりと歩く。春になれば桜が咲き、もう少し季節が進めば隣の釣り堀だって使えるようになるだろう。この池にも大量の鯉がいるし、夏には気が狂うほどの鳥が大声で鳴く。代わる代わるとりどりの花が咲いて、緑が増え、いろんな人が木陰で日向ぼっこをする。

 僕はこの池が好きだ。お母さんは「自然はいいけど虫は嫌い」だと言う。僕は、本当は妹がこの池の釣り堀に興味があることを知っている。お母さんはお父さんが焼き魚を食べたいと言うたび、

「切り身の鮭とか、鱈ならいいけれど……」

 と苦い顔をする。妹は釣りの話をお母さんにしない。


 冬の終わりのばら園は終末みたいな空気をまとっている。ここにある全ては茶色く、かさかさしていて、生きているものなんて何もない。そんな雰囲気があった。

 僕は世界が滅ぶ瞬間を真剣に想像してみる。空は何色だろうか。風はどのくらい吹いているだろうか。温度は。においは。音は。誰かの声は聞こえるだろうか。もし僕がそのときカメラを持っていたとして、僕はその景色を撮るだろうか。この景色を誰かに伝える、この景色を誰かに残すという意味を失ってなお、僕は写真が好きだと思えるのだろうか?

「お兄ちゃん」

 いつの間にか閉じていた目をぱっと開ける。振り向けば妹が立っていた。

「お待たせ、もういいよ。本借りたから。ママ、スーパー寄って帰るって」

「うん。あれ……お母さんは?」

「きてない。虫がいるかもって言ったら、じゃあロビーで待ってるねって」

「ふうん。こんなに寒くて虫なんか出るかな」

「わかんない。どうでもいいし」

 妹がばら園のアーチをくぐる。僕も妹の二歩後ろをついていく。

「なんか、一本も咲いてないとあんまりおもしろくないね」

「そうかな」

「そうだよ。茶色いだけじゃん。ダサい」

「世界の滅亡みたいで、おもしろいと思うけど」

 振り向いた妹がぐちゃっと顔を潰し「お兄ちゃん、頭おかしいんじゃないの?」と言う。僕は少し迷ってから、

「……メグは誰にそう言われてんの?」

 言葉を投げつける。妹が、

「どうでもいいじゃん」

 と言う。妹は表情一つ変えなかった。僕は言葉に迷う。迷っているうち、気がつけば僕たちは図書館のロビーに戻っていて、妹はお母さんと共にイベントのパンフレットを眺めながらどれがいいとか悪いとか、様々なことを小声で話している。僕はそれを見ている。

 ふと近くのチラシに目を落とすと、そこには先ほどの池の奥にある釣り堀の再開日と料金の変更点が書かれていた。僕はその紙を手に取り、

「ねえメグ、お母さん。僕、春になったらここで釣りがしたい。お父さんも誘って、みんなでやろうよ」

 二人に話しかける。

 二人はぱっと僕の顔を見、それからメグは何かを言いたげにお母さんを見上げたけれど、

「ショウ、ママがお魚触るの苦手だって知ってるでしょう? そういう意地悪なことは言わないでよ、もう」

「……そうだよお兄ちゃん。お魚なんてわたし、気持ち悪くて触りたくない! 虫だっているかもしれないしさあ、わたし、ぜーったい行かない!」

 そういって妹はいつものように、僕たちに向け笑ってみせた。

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ワールズエンド 柴田彼女 @shibatakanojo

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