天使が来りて風が吹く

棗颯介

天使が来りて風が吹く

 カブトムシは別に好きじゃない。好きじゃないカブトムシを追いかけて夏の野山を今駆けまわっているのは、好きじゃないカブトムシを追い回すことくらいしか今のボクに楽しみがないから。少しだけカブトムシに申し訳なくなるけど、別に捕まえたり羽をむしったり角を折ったりするわけじゃないから許してほしい。今寝泊まりしているおばあちゃんの家には、虫取り網はあっても虫かごがなかったから、網で捕まえても結局逃がすしかないんだ。


「何やってるんだろうな、ボク」


 気付けばもう三十分近くも一匹のカブトムシを追いかけ続けていた。別にお店に持っていけば高値で売れるような種類でもないカブトムシを。ただ、退屈を紛らわすためだけに。


「こういうの、みじめな気持ちっていうんだっけ」


 まだ十歳にもならないボクだけど、夏休みに入る前の国語の授業でそんな言葉を習った気がする。

 そもそも、お父さんが未だにswitchを買ってくれないのがいけないんだ。毎日ねだっても店に置いてないだのなんだの言ってはぐらかされてるけど、こんな何もない田舎で、ゲーム機もなしにどうやって子供に一ヵ月過ごせっていうの。


「あっ、いない」


 内心で父に恨み言を言っているうちに、追いかけていたカブトムシはどこかに行ってしまっていた。それに気づくと同時に、走っているときには感じていなかった強烈な疲労と暑さが襲ってくる。山の木々が多少は日光を遮ってくれているとはいえ、今は八月になったばかりの夏真っ盛りの時期だ。地球温暖化とかエコが叫ばれている現代日本の夏は、僕が生まれる前の夏よりも平均気温が年々上がっているらしい。


「あっずい……風、風吹いてぇ………」


 お天道様に向かって吐いた、他愛もない子供の悪態。届くはずのないその他愛もない願いを、天が聞き届けてくれたのだろうか。

 その時、僕の頭上で一陣の風が吹いた。


「えっ……?」


 一瞬、ボクは目を疑った。ボクの姿を照り付ける太陽からすっぽり覆い隠したそれは、ボクよりも一回り大きな、ヒト。ただの人ならまだいい。でもその人は、ただの人じゃなかった。

 その人の背中には、二枚の大きな翼があった。日の光を受けて光るその翼は、純白とは程遠い、カブトムシのような茶色。いや、茶色というにはどこか黒っぽい。限りなく黒に近い茶色、といったところだろうか。

 翼と羽の違いは子供のボクにはよく分からないけど、なんとなく、その人のそれは“翼”よりも“羽”という語をあてるのが正解な気がした。


「あ」


 宙を舞っていたその人は、その視線の先にボクの存在を捉えると、そんな素っ頓狂な声を出した。羽に目が行ってて気づかなかったけど、女性だ。栗色の長い髪を下ろした、僕よりも背が高くて大人っぽい人。多分、女子高生くらいの歳だと思う。頭頂部にはアホ毛みたいなのが二本飛び出していて、背中の羽と相まってカブトムシというよりはお祖母ちゃんの家でよく見る、“アレ”みたいだった。


「わっ!わわわわわわぁっ!!」

「え」


 次に素っ頓狂な声を出したのはボクの方だった。その人が突然ボクの頭上から降ってきたから。さっきまで空を飛んでいたのに、どうして急に落ちてきたんだろうこの人。


「ぬぐぐぐぐ……」

「うぇ、お、おもぃぃぃ………」

「はわわわ!ご、ごめんよ!!まだ飛ぶのに慣れてなくて」


 女の人は慌てて僕の身体から起き上がると、自分の服についた土を軽くはたく。僕が身体を起こす頃には、先程までその背中にあったはずの羽は、霞のように消えていた。


「いててて……あれ?」

「ごめんよ、少年。怪我はない?」

「羽は?」

「羽?あぁ、羽は背中にしまって———」


 すると女の人は途中で何かに気付いたようにハッとして、慌てて訂正した。


「うぉっほん、ゴホン。羽?何のことかなぁ?おねーさんぜーんぜん分からない!」

「……背中にしまってあるんだね」

「そ、そんなことないですぅー!」


 嘘が下手な人だな。僕のお姉さんに対する第一印象はそれだった。


「と、とにかく怪我がないようでよかったよ。じゃあね少年!私はカブトムシ探さなきゃ」

「お姉さん、カブトムシ探してるの?」

「うん、仕事でね。まぁカブトムシじゃなくてクワガタでもいいんだけど」

「仕事?」


 カブトムシを探さなくちゃいけない仕事なんて世の中にあるのかなぁ?

