悲しむということ

 カイヤはとある都市に訪れていた。

 ここは初めて師匠と会った都市だ。一時期、ここの病院に入院していた時があったが、何故かは分からないけれどカイヤはこの都市に退院して以降もよく訪れていた。

 とても発展しているなと思う。至る所に高層ビルが建ち、飲食店や商店がこれでもかと並んでいる。

 カイヤがここに来たのは仕事の為だ。とある人の記憶を消してほしいと依頼が来た。依頼主と合うのは午後からなので午前中はこの街を見て回る。

 もしかしたら消した記憶の手掛かりを掴めるかもしれないからだ。

 あの頃と比べたら今はそこまで失くした記憶に固執していない。だが、自分にとってこんなにも大きな心の穴を開けた存在は何なのか、知りたいと思ってしまうのだ。

 色々な店を見て回ったあと、疲れたので昼食を取ることにした。カイヤは店に入り、店員に拉麺を注文した。

 結局何も収獲がなかった。どうしてここに来ていたのか、何も思い出せない。ここは故郷からかなり離れているから何度も来るような所でもないだろう。

 水を飲みながら思索に耽っていると、すぐに拉麺が運ばれてきたので麺を啜った。


 完食した後、記憶を消せればいいのに……という声が聞こえてきた。

 腕時計に目を落とす。この腕時計はここに来てから買ったものだ。ビジュアルも良く、今まですぐに時間を確認する手段がなかったので購入した。あまり値段もしなかったので有り難い。

 依頼主との約束の時間まではまだまだ余裕があったので声の持ち主に話しかける事にした。

「記憶が消せたら、なんて事を言ってましたけどどうかしたんですか?」

 そう言いながらカイヤは向かいの席に座った。声の持ち主である男は急に話しかけてきたカイヤに驚き、目を丸くしたが、愚痴をこぼしたくなったのか話し始めた。

「別に、ただ仕事で嫌な事があっただけだよ。うまく行かないことばかりだし上司は怖いしうざいし……ああもう仕事辞めてえ!」

 そう叫んだ後、溜め息をこぼして続きを話始める。

「だけどそう簡単に辞められないんだよ。辞める決心がつかない。だから記憶を消せればこんな辛い生活ともおさらばできるのになって思っただけだ」

「なるほど。ちなみに何ですが実は僕、人の記憶を消すことができるんですよね」

「は?」

「だからまあ、お金さえ出してくれれば貴方の記憶、消してあげますよ」

「はは、お前、面白い事言うな」

「冗談じゃないですよ」

「……胡散臭い」

 まあ確かに。カイヤ自身、自分がすごく胡散臭いなと、言いながら思い、苦笑いを浮かべた。

「で、どうですか?記憶。消しますか?消さないんですか?」

「……どうやって記憶を消すんだ?」

「ん~説明出来るようなものではないですね。まあまずは貴方に眠ってもらってその後に僕が記憶を消す感じです」

「やっぱ胡散臭え。ていうか眠らないといけないのか」

「はい」

「……はあ、まあいいや。そんな記憶を消すようなことじゃないよな。それに辛くても仕事をしないと食って行けないし」

 そう言って、男は拉麺を啜り始めた。

「そうですか、分かりました。仕事、頑張ってくださいね」

 カイヤはそう言って立ち上がる。カイヤの言葉に男はおう、と応え左手を上げた。


 カイヤは病院の中庭にあるベンチに腰掛けている。ここが依頼主との約束の場所だ。昔カイヤもここに入院していた記憶がある。

 まさか約束の場所がここだとは想定外だった。この病院に来ると嫌でも昔の事を思い出してしまう。

 カイヤは幼い時、精神状態が不安定だった。母親が死に、父親は酒を飲んでパチンコをして、育児放棄をしていたのだ。祖母の家で育てられる事となったが学校での人間関係で心に闇を負い、自暴自棄になり自殺未遂をした。その時に搬送されたのがここの病院だった。

 カイヤはこの病院での生活をあまり覚えていない。記憶を消したせいだろう。

 入院中に何があったのかは知らないが、精神状態は回復していた。

 昔の事を思い出しながら依頼人を待つ。

 暫くしてカイヤに若い男性が近づき声をかけ来た。

「あの、貴方が記憶消去執行人、ですか?」

「はい、そうです。記憶消去執行人のカイヤと言います。貴方が僕に依頼をしたミライさんですか?」

「ああ、いえ。ミライは俺の彼女です。この病院に入院していて、まあまずはミライの所に行きましょう」

 カイヤと男性は病院に入り、ミライという女性がいる病室へと歩き出す。その間カイヤと男性は会話をした。

 まず、その男性の名前はツムグだということ。ミライという女性とは幼馴染みで2年前から付き合い始めたということ。ミライは今、病気に掛かり半年前から入院しているということなど。

