エピローグ

「兄さん、電話ですよ?」

 休日、一体どこからの電話だろうと思いながら僕は光から受話器を受け取った。

「はい、花菱夜です」

「夜」

 電話は驚いたことに父からだった。

「父さん。休みの日にどうしたの?」

「……この間のユーロモーションに関してで、」

「ああ」

 ユーロモーションにおけるカウンセリングを終えて、三日が経過していた。帰宅後、僕はあの場所のことについて早々に父へと相談していた。あんな場所を放置するわけにはいかない。幸い、父にはそれなりのコネクションがある。相手はひどく巨大だが、そうした関係性を使えば太刀打ちできるのではないかと考えたのだ。電話の要件はおそらくそれだろう。

「それで、何か進展が?」

「その件でな。少し話がある。すぐに出てこられるか?」

 父の言葉に頷いて、外に出る準備をした。

「光。ちょっと出てくるよ」

「お義父様からの呼び出しですか?」

「そんなところ。多分夕飯の頃には帰るよ」

「そうですか。それは良かったです。今日は雨宮さんがお見えになりますからね。料理を習いたい、とかで。二人で夕食を作りますので、早く帰ってきてくださいね」

「ああ、今日だったか」

 ユーロモーションから帰る際、信一に告げたように彼女、雨宮小糸も一緒に連れ出した。今はこの近くに部屋を借りて、転入の手続きをしているところだ。当然カウンセリングも続けている。いろんな問題点はあるが、これからだ。一つ一つ、解決していかなければいけない。

 そして、これから行う父との話もそうしたモノの一つだ。

「それじゃあ、行ってくる」

 そう光に告げて、僕は家を出た。



 ずっと昔、俺たちがまだ子供だった頃のこと。

 夜と二人、ナイフで遊び、ケガをしたことがあった。大したケガではなかった。ただ血がドクドクと流れて、血を流した俺も傷をつけてしまった夜も二人、どうしていいかわからなかった。

 そんな時だ。夜が何かをしなければいけないという顔をしたのは。突然、ナイフを握りしめ、自らの右腕を傷つけた。俺よりも深く刺さり、傷つけた夜の右腕は神経にまで達していたようで、酷い痛みに、大声を上げた。その後だ。傷つき、俺と同じように血が流れだした手を見せて、あいつは笑ったのだ。それは自らで自らを罰する行為だった。このせいで、あいつの右腕は使い物にならなくなり、内科医への道を閉ざされた。……その在り方が、そういうことができるアイツの在り方が、俺はずっと怖かった。

 あの子を助けたときだってそうだ。見ないふりをして、放っておけばいいものを、そういうことはせず、人を助けるアイツのその在り方。多分、それは正しい在り方なのだろう。人として、正しい在り方で、けれどそれを体現できるアイツの存在がずっと俺は怖かった。そういうことをするアイツを見るたびに、そういうことができない自分を思い出して、嫌だった。

 だからだろうか。学生時代、ボランティアに参加していたのは。そうすることで、少しでも自分もそういうことができるのだと、俺は思いたかったのかもしれない。そしてその結果が彼女を助けようとしたあの行為であり、そしてそれが行きついた今のこの結末だ。

 ずっと、夜のことが怖かった。自らをナイフで傷つけ、笑うアイツの姿が怖かったけど、今ならなんとなくあの時のアイツの気持ちが分かる気がする。

 罰が欲しかったのだ。仕出かしてしまったことに対して、自らに課される罰が。

 人というのは面倒なもので、罪に対して罰を求める。そういう感情を持っている。ただそれは罪を感じているからそれ故に罰が欲しいのではない。その罰はその犯した罪に対する罰、贖罪という意味ではなく、自らが許されたいが故の罰なのだ。

