【お試し短編】美女は野獣で彼も野獣

飴玉鉛

前日譚






「好きの反対は無関心って言うじゃない?」

「いきなりどうした」


 私、塩酢薫子シオス・カオルコが吐き捨てるように言うと、そこそこ仲良くしてくれてる友人、砂糖甘井サトウ・アマイが億劫そうに応じた。


 私立良吏可リョウリカ高等学校の敷地内にある食堂、その隅にある席でのことだ。頼んだA定食がまだ来ていないとはいえ、確かに脈絡はなかったかもと思う。だが些末な問題だ。なんなら私の話題も些末である。

 所詮は場の沈黙に耐えかねた、軟弱な私の神経が会話を求めただけのこと。訝しげな甘井の目は見ずに、スマホに付けてる酒瓶を模したストラップを指先で弄りながら言う。


「どうしたもこうしたも、おかしな話だと思わない? 好きって気持ちはプラスで、嫌いって気持ちはマイナスよね。無関心は完全なゼロ、プラスもマイナスもない。プラスの反対がゼロって絶対おかしいわ」

「あたしに分かんのは、今日のカーコもなかなか頭湧いてんなってことぐらいだね」


 心底どうでも良さげにスマホを弄り出す甘井。カーコというのは私の愛称だけど、呼んでくれるのは甘井だけだ。その甘井もスマホのソシャゲで忙しそうで、実のところ彼女が私に親しみを感じてくれてるかは分からない。

 けれども甘井が私に向ける感情は、どちらかと言えばプラス寄りだと信じてる。私が勝手にそう信じてるだけなんだけど、信じる分にはタダだ。実際はゼロかマイナスである可能性もあるけど、私がそう感じていないならセーフである。


「つまり私が付き合ってた元カレ、派手に爆発して消えてほしいってことよ」

「ほーん……」


 完全に興味なしな空返事。流石は氷菓子の異名を持つ甘井、友達が彼氏と別れたのを知ったら慰めの言葉ぐらいくれていいだろうに、上辺だけの愛想すら見せずにテキトーな相槌だけを寄越してきた。


 ――私は先日、失恋した。いやこの場合は破局と言った方が適切かな。


 だからどうしたというワケでもない。惚れた腫れたは健全な高校生には珍しくもないだろうし、別れたキレたの喧嘩話も割とありふれてる。けど、ありふれてるからって当事者になってしまえば面白くもない。

 付き合ってる時の気持ちはプラスだった。けど今はマイナスだ。無関心にはなれず、この野郎ブチのめすぞという嫌悪の気持ちが強く残っている。ま、こういう怒りの感情っていうのは消耗品だし、時間の経過とともに風化して、最後には思い出すこともなくなるのだろうけど。

 だって怒るのって疲れる。人の脳が持続的に最大限の怒りを維持できるのはたったの6秒だって話も聞くし、そんなものだろう。

 好きという気持ちはプラスだ。そして嫌いという気持ちがマイナス。『好きの反対は無関心』なんかじゃなくて、普通に『嫌い』で、最後には徒労が待ってるってこと。『好き』から『嫌い』になり最後に『無関心』に行き着く。結果として最後に『無関心』になるけれど、その過程で『嫌い』になるプロセスを挟むものじゃないかと思う。


 それはそれとして。「ほーん……」と空返事だけして黙る甘井をジト目で見遣る。


「ねえ」

「んー?」

「普通そこは、なんで別れたのって聞かない?」

「なんで別れたの」

「わぁ見事なリピートね。ミジンコほどもキョーミなさそう」

「実際どうでもいいし。話したきゃ勝手に話してれば? デイリークエスト消化しながらでいいなら聞いてあげないこともない」


 私はなんでこんな無愛想な娘とつるんでるんだろう。束の間そんな疑問を懐きかけるも、そりゃ甘井が可愛いからかなと自己解決する。

 甘井は可愛い。小学生みたいな身長に、まるっこい童顔、もちもちしたほっぺたに丸い目。ボサボサに見える茶髪はただの天パで、ボブカットにしようとして失敗した感じに見えなくもない。でも可愛い。

 そう、全自動ロリコン吸引機じみたロリ萌え少女が甘井である。愛想は無いけどそこもチャーミングと言えなくもない。あと、変に取り繕わなくて本音を叩きつけてくるスタイルに惚れた。ダレて来たのかぐでーっ・・・・とテーブルに凭れ、顎を乗せてる姿はひたすらに可愛い。結婚したい。寧ろ娘にしたい。