 そして記憶消去執行人という存在について、ミライが看護師から聞いたことだと話した。なんでも、記憶消去執行人が昔、ここを訪れていて、最近またここに来たのだと。

 その事を聞いた時カイヤの心臓が強く跳ね、鼓動が速くなり、それは音が聞こえてくるほどだった。

 師匠は初めて会ったとき、記憶消去執行人は多分、自分一人だけだといった。

 ここにカイヤが訪れたことは記憶の限りは無い。それはつまり師匠が今、ここに居る可能性があるという事だ。記憶消去執行人になった日から姿を消した師匠。まさか今、こんな形で行方の手掛かりを得るとは夢にも思わなかった。

 足を止めて、信じられないという顔をするカイヤにツムグが大丈夫ですか、と心配そうに声をかける。そう、今は依頼主に会いに行くのだ。今は仕事中で、師匠がここにいるという事も定かでは無い。そう、自分に言い聞かせ、カイヤはすみません、大丈夫ですといい、足を踏み出した。

 そこからはお互い無言で病室へと向かった。

 カイヤ達は病室へとたどり着いた。ツムグがドアをノックする。

「ミライ、記憶消去執行人さんが来たぞ。入っていいか?」

 ドアの向こうから「どうぞ」と、声がして、ツムグがドアを開ける。

 一面真っ白な壁、白いカーテン。そして小さな冷蔵庫の上にブラウン管テレビが置いてある。

 白く大きなベッドに女性は座っている。年の頃はおよそ20代だろう。美人だが色白で、腕の細さに目が行く。抱き締めたら折れてしまいそう、とはこの人の事を言うのだろう。

 カイヤはミライに話始める。

「貴方がミライさんですね。はじめまして、記憶消去執行人のカイヤです」

「はじめまして、ミライです」

「早速本題に入りますが、貴方の消したい記憶はどういったものですか?」

「彼から……ツムグから私に関する記憶を消して欲しいのです」

 ミライは淡々とそう言った。ツムグが悲痛に顔を染める。

「私は余命宣告を受けました。もって一ヶ月だそうです。私はツムグに悲しんでほしくない。幸せになってほしい。ただそれだけなんです。だけどツムグはずっと私の事を想い続けると、絶対に私は死なないと、そう言うんです」

 ツムグは瞳に涙をためて、まだ話を続けようとするミライの言葉を遮る。

「当たり前だろ!ミライ、君は絶対に死なない!俺はお前の事を忘れるつもりなんて無い!だって……俺は君の事が好きなんだ……。だから死ぬなんて、忘れてなんて、そんな悲しい事言うなよ!」

 ミライはそっと目を閉じる。そしてカイヤの方を見て話し出す。

「お願いです。彼から私に関する記憶を消してください」

 ミライの淡々とした物言いに、カイヤは言葉を発するのに時間を要した。静寂の中、ツムグの嗚咽が病室に響き渡る。

 カイヤは思い出したかのように言葉を紡ぎ始めた。

「他者の記憶を消すには本人の了承が無いと駄目なんです。ツムグさんが記憶を消すことを拒む以上、すみませんがそれをする事はできません」

「そうですか……」

 ミライが落胆した声を出す。またもや空間を静寂が支配した。

「取り敢えず、今日はここまでにしますか。あまり結論を急ぐものではないと思うので。二人で話し合って決めてください。また明日来ますね」

 カイヤはそう言い病室を後にした。

 二人で話し合うことは必要だろう。この問題は赤の他人が口出しできるようなものではないと思う。空は赤く染まって来ている。遠くには黒い雲が見えた。今日は、沢山のことがありすぎた。

 カイヤはこのまま宿に戻り眠りについた。


 翌日、カイヤは宿で軽い朝食を取り、病院へ向かった。師匠に関する情報を集めるためだ。どうして何も言わず姿を消したのか、カイヤには分からない。だから安否も知る事がなかった。師匠にもう一度会いたい。そして、姿を消した理由をちゃんと知りたい。