 こうした罪を犯した自分。だがそれに対して俺はこうした罰を負った。だから俺に罪はない、とそう思うために人は罰を求めるのだ。

 多分アイツもそうだったのだろう。今の俺は、その気持ちがよくわかった。

 俺は彼女に対して犯した罪、それに対する罰が欲しかったのだ。……ただ、それももうすぐ消える。

 机の上、おかれている透明な液体の入った注射針をゆっくりと打ち込む。

 この場所における心残りだった彼女、雨宮小糸の問題も解決し、もはや俺がこの場所でやることは残っていない。もう、何もできることはないんだ。

「……これで、許してくれるかな、イマ」

 無意味に、独り言が漏れた。彼女に許されるはずはない。だから結局これも俺が自らを自らで許すために課した無意味な罰でしかないのだ。



「ねえ、雨宮さんはどこから来たの?」

 二人、並んで座ったベンチでそう問いかけた。

「ユーロモーション」

 児童養護施設の外で遊んでいる同年代の子供たちを見ながら彼女はそう呟いた。ただその場所を私は知らなかった。

「ユーロモーション?」

 再度問いかけた私に、彼女はこう教えてくれた。

「そんなに有名なところじゃないから。ただちょっと特別な場所」

「特別?」

 小さく彼女は頷いて、私に説明してくれた。

「そこにはね、人の感情を殺せる薬があるの」



 花菱先生の家に行くと、先生は出かけたとのことだった。せっかく会えると思っていたのに、少し残念だ。ただ夕方には帰ってくるとのこと。なら作った夕食は食べてもらえる。そのためにも頑張らなければ。

私はそう心に秘めながら、光さんに手伝ってもらいエプロンを付けた。

「すみません。突然」

 謝ったのは果たして料理に対してか、彼女の秘めている思いに対してか。不思議な私の問いかけに、彼女は微笑みながら答えた。

「いいのよ、雨宮さん。今まで料理とかしたことなかったんでしょう。大変だったのはわかるから。……似たような経験があるから」

 彼女の顔に少し陰りがあった。義理の妹だという光さんについて、私はそれほど多くのことを知らない。ただ昔何かがあって、義妹になったということは先生から聞いていた。……ただ、彼女には先生に対して、それ以上の何かがあるように見えた。そうした思いを感じ取っていると、彼女が明るくこう言った。

「それじゃあ、始めようか」

「はい。よろしくお願いします」

 そう笑って答えた。あの日から随分と笑えるようになったと、自分でも驚いていた。

「まずは何を?」

「そうね。とりあえず野菜を切るところから」

 そう言って彼女が生野菜をまな板の上に置いていく。「野菜を切る時はね、こう、」

 野菜の切り方について教えてくれている彼女の手元を見たとき、私はあることに気が付いた。

「あの、光さん。その手にある……」

「ああ、これ?」

 彼女があざを隠すようにして、恥ずかしそうにこう言った。

「いつからあるものなのか、わからなくてね。ちょっと恥ずかしいの。何かに抑えつけられてついたみたいで、消えなくてね。とは言っても贅沢は言えないんだ。……実はね、昔私はの。だからこれはなの」



それは突然の出来事だった。

「イマ? 何してるんだ?」

 児童養護施設でのボランティアを終えてから、どことなく彼女がおかしいことには気がついていた。あの日、小さく微笑んでくれたはずが。それ以降、再び笑うことが無くなり、無表情であることが増えたのだ。ただそうであると同時に、その表情はこれまでの無表情とは違い、どこか落ち着いているような、安心しているような表情に見えて、それがどういうことかわからなかったのだ。

 そんな時だった。彼女の部屋を訪れた際、彼女が自らの右腕に注射針を刺そうとしているのを見たのは。

「ああ、信一さん」

 ちょっと待ってくださいね、と焦ることなく彼女は注射針を慣れたように差し込んで、その中の液体を自分自身に投与した。

「どうも、すみませんでした。それで、何か御用ですか?」

 やはりなれた手つきで、処理を済ませると僕に向き直り、彼女はそう言った。

「いや、用とか、その前に今のは……」

「ああ、これですか? あの児童養護施設を訪れた際、いただいたんです。信一さんがお話されていた樋口さんに」

「樋口……樋口将嗣か!」

 ええ、とやはり平然とした顔で頷く彼女。その在り方に、あの男が語っていた言葉、提示してきた薬品を思い出し、彼女が打っていたモノの正体が分かった。

「その注射は、ロストか?」

「そうです。それが何か?」

 彼女はことの重大さが分かっていないのか、きょとんとしている。

「何かって。君はそれがどういうモノか、わかっているのか?」

「ええ、わかっていますよ」

 僕の言葉に、彼女がゆっくりと頷いた。わかっている、だと?

