inori

杜松の実

第1話

 うだるような日差しの中、僕はただ待ってる。踏切はけたたましく音を鳴らして、電車が通過するのを待ってる。左手に握る地図は、手汗でしけっているような気がした。


 彼女と一年ぶりにようやく会える。彼女とどんな話をしようかと、妄想を始めた。大筋は昨晩考えたものと同じだ。


 僕の耳は波打つように、鐘の音の中から蝉の声を拾い上げている。


 プレゼントを渡す場面で電車が通過した。電車が運んできた風が右手に下げた紙袋を揺らしももに触れる。


 電車を見送っても踏切はあかない。僕はただ待ってる。


 あご下から汗が垂れる。のどが渇いたなと見回すと、踏切横に立つ雑居ビルの二階に喫茶店を見つけた。


 扉を引くとカランランとベルが鳴る。店内には幾人かの男たちが涼んでいた。テーブル席は埋まっていたから、カウンターに腰を下ろす。


 BGMはなく、ガラス窓を抜ける踏切の音が聞こえる。


 僕の呼びかけにマスターはしぶしぶ立ち上がり、注文を受け付けた。


 アイスコーヒーが出されるのと同じくして、となりの中年男が話しかけてきた。


「よお。踏切待ってるんだろ?」


「ええ、まあ」


「おれもだよ。俺はかれこれ三時間は待ってるね」


「三時間!?」


「ああ、嘘じゃないぜ。別に信じなくてもいいがな」


「そんなに待つなら他の踏切に行けばいいじゃないですか?」


「他の踏切ね。そこの地図でも見てみろよ」


 指さしているのは僕の持ってきた地図だった。十キロメートル四方の地図には、他の踏切も駅もない。


「ねえだろ。どこにあるかもわからない踏切探すよりこうして待っていた方がいいのさ。もしここを離れてすぐに踏切が開いてみろ。これまで待っていたのがバカみたいじゃないか。言っておくがな、俺だってまだまだ新参者よ」


「……」


「はは。信じられない。あほらしって顔だな。別に信じなくてもいいさ。じきにわかる」


 店内を見回す。どの男たちもくたびれているように見え始めた。窓際のボックス席のソファに、コートらしきものを掛けて寝ている人がいたが、それは見なかったことにした。


 汗を吸ったワイシャツが冷えて身震いをする。となりの中年男の空っぽのカップにコーヒーのシミができている。


「あの! お電話お借りできませんか?」


 カウンターの中でソファに座り込んでいるマスターは顔を上げて、入口を指さした。公衆電話と同じようなものがそこには置かれていて、電話帖も立てかけられてある。使い込まれた電話帳の小口はよれて柔らかくなっている。


 待ち合わせているレストランの名は載っていなかった。


「あの! 他の電話帳ってないですか?」


 マスターは答えず代わりにとなりの中年男が答えた。


「それ、最新のやつだよ」


 諦めて席に戻った。


「あの。三時間も待っていて暇じゃないんですか?」


「そりゃあ、暇だよ。だからこうして話しかけたんじゃないか。君の前にも二人ほど来たけどね、三十分も待てずに帰っていったよ」


「そうですか」


「ああ、そうそう。貸本屋ならあるよ。窓際に座っている太った男がいるだろ? 彼が貸本屋をやっている」


 太った男の座るボックス席には、男が座る座面のほかは机の上も下もすべて本で埋め尽くされていた。


「あの。本お借りしていいですか?」


「一冊百円」


 太った男はめがねのブリッジを押し上げて、読んでいた本に顔を戻した。さほど吟味することなく適当に上から一冊選んで、百円を積みあがった本の上に置いていく。


 借りた本は文豪たちの短編を集めたアンソロジーだった。学校で習った羅生門。こんな話だったけかと、久しぶりに読むと全く違う話だったように思える。


 二篇読み切ってもまだ外から踏切の音が聞こえてくる。


 三篇目は太宰だ。多分、走れメロス以外読んだことないな。なんだこれ。面白いな。


 アメリカンコーヒーを三杯おかわりするころには日がやや暮れ始め、店内にゆるいオレンジの光が滲んでいる。





















 踏切がやんだ。





 誰かが動き出したと思ったら、他の男たちも我先にと席を立ち、小銭と伝票をカウンターに残して階段を駆け下りていく。


 僕は見ていた。踏切がやんだことに、まだ誰も気づいていない中、それまでずっとカウンターの内でソファにうずくまっていたマスターが、誰よりも早く走り出していたことを。


 窓に寄って踏切を見下ろすと、大手をあげて駆けていくマスターの背があった。マスターの背は夕日に吸い込まれ、燃え尽きていくかのように小さくなる。



カン! カン! カン! カン!


 踏切は閉じ、店の中にまた鐘の音が戻って来る。


 ひとり、僕はただ黙ってる。


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