 病院に辿り着き、入ろうとすると、中庭のベンチに座って缶コーヒーを飲んでいるツムグが視界に入った。

 昨日の件があり、無視する訳にもいかず、カイヤはツムグのもとに近寄った。

「おはよう御座います。ツムグさん」

「ああ、カイヤさん。おはよう御座います」

「隣、座ってもいいですか?」

 どうぞ、と言ってカイヤが座るのを促したツムグ。お互い、少しの間無言で空を見上げた。

「今日は曇っていますね」

「ええ、朝なのに少し薄暗い」

「ところで、昨日はあの後、ちゃんと話し合うこと出来ましたか?」

 ツムグはカイヤの言葉に苦笑いで応じ、コーヒーを一口飲んだ。

「あの後は、子供の喧嘩の様でしたよ。お互い自分の意見を曲げずに、ずっと言い争ってしまいました」

「そうですか……」

 空気が重たくなった。場の雰囲気を変えようとツムグが明るい声で話す。

「そうだ!俺と一緒に朝食でも食べませんか?いい店知ってるんで、どうでしょう」

「ああ、実は僕ここに来る前にもう朝食を取ったんですよね」

「あぁ……そうでしたか」

 ツムグの声は小さく、暗くなっていく。このままツムグと話すのも場が持たない気がしてカイヤはベンチから立ち上がる。

「すみませんね。それじゃまた後で」

 そう言って、病院内に入りに行く。そんなカイヤをツムグは呼び止めた。

「あの!また、ミライのとこで話しませんか?俺は、大体ここか、ミライの病室に居るので」

 カイヤは振り返って、分かりました、と応えた。


 病院内に入り、カウンターにいる看護師にカイヤは師匠について訊いてみた。

 しかし結果は良いものではなかった。

 そもそもカイヤは師匠の名前を知らないのだ。だから記憶消去執行人だと名乗る人が、ここに来たかとも訊いてみたが、尋ねられた看護師たちは皆、疑問を顔に浮かべた。

 そうこうしている内にカイヤの腹が空腹を主張してきた。腕時計を見ると13時になっている事に気が付く。

 師匠に関する事は、一旦中断する事にして昼食を取る為にカイヤは病院から出た。

 中庭のベンチにはツムグが座っている。ずっとここに居たのだろうか?

 カイヤはツムグのもとへ行き、昼食に誘った。


 カイヤ達はレストランに入った。内装がとても綺麗でお洒落だ。

 店員に席へ案内され、窓際の席に座った。

「もしかしてツムグさん。ずっとあのベンチに座っていたんですか?」

「ああ、はい。何処か行きたい所も無いし、ミライとも顔を合わせづらいので……」

 そう言いながら、運ばれた水を飲む。

 ツムグはドリアを、カイヤはハンバーグを注文した。

 料理を食べながらツムグはカイヤに

「ミライを説得して欲しいんです」

 と切り出した。

「ミライは俺の言葉に耳を傾けない。何度、忘れたくないと言ってもそれを理解してくれないんです。だから俺だけじゃなく記憶消去執行人である貴方からも説得して貰えればきっと分かってくれるはずだから……」

 そう言うツムグの顔はずっと暗い。

 大切な人から、自分に関する記憶を消してほしいと願われたのだ。その悲しみはカイヤには計り知れない。

 カイヤはツムグと似た境遇にあったのかも知れないと思った。

 師匠は言っていた。依頼主がカイヤから自分に関する記憶を消してほしいと願ったのだと。過去のカイヤはそれを了承した。当時、自分が何を思っていたのか、分からない。だから今、カイヤはどうするべきなのかも分からない。

「……考えさせて下さい」

 そう、答えるしかなかった。


 レストランから出ると木の葉に露があった。アスファルトも少し濡れている。

 昼食を取っている間小雨が降ったらしい。今はやんでいるが、まだ空には黒い雲がかかっている。

 このまま、カイヤ達はミライのいる病室に行くことにした。

 空気は重く、二人は会話をする事がなかった。雨の日の独特な匂いと虫の声だけがカイヤ達の五感を刺激していた。


 病室に辿り着いた。ツムグは少し緊張している様に見える。

 ツムグはドアにノックした。

「ミライ、カイヤさんと一緒に来た。入っていいか?」

「どうぞ」

 カイヤ達は病室に入った。黒い椅子に腰を下ろす。

 ミライは昨日と変わらずベッドに座っていた。

 ツムグは乾いた下唇を舐め、慎重に言葉を選びながら優しい声色で語りだす。

「今日、一日中考えた。ミライの願いを聞き入れるか。だけど俺の答えは変わらない。昨日言ったように、君の事を忘れるなんて事、そんな事は絶対にしない」

 ツムグは強い意志を持った目でミライを見据える。ミライは目を閉じ、掠れた声で自分の願いを訴える。

「……私の一生のお願い。お願いだから、私の事を忘れてよ。ツムグには悲しんで欲しくないの」

「……悲しむ事くらい、させてくれよ」

「え……」

「俺は、ミライが病気にかかった日から凄く不安で、心配で、余命宣告を受けた時は信じたくなかった。だけど、俺はそういうの、すぐに信じてしまうんだよ。ずっとミライに死なないよって言い続けて、だけど心の中では、駄目なんだって絶望してた。とてつもなく悲しかった」

