記憶

 俺の今までの人生に何か意味はあったのだろうか?


 一人の男が、大雨に打たれながら崖の上に立っている。崖下は川になっており、雨により濁り、勢いと水嵩が増している。

 いつ、どこで俺は間違えたのだろう?いや、きっと生まれた時から、こうなる人生は決まっていたはずだ。

 そうだ。俺はまだ、あいつに謝れていない。全て、あの時、俺があいつにあんな事を言った事が、俺の一番のミスだろう。

 男は天を仰ぎ、今までの出来事を回想し始めた。


 一人の青年が、震えながら頭を抱えて座り込んでいる。その青年のすぐ側に老人が立っていた。老人は青年の肩に手を置く。

「そう、怖がるでない。お前には記憶が無くなった代わりに素晴らしい力を与えたではないか。いずれこの力の凄さが分かる。その時には今までの記憶なんて些事なものだ」

「ふざけるな!お前は誰なんだ!そして俺は何なんだ……。俺に何をしたんだ!」

「私はお前の記憶を消した。ただそれだけだ。それ以外の事はいずれ知る時が来る。さっき言ったとおりお前には人の記憶を消す力を与えた。この力は大勢の人を救済する。お前に救いが訪れるかは分からんが……。ちなみにこの力は記憶が消えた人に譲渡することができる。まあお前はこれから好きなように生きていけばいい」

 そう言って老人は青年の前から姿を消した。

 それから青年は世界各地を旅して大人へとなっていった。

 そして記憶を消す力を、金を稼ぐためにその男は使いだした。

 人の記憶を消す力を使うことを始めは躊躇っていた。しかし、記憶を消してほしいという願いはたくさんあり、それに応える事が出来るというのは自分が必要とされている事を実感し、ただただ幸福感に浸る事ができた。あの老人が言ったように記憶を消せるということは素晴らしいことなのかもしれないと時が経つに連れ思うようになった。


 文明が発達し、インターネットというものができて以来、記憶を消す依頼はインターネットで募るようになった。

 世界各地から噂を聞いた人達が依頼してきて、いつからか、記憶消去執行人と呼ばれた。男は自分の名前を知らないし、代わりにそれを名乗るようになった。


 いつものように依頼が入って来た。

 依頼主は女の子だった。彼女は産まれた時からの難病らしい。二十歳まで生きられるかどうか、そう診断されたみたいだ。症状が悪化し始めてから病院に入院しており、今はベッドで眠っている。

 すぐ隣に男の子が椅子に座っている。

 なんでも、彼らは一年前に出会ったらしい。男の子の方が、ある事で入院する事になったみたいだ。その時に出会って、彼女に救われたと彼は話した。何があったのかは二人とも(女の子の方は男の子に気を使って)話すことがなかったので詳しい事は分からない。

 男の子が口を開く。

「あの、記憶を消してください。ユメが寝ているうちに」

 ユメ、というのが女の子の名前だ。

 正直な事を言えば、今回の依頼は気が乗らない。

 ユメはこう言った。「カイヤ君にある私の記憶を消してください」と。

 こんなにも悲しい事が、残酷な事があってもいいのだろうか?

 男の子はユメの願いを尊重すると言った。そして、記憶を消してくださいと。

 男はとても迷ったが二人が決めた事なのだから俺が介入する余地はないと結論付け、男の子をホテルのベッドに寝かし、記憶を消した。眠っている間、涙が頬を伝っており、男を複雑な心境にさせた。

 ユメには起きてから男の子の記憶を消したと伝えた。「そうですか」と、応えた声は震えていて、病室を出るとすすり泣く声が聞こえた。

 ……本当にこれで良かったのだろうか?


 男の子を眠らせているホテルへ戻り、椅子に座った。今までの疲れがどっと来て、眠くなる。

 偶にこの様な重い依頼が来たりするのだ。何度依頼をこなしても慣れるものではない。

 男の子が少し身動ぎした。起きたようだ。

「あ、起きた?」


 それから男の子は、男の弟子となった。

 あの老人が言う事を信じればこの人の記憶を消す力は、記憶が消えた人限定で受け渡す事が出来るらしい。

 男の子は消えた記憶に固執した。本来は記憶が消えたという事は認識する事が出来ず、そのまま依頼を完了するのだがあんなにも引き下がられたのは初めてだった。

 俺には一切の記憶が無い。だから男の子に惹かれ、俺の弟子にならないか、なんて変な事を口走ったのかもしれない。


 男は、カイヤを下働きさせる事にした。

 まだ15歳だったか。その年で本格的に働かせる訳にはいかない。それに人の記憶を消すのだ。まだ子供と言って指し支えないカイヤには早いと思った。


 それから5年の月日が過ぎた。男はカイヤに力を与える事にした。

 カイヤは今、眠っている。起きている頃に明日お前も記憶を消す力が発現すると伝えた。

 どうやって記憶を消す力を譲渡するのか、誰に教えられることも無く男は薄っすらと理解していた。きっと記憶を消す力とはそういうものなのだろう。

 そして男はカイヤの記憶を消した。その瞬間、頭に電撃が走ったかの様な違和感を覚えた。そして、ありもしない記憶が流れ込んでくる。幼い頃の、失われた記憶だ。


 その記憶は男を苦しめる事となった。幼い頃、記憶を消す力を嫌悪していた。それなのにあの日々を忘れてこの力を我が物のように、人を助けるかのように存分に使ってきたのだ。強烈な気持ち悪さと吐き気を覚えた。

