回転し続ける自転車のホイールに、泥のような負の感情が絡みつく。じわじわとハンドルの方へと上がっていくが、ホイールの一部に巻いた髪の毛に触れると、ジュッと音を立てて蒸発した。

 町の中を自転車で走っていると、そんな光景を何度も見かけた。負の感情を轢いても、自転車の走行は邪魔されないが、背中のリュックを引っ張られる感覚、顔に向かって飛んでくるそれらに、肝を冷やされる。


 リュックの中に入れた神の首を、負の感情は狙っているようだが、あちこちに括り付けられた髪の毛の浄化の力で、何とかしのいでいる状況だった。まるで、ゾンビの集団から逃げているようだ。

 自転車を選択して良かったと、改めて思う。負の感情によって前が塞がれてたり、信号が赤になっていたりしたら、すぐに脇道に入れる。


 アジトのある町の地図は、もしもの時に備えて頭の中に入っている。このまま、一直線に神社に向かうことも出来るが、その道中にある雑木林へ、休憩と作戦会議のために立ち寄ってほしいと少女から言われていた。

 春の兆しである新芽が芽生え始めた木々の中へと、自転車を押して入っていく。自然の中には負の感情は入って来れないと説明されていたが、確かにこの中にはあの忌々しい泥の塊が見当たらなかった。


 雑木林の中に、電化製品が打ち捨てられている一角があった。その中にあるテレビが、少女との待ち合わせの場所だ。

 右上の角に半円のヒビが入った小型のテレビの前に立つと、当たり前のように、電源が付いた。映っている少女は、俺の姿を見て、ほっとした様子だ。


『お疲れ様です。埃崎さん、ご無事で良かったです』

「ああ……危ない場面は何回もあったがな」


 リュックを開けると、ケースの中にあったのと同じクッションの上で、神の首が鎮座していた。

 首自体には見慣れてしまっているので無視して、隣にあったタオルと水入りのペットボトルを取り出す。自転車を漕いでいる間、ペットボトルが首に当たっているはずだが、非常事態なので天罰は勘弁してほしい。


『では、神社の今の様子を映しますね……』

「ああ、頼む」


 水を飲みながら、俺は頷いた。

 廃神社に捨てられたテレビを通して、少女はそちらの様子を見ることが出来るが、位置が遠いため、先程までいたマンションのテレビに映すことが出来なかった。


 ざらざらと砂嵐が流れた後、神社の境内がそこに映し出された。参道を、横から撮っているらしい。

 その参道の上に、一人の男が立っていた。黒いスポーツ刈りの髪型に、灰色の薄手のコートを着ているが、テレビには背を向けている。そのような状態でも、彼が腰元に日本刀を持っているのが見えた。


『あの人が、神様の首を切った張本人です』

「そうだろうな」


 神妙な少女の声だけがテレビから聞こえた。

 だが、俺はこの男よりも、別のことが気になっていた。


「神を取り込んだもどきは、神社の中にいるのか?」

『いえ、霧状になって境内を漂っているようです。彼に見張りを頼み、自分はゆっくりと神様の力を自分のものに変換しているようですね』

「あいつを倒しても、もどきから神の胴体を取り戻さないといけないのか」

『そうなりますね……』


 げんなりとした俺の声に、少女は申し訳なさそうに答えていた。

 ただ、見張りを倒すこと自体は、すぐに終わるだろう。マンションの男たちを見ると、操られている人間は色々と鈍くなっているらしい。


 その時、見張りがこちらの方を向いた。メガネをかけているが、彼の顔には見覚えがあった。


「……横溝!」

『埃崎さんの知り合いですか?』


 少女の不思議そうな質問に対して、俺は血の気が引いていくのを感じた。


「知り合いっつーか、この業界で、アイツを知らない奴はいないくらいの有名人だ。……殺し屋なんてもんは、俺も含めて、全員頭のネジがぶっ飛んでる奴らばかりだが、アイツは桁が違う。化物の領域にいる」


 少女に話しながら、頭の中では必死に考える。「神様の首を切った」という情報で気付くべきだった。そんな芸当ができるのは、横溝しかいない。

 しかしながら、アイツと対峙するのは厄介だ。真正面からぶつかって、勝てるビジョンが思いつかない。こちらは、殺してはいけないという制約もあるというのに。


『……そう言われると、確かに彼は変なところがありました……。負の感情に操られていても、人間の本能には逆らえないんです。首を運んでいた二人も、眠気や空腹に耐えきれず、あのマンションで休んでいました。

