現実の終点

サトウ・レン

現実の終点

夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

――――ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」


黄昏の町はずれで行き逢う女は喬子に違いない。

――――大坪砂男「天狗」




 あの子は幻想が連れてきた物語だったのかもしれない。


 最初に目に留めたのは暗灰色に染められたいびつな夜のことだ。帰り道の見慣れた駅のホームに降り立った僕を、僕よりも先にホームに立っていたあの子がじっと見つめていた。その視線に気付いたのは、そこに僕しかいなかったからだ。普段ならもうすこしひとがいて、そんな視線など知らないまま駅を出ていただろう。


 夜風の冷たい時期に似合わない薄着の少女を、僕は知っている。見覚えがあった。だけど名前が思い出せず、声を掛けようとしてやめたのは、そんな理由からだった。


 少女を無視して駅を出た僕は自宅までの道のりを歩きながら、先ほどのあの子の名前を思い出そうとしていた。絶対に知っているはずなのに思い出せない、という感覚に思いのほかもやもやとしていたのか、不快に鳴り響く自身の靴音に気付いて、僕は足を止める。心を落ち着かせるように、ひとつ息を吐く。怒りという感情とうまく付き合えないのが僕の悪い癖だ。できる限り気を付けていても、なかなか直せるものじゃない。


 ふと横に目を向けると、そこにはちいさな店構えの文具専門店があった。かつて妻が働いていた場所であり、学生時代の同級生だった妻と社会人になって再会した場所でもあるそのお店はもう閉店時間を過ぎているのか、店内の電灯は消え、真っ暗になっている。


 あれっ、もしかして鈴木くん? 久し振り。高校の時、以来だよね。きょうはどうしたの? ……ってまぁ文具、買いに来たに決まってるよね。ボールペン? あっ、じゃあこっち。この辺に住んでるの? ここに来るのははじめて? そのしゃべりかた変わらないね。本当に、久し振りだ。学生時代が、懐かしくなる……。


 学生時代が懐かしい、と妻になる前の妻が言っていた頃よりも、いまはさらに学生時代は懐かしい過去となってしまった。学校なんて小学校が六年間、中学高校なんて合わせても六年間と、それ以外の人生に比べると、ごくわずかな期間でしかないのに、特別なものに思えてしまうのは、やはり十代という時期がそれだけ特別だということだろうか。


 そこまで考えて、僕は駅のホームで見た少女を思い出す。


 あの子は僕の初恋だった。その想い出が甘いのか苦いのか、いまとなっては分からないが、仮にどっちであってもその事実が変わることはない。


 何を言ったのかは分からない。ただそれでもかすかな声が聞こえて振り返ると、街灯の下であの子が照らされていた。思い出してくれたかな、とでも言いたげににこりとほほ笑んで。僕を通り過ぎたあとにまた振り返って、手招きをして。僕をどこかへと誘う。少女の向かう先に何があるのかを、僕は知っているような気もしたし、知らないような気もした。


 でもあの子の後ろをしっかりと歩いていたはずなのに、何故か僕は途中であの子を見失ってしまった。




     ☆☆☆




 いつだったか、平凡を絵に描いたような人生に悩んでいた僕に、まさに波乱万丈を絵に描いた人生を送っていた友人が、普通、の素晴らしさを考える素振りもなく説いたことがあったのだけれど、僕はそれを聞きながら経験したからこそ滲み出るその態度こそが羨ましかった。


 地元の人間しか知らないような大学を卒業して、隣県のスーパーマーケットで働きはじめて三年ほど経った頃に小中高と同じ学校に通っていた女性と再会して、結婚したのはお互いに二十七歳の春だった。そして僕たちはもうすぐ三十歳になる。子どもはいない。勤務先の異動はまだ一度もなくて、同じ職場に大体変わらない時間に向かって、大体同じ時間に帰宅する。起伏もほとんどなく、繰り返される。


 僕の二十代は言葉にして説明すれば、たったの数行で済んでしまう。無理やりもっと細かく書くこともできないわけじゃないけれど、書けば書くほどそのつまらなさが際立ってくるので、このくらいで終わらせるのがちょうどいいのだ、きっと。