 こちらの驚きが、恐怖が伝わっていないのだろうか、彼女は平然とした調子で説明を始めた。

「人の感情が消えるそうですね。すみません、あの日、お二人がお話しているのを立ち聞きしてしまいました」

「あの日……」

 それは全部聞いていたということか。ユーロモーション、ロスト、奴隷、すべて。それでいて、彼女はそれを打ったと?

「信一さんが出てこられたので、慌てて隠れてしまいましたが、その後急いで樋口さんを追いかけたんです。そこでロストを分けていただきました」

「なんで……なんで、そんなこと」

「なんで、と言われましても。私がそれを望んだからです」

 望んだ? 感情を消すことを? なんで、どうして?

 混乱に包まれる僕を見つめながら、彼女が言葉を続けた。

「信一さん。私には、生まれたときから今に至るまで、生きるということの意味が分かりませんでした。

 私が生まれたときに覚えていることは真っ暗な中、電気もない部屋で、私に対して殺意と怒りと、そしてほんの少しの情愛が入り混じった複雑な瞳で私を睨みつける母の顔でした。正直私には、いまだに母が何故私を産んだのか、わかりません。もしかしたらそこには宗教的な理由でもあったのか、もしかすると捨てられた父への未練のようなモノがあったのかもしれませんが、おそらくそこにあったのはほんの気まぐれではないかと思うのです。母は私をおそらくそうしたほんの気まぐれ、気の迷いで生み落とし、そして、憎んだのです。

 ただそれでも母は私を育て始めました。が、すぐに後悔したのでしょう。その生活の苦しさに、生きていくことが厳しいこの社会に、絶望したのだと思います。ただその果てに母は一つの考えを見出しました。それは新たな宗教の創出と言い換えてもいいモノでした。

 母は私に言いました。お前は私が産んだ。ゆえに私はお前の神となった。私はお前の神だからお前を生かし、これからも生かし続ける。ただそれはいつか変わる。お前が働けるようになった時、私はお前を生かすことをやめる。代わりにお前が私を生かすのだ。自らの神を、自らで生かすのだ。私の代わりに、お前が働くのだ。私はお前を奴隷として産んだ。私という神に尽くす奴隷として。お前にはお前という個は必要ない。何故ならお前はいつか私に尽くす奴隷なのだから。

と、教義のようなモノはほかにもいくつもありました。ただ大まかにはそうした教えです。母はおそらくそうした宗教を作ることで自らの身を守ったのだと思います。私を生かすため、『いつか』訪れる奴隷により働かなくて済む幸福を求めて。それはあの場所において、母にあった唯一の希望でした。今思えばそれは私という存在に対する一種の依存だったのだと思います。

 ともかく、そうした世界で私は生きてきました。ただそれにより母は幸福感を得ていたのかもしれませんが、私には幸福感は在りませんでした。養ってはくれましたが、私には私という存在は無く、各種家事は奴隷である私の仕事でしたから。その果てで、未来に待つのはその業務に仕事というモノが追加される。そうした世界でどうすれば幸福を得られるでしょうか。私には希望と呼べるものはありませんでした。

 ただそんな生活をしていたある日、母がパタリと死にました。知っての通り、無理があった生活だったのです。

そうして私は母の宗教から解放されました。それから様々なことがあり、あなたが私を助けました。当初、私にはあなたがわかりませんでした。私を助け、その結果何も求めていない。よくわからなかったため、私はあなたに問いかけました。

 どうしてですか? と。それにあなたは私のことが好きだから、と答えました。それで分かりました。つまり、そういう見返りを求めていたのだと。だから私は答えたのです。あなたが、そう望むなら、と。

 そうして生活は変わりました。けれどそれは対象が母から信一さんに変わっただけでした。やはり私には生きるということがよくわかりませんでした。

 生きるということはただ苦痛を伴う行為だと、私には思えました。何をしようと、どうしようと、何かを押し付けられ、自由はない。生きていることにどんな意味があるのか、私にはわかりませんでした。