 まだ小学生だからそういうのには詳しくないけど、このお姉さんどこかの大学の学者さんだったりするのかな。


「それなら、ボクも一緒に探しても、いい?」

「え?いや、いいよいいよ。小さい子を巻き込むわけにいかないし。———というか誰かに見られたらまずいから人気のなさそうなここに来たんだけどな」

「?何か言った?」

「あーいやこっちの話。とにかく、お手伝いは今は募集してないから大丈夫だよ」

「今ボク夏休みでおばあちゃんの家に泊まってるんだけど、やることが無くて退屈なんだ」

「ほーうそうかそうか。じゃあ町のゲームセンターにでも行ってくるといい。この時代にもゲームセンターはあるだろきっと」

「この町、田舎過ぎてゲームセンターも古本屋もショッピングセンターもないんだ」

「む、むむむ、そうかぁ。となるとだね少年———」


 お姉さんが何かを言いかけたとき、僕とお姉さんの間を、黒く光る何かが横切った。それをカブトムシだと僕が気づいた時———。


「カブトムシぃぃぃぃーーーッ!!!」

「うおぁっ!」


 猛烈な勢いでお姉さんが駆け出し、飛んで行ったカブトムシを追いかけていった。途中までは自分の足で走っていたお姉さんだったけど、走りながらその背中に黒く光る大きな虫のような羽が現れ羽ばたくのを、僕は見逃さなかった。


「や……」

「やっぱり羽生えてるじゃーん!!!」


 そう叫びながら、僕はお姉さんを追いかけてまた野山を駆けずり回ることになった。


***


「はぁ、見られちゃったものはしょうがないか」

 

 夏の空がオレンジ色に変わる頃。

 小さな裏山のてっぺんにひっそりと佇む腐りかけた木のベンチに腰かけたボクは、お姉さんの話を聞いていた。


「そうだよ少年。キミの考えているように私は———」


 それまで何もなかったお姉さんの背中に、三度黒っぽい虫みたいな羽が生える。


「———天使だ!!」

「そんな虫みたいな羽した天使はいないと思う」

「何を言うか!じゃあキミは天使をみたことがあるのか?天使は白くてふわふわした羽を持っていると誰が決めた!探せばどこかの空に艶っぽい黒色の虫みたいな羽した天使もいるかもしれないだろう!」

「いやぁ、天使というか、お姉さんのそれって完全にゴ—――」

「言うなぁっ!!!」


 そう叫ぶとお姉さんは恥ずかしそうに両手で顔を隠す。やっぱり本人も自覚があったんだ。


「はぁ……。それにしても少年、キミは私が怖くないのか?」

「どうして?」

「どうしても何も、キミにない、こんなゴキ―――こほん。こんな得体の知れない羽と触覚を持った人間だぞ?人知を超えた存在を目の当たりにしたとき、人は恐怖するというのが私の持論なんだけどな」

「うーん。別に。いつもテレビとかネットで怪獣とか怪人とかUMAとかたくさん見てるし」

「……キミは変わっているんだな」

「お姉さんはどこから来たの?」

「遠いところ」

「遠いところ?どれくらい遠く?アイルランドとかその辺?」

「今から———じゃないや、まぁ、そんなところかな」

「ふぅん、じゃあデュラハンにも会ったことある?」

「デュラハン?あぁ、昔の伝承にある妖精だったかな?」

「アイルランドから来たなら、会ったことあるでしょう?天使なら」

「うぐっ……。少年、もうその話はやめてほしいな。おねーさん、傷つくから……」


 ボクとお姉さんは、しばらくベンチに座って会話に興じた。

 正直、何も恐怖を覚えないかと言われればそんなことはなかった。いくら普段アニメや特撮やドキュメンタリーでいろんなものを見てると言っても、それはあくまでフィクションだってことはもうこの歳の僕でも知っている。