 でも、昨晩から何度も神社の様子を確認したのですが、彼は、眠っている様子も食事をしている様子も、見えないんです。これは明らかな異常です』

「まあ、それくらいは、出来るんだろうな……」


 少女をさらに不安にさせる形になるが、俺はこの事実は当然のように感じられた。

 それを裏付けるために、「横溝」という殺し屋の特徴を述べる。


「アイツの言動や外見は、全て見てきた映画の真似なんだ。仕事もそうだ。アクション映画のワンシーンをなぞることで、依頼を完遂する。それが可能な記憶力と運動能力を持っているんで、奴にできないのは、魔法と超能力を使うことだけと言われるくらいだ」

『え? でも、それには限界がありませんか? 彼が対応できないような動きをしてしまうとか……』

「アイツの見てきた映画は、百や二百の数じゃないんだぞ。映画を見て、文字の読み書きや外国語を覚えたんじゃないかと噂されるくらいだからな」

『……』


 横溝のスケール感に、少女は絶句してしまっていた。確かに、こいつの存在は、同業者から見ても悪夢そのものだった。

 だが、ここで諦めてしまうほど、俺は行儀がよくない。


「神を助けたいんだろ?」

『……はい』

「それなら、俺が立ち向かうしかないよな?」

『……はい。でも、』

「依頼を受けた時点で、一方的に投げ出すわけにはいかないんだよ」


 それが、こちらの命が危うくなるような状況でも。その一言は、心の中だけで呟いた。


「やりきるためには、意地汚く、こちらを利用しろ」

『……』

「まあ、俺もあんたに色々手伝ってもらうつもりだからな」

『……はい』


 少女は、涙声になりながらも、確かに肯定した。






   △






 神社は、小山の上にあった。石段が一か所だけ設置されていて、そこ以外は草木が生い茂っている。

 俺は、その石段以外の箇所を分け入り、茂みの裏側に身を潜めた。葉の隙間から、参道とテレビなどが捨てられたゴミ山が見える。


 その参道の上を、横溝が行ったり来たりを繰り返していた。相手は同じ人間であるはずなのに、猛獣の様子を窺っているかのような緊張感があるのは何故だろう。

 数回ほど、仕事以外の場で横溝と会ったことがあった。あの時の、常に緊張感を漲らせていた雰囲気と比べると、今の横溝は妙にぼんやりとした顔つきをしている。操られている副作用なのだろうか。


 この横溝になら、チャンスがあるのかもしれないと思っている所へ、ゴミ山の中のテレビが、例の如く点灯した。丁度、テレビの前を横溝が通りかかったタイミングだったので、彼はそちらの方を向いた。


『横溝さーん、こんにちはー』


 少女はそう話しかけている。姿は横溝と被って見えないが、声が硬くなっている。


『えー、本日はお日柄もよくて……あのー、最近、だんだんと春めいてきましたねー』


 少女は、季節の挨拶のようなものをとにかく並べ立てている。横溝に話しかけることで気を引いてくれというのが俺の作戦だったが、存外効いているようだ。

 俺は茂みから立ち上がり、テレビに釘付けの横溝の首筋を狙った。構えた麻酔銃を発射させる。


 しかし、一瞬で抜いた横溝の日本刀が、白銀の一閃で麻酔弾を真っ二つにした。麻酔の液が、地面に散らばるのが、スローモーションに見える。その向こうに、全てを一瞬で灰にしてしまいそうな、横溝の眼光があった。

 ヤバい。脳内で警告音がなる。本物の銃弾よりも劣るとはいえ、麻酔弾すら切ることができるなんて。そもそも反応速度が可笑しい。安全装置を外す僅かな音を聞き分けたのか。


 俺は、木々の中に身を潜めるよりも、横溝の前に飛び出すことを選択した。チャンスの有無で言えば、前者が賢いだろう。だが、ヘタに長引かせるとこちらが果てるため、短期決戦に持ち込むつもりだった。

 横溝も、こちらに駆け寄る。俺は、神社側に半円を書くように走りながら、二発を撃ち込む。それらも当然のように斬り落とされる。


 俺たちの距離は、一・五メートルまで狭まった。横溝が薙ぎ払った刀、その鍛え上げられた切っ先が、顔に迫る。俺はそれを、上を向く形で躱した。鼻の上を通り過ぎる刃を見たのか、少女がテレビの中から悲鳴を上げた。