 けれどこの世界ではそうやってでも生きることが尊いものだと扱われていました。死ぬことは許されておらず、生きていることはどれだけ辛くても尊い。生き続けることに意味があるのだと。そこで私は生きるということは契約のようなモノなのだと思いました。

 この世界、社会というモノとの契約なのです。そこにおいて、私という存在は私ではないのです。母の言う通り、そこにおいて個は必要ない。ただ私という単位があればいいのです。そう考えると何故死ぬことが許されていないのか理解できました。私の所有権は私にないからなのです。私が私の判断で勝手に死ぬことは契約違反であり、許されてはいないのだと理解しました」

「そんなことは……俺はそんなことを思って君といたわけじゃない」

 彼女の言葉に、何を紡げばいいのかわからなかった。ただそれだけは決して違うと思ったから、ただ一心にそれを否定した。そんな俺の言葉に彼女はゆっくりと頷いた。

「そうですね。多分、信一さんはそういうことを思ってはいなかったんですよね」

「そう。そうだよ」

 彼女の言葉にうなずきながら、言葉を続けた。

「俺はただ、君に笑ってほしくって。『いつか』欲しいものを見つけてほしくて。幸福を見つけてほしくって、だから君を救って……」

「信一さん。『?」

「え?」

「『いつか』と言われても、私にはそれが『いつ』なのかわかりません。そもそも、私には幸福と呼ばれる概念が分かりませんでした。だって私は生まれてから、一度だって幸福、と感じたことがありません。だから、それが訪れても私にはそれが幸福なのかどうか、判別することもできないんです」

「そんな……そんなこと」

 言葉に詰まった。だがもはや俺の言葉に意味はなかった。彼女はただ言葉を続けた。

「おそらく、多くの人には幸福と呼べる何かを感じた瞬間があるのだと思います。そしてそれがあるからこの世界で、このひどい状況でも生きていけるのでしょう。

 ただそれは言い換えれば『いつか』訪れる幸福を夢見て生きていける人は生きていることに幸福を感じたことがある人間だけなんです。そうした人だけが『いつか』という訪れるかどうかもわからない希望を胸に生きていけます。最初から幸福を知らない人間にはそうした『いつか』という希望を胸に生きていくことはできません。

 ですが私には死ぬことも許されていません。そうした中でどうすればいいだろうと、ずっと考えてきました。そんなときです。ロストの話を聞いたのは。

 それは私にとっては救いのように思えました。一生尽くして、生きていかなければいけないのです。それなら苦痛を、希望を感じず、思わず、生きていけたらそれはどれだけ幸福でしょうか。私はそれが私の求める幸福だったのだと、その時ようやく気が付いたのです」

 そして彼女は笑った。これまでに見た中で、最も美しい笑顔で、彼女は僕に笑いかけたのだ。それが本当に求めたことだとでも言うかのように。

「そんな……そんなことはない」

 言葉を紡げなかった。何を言えば、どうすれば彼女の考えを変えられるのかわからず、ただ子供のように言葉を紡いで否定した。けれど、俺の言葉に彼女は再び、無表情を作り、こう言葉を紡いだ。

「カラッポなんですよ」

「カラッポ?」

「そうです。人はカラッポなんですよ。いろいろと言いましたが、本質的に人は自分の中に何も無くて、それを埋めるために何かを求めるんです。何かを所有して、自分が何かを持っていると錯覚する。自分がカラッポじゃないと思い込むんです。そしてその空虚さを覆い隠すために感情を使い、脚色を施し、虚飾する。人はそういう生き物です。

 人が世界を広げるのはそのためです。『いつか』訪れる幸福とは支配できる何か、所有できる何かを求めているのであり、人が人に手を差し伸べるのは人が人を所有したいからです。

 人はいろんなものを作って、カラッポであるその自己を埋めようとしてきましたが、それでも人が心の底から求めているのは他人を所有したいというどうしようもない支配欲です。他者と関わろうとする、他者を救おうとする行為、それはすべからく他者に対するある種の支配行動であり、それは他者を救いたいのではないのです。