「実はね、浮気されたの」

「へえ。どんまい。元カノのカーコより可愛い娘見つけて乗り換えたってことな。男繋ぎとめられる魅力がないカーコが悪い。この話終わり、閉廷、解散」

「いきなり終了しないでよ! まだ一言しか愚痴ってないのに!」


 もっと熱心に聞いて! なんてブー垂れてテーブルをばんばん叩いてると、私たちが注文していたA定食が二つ届けられる。

 あれ、わざわざ持ってきてくれるなんて、食堂のおばちゃんメチャクチャ親切……! そう感動しそうになってると、白い割烹着姿のおばちゃんは私を冷めた目で見下ろしていた。


「テーブル叩いてるんじゃないよ。行儀悪いし、他の子に迷惑だ」

「あ、はい。すみませんでした……」


 普通に叱られてしょんぼりしてしまう。確かにその通りだ、ごめんなさい。

 素直に謝っていると、甘井は虚無の表情のまま雑に煽ってきた。


「やーい、怒られてやんのー。プークスクスー」

「あのね砂糖甘井ちゃん。私、今とってもダウナーなの。傷心なの。ちょっとは優しくして……?」

「はいはい、愚痴りたいならお好きにどうぞ。聞いてくれるのあたしと……いやあたしぐらいのもんだった。友達いないもんな、カーコ」

「ぐさりと刺すのもやめよ……? 女同士のマウンティングコミュニケーションに疲れたから付き合いやめただけなんだから。ほんとに。けど、とりあえずお言葉に甘えるわ。メッチャ愚痴るから覚悟して」

「あ、その前に訊いときたいんだけど、カーコってこんな言葉知ってる? 馬耳東風、馬の耳に念仏、柳に風、暖簾に腕押し、いただきます」

「話聞く気ナッシングな上にご飯食べる気じゃん!」


 スマホを仕舞い、両手を合わせて「いただきます」をする甘井に堪らずツッコミを入れる。

 すると甘井はアホの子を見るような冷たい目で言った。


「カーコ。ここはどこだよ?」

「え、なに急に。食堂じゃん」


 そんなの言われるまでもない。


「食堂は何するとこなのか言わなくても分かるよな。ならご飯食えや。よく噛んで黙って食べろ。メシ時にお喋りする奴とか付き合い方考えちゃうぞ」

「うへぇ、流石は氷菓子ちゃん……とってもドライ……」

「……氷菓子って何だ」

「私が付けた甘井の渾名」

「はっ。センス

「辛辣な一言いただきました。いただきます」


 鼻で笑われた上での率直な一言に刺される。

 私は潔く愚痴るのを諦めて、両手を合わせていただきますをした。甘井は私の唯一の友達だ。気楽に付き合えるし、可愛いし、気取らないで済むし、可愛いので、距離を置かれたら流石に泣く。びえんびえんと恥も外聞もなく泣き喚き、甘井の脚に縋りついてしまうだろう。

 もぐもぐとご飯を食べる。体重維持の為に食事量を絞ってきたけど、今はもうどうでもいい。見れば甘井は綺麗な箸捌きでテンポよく食事を進めていた。なんか可愛い。小動物みたい。でもテンポ早い。嘘みたいに噛んで呑むまでのプロセスが早すぎる。彼女は別に健啖家というわけではないけど、食べるのだけは滅茶苦茶早い子なのだ。これでしっかり噛んでますとか嘘だろ。


「ごちそうさま」

「ごふぃふぉうふぁま」

「口にもの入れたまま喋んなタコ」


 なんとか甘井のペースに合わせて完食するも叱られる。

 お口わるわるな氷菓子ちゃん怖すぎなのですよ。乙女座の私は怖すぎて抱き締めたくなるなダンダム!