 僕がこのお姉さんを怖いと思わなかったのは、単純に―――。


「お、見ろ少年。夕日が綺麗だぞ」

「うん、綺麗だ」


 初めて見たときから、表情豊かなこの人が、綺麗だと思ったから。


「そういえば、何なのその呼び方」

「ん?何がだい少年?」

「その、“少年”って」

「だって、キミは少年だろ?」

「ボクの名前は———」

「あーっ、ストップ!それ以上何も言うな少年!!」

「なんで?」

「私は、今仕事でこの片田舎に来ていると言ったろ?」

「うん」

「誰にも、私が今ここにいることを知られちゃいけないし、ましてやこの時代の人間と接触するなんて本当はいけないことなんだ!」

「この時代?」

「あ、あぁーえっと、とにかく、もし私を今後見かけても放っておいてくれ!声かけるのも禁止!おねーさんとの約束だ!!」


 そう言ってお姉さんは僕に小指を出してくる。指切りげんまん、ってやつかな。今時僕のクラスでもやってる友達なんていないのに。

 ふと、思いつくことがあった。

 僕は平静を頑張って装いながら、お姉さんの小指に自分の小指を絡める。


「「ゆーびきーりげーんまん うそついたらはりせーんぼーん のーます」」

「よし、キミはいい子だな少年!きっといいことあるぞ」

「えへへ、ありがとう」

「さて、もう日も暮れるし、早くおばあちゃんの家に帰るといい。お母さんやお父さんも心配してるだろ?」

「うん、またねお姉さん」

「あぁ、気を付けてね」


 その日は、そのままお姉さんと別れた。


***


「お姉さん、おはよう」

「……少年。私は昨日キミに、もう私を見ても放っておいてくれって言わなかったかな?指切りもしたよね?」

「指切りしたのに翌日ボクが普通に会いに来たらお姉さんがどんな顔するかなぁと思って。それに昨日、ちゃんと去り際に“またね”って言ったよね?」

「ぐぐぐっ……少年、キミは随分といい性格をしているらしいね」

「それほどでも」

「褒めてないよ。はぁ……」


 お姉さんは、大きくため息をついて、困り顔。困った顔のお姉さんも、やっぱり可愛かった。


「ちなみに少年、今日私がキミを追い払ったとしてだ」

「うん」

「明日もこの裏山に来る気か?」

「うん」

「明日もキミを追い払ったら?」

「明後日また来る」

「はぁぁぁぁぁ」


 さらに大きなため息をついて、お姉さんは蹲る。

 しばらく一人でブツブツとなにやら独り言を言っていたけれど、やがてお姉さんは勢いよく立ち上がって、僕を指さして言った。


「分かった、少年。どうせ毎日来るって言うなら交換条件だ。私と一緒に、カブトムシを探してくれるかい」

「うん、いいよ。暇だし」

「よし。ただし条件がある。私とこの山で会っていることは、誰にも言わないこと。この夏休みの間に限った話じゃない。キミがヨボヨボのじいさんになって墓の中に入るまでずっとだ」

「うんわかった。誰にも言わない」

「………本当に破ったりしない?」

「うん、言わない」

「また私がどんな反応みせるか気になるからとか言って家の人に話したりしない?」

「話さない、絶対」

「そうか、よし、じゃあ決まりだね。じゃあ一緒にカブトムシを探そうか―――だけどその前に」

「えっ」

 

 お姉さんが、すごく悪い顔をして僕のところに寄ってくる。両手をわきわきさせながら。


「え、ちょっと、お姉さん?」

「指切りの約束を破った悪い少年にはお仕置きだ!!」

「ちょ、わあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああぁあっ!!!」


 その日は結局カブトムシを探すどころか、日が暮れるまでお姉さんと追いかけっこをして過ごす羽目になった。おばあちゃんの家に来てから、こんなに笑った日は初めてだった気がする。