「だから!私に関する記憶を消したら……」

「だけど、記憶を消して、この悲しみも無くなる方が、俺は嫌なんだよ」

 昨日、カイヤがいなくなってからどういう話をしたのかは分からないが、昨日とは逆に、ミライの方が感情を我慢出来ずに涙を瞳に溜めている。ツムグの声色はずっと優しいもので、包み込むかのようなものだ。

「人間、生きてるだけで傷つくし、人を傷つけてしまう。それは絶対に逃れられない。だけど、傷ついて、傷つけて、それが未来に繋がるんだ。後悔とか、悲しみとか、人はそういうのを背負って生きて行かないと行けないんだ。俺は君がもしもいなくなったら、凄く悲しくなる。だけど、この悲しみがあるという事は、俺にとって君がとても大切な存在だったという証明になる。君という大切な存在がいた事を、絶対に忘れる事なんて無いんだって、心に刻む事ができる。……俺にとって一番の不幸は君の事を忘れて生きていく事だ。だから、俺から大切な存在を奪わないで欲しい」

 ツムグはそう言い終えた。汗をたくさんかいているのが目に見えて分かる。心臓の鼓動も速くなっているだろう。

 今日、ずっとミライに伝えたい事を、自分なりにずっと考えていたのだ。

 ミライは、駄々をこねる子供のように嫌だ嫌だと呟いている。

 ツムグはそんなミライを見て悲しげに俯いた。

「お願いだから……お願いだから私の事を忘れてよ!お願いだから」

「あの!僕はツムグさんの意見を尊重したいと思います」

 カイヤはミライが話しているのを途中で遮った。

 何を言っていいのだろうか。過去に僕は記憶を消す決断をしたのだ。そんな僕がなにか言っていいものなのか?

 カイヤはそう思ったが流れに身を任せる。何か、自分が言えることを。

「僕は、僕の中からとある人の記憶を消しました。その人が誰なのか何も思い出せません。だけど、強い喪失感がありました。きっと大切な人の記憶を失ったのだと。僕はそれをずっと後悔している。だから!だから貴方達には同じ後悔をしてほしくないんです。僕からも、お願いします。記憶を消すという決断はしないでほしいです」

 ミライは瞳に溜めた涙を溢して、声を上げて泣きだした。





 それから二ヶ月の時が過ぎた。カイヤは依頼の募集を一時的に中止し、都市に残っていた。

 理由は二つある。

 一つ目は師匠の唯一の手掛かりがここにある事。

 二つ目はツムグとミライのその先が気になったからだ。

 カイヤはここでバイトをし、病院に行くという生活を続けていた。

 そして今日、ミライが亡くなった。


 病院のベンチに二人の男が座っている。

 カイヤとツムグだ。今は夜で、街灯が辺りを明るく照らしている。

 二人は缶コーヒーを手に握りしめている。

 ベンチに座ってからは、一言も言葉を交わしていない。

 ツムグはコーヒーを一口飲むと、重い口を開いた。

「あの、ありがとうございました」

「え?」

「いえ、あの時ミライを説得してくれた事。今日までいてくれた事」

「ああ、どちらも僕がそうしたかっただけなので。それに、あの時ミライさんを説得したのは僕ではなく貴方ですよ」

 そうですかね、とツムグは薄く笑った。

「ええ、絶対にそうです。それに僕からも。ありがとうございました」

「え?」

「貴方達を見ていると、何故か僕が救われたような気がしたんです」

 きっと、この言葉の意味はツムグには理解出来なかっただろう。

 カイヤ自身もどうしてそう思ったのか、全てを理解している訳ではない。だが、感謝しているのだ。そしてそれを伝えたかった。

「ミライさんはきっと幸せでしたよ」

 隣から鼻をすする音が聞こえた。

 ツムグはコーヒーを一気に飲み干し立ち上がる。

「夜は冷える。それに、そろそろ雨が降りそうだ。カイヤさん。俺は帰りますね。カイヤさんも早く帰った方がいいですよ。風邪を引くかもしれない」

 そう言って、ツムグは立ち去った。

 カイヤはまだ動けずにいる。

 やがて、雨がポツポツと降り出し、カイヤを強く打ち付けた。







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