 トレー返却口に空の食器を返すと、私は早速とばかりにさっきの話を再開した。


「ごくり。んでね、続きなんだけど、聞いてよ甘井ちゃん」

「リアルで『ごくり』とか擬音言う奴はじめて見たな。ウザ。ウザキモ」

「ウザいとか言うのやめよう……? そういう何気ない悪口が人を傷つけるんだって分かって? 気を取り直して言うけどさ、私の元カレ、けっこう良い奴だったんだけど……」

「うん、良い奴だろうな。過去形で。メスゴリラと名高いカーコと付き合おうと思える時点でスゲェよ。ガチャで言うSRクラスのレアさだ。浮気する時点で頭よわよわのクソザコだけどな」

「誰がメスゴリラじゃい!」

「他の女に乗り換えるなとは言わんが、せめてきちんと元カノとの関係清算してからイケっての。そういう事する男って知られたら、腹ん中に打算隠した女しか寄ってこなくなるって分かんないのかな? 男の顔と財布と身嗜みしか見ない女って最悪じゃろ。つまり男の財布しか見てないあたしは最高って事な」

「ねえ聞いて……? せめてメスゴリラってとこだけ訂正しよ……? ついでに自画自賛してるけど甘井もけっこうヤバい奴なんだね。男の価値は金ってどうなのよさ」

「カーコがゴリラなのは事実じゃん。あたしが最高の女なのも事実」

「その自己肯定感の高さだけは見習いたい」


 駄弁ってる内に食堂から出てしまった。

 校舎から離れた位置にある、体育館の隣にある食堂。その渡り廊下をゆっくり歩きながら校舎に戻っていく。

 と、何人かの同級生たちとすれ違った。中にはクラスメイトもいる。そういえば五限目は隣のクラスの子と合同の体育だった。今から体操服へ着替えにでも行くのかもしれない。

 でも、私はゆっくり歩いて、甘井の歩幅に合わせた。


「カーコってさ」

「うん」


 甘井が甘ったるい地声で言う。相変わらず微動だにしない虚無の顔のまま、彼女は隣を歩く私を横目に見上げた。

 どうでもいいけど、薫子わたしの事をカーコって渾名で甘井が呼ぶと、舌ったらず感が出ていて非常に可愛い。さっきから何回も思ってるけど甘井は生きてるだけで可愛かった。

 いいなぁ、って思う。私もこれぐらい可愛ければなぁ……。


「まず、デカいじゃん」

「うん」


 甘井の率直な言に頷く。確かに、私はデカい。縦に。

 身長192センチ。この数値は、『女としてはデカい』の域を軽々と超えて『男の中でもデカい』部類に余裕で入る。おまけにお尻とお胸もデカい。あと態度もデカいと言われることもある。

 うっさいわ。


「この時点で大半の男は劣等感を刺激されるわけよ。男子共は見栄っ張りだからな、女に身長で負けてると嫌だと思うもんだ。身長タッパがデカい分だけ、カーコは男子のチンケなプライドにヤスリを掛けてるわけ」

「はーん……しょうもな」


 いやホントしょうもない。けど分かる。元カレはそんなの気にしないとか言ってたけど、ホントはバリバリに気にしてるの分かってたかんな。だって隣に並んで歩くの嫌がってたもん。


「で、カーコってば力も強いじゃん」

「うん。特に鍛えたりとかしてないんだけどね。なんかパゥワーが凄いのよ。林檎とかなら片手で、特に力まないでも潰せるし。パパとママは平均的な身長とパワーなのにね、なんでかな。突然変異?」


 そう。私はパゥワーが凄い。頭悪い表現だけどとても凄く凄いのだ。

 生まれてこの方、筋トレの類いはしたことないのにね。ちょっと掴んだら自転車のサドルが折れ曲がった時は流石に笑った。なにこれ脆いわぁ、とか言ったりしながら。おかげさまで徒歩通学しかできない。


「おまえ、それで元カレの手、粉砕したろ。控えめに言ってドン引きだわ」

「あー……あれね。あれはあいつが手繋ぎたいって言ってきたから、つい力んじゃったのよ」

「ちょっと力んだだけで人の手粉砕するとかマジモンのゴリラじゃん」


 ロリっ子の熱いマジレス真拳で、苦い記憶を思い出してしまう。

 あれはいつぞやの帰宅時。夕暮れの中。元カレと歩いてると、恋人っぽいことがしたいと言われて照れちゃって、ついつい力を入れすぎてしまったのだ。

 まさかあの時の事が切っ掛けで嫌われちゃった……? でも元カレは悲鳴を噛み殺して、顔を引き攣らせながらも、後日笑って許してくれた。許してくれたんだからノーカンでしょ……?


