第13話
アパートに帰り着いた時、疲れ果てていた。
これまで触れたことのない理解ができない常識、現実に翻弄され、すぐさま眠りにつきたい、とそう思った。だがそういうわけにもいかない。この頭のおかしな場所にこれ以上留まる気はなかった。
彼女と話をしなければ。そう思い、隣室のチャイムを押した。
「雨宮さん。花菱です。……少し話をしませんか?」
「……どうぞ。鍵は開いています」
一瞬の間を空けて、彼女から返事が返ってきた。確かにドアには鍵がかかっていなかった。あんな出来事があったのに、不用心ではないだろうか。そう思いながら中に入ると、彼女はベランダで一人、外を見ていた。膝を抱えて、僕からは背中しか見えず、表情はうかがえない。ただその背中がひどく小さく見えた。
「雨宮さん」
近づくべきか、どうするべきかわからず、扉と彼女の間、その中途半端な位置で僕は立ち止まり、声をかけた。話すことは決めていたはずなのに、彼女の状況にうまく言葉が出なかった。そんな状況で彼女がこう話を切り出した。
「初めてお客様の相手をしたのは、小学生の時でした」
「……」
常識が壊れてしまった話をいくつも聞いたせいだろうか。感覚が麻痺したかのように、何も言えなかった。そんな僕の反応は気にしていないのか、彼女はただ一人しゃべり続けた。
「お客様というのは時折この場所に来る偉い人達です。この場所の運営や資金源になっているそうで、その人たちに私たちは逆らうことができません。とは言っても私以外に逆らおうとする人なんていないんですけどね。私も、逆らおうとしたのは少しの間だけです。
初めての時は抵抗しました。けれど、抵抗なんてできるわけがありません。お客様が現れて、最初は母が相手をしていました。けどその内、私に目をやって楽しそうに言うんです。次はそいつだって。そうすると、父が私の両手を持って、その人の前に差し出しました。そのころはですね、私にもまだ両手があったんです。
だから必死で抵抗しました。でも、父の手がですね、私の腕を掴むんです。ひどく強い力で。それで、私泣いたんです。痛いって、辛いって。泣いてわめいて。けど父は完全な喪失者で感情なんてありませんから、私の腕に力を込めて、無理やりに抑えつけ、お客様に差し出したんです。どうすることもできないうちにすべては終わっていました。
すべてが終わり、ゆっくりと立ち上がると右腕にあざができていました。おそらく、父が力を入れ過ぎてつけたのだと思います。多分、一生残り続ける傷だろうな、なんて無意味な心配をしていました。そんなことよりもどうしようもない傷を負っていたんで、別のことに逃避したかったんだと思います。
それからしばらくしてです。再び、そのお客様がやってきました。また、あの地獄が始まるのか、と思ったのですが、その人は何もせず、ただ私と父についてこい、と言いました。よくわからないと思いながらついて行くと車の中で私たちは眠らされ、次に起きたとき、私の右腕は無くなっていました。
最初何が起きたのかわかりませんでした。ただそのお客様が求めたことだ、と管理局の人に言われました。私はそれを罰なのだ、と思いました。
逆らった罰であり、歯向かった罰。それは私を逆らえないようにするための罰なのだと私は理解したのです。この場所には逆らう人はいませんからね。あのお客様は怒り狂ったのでしょう。その結果がこの右腕の消失でした。そして同時に父は左手を失っていました。子供をしつけられなかったゆえの罰なのでしょう。その状況を見て、私はようやくこの場所と自分自身が置かれている状況を理解しました。
逆らってはいけないのだと。そもそも私には逆らう自由など、人の尊厳が存在しないのだと。その時になって理解しました。
それから私は逆らうことを諦めました。従順になり、何度もお客様の相手をしました。まあ、どちらにしろ片腕になった私に逆らうことなど、できるわけもないのですが。そのおかげか、左腕だけはこうして今も残っています。
そりゃあ時折は思いましたよ。どうしてこうなんだろう。なんでこんなに苦しいんだろうって。そう思いました。でも、何ができるわけでもありません。それにですね、この場所では私がおかしいんですよ。それを感じる私が間違っているんです。