 ときおりふと、そんな日常が怖くなり、すべてを捨てて、逃げるように、知っている人間が誰もいない場所へ行きたくなるけれど、行きたい、と願望にしている時点で僕はどこにも行けないのだ、と自覚もしていた。


 僕の平凡を賛美したその友人は、どういう心情の揺れ動きでそういう行動を取るのかまでは分からないけれど、突然ふらっと姿を消し、まるで旅行から戻ってきたかのように姿を現したりして、とそういうことができるひとだった。ほとんど誰にも伝えずに姿を消すわけだから、失踪と変わらないのに、周りもあんまり心配していなくて、あぁまたか、となるだけで、友人のそんな姿が僕には妬ましかった。何が、お前みたいな普通こそ、俺には妬ましい、だ。逆だよ。


 思えば彼女もそうだった。


 彼女のことを思い浮かべていたせいか、僕はまた駅のホームであの子の姿を見つける。今度は寒そうな薄着ではなくて、マフラーを首に巻いた紺の学生服を身に纏っていたけれど、着ているものの変化なんかどうでもよくなるくらいに、あの子の姿は変わっていた。前に見たあの子が小学生の頃の姿ならば、いまの彼女は、あの子、と呼ぶのもためらうくらいに大人びて美しくなった中学生の頃の姿をしている。


 翳りのある笑みを浮かべて、僕を見る彼女が歩き出す。


 今度こそ彼女を見失わないように背を追って歩く僕の足は、棒のようになってもおかしくないほど長い距離を進んでいたはずなのに、なぜかほとんど疲れを感じなかった。どれだけ歩いただろう。彼女の足が止まった時、僕は思わず息を呑んでしまった。そこは夜の校舎だった。僕たちが通っていた中学校が目の前にあった。歩いていける距離に、本来ないはずの。


 校舎の前で、夜にたった一度だけ、僕たちは話したことがある。


 ねぇ、あのさ、もしも私を連れ去って、どこか遠くに行くとしたら、どこが良い? ……なんてね。ちょっと言ってみたくなったの。明日になったら私はいなくなるけれど、身近にいる誰か、たったひとりにだけ伝えたかった。なんであなたか、って? ほら、あなたと私の関わりなら、私に何かあっても周りから追求されないだろうから。ごめんね。期待した? どこへ? さぁ、まだ分からない。分からないほうが、人生って面白いでしょ。自由って言葉が好きなんだ。


 そんな彼女の言葉を思い出す。


 呼び出された僕が彼女の待つ場所へと向かう道すがらの不安と期待にどきどきする感情なんて、呼び出したほうは何も考えていなかっただろう。彼女の寂しげにも楽しげにも取れる曖昧な表情と口調を見ながら、自身の心のうちが急速に冷えていくのを実感していた。彼女は自ら死を選ぶつもりなのかもしれない、とそう感じてからは、恋だの、愛だの、考えていた自分がおそろしく気色の悪い生物に思えてきて、その場から逃げたくて仕方がなかった。その場から動かなかったのは、その度胸さえもなかったからだ。でも何よりも嫌悪していたのは、その気色悪さを自覚したあとも感情の端に僕を選んだ彼女の気持ちを勝手に透かして、あまい期待を抱いていることだった。気付きながら、見ない振りをしていた。


 その翌日姿を消した彼女は、一ヶ月ほど経った頃に何事もなかったように、また学校に顔を出し、その間に何があったのかを僕が知る限り彼女は誰にも話していなかった。


 それ以降、中学校を卒業するまでの間に、彼女との会話は一度もなかった。


 いまなら、過去の彼女といまの僕が相対するいまならば、あの時の真意が聞けるのではないか、と口を開こうとして、


 気付く。


 また彼女が消え、懐かしい夜の景色はとけて、僕と妻のいる部屋が目の前に広がっていることに。




     ☆☆☆




 三度目の彼女は、もう大人としか言えないような顔をしていて、あの子、なんて言い方は許されないだろう。つぎに会う時は、高校生の彼女だろう、と勝手に予想していたけれど、残念ながら高校生の彼女が描き出されることはなかったみたいだ。