「パワーでも男より強いとか、男の安いプライド粉々だな。カーコの元カレはプライドと一緒に利き手も粉々になったみたいだけど」

「どうしよう、ぐうの音も出ない」

「おまけにカーコってば美人だけど、基本的にバカじゃん?」


 誰がバカだ。これでも進学校としてランク高い学校で、学年内の成績二十位以内をキープしてる才媛だぞ。美人で頭いいとか非の打ち所のない才女だ、バカとは言わせん。


「いわゆる勉強のできるバカ。それがカーコ。いいとこのお嬢様みたいな黒髪ロング、凛々しい系の美人な顔とグラマーな体。カーコはそういう諸々のプラス要素をさ、パワーとタッパとおバカな頭のコンボで台無しにしてるんだよ。元カレはホントに良い奴だったんだろうけど、ゴリラパワーとバカさに恐れをなしてしまったんだな。うん、浮気されても残当としか言えん。元カレも命は惜しかったんだ、許してやれよ。ちょっとカーコと別れるのと浮気相手とくっつく順序を間違っただけなんだし。な?」

「なんで浮気した側の肩を持つの甘井。ブッ転がすよ?」

「……マジトーン怖いからやめろや。あたしってばただでさえ非力なんだし、カーコに小突かれたらそれだけで骨が逝くからな? って……おぉ?」


 校舎の階段昇って2階に着く。間もなく教室に着こうかというところで、不意に甘井が間抜けな声を上げた。

 なんぞ? と、甘井の視線をなぞって前を向くと、私のクラスの教室から一組の男女が現れる。

 元カレと、浮気相手だ。私の顔を見るなり「ウゲェ」と、露骨に顔をしかめたのが元カレの働木蟻斗ハタラキ・アリト、蟻斗の腕に自分の腕を絡めて歩いているのが霧桐棲家キリギリ・スミカだ。明るい茶髪に甘いマスクの優男と、ちょっとそれより小柄な、金髪碧眼の帰国子女なイケイケ美少女が並んで歩いてるのは絵になる。


 スミカも私に気づいたのか、明らかにビビったみたいな顔をしてアリトの後ろに隠れた。


「ぁっ、あっ、蟻斗! 塩酢さん、塩酢さんが凄い目で見てるんだけど!?」

「お、落ち着けよスミカ。ゴリ……塩酢とはもう終わってるんだ。怯えたりする必要はないから」

「誰がゴリラだアリとキリギリス。あんまイチャついてると私、キミ達に妬いちゃうぞ?」

焼く・・!? ヤキを入れるってことなの!?」

「お……怯えんなよ。堂々としてろって。なんも疚しい事はないんだし」


 おう、どの口で言ってんだよ外っ面だけはいい優男さんよ。というかスミカさん、一応そこそこ仲良かったキミに怯えられると傷つくんで、ビビらないで貰えます? 青い顔でガクブルしないで?


「疚しい事はない? 疚しさの塊でしょ。あ、ヤバい。この浮気者の顔見たら沸々と湧き上がる熱い気持ちがあるんだけど。これが……殺意? ねぇ甘井、キミはどう思――」


 あ、だめ。蟻斗の顔見たら怒りが再燃してきた。

 3日前、2人で腕組んで街でデートしてるキミらを見掛けた時の気持ちは、紛れもなく殺意だったと思う。意趣返しも何もせず、電撃的に速攻別れ話を切り出したのも3日前だったりする。

 意見を求めて隣の甘井に目を向けるも、そこには既に砂糖甘井の姿はなかった。

 どこ行ったあの小動物――慌てて周囲に視線を走らせると、いた。なんと甘井は合同授業を受ける隣のクラスの男子にまとわりついているではないか。


「ねぇねぇ宰府之サイフノくんぅ。あたしぃ、五限目の合同体育でやるダンスの練習、宰府之くんと組みたいなぁって思うんだけどぉ……どうかな?」


 未だ嘗て聞いたことのない猫なで声と甘い顔の甘井。小柄な体をくっつけて甘える少女に、身なりのいい金髪の男子は顔を緩ませていた。

 甘井に絡まれている男子は、羽振りのいい事で有名な、とある企業の社長令息様だ。名前は在府之熱海サイフノ・アツミ。目が$マークになってる甘井にまるで気づいた様子もない。

 非の打ち所のない完璧なロリっ子美少女と化し、完全に媚を売りに行ってる甘井には、私と一緒にいた時のような毒も冷たさもなかった。私は思わず顔を引き攣らせる。なんたる変り身の早さ、恐ろしき二面性。これが女か。私も女だけど怖いんですけど。