 過ぎ去ったピンチは、翻ってチャンスとなる。銃口は服に向けられているために麻酔弾は使えないが、足は届く。俺は、思いっきり、横溝の腹部へ蹴りを入れた。


 ……ピタリと、右足は止まった。日本刀の刃が、俺の靴の裏にある。このまま、もう一押しされれば、足が斬られる。冷酷さを通り越して、感情のない横溝の目に、冷や汗が噴き出した。

 体重の全てを、後ろにかける。靴の裏から、刃はあっさりと抜けた。だが、勢いを止められず、俺は真後ろに倒れ込んだ。四角いリュックを背負ったままのため、ブリッジのような格好になる。


 まずい。

 これ以上の策はなかったが、これは悪手だった。当然の如く、横溝の刀は俺の心臓を狙い、突きの体制のまま高く掲げられる。


『埃崎さん!』


 少女の悲鳴のような声に反応して、横溝は動きを止めた。この一瞬に、頭を回転させる。

 ……メガネをかけている横溝の動きも、鈍くなっている。普段ならば、俺が茂みから見ている時点で、気が付いているはずだ。彼は、自身への攻撃に対して、オートで動いている。


 ならば、攻撃ではない、予想外の動きをすれば?

 俺は、麻酔銃を真上に投げた。それは丁度、メガネの縁に当たった。


 耳から外れたメガネが、ゆっくりと落ちていく。俺の腹に当たり、麻酔銃と共に右側へ転がった。

 鋭かった横溝の目が、驚愕の表情に開かれていくのも、はっきりと見て取れた。俺は、攻撃の意図がないことを示すため、空っぽの両手を開いて、耳の横に添える。


「……どこだここは」


 俺の上から退いた横溝が、辺りを見回しながら呟いた。刀も鞘に戻す。何も分からないまま、無抵抗の相手を殺すほど、無茶苦茶な性格ではないらしい。

 一つの危機は去った。俺も長く息を吐きながら、体を起こす。ちらりと、テレビの画面に嚙り付いて、目を真っ赤に腫らしている少女の姿が見えた。


「お前、今まで何をしていた?」

「……一人で、部屋で眠っていました。本当なんです……」


 テレビの中の少女を眺めたまま、横溝が答えた。まるで、自分の潔白を晴らそうとする容疑者のような切実さだったが、実際にサスペンス映画のそのような場面から引用したのだろう。

 だが、一息つく暇も無い。鳥居のある側で、どこからか現れた泥がうねりながら、一つにまとまり、大きくなり始めていた。


「何が起きているの?」

「とりあえず、これを着けてみろ」


 明後日の方向を見ている俺を怪訝そうに眺める横溝に、今かけている分が壊れた時にと用意していた、浄化済みのメガネを投げた。

 それをかけて、俺と同じ方角を向いた横溝は、三メートル近くの高さになった泥の塊を見上げ、「Jesus」と完璧な発音で呟く。


 神の胴体を取り込んだもどきは髪の毛ほどの力では浄化できないが、代わりに物理的な攻撃は効く。雑木林でそう説明されていたので、俺はもう一丁の、実弾入りの銃を取り出し、サイレンサーを付ける。

 少女によると、もどきの中は、負の力と神による浄化の力とで、ギリギリのバランスが取れているという。そこへ、さらに強い浄化の力を加えれば、それはあっけなく崩壊するらしい。


 泥の山の一部が、手を伸ばすように、俺のリュックに向かってきた。パシュッとそれに発砲すると、当たった箇所の泥は散り、靄のように一瞬で消えた。

 やはり、神の首がこいつの狙いらしい。一連の流れを見極めるように眺めていた横溝に対して叫ぶ。


「横溝! こいつから、俺のリュックを守ってくれ! 報酬は出る!」

「承知した」


 自身の真横を高速で通り過ぎた泥を、横溝は一太刀で叩き斬る。地面に付く前に、泥の塊は霧散した。

 敵に回すと恐ろしいが、味方になると頼もしい奴だな。それこそ映画の台詞のようなことを、泥の塊を撃ち抜きながら思ってしまう。


『埃崎さん、横溝さん! 神社の中に、浄化の弓矢があります! それであれを射ってください!』


 少女がそう叫んだので、俺は横溝に確認する。


「横溝、お前、弓矢は使えるか?」

「見たことあります」

「これ以上ない返答だ」


 こんな極限状態なのに、気が立っているのか、口元が上がってしまう。


「俺が抑えるから、お前は神社から取って来い!」

「分かった!」


 横溝は、踵を返して、神社の中へと走り出した。彼が相手にしていたもどきの一部はそれを追いかけずに、俺の方ばかり殺到する。

 もどきの動きは大胆で、俺から首を奪い取ることしか考えていない様子だったため、リュックに届く前に撃たれてしまう。しかし、あまりに数が多いので、こっちが弾切れになってしまった。