少し前に、父と母が捕まった時のことです。私は喪失者認定から外され、その手続きのためいくつかの書類にサインをしました。そこで初めて知ったんですが、私、人間じゃなかったんです。この場所に居る人達って国籍がないんですよ。人として認められていないそうです。モノだから当然なんです。モノだから当たり前なんですよ。あんな扱いを受けるのは。人としての尊厳なんて、あるはずがなかった。だって、あの時の私はモノだったんだから。
だからですね、私の最大の不幸はモノのくせに、人の在り方を持って生まれたことだったんです。
モノだったらよかったのに。感情が無ければよかったのに。そうした日々の中で、私は常にそれを望んでいました。ロストの投薬が行われるたび、次は感情が消える、もう辛い思いをしなくて済むって、そう思いながら日々を生きていました。私の望みは、人ではなくなること、だったんです。
ただそんな時、突然父と母が捕まりました。理由はよくわかりません。虐待、と言われていましたがこの場所で行われるお客様の相手は誰もが平然とやっていましたから、多分、ある種の見せしめだったんじゃないでしょうか。
そうして私は国籍を得て、人になりました。……でも、よくわからなかったんです。今更人になって、どうすればいいんでしょう。私に何が残されているというのでしょうか。
カラッポなんですよ、私。もう何も、私の中には残っていないんです。そんな中で、人になって、人として生きて行こうとしても、どうすればいいのか、わかりませんでした。
だから消そうと思ったんです。全部消してしまおうって。私という存在も、この感情もすべてすべてすべて、消してしまおうって! ……なのに……できなかった!
私にはそれを選択するだけの強さは無かった。自殺をするほどの強さも持てず、かといって人として生きていくためのなにかも無く。私は私を失うことすらできなかった。
ロストでも消えず、自殺も選べず、私には本当に何もないんだと思った。カラッポなのに……何もないのに!」
「……それは君がカラッポじゃないからだろう?」
「馬鹿なことを言わないでくださいよ! それじゃあ私には、何が残されているって言うんですか。このカラッポの私に何が!」
僕の言葉に立ち上がり、振り向きながら彼女は叫んだ。その目には涙が溜まっており、怒りがあった。それは僕の言葉への怒りか、彼女が何も持ちえないことに対する怒りか。複雑な心情をない混ぜにしながら僕を睨みつける彼女へ向けて、僕はこう言葉を紡いだ。
「カラッポじゃないから、消えないんだろう」
僕の言葉に彼女が震えるように拳を握っていることが分かる。それを見ながら言葉を続けた。
「君には君が残されている。君はそれを消したくなかったんだろう。君という自分を、自分自身を。だから消えなかった。ロストを投与されても、君は君を消したいと思っていなかったから。君は君であり続けた。だから君はカラッポなんかじゃないよ」
「……そうだとして……でも今更どうすればいいんですか? 今更人になってどんな意味があるというんですか?」
「それを探していくんだよ、これから。
生きていれば『いつか』幸福が訪れる。今は暗く、苦しくても、それでも生き続けていればいつかきっと、生きていて、本当によかったって心からそう思える日が来るから。それを求めるために生きていくんだ。
僕が手伝うよ。雨宮さんがそういうモノを見つけられるように、君が欲しいものを手に入れられるよう一緒に探してあげる。僕はね、そういうことをしてあげたいんだ」
「先生が……一緒に?」
彼女の言葉に頷く。そして、
「言ったでしょう? 僕は君のそういったものを手に入れるための手伝いをしたいんだって」
「……そうでしたね」
ゆっくりと彼女が握りしめていた拳を解いた。そしてゆっくりと僕に近づいてきて、
「一緒に、探してくれるなら」
そう言うと、僕の右手を握ってきた。その手は微かに震えていたけれど、前ほどひどくは無かった。
「まだ怖い?」
そう訊ねると彼女は小さく、笑ってこう言った。
「少し。でも、先生なら大丈夫かな」
思えばそれは僕が初めて見た、彼女の笑顔だった。
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