 友達を放ってさっさと目当ての男に擦り寄る甘井への怒りと、元カレとその浮気相手に向けて甘井の姿を示す。


「かぁーっ! 見んね! 卑しか女ばい!」

「あ、あはは……そ、そうだね……」

「オレ、オレたち、もう行くな。塩酢も遅れないで来るんだぞ」

「何自然にフェードアウトしようとしてるの? いいけどさ。浮気者と人の男奪う女の顔とか見たくもないし。さっさと消えて、私に近寄んないで」


 ハンッ、と鼻を鳴らして威嚇すると、2人はいそいそと廊下の隅に行って私を避けていく。

 彼らが通り過ぎるのを横目にし、嘆息した。

 ……同じクラスに彼氏作るものじゃないな。同じクラスの彼氏が、同じクラスの元友達と浮気して付き合うとか、いたたまれないにも程がある。

 甘井は甘井で、財布くん……もとい宰府之の攻略に取り掛かってるし、仕方ないから一人で教室に戻った。


「ハァ……」


 ほんとは。

 ほんとは、私の方に悪いとこが沢山あるのは知っていた。

 もともとスミカも幼馴染の蟻斗のことが好きで、ぽっと出の私に大好きな幼馴染を取られたと、内心穏やかではいられなかったはずだ。

 なのに、スミカは私の友人のままで居てくれた。蟻斗と私が付き合うことになっても、嫌味も言わず嫌がらせもせず、黙って祝福してくれたのである。良い子だった。


 私が蟻斗と付き合うようになったのは、ある日突然蟻斗が私に告ってきたからだ。彼の真面目な人柄と、優しい性格を知っていた私はオーケーをした。それだけで――蟻斗がどうして告白してきたのかは分からない。私のどこが好きになったのかなんて、本当に解らなかった。

 けど、少なくとも付き合い始めてから、蟻斗が浮気をするまでは、蟻斗は誠実な人だったと思う。全てが変わったのは……私がつい、自分の力のおかしさを忘れて、蟻斗の手を強く握り過ぎてしまってからだろう。

 もちろん沢山謝ったし、病院にも行ったし、掛かったお金も返したし、なんなら慰謝料も払うつもりでいた。ところが蟻斗は笑って許してくれて、慰謝料は要らないと言ったのだ。「薫子の力が強いのは知ってたんだし、こういうこともあるかもとは思ってたよ」と、冗談めかして言ってくれた。

 けれどその日以来、蟻斗の私を見る目に怯えが入るようになった。だから、ホントは察していた。あ……これはもう駄目だわ、私たち終わっちゃった、ってね。


 だからせめて一言、別れ話を切り出してくれさえしたら、素直に応じるつもりでいたのに。九分九厘こっちが悪いのは分かってるんだし、なんなら決心が付いたら私から別れようと言うつもりでいた。

 なのになんで、わざわざ浮気なんてしたのか。それだけが分からない。人の心は複雑怪奇とは言うけど、ホントに意味不明で全然分かんなかった。私のことが怖いなら、言ってくれたらいいのに。私の顔が見たくないなら言えばいいのに。そうしたらパパとママに相談して、転校して蟻斗の前から消えることも視野に入れられた。そうしたら……わざと嫌な女みたいな態度を取らないで、二人にとっての悪者になって、二人の仲を進展させてあげようとなんてしなくてよかった。


「なに辛気臭い顔してんだ、塩酢」


 教室に入って、ロッカーの鍵を開けて体操服の入った手提げカバンを取り出していると、不意に後ろから声を掛けられた。

 聞き覚えのあり過ぎる野太い声。一度聞いたら忘れられそうにない濃さだ。

 それもそのはず、それはクラスメイトの男子だった。……男子・・と呼ぶのも憚られる、全てが濃すぎる特濃の男である。

 振り返ると、その男は私を見下ろしていた。

 巨女と陰口を叩かれる私よりも更にデカい、まだ高校2年生であるというのが信じられない恵体の巨漢だ。身長2メートルと少し、私の太ももぐらいありそうな太い首と、私の胴体ぐらいの筋肉の詰まった2本の腕。針金めいて太い剛毛の頭髪を刈り上げた、生命力に溢れた眼が印象的な――良吏可高校の2大ゴリラの一角だ。もちろん、もう一人のゴリラは私である。人間の極みみたいなパゥワーの持ち主である私より、唯一身体能力で上回ってくる、柔道部の主将でもあった。


 そんな彼の名前は益荒大野マスラ・オオノ。進学校の推薦枠で入ってきた、柔道部の傭兵扱いされる漢だ。勉強なんかしなくていいからとにかく大会に出て勝て、と理事長に言われてるとかなんとか。