 あなたがあなたを救いたいだけなんです。それはあなたの自己満足を求めた行為でしかありません。

 そうですよね、信一さん。あなたもそのために私を助けたんですよね。私を助けて、私を求めたんですよね。あなたはあなたのために、私を求めたんですよ」

「……」

 もう何も言葉が出てこなかった。口から出てくるのはどうしようもないうめき声。彼女が抱えるどうしようもなく深い絶望への思いを感じながら彼女を見つめる。

 必死で自分を保とうとした。かつて夜が彼の義妹を助けたときの言葉。それを信じようと思い、それを元にどうにか彼女へ何かを言えないかと考えていたが、最後に彼女は、その思いすらも打ち砕くように、言葉を紡いできた。

「信一さん。少し前に話してくれたお友達のお話、ありましたよね。憧れたお友達。女の子を助けるために自ら飛び込んで、大けがをしたお友達。そんな人に憧れたって。

 それは別に憧れたわけじゃないですよね。あなたはただ、うらやましかったんですよね、その人が。自分にできないことをするその人が、自分に持っていないモノを持っているその人が。ただうらやましかった。

 だからボランティアを始めた。自分がカラッポじゃないと思うために。自分もアイツと同じで、何かを持っているんだって、そう思い込むために。……全部、自分のためですよね?」

 彼女は楽し気に微笑んで、

「私を所持できて、楽しかったですか?」

 狂うように踊って、表情を戻し、

「……人形遊びがしたいなら、感情を消した私でしてくださいな」

 そう告げてきた。



「移植された?」

 一瞬、頭が真っ白になった。何も考えられなくなったし、何も考えたくなかった。

 それなのに、彼女は言葉を続けて私の頭に情報を流し込んできた。

「ええ。私が昔、兄さんに救われたのは、聞いてますよね。

 その、そんなに話したくはないんですが、雨宮さんには特別にお話します。私も似たような境遇でした。親に暴力を振られて、とてもひどい親で、そんな中、兄さんが私を助けてくれたんです。身を挺して、私をかばってくれました。

 ただ私の親はひどい人でした。かつては町工場をやっていたんです。ただ閉鎖の憂き目にあい、自暴自棄になっていました。そのせいで、私に暴力を振るっていて。

その日、兄さんが私のことを助けるために工場にやってきた際、父は怒りに飲まれ、兄さんを羽交い絞めにして、工場にあった道具で、左腕を切断しました。そして兄さんが痛みに呻いている間に、私の方にもやってきて、私の右手も切断しました。

 父は狂っていたんです。ただ、そのあとすぐに信一さんが助けを呼んで、私たちは一命取り留めました。それにお義父様が私と兄さんの腕のドナーも見つけてくださり……」

 すべてを聞くことはできなかった。

 意味なんてなかった。私の腕が、父の腕が失われたのは逆らった罰でも、歯向かった罰でもなく、ただ単純に私たちがであったというだけのことであり、

「ア……アアアアアアッ!」

 気が付けば私は包丁を手に取っていた。



「くそっ!」

 父親はすべてを知っていた。ユーロモーションについて、ロストについて、あの場所で行われていることすべてを知っていたのだ。そしてそれを知っていながら黙っていた。何もすることなく、沈黙を選んだのだ。

 ユーロモーションをどうにかする手立てが無くなったことは悲しかったが、それ以上に父親がそんなものに手を貸していたことが何よりも虚しく、やりきれなかった。

……そして何よりも父が告げてきたこの腕の真実。それがどうしようもないものであることが悔しかった。

 ただ今はそんなことよりも彼女たちの元へ戻ったほうがいい。もし、彼女が、雨宮さんがこの真実に気が付いたらどうなるか、想像できなかった。

 家の前にたどり着き、急いで鍵を回した。そして、

「……雨宮さん」

 すべては遅かった。そこには血にまみれて倒れている義妹の光の姿と、包丁を持ち、同じように血を流しながらもどうにか意識を保っている雨宮さんの姿があった。

「……知ってたんですか?」

 彼女がゆっくりと僕を見た。主語も無く、目的語もないその問いかけ。けれど、彼女が何を問いかけているのかは分かった。

「知らなかった」

「嘘」

「本当だ。本当に何も知らなくて……」

「近づかないで!」

 彼女に歩み寄ろうとした瞬間、怒鳴りつけるように彼女が声を荒げた。こちらを怒りのこもった目で睨みつけるように見て、言葉を続けた。

「笑ってたんでしょう? 私の力になりたいとか、そう言いながらその内心で、私をモノみたいに所有して、楽しく遊んでたんでしょう? 私を助けてやるって言って、そもそもあなたたちが私たちの敵なのに」