 ようやく、夏休みが来た。そう思った。


***


「天使のお姉さん」

「ぐっ、だからその呼び方はやめろと言ってるだろ少年」


 数日後も、ボクはお姉さんに会いに裏山に来ていた。一緒にカブトムシを追いかけ回して捕まえたり、ふざけ合って二人で追いかけっこしたり、夏休みらしい過ごし方をしていた。


「自分で言ったくせに」

「あの時は姿を見られて気が動転してただけで」

「……ゴキブリのお姉さん」

「ん?少年、今何か言ったかな?」


 その時、僕たちが歩いていた獣道の脇にある一本の木に、カブトムシが止まっているのが目に入った。お姉さんも気づいたらしく、ボクが声を発するよりも前に既に羽を広げていた。

 お姉さんが羽を出して飛ぶところはもう何度か見ているけど、いつ見ても羽は無音だ。何の羽音も聞こえないままに飛び立っているから、二人でカブトムシを捕まえているときも、意識していないとあっという間にお姉さんを見失ってしまう。

 

「……よしっ、捕まえた」


 お姉さんは手に持ったカブトムシを、そのまま肩にかけた虫かごに放り込んだ。籠の中には既に今日取った数匹のカブトムシたちが蠢いている。音もなく、お姉さんがボクの隣に降り立つ。


「それにしても、カブトムシ一体何匹必要なの?」

「ノルマはこの夏の間に一人百匹だったな、確か」

「今通算何匹?」

「これで三十七だよ」

「てことは残り六十三匹もカブトムシ集めるの?この山からカブトムシいなくなっちゃうよ」

「カブトムシはクワガタでも可だと言っていたから、まぁ山の生態系が崩れることはないだろきっと」

「というか、どうしてそんなに大量のカブトムシが必要なのさ」

「そりゃあ、足りないからさ」

「足りない?」

「ん-っとだな、私が住んでいるところのカブトムシとクワガタとか……まぁいろんな昆虫の数が極端に減っていて、数を増やすためにこうして遠いところから集めに来てるというわけだよ」

「温暖化とか環境破壊とか、そういうの?」

「そんなところだよ」


 そう言って、お姉さんは足元の雑草をかき分けるように山道を進む。

 お姉さんの住んでるところ、大変なんだな。

 この時のボクは、そうとしか思わなかった。


 その日の夕方も、ボクとお姉さんは山頂の腐りかけたベンチに腰かけていた。まるで、学校で掃除後にやってる反省会みたいだなと僕は思う。学校の反省会は至極どうでもいいから早く済んでくれと思いながらやっていたけど、お姉さんと夕涼みをする毎日のこのルーティンは、どうか一秒でも長く夕日よ沈まないでと思うくらい、僕にとっては幸せな時間だった。


「お姉さんさ、いつまでこの町にいるの?」

「そりゃあ、カブトムシがノルマの百匹集まるまでだよ」

「じゃあ、集まったらお姉さんは、元の場所に帰っちゃうの?」

「そうなるね」


 お姉さんは別になんてことはない、とでも言うかのように大きく背伸びをする。

 

「……そっか」

「お?なんだ少年、お姉さんがいなくなるのが寂しいのかぁ~?」

「べ、別にそんなことないし」

「強がるな強がるな~。可愛いなぁ少年は~。うりうりうり」

「ちょ、やめてよもう」


 口ではそう言っていたけど、お姉さんに身体を寄せられて小突かれることが、ボクはたまらなく嬉しかったしドキドキした。

 それと同じくらい、寂しさを感じてもいたけど。


「しっかし、ここはのどかでいいところだな、少年」

「えぇ?何もない、山と田んぼばっかりの寂れた田舎だよ?」

「ふふっ、今の少年にはそう見えるかもしれないけど、自然に恵まれてるっていうのは、ありがたいことも多いもんだよ?それに、毎日こうして美味しい空気をいっぱい吸って、外を走り回れるしな」