 そして何もかも思い出し、分かったことがある。それは取り返しの付かないことを、カイヤの幸せを奪ったということだ。


 男はそれからカイヤの元を離れて酒に溺れるようになった。酒を飲んで寝る、その生活を繰り返す。そして金が底を尽きた。

 もう、どうすることも出来ない。何かをする気力も無い。そうだ、自分の記憶を消せばいいんだ。今までの事、何もかも忘れて新しく人生をやり直そう。

 男は自分の頭に手を付き今までの出来事を忘れようとした。だが、記憶を消す事は出来なかった。






 もう、俺は俺の事を赦すことが出来ない。本当にどうしようもない人生だった。

 ただ、最期にちゃんとカイヤに謝りたかった。そして別れを告げたかった。

 後悔と懺悔を心に浮かべて、男は川に、その身を放り投げた。





 カイヤはベンチから立ち上がる事なく、雨に打たれている。

 ツムグと別れてからどれ位の時間が過ぎただろう。それは10分な気がするし、1時間な気がするし、1分な気もする。

 悲しさがある。ただ、感情に整理がつかなくてやるせない気持ちでいっぱいだった。

 ツムグにはミライは幸せだったと言った。だが本当にそうだろうか?もしかしたらミライは最期までツムグに記憶を消して欲しかったのではないのか。ツムグの記憶を消したら、ツムグはこれから先、ミライが望むような悲しむことの無い幸せな人生を送れたのではないか?

 カイヤのした事は間違いではないのだろうか?

 カイヤは物思いに耽っており、後ろからの、カイヤを呼ぶ声に気付かずにいた。

 だから、急に肩を叩かれ、体をビクッと反応させるほど驚いた。

「驚きすぎだろ……」

 後ろを振り向くと車椅子に乗った一人の男がこちらを見ていた。その車椅子を看護師が引きながら傘を差している。

「こんな大雨の中ずっと外に居たら風邪引くぞ」

「師匠……」

 男は傘をカイヤに手渡し、看護師にその場を離れるよう指示した。

「久しぶりだな」

「……なんで何も言わずにどっか行っちゃうんですか!ていうか今まで何して……なんで車椅子に乗ってるんですか」

「質問が多いな」

 カイヤは突然現れた師匠に驚きを隠せず、今まで溜めてきた思いを一気にぶつけた。心臓が高鳴っている。

 師匠は苦笑いを作りながらゆっくりと話始める。

「まあ、車椅子に乗ってるのは気にするな。ちょっとやらかしてな。それと何も言わずにお前のもとを去った理由なんだがな」

 そこまで言って師匠は黙ってしまった。途中、声も震えていた気がする。そんな師匠の様子を見てカイヤは冷静さを取り戻した。

「なんですか。その理由って」

「まずは、そうだな。話が長くなるんだが、俺は幼い頃の記憶が一つも無かったんだ」

「え、それって記憶を消した事があるって事ですか?」

「ああ、そうだ。それで……お前に記憶消去の力を与えた時何もかも全て思い出したんだ。俺はこの記憶を消す力を発明する為の人体実験に使われていた」

「え……」

 驚愕で開いた口が塞がらない。そんなカイヤの様子を知ってか知らずか師匠はすぐに続きを話す。

「俺は親が死んだのかどうか、詳しい事は分からないけど施設で育った。5歳位の時だったか。俺を養子にしたいってやつが現れたんだよ。そいつは人の記憶を消す力を研究していた。何か消したい記憶があったのかどうか知らないがそいつは俺を人体実験の為に使った。大量の薬物を飲まされ、気付いたときには記憶が欠落していたりしたもんだ。そして、奴は遂に記憶を消す力を発明した。そんで俺が一番最初の記憶消去執行人になったて訳だ」

 本当にこれが現実で起きた話なのかと疑いたくなるくらい現実感のない話を師匠はした。だが、表情と声のトーンで嫌でも現実だと突き付けられる。

 何を喋ったらいいのか、カイヤは混乱したまま黙ってしまう。そんな中、師匠はまだ話は終わりでは無いと言うように、話を続ける。

「 それで、お前には言った事なかったがこの力は、記憶を消した人にしか与える事ができない。まあ問題はその次だ。……恐らく記憶を消す力を人に与えたら自分の記憶を取り戻す事が出来る」