「僕は本当に君を助けようとしていただけだ。救いたくて、ただその一心で君と関わった。本当に何も知らなかったんだ」

「……別にあなたが真実を知っていたかどうかはどうでもいいんですよ。私が言いたいのはですね、あなたじゃあ私を救えないっていうことです。人を救いたい? あなたに人が救えるわけがないでしょう?」

「確かに、今の僕には救えないのかもしれない。真実を知って混乱していて、すべてを受け入れられないんだと思う。その気持ちはわかる。ただその一時の感情ですべてを台無しにしないで欲しい。僕を許さなくてもいい。ただ、君のことが心配なんだ。その出血量だと、君の命が危ない。だからその包丁を降ろして、今すぐ病院に行こう」

 彼女の体からは血があふれていた。周囲に飛び散っている出血量からもかなり危険な状態だということが分かった。どうにか彼女を説得しなければと思いながら言葉を続けた。

「君に言ったことは本当だ。君が僕を許さないというのなら、僕は君のためになんだってする。『いつか』君が幸福だと思えるようになる日まで僕は僕の人生を君の贖罪のために……」

「ねえ、先生。『いつか』なんて訪れないんですよ」

「そんなことは……」

「あるんですよ! この世界にはまるでいろんな可能性があるように見えますが、それはあなたが持っている側の人間だからです。万人が幸福になることはできず、多くの人は不幸になるためだけに存在する、搾取されるだけのモノ、道具に過ぎないんです。

 あなたたちの失われた腕を私と私の父から奪い取ったように

『いつか』という言葉はですね、この社会、世界が私たちに渡してくる期限のない約束手形でしかないんですよ。それは返済されることのないモノなんです。

 ……ようやく、ようやく私はそんな真実に気が付けました。もっと早くに気が付いていればよかった。あなたの言葉なんて信じなければよかった。やっぱりカラッポなんですよ。何もないんです。奪われ、痛みを与えられるだけ、幸福は『いつか』という言葉で誤魔化され、決して与えられることはない。

 それでもあなたは私に生きていけというんですか? 生き続けることが大切だ、などと言うんですか?」

「違う。僕は、」

 再び、彼女にその手を伸ばそうとした時、彼女の体が震えた。そして、

「私に差し伸べられることのなかったその手で、私に触れようとしないで!」

 彼女は僕に付けられているその父親の手を睨みつけながらそう言った。叫び、怒り、声を荒げて言葉を吐き出した。

「その手に助けを求めたのに、その手は私を助けることはなかった。いつだってその手は、私をこの世界の苦痛に誘うんです。あなたのつけているその手は、それはそういうモノなんです。……ああ、でもようやくこれで決心がつきました。確かに、あなたの言う通り、カラッポじゃなかったみたいですね、私」

「おい……よせ、やめろ!」

 彼女が言葉を呟きながらゆっくりと左手に刃を当てる。そして、焦る僕を見つめながらこう呟いた。

「ああ、わかった。あなたもカラッポなんですね。何もないから、誰かを助けることで、何かがあると思おうとしている。自分の中身を他人に求めているんですね。……私に、あなたの理由を求めないでください」

 その言葉を最後に、彼女が刃を動かした。


 頭には信一の言葉がこだまするように響いていた。

『なあ、夜。人は人を救えるのかな?』

 光と雨宮小糸の血液が床を汚していた。

 絶望に俯き、床に手を突いた僕の方に血が流れてくる。

 ゆっくりと血が触れたその手を見る。

 その手は、ただ人を救うためにあったはずなのに……今、その手は、真っ赤な血に濡れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユーロモーション 天宮冬香 @Matsu_flcl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る