「?そりゃあ、外を走り回れるのは当たり前でしょ?」

「……そっか。当たり前か」


 ボクが何気なく言ったその言葉に、お姉さんは少しだけ表情を曇らせた。その意味が、ボクには理解できない。理解できなくて、僕は。


「———うりうりうり」


 お姉さんにされたように、手をグーにしてお姉さんの肩を小突いてやった。


「お、やったな少年!」

「あははははっ!」

「わ!ちょ、ちょっと待て少年、触覚は敏感だからぁ!」


 ただ、お姉さんと過ごすこの夏休みが、一日でも長く続いてほしい。それだけがボクの願いだった。


***


「これで、九十一匹目っと」

 

 お姉さんは慣れた手つきで飛んでいたカブトムシを空中でキャッチする。人がカブトムシと空中で並走して飛んでいる絵面っていうのもなんだかシュールな気がするけど、お姉さんの場合それすらもなんだか絵になるというか、写真に残しておきたくなる思いだった。


「しょうねーん、捕まえたぞー!」


 写真。そういえば、お姉さんと写真を撮ったりしたことはなかったな。毎日山で遊ぶかカブトムシやクワガタを追いかけるばかりで、それ以外のことを何もしてこなかったから。


「少年ー?」


 でもお姉さんは、仕事でこの田舎に来ていて、誰にも存在を知られちゃいけないって言ってた。今ボクと一緒にいてくれているのも、ボクが我儘を言ったから。写真なんて、断られるかなぁ。


「少年!」

「しゃしん!?」

「は?写真?」


 お姉さんと写真を撮ることだけを考えていたら、いつの間に目の前にお姉さんがいたことに気付けなくて、思わず写真という単語を口にしてしまっていた。


「え、えと、お姉さん、ボクとこの夏の記念に、写真、撮ってくれませんか」


 妙に緊張してしまって、自分でも笑ってしまうくらいの片言になってしまった。

 お姉さんは、至極当然というかのような表情で、きっぱりと言った。

 

「ダメだ。前も言ったろう。私がここにいることは誰にも知られちゃいけないんだ。写真なんてもってのほかだ」

「そ、そうだよね。ハハ」


 まぁ、分かりきってはいたけど。

 ボクは正直焦っていた。カブトムシを集め終えたら、お姉さんは帰ってしまう。別に、お姉さんに帰ってほしくないわけじゃない。もう、そんな駄々をこねるような子供じゃないんだ。

 でも、せめて何か、この夏休みが本物だったという証が欲しかった。ある夏休みに、ボクは天使のお姉さんと一緒に遊んだんだっていうことを、ずっとずっと忘れずに残しておきたかった。


「んー?どうした少年?そんなに私と写真が撮りたかったのかぁ~?」


 お姉さんがニヤニヤしながら俯いていたボクの顔を覗き込んでくる。至近距離に寄せられたお姉さんの顔を直視するのが恥ずかしくて、ボクは思わずそっぽを向いた。


「別に、そんなことないもん」

「むっふっふ、本当に可愛いなぁ少年は、うりうりうり~」

「あー、もう怒った!えいっ」

「だっ!だから触覚はダメだって~っ!!」


 この日はその後、二人でじゃれあったり追いかけっこをして過ごした。ずっとこうしていれば、お姉さんは帰らずに済むのかななんて、そんな後ろめたい思いを抱きながら。


「はぁ、今日も走り回って疲れたね~少年」

「そうだね」

「しっかし、そろそろ夏も終わりだなぁ」

「今日が八月二十五日だもんね」

「少年は、夏休みが終わったら住んでいた町に帰るんだったか?」

「うん、だから三十一日には帰るよ」

「そうか。じゃあ、私もその日に帰るとするかな」

「え?」

「だって、なんかキリがいいでしょ?多分このペースなら三十一日までにはノルマの百匹は集められそうだし」

「ふーん、そっか、そうなんだ。……あの、お姉さん」

「ん?」

「最後の一匹は、ボクがプレゼントしたいな、なんて」

「え?」

「その……この夏休みのお礼っていうか、“せんべい”というか」

「……ぷっ、ふふふふふふ………」

「わ、笑わないでよ!!」

「いやごめん、それ、“餞別”って言いたいのか、少年?」

「……そうとも言います」

「本当に可愛いなぁ、少年は」


 そう言ってお姉さんは、またいつものようにボクを小突いてきた。でも今日はそれだけじゃなくて、ボクの肩を抱き寄せて、頭をクシャクシャと撫でてきた。顔に押し付けられるお姉さんの香りと柔らかさにボクは完全に絆されてしまって、昼間に走り回った疲れもあったのか、いつの間にか眠ってしまっていた。