 慣れ切っているため、弾を込めるのには一分もかからない。それでも、一本がリュックに絡みつくのを、許してしまった。

 それを撃つよりも早く、体が宙に浮いた。地面が遠くなった、と思った瞬間に、ピッチャーがボールを投げるかのように、神社へと飛ばされた。


 障子紙が無くなった骨組みに、体が叩き付けれらる。全身が、痛い。血が出ている気がするが、泥が目前に迫っているが、体が、動かせない。

 ……真横で、風を切る鋭い音がした。一本の矢が、愚直に、もどきに向かって飛んでいく。


 刺さった。そう、他人事のように思った。俺の隣に、誰かが立つ気配がする。きっと、横溝だろう。

 もどきは、生き物のように苦しんでいる。そして、どろりと、人の体を吐き出した。首のない男の胴体。緑色の芋ジャージを着ている。


『神様の体に向けて、首を投げてください!』


 テレビの中から、少女の声がする。やっぱり乱暴だと、笑ってしまった。

 軋むように痛む腕を回して、リュックを下ろす。髪の毛を絡ませたチャックを開けて、首を取り出す。こちらを見る横溝が、息を呑んだ。


 投げられた首は、弧を描いて、泣いているように波打つもどきをよそに、男の体にぶつかった。

 その直後、真っ白い光が、辺りを包んだ。


『君たちに、寿命をあと十年、授けよう』


 思わず目を閉じると、そんな声が聞こえた。






   △






 薄暗い。目を開けて最初にそう思った。顔に手を当てると、メガネは消えていた。

 体を起こす。どうやら神社の中に寝かされていたらしい。穴が開くほどボロボロなところを見ると、俺が寝ている床はまだマシな箇所らしい。


 怪我がどこにもなく、体の痛みすら幻のように消え去っているのに首を傾げながら、足元にあったリュックを拾って、俺は外へ出た。日がすっかりと暮れていて、空は夜に染められていた。

 参道の上には横溝が立っていて、こちらへ振り返る。彼もメガネはしていない。日本刀は竹刀用の袋に入れらて、背中に担いでいる。


「起きたか」

「ああ」


 短く挨拶をする。お互い、顔見知り程度の中なので、それ以上の言葉は出なかった。


「しっかし、とんでもない一日だったな」

「それはこちらの台詞ですよ」


 隣に並ぶと、横溝は渋い顔をして言い返した。確かに、知らない間にもどきに操られ、気が付くと今度はそのもどきと戦わされた横溝は、俺以上に振り回されたことになるだろう。

 真っ黒な画面のテレビを通り過ぎて、石段を下りながら、何が起きていたのかを横溝に説明する。時々質問はするが、横溝は素直に聞き入れていた。


「お前、あんまり驚かないよな」

「そう?」


 落ち着きぶりを指摘すると、横溝は腕を組んで首を捻る。その自然な仕草も、映画から真似ているのだろう。

 丁度、石段を下り切ったので、立ち止まり、横溝に尋ねた。


「お前も寿命を貰ったのか?」


 横溝は無言で頷いた。そして、背後を振り返った。

 何かいるのかと思ったが、特に可笑しな点はない。暗闇の中で、朱色の鳥居が佇んでいるだけだった。


「……神がいるとか、思ったことなかったよな」

「職業病だよねぇ」


 人を殺して生計を立てているという、誰からも後ろ指を指されるような仕事をしている以上、ハナから神などいないと決めつけていた方が気が楽だ。しかし、実際にいる以上は、あの世もあるということだろうか……そこまで考えだすと、頭が痛くなってくる。

 ただ、いると分かったところで、生き方を変えることはないだろう。今日はたまたま、神のために動いたことになるが、明日からはまたいつもの血生臭い日常だ。


「じゃあな」

「では」


 横溝とは、そう言い合って別れた。次会う時は敵同士の可能性もあるので、何が起きても挨拶に親密さは込められない。

 神社の小山沿いに歩くと、置きっぱなしにしていた自転車が置いてあった。鍵を開けて、跨り、静かに漕ぎ始める。


 ライトが照らし出す夜の道、その奥で、町がさざめいている。

 あの中のどこかに、普通の女子高生に戻った少女がいるのだろう。上り坂の途中、広がる家々を眺めながら、そんなことを思った。


































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殺し屋・埃崎のオカルトな一日 夢月七海 @yumetuki-773

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