 着込んでいるお洒落な制服は特注品。それでもなお若干パツパツに張り詰めてる気がしてくる。


 見るからに生まれる時代を間違えているような男と私の仲は、控えめに言って良いとは言えないもので。私はマスラに対し振り返って露骨に舌打ちした。


「チッ……マスラくん、私になんか用?」

「あぁ? 用なんかあると思ってんのか? んなもんねえよ。俺のロッカーがお前の隣なんだ、暗い顔でとろとろしてねえで、取るもん取ったらさっさと退け。邪魔なんだよ」

「……カチンとドたまにくる言い方するねぇ、マスラくん……これだから脳みそまで筋肉でできてる奴は困るわ」


 これで相手がマスラじゃなかったら、素直に謝って退いていただろう。

 だけどそうする気になれず、頬を引くつかせながら私は正面から嫌味を言ってやった。


 剣呑な空気を感じてか、まだ教室に残っていたクラスメイト達がそそくさと退室していく。

 ひそひそと「やべぇぞカイザーコング対クイーンゴリラが始まっちまう!」だの、「誰か体育の先生おとこのひと呼んで!」だの、「また手ぇ出し合ったら止められねえ! 急いで砂糖を連れてこい! 奴らを止められるのは砂糖しかいねえ!」だのと好き放題言いながら。


 ……ああ、まったく。なんでだろう。私はどうにも、この男子にだけは当たりがキツくなってしまう傾向にあった。なぜなのかは、分からない。分かるのは、私はコイツが気に入らないって事だけ。

 そしてそれはマスラも同じなんだと思う。他の人には棘のない物言いをするのに、私に対してだけは矢鱈と刺々しいのだ。好きな子に嫌がらせしたくなる男心なのかと、ニブチンな私は思って他の人に意見を聞いてみた事はあるけれど。どうやらマスラは私以外の人から見ても、私の事を嫌っているように見えるらしい。安心した。「なんかアイツを見てると無性に腹が立つ」とか言ってたらしいけど、それはこっちも同じだった。


 私の嫌味に、マスラは太い眉をピクリと動かした。


「悪かったな、脳まで筋肉で出来ていてよ。生憎と誰かさんみたいに座学の成績だけ・・は良いわけじゃねえもんで、気の利いた言い方か浮かばねえんだわ。なら邪魔なもんは邪魔だって言うしかねえだろ? 俺もお前なんかに構ってやる気はないんだ、いいから退け」

「あらぁ。マスラくんはその誰かさん・・・・のこと嫌いなんだ? 顔と頭と性格も良い私には心当たりはないけど、あんまり人の陰口叩かないほうがいいよ? お里が知れちゃうわ」

「そうだな。塩酢は確かに良い性格してる・・・・・・・から、頭だけが良いわけじゃないか。まあそれはどうでもいい、時間が押してるのはお前もだろ。通せんぼなんて小学生みたいな真似はやめろ」

「あれ? 今、褒められたの私……? マスラくんが私を褒めることってあるんだ。ふふーん、なんか気分良くなったから退いてあげる」


 良い性格と褒められると、マスラ相手とはいえ多少は嬉しい。けど顔から険を消してロッカーの前から退くと、マスラは一瞬残念な奴を見る目をした。

 なんだろう、そこはかとなくバカにされてる気がする。でもきっと気のせいだ、褒めてきたのはマスラなんだし。


 なぜか溜息を吐いてロッカーを開けたマスラを尻目に、私は教室を出て体育館に向かった。


 ……やっぱり、理由は分からない。だけど、マスラから褒められたら、ほんの少しだけ他の人から褒められるより嬉しい気がした。きっと、気のせいなんだろうけど。

 元カレと元友達との蟠りで湧いた嫌な気持ちが、スッと紛れたのは素直に良かったと思う。






 ――これは、小さな時から強すぎた力のせいで、周囲の人や物に加減をして生きてきた私が。

 生まれて初めて出会った、私が正面から本気でぶつかっても受け止められる人とガチめな口喧嘩をして。

 時々遠慮も何もない殴り合いの喧嘩をしながらも――


 いつか、全力全開の恋に落ちてしまう、怪力男女のラヴストーリー。


 美女は野獣で彼も野獣――口の悪い友達の揶揄に、含みなく笑ってしまえる未来が待っていた。





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