「ありがとう、———」


***


 八月三十一日。夏の最後の日。ボクとお姉さんが過ごす、最後の日。

 既にお姉さんは九十九匹のカブトムシとクワガタを集めていて、最後の一匹はボクがくれるものにすると言ってくれた。


「子供とはいえ男に恥をかかせちゃ女がすたるってもんだしね」

「ありがとう」

「いいっていいって。それより、せっかくなら今までで一番大きなカブトムシを捕まえようじゃないか。なんならヘラクレスでも」

「さすがに日本の山にヘラクレスはいないと思うな」

「近所の子供が店で買ったやつがうっかり外に逃げて外で繁殖してるかもしれないだろ!」


 いつも通りの、そんな他愛のない会話。

 それも今日で終わる。


「お、少年、カブトムシだぞ!」

「え、あ……」


 隣を歩くお姉さんにそう言われて、傍らの木の幹で樹液を吸っているのであろうカブトムシの存在に気付くけれど、ボクはどうしてか、網を持った手を動かすことができなくて。


「あっ、行っちゃった」


 モタモタしているうちに、カブトムシは次の樹液を求めて飛び去ってしまった。


「ごめん、なさい」

「まぁしょげるなしょげるな、次を探せばいいさ」


 お姉さんはそう言って励ましてくれたけど、ボクは次のカブトムシも、その次のカブトムシも、クワガタも、どれも捕まえることができなかった。網を持つ手がひどく重くて。夏休み中追いかけてきたはずのカブトムシの飛ぶ速さが、ひどく素早く感じられて。

 気付けば、いつの間にか太陽は西の空に傾いていた。


「少年、どうしたんだ?」


 いつもの山頂のベンチに腰かけて、お姉さんが顔を窺うように問いかけてくる。

 ボクは、申し訳なくて、情けなくて。


「ちょっ、どうしたんだ少年!?」

「うっ、うぅぅ……ひっぐ………」


 ただ、子供のように泣くことしかできなかった。


「お、ねえさんと、わかれたく、ない……っ」

「え?」

「ごめん、なさいっ………ごめんなさい………っ」

「………」


 ただただボクは泣いた。泣くことしかできなかった。

 最初は、ただの暇つぶしのはずだったのに。こんな田舎で過ごす夏休みなんて、つまらないと思っていたのに。お姉さんと出会って、お姉さんと一緒に遊んで、お姉さんと一緒にお話しして、お姉さんと一緒にこの夏を過ごして。

 お姉さんが、好きになっていた。

 もっと一緒にいたかった。この夏が終わった後も、元の町に帰った後も、ずっと。


「ひっぐ…………え……?」

「よしよし、良い子だね少年。おねーさんは嬉しいぞ、うん」


 お姉さんは、いつかのときのようにボクを抱きしめていた。あの時と違って頭をクシャクシャにされるようなことはなくて、その手は優しくボクの頭を撫でてくれていた。


「少年、私もキミと過ごしたこの夏は楽しかった」

「え………?」

「そうか、夏空の下で誰かと一緒に走り回るのってこんなに楽しんだって、初めて知ったよ。マスクもせず、人に気を遣うこともなくね」

「マス、ク……?」

「でもね少年。大丈夫だ。私は帰ってしまうけど、またいつかきっとキミに会いに来るよ。約束する」


 だから、と言ってお姉さんはより一層強くボクのことを抱きしめた。


「そんな悲しい顔をするな。私まで寂しくなっちゃうじゃないか」


 その言葉には、明らかな悲しみの色が滲んでいた。顔がお姉さんの胸にうずまっていてその表情は見えないけれど、きっと、お姉さんも静かに泣いてくれてるんだと思う。


「……あれ」


 ふと、お姉さんの背中に回していた手の先に、お姉さんの羽とも違う、固い何かの感触があることに気付いた。それに手を乗せて、ボクはその正体にすぐ思い至る。そして同時に、きっとこれは神様とかお天道様とか、それこそ天使の思し召しなのかもしれないなんて、そんなことを思うくらいにそれは運命的なタイミングだと思った。