「ぇ……」

 カイヤは掠れた声でそう応えた。師匠の言った事はつまり、誰かにこの力を与えたら自分の、消えてしまった大切な記憶を取り戻せるという事になる。

 混乱が治まらない。師匠の過去の事だけでもキャパシティーを越えているのにも関わらず、自分の記憶を取り戻す方法が分かったのだ。

「だけどな、俺はそれをして欲しくない」

 師匠が複雑そうな顔でそう言う。

「この記憶を消すという力は悪用する事が出来る。それと、……それに記憶というのは大切なものなんだ。それを奪うというのは何人足りともしてはいけないんだよ。俺自身、この記憶を消す力は素晴らしいものだと思った時期がある。人を記憶という苦しい呪いから解き放つ事が出来るんだって。だけど、人生色々な事を積み重ねて、それらを記憶して、苦しんだり後悔したりして人は成長するんだって最近考えたんだ。……それにお前みたいな人をこれから先、出してはならない」

「僕みたいな人っていうのは?」

「……消えた記憶に縛られている人だ」

 そう言って師匠は黙ってしまった。

 人の記憶を消すという行為、それはいいものなのか否か、カイヤ自身考え、分からなくなるときもあった。

 消えた記憶が何なのか、知りたいと強く願っていた時期があるし、今も大切だった人を思い出したいという強い気持ちはずっとある。だが、思い出す為には誰かの記憶を消し、この力を与えないと行けない。師匠はこの事をして欲しくないと言った。

 カイヤは悩み、頭に手を抱える。否、実際はもう答えは出ているのだ。だがそれを言う勇気が湧いて来ない。答えを言ったら全てが終わってしまう様な気がしたから。

 暫しの静寂が流れたあと、師匠が少し猫背になっていた姿勢を正し、口を開いた。

「いや、悪かったな、急に姿を見せたと思ったらこんな突拍子も無い話を始めて。全て俺が悪かったんだ。だから、俺にお前のこれからの人生を決める資格なんて無いんだ。これからは好きに生きていけばいい」

 師匠はカイヤから背を向けた。

「じゃあな、今まで悪かった。良い人生を歩んでいけよ」

 勇気を、勇気を出さないと。言う言葉はもう決まっている。だから、勇気を出すんだ。

 カイヤはそう心の中で自分を奮い立たせる。

「……僕はもう誰の記憶も消しません。だから、この力を誰かに与える事もしません」

 強い意志を顔に出してそう言った。

 師匠がこちらを振り返り、狼狽えている。

 この宣言は、カイヤにとって、忘れてしまった大切な人に対しての決別の言葉だ。もう、思い出す事はない。その覚悟を背負って宣言した。

「………いいのか?」

 たった一言、師匠が問う。

「もう決めました。やはり記憶は大切で、忘れていい記憶なんてないと思います」

 師匠はこれまた複雑そうな顔をした。喜んでいいのかどうか分からないのだろう。

「そうか、、そうか。……これから先は何していくんだ?」

「そうですね、ここでバイトをしてまして。まあ仕事を探そうかなと思います」

 そう言ってカイヤは微笑んだ。まだ少し、消えた記憶について気になったりする。寂しくもある。だけど、記憶消去執行人は今日で終わりだ。新しい順人生を始めていくんだ。

 それからは師匠と二人で語り合った。雨がもう止んでいる事に気付かないくらい今までの事を話した。

 気付けば、朝日が登りこの都市を明るく照らしていた。人の声や、車の音もしだして新しい一日が始まったのだと認識させる。

「朝になったな」

「そうですね」

「そういえば、お前はどうしてここに来てたんだ?」

「ああ、記憶消去執行人の仕事で来ました。まあここに来たのはもう二ヶ月前になりますけど」

「へえ、どんな依頼だったんだ?」

「幼馴染みで付き合ってる、二人がいたんですけど女性の方が病気で余命宣告を受けてしまったんです。それで男性の方に自分の事を忘れて欲しいと」

「……そうか」

「まあ記憶は消さなかったんですけどね」

「え?」

「男性の方が、ずっと覚えていたいと、忘れたく無いと。そして昨日女性の方が亡くなってしまいました……」

「……そう、なんだな」

 少し、重い空気になってしまった。だけど師匠に聞きたい事があった。

「その女性は幸せだったんですかね?」

 師匠は時間を置いてじっくりと考え、少ししてカイヤの問いに応えた。

「幸せだったかどうか、お前が分からないなら俺にも分からんよ。……だけど幸せだったならいいなって思うよ」

 師匠の応えは、答えにはなっていなかったがすっと納得できた気がした。

 カイヤは立ち上がる。

「もう朝だから帰らないと。今凄く眠いです」

「ああ、そうだな」

 カイヤは師匠に別れを告げて、背中を向けた。しかし、一つカイヤには伝えたい事があり、師匠の方へ振り返ると、伝えたい事を言葉にした。

「師匠は一つも悪くないですよ」

「……本当にそうなのか?」

「はい!師匠は何も悪くないです。一番悪いのは記憶を消す力を作ったあの老人ですよ」

「……そうなのか、そうなのかもな」

 師匠は今日、初めて笑顔になってそう言った。カイヤもつられて笑顔になる。

 辺りには水溜まりが出来ていて、空に架かった虹を映していた。













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記憶消去執行人 福山慶 @BeautifulWorld

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