「……お姉さん」

「ん?」

「………背中にカブトムシが止まってる」

「えっ、ひゃあぁぁぁぁああぁぁあっ!!??」


 自分の背中を確認したのか、直後にお姉さんは素っ頓狂な声をあげて、抱きしめていたボクを突き飛ばす勢いでベンチから立ち上がった。


「ぎゃああぁぁっ!取って!取ってくれ少年!!」

「もう取ってるから」

「え」


 ボクは右手に掴んだそのカブトムシをお姉さんに見せてみせた。結構デカい。今までに二人で採ってきたカブトムシのサイズは測ってないけど、それまでの中でもトップクラスに入るくらいの大物だと思う。

 どうやら期せずして、お姉さんに渡す餞別の品は手に入ってしまったらしい。


「……百匹目、捕まえちゃったね」

「そうみたいだな」


 ボクは右手に持ったそれを、そっとお姉さんに手渡した。

 もし今手を離せば、なんて思いはするけれど、もういい。だって、お姉さんが言ってくれたんだから。また会いに来るって。


「……ありがとう、少年。代わりと言っちゃなんだが———」

「?」


 お姉さんは片手でボクのカブトムシを受け取ると、もう片方の手に持った“それ”をボクの手に握らせた。小さな茶封筒。中には何やら紙が入っているらしかった。


「これ、なに?」

「この夏休み、私の仕事を手伝ってくれたギャラだと思ってくれればいいさ。あぁ言っておくけどお金とかそういうのではないから勘違いするなよ少年?」

「今、開けていい?」

「あぁ―――」


 お姉さんが何かを言いかけたとき、お姉さんの手が、指先から腕に向かって光る粒となってゆっくりと散り始めた。


「っと、どうやら私も、そろそろ帰る時間みたいだ」

「お、お姉さん……」

「ふふっ、もう泣かないんだな、少年」

「だって、また会いに来てくれるんですよね?」

「あぁ、保証する。だから、私が会いに行くまで死ぬんじゃないぞ―――」


 最後の一言を言い終えるよりも先に、お姉さんは光となって夏の空に消えていった。その様はまるで、本物の天使のようだった。

 この日、ボクとお姉さんの過ごした夏は、終わった。

 それが、ボクが夏空の下を自由に走り回ることができた、最後の夏の日だった。


***


 天使と名乗ったあの人と出会ってから、自分も歳をとった。中学、高校、大学と進んで、あっという間に社会人。結婚して、子供が生まれて、孫が生まれた。今年でもう八十五歳になる。

 それはつまり、あの人と過ごしたあの夏から、もう七十五年も経ったということだ。


 この七十五年で、いろんなことが変わった。自分自身も、この世界も。

 すべてのきっかけは、あの夏の翌年に世界に蔓延したウイルス。感染力が強く、特効薬もないそのウイルスによって、世界人口の十パーセントが死亡したとされている。外を自由に走り回ることもできなくなり、ある時期は国中のマスクが枯渇するような時期もあったそうだ。今の時代でこそ、治療法は確立されている。しかしそこに至るまでに多くの人命、そして資源が失われた。


 今歩いている懐かしい裏山には、もうあの頃二人で追いかけたカブトムシもクワガタも、セミの鳴き声すら聞こえない。すべてが人類存続のための尊い資源として失われたのだろう。


 驚異的な速度で変異し、人を蝕むウイルスに対抗するワクチンを作れなかった人類は、他の動物や昆虫の遺伝子を組み込むことでウイルスを克服する手段をとった。快適な環境で長年暮らしていた人類と違い、過酷な自然環境で生きてきた動物や昆虫には、このウイルスに対する抵抗力があることが分かったからだ。

 自分のように既に老いさらばえて余命幾許もないような人々は別だが、私達の子供の世代では既に多種族の遺伝子を取り込む処置が盛んに行われている。遺伝子の移植によって猫の耳としっぽが生えてくる者、鳥のような翼が背中に現れる者など、人口が密集する地域ではさながらフリークショーのような日常がそこにある。

 最近では、過去の地球に時間移動して遺伝子移植のための資源や標本を採集しようという試みまで行われているというのだから驚きだ。ここまでくると、なんだか荒唐無稽なSF小説のようだけれど、それは紛れもない現実だ。そう信じることができるのは、荒唐無稽な彼女と過ごしたあの夏があったからだろう。


「……懐かしいな」


 この歳で山登りは腰に来る。子供の頃、あの人と日が暮れるまで走り回ったあの日々が嘘のようだ。

 よっこいしょと、地面に腰を落ち着ける。昔はここに腐りかけた木のベンチがあったはずだが、今はもう、地面に僅かにその存在の名残の跡を残すだけとなってしまった。この七十五年の間に朽ち果ててしまったのだろう。

 今は、初夏。あの頃は無邪気に夏の空気を胸いっぱいに吸い込んで走り回っていたものだが、今はマスクや薬が無ければ気軽に外を歩けないような時代だ。どうか、子供や孫たちの世代には、自分達のような窮屈な思いはしてほしくないと思う。

 ふと、傍らに一枚の黄ばんだ紙が落ちていることに気付く。


「ああ、いかん。落としてしまっていたか」


 紙についた砂を軽く払い落とす。

 それは、あの夏の最後に、百匹目のカブトムシと引き換えにあの人から貰った写真。写真を撮るなんてもってのほかだ、なんて言っていたくせに。しかも。


「……何度見ても、マヌケ面だ」


 写真の中には、子供の頃の自分が大きな口を開けて眠っている。今の自分が座っている、この場所で。どうやら、寝ているところをあの人が自撮りで隠し撮りしたものらしかった。大口を開けて眠る子供の頃の自分を笑うように、悪戯っぽい笑みを浮かべるあの人がこちらを見ている。

 

 ———“また会いに来る”。


 自分が変わっていく世界の中で今日まで生きていくことができた理由の一端は、やはりあの夏の日にあの人と交わした約束があったからだと思う。初めて好きになった人との、約束。今はもう妻も子供も孫もいるけれど、それでも自分にとってあの夏と、あの人との思い出が大切なのは今も変わらない。

 定年を迎えてから、妻を連れてこの静かな田舎に引っ越してきた。土地開発が進んでいる都市部と比べれば、この町は幾分自然も残っていて過ごしやすい方だ。あの日、あの人が言っていたことは間違いじゃなかったんだと、この歳になって気づかされる。

 あの人。結局お互い名前で呼び合うこともなく分かれてしまった。せめて、死ぬ前にもう一度あの人に会えたなら、今度は名前を———。


 ふと、自分の頭上を一匹のカブトムシが飛んでいくのが見えた。この山にも、まだカブトムシが残っていたのか。

 そんなことを思っていると、どこからか懐かしさを感じる一陣の風が吹いた。


「カブトムシー!!」

「ん?」


 背後から聞こえた声。いや、頭上から聞こえた声だった。声の主の正体に気付くよりも先に、その小さな影が自分の身体に激突していた。


「あぁ~、とんでっちゃった」

「こらっ、千夏ちか!おじいちゃんに怪我させたらどうするの!」

「あれ、夏美なつみ。お前どうしてここに」

「あぁ、お父さん久しぶり。あれ?お母さんから聞いてない?今日から千夏が夏休みだから、私達お父さんの家に遊びに来たんだよ」

「おぉ、そうだったか。それよりこの子、千夏ちゃんかい?ちょっと見ない間に大きくな……って」


 久しぶりに会った孫娘の姿。見違えるように成長したその子の頭には、栗色の髪と混ざって、確かに見覚えのある二本の触覚が夏風に揺れていた。


「そっか手術してからはお父さん会うの初めてだよね。この子この間遺伝子移植の手術したんだよ。ほら千夏、おじいちゃんに挨拶して?」

「こんにちは、おじーちゃん」


 ———あぁ、そうか。

 ———やっと会いに来てくれたんだな。やっと……。


「また会ったねぇ、千夏」


 明日は、久しぶりにこの子と一緒にカブトムシ採りをしてみるか。そう思った。

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