 そもそも高校時代の僕と彼女の間に、これといったエピソードはまるでない。ただ気になる存在だったのは間違いない。同じ高校に通ってクラスも三年間同じだったけれど、劣等生だった僕と違って、彼女は才色兼備と周りから一目を置かれているひとで、僕なんか、とその気後れから話す機会ができそうになると意識的に彼女を避けた。拒まれたわけでもないのに、勝手に拒絶されたような気分で、彼女を見ていたような記憶がある。


 また駅のホームで僕と彼女のふたりきりだった。幼き日の彼女と会ってから、どのくらいの月日が経ったのか、まったく分からず、何年も隔てているような気もしたし、一日しか経っていないような感じもある。


 大人になった彼女は、いままでのどの時期の彼女よりも身近な姿だった。


 彼女と再会した時、僕は平凡な人生に嫌気が差していた。僕の平凡はむかしからのことで、いまにはじまった話ではないのだけれど、その頃は特に焦燥感に駆られていた。普通だの、平凡だの、そんな定義なんて曖昧なものでしかないのだから、と言うひとはいる。実際に言われたこともある。確かにそうだ、と僕も頭では分かっていても、お前は平凡だ、と底にへばりついてしまった呪詛はなかなか取れるものではない。


 淡々として鬱屈した日常を終わらせるために、次の職場も決まらないままに仕事を辞めるための言葉を用意して、あとはそれを実際に伝える覚悟を決めるだけだった時期がある。三年目の、二十五の頃だ。


 駅のホームにいた彼女は、あの再会した時と同じ笑みを浮かべていた。僕の記憶がそうしているのか、前の冷たかった夜風はもう生ぬるくなっている。


 歩き出した彼女が僕をいざなったのは、ちいさな店構えの文具専門店だった。必要な文具があったのは事実だが、欲しかったのはどこにでもあるようなボールペンで、別に専門店に行かなくても、書店やコンビニにも置いてある可能性は高そうだ。


 かつて僕の平凡を賛美した件の友人から、


 なぁ、あいつ、っていまお前の家の近くにある文具屋で働いている、って知ってた。実はこの間、連絡を取り合う機会があってさ。


 と聞いて、その一度も行ったことのない店が気になって仕方なくなった。


 友人の彼は僕も彼女も両方知っている。いまとなっては思い出したくもないが、高校時代の彼らは交際していた。ふたりが並ぶ姿は、とても似合っていて、かすかな痛みとともにそれが誇らしかった時期も確かにあったのだ。


 あれっ、もしかして鈴木くん? 久し振り。高校の時、以来だよね。きょうはどうしたの? ……ってまぁ文具、買いに来たに決まってるよね。ボールペン? あっ、じゃあこっち。この辺に住んでるの? ここに来るのははじめて? そのしゃべりかた変わらないね。本当に、久し振りだ。学生時代が、懐かしくなる……。


 偶然の出会いに驚き、嬉しさに声を弾ませている様子の彼女を見ながら、偶然を装った僕の声は上擦っていたはずだ。格好よくなったね、とお世辞だと分かっていても柔らかい口調でそう言う彼女の言葉を聞きながら、お返しとしてのどまで出かかった、綺麗になったね、という言葉が外に放たれることはなかった。お世辞ならばどれだけでも気軽に言えただろう。


 その文具屋には働いて三ヶ月目だったらしく、急に考えをころころ変えてしまう気分屋な彼女の性格はむかしのままなのか、職を転々としていて、ひとつの職を辞めるのにいつまでもぐるぐると頭を悩ませて、しかも言い出せないまま結局は辞めずに続けてしまう僕とは本当に対極にあるひとだ。僕は彼女と仕事を共にしたことはなく、一緒に暮らした経験から判断したに過ぎないのだけれど、彼女はこういう唐突な行動を起こす人間でありながらも、働いている際は雑さもなく几帳面に、真面目に働く女性だった、と思う。そしてそういう人間がなんの脈絡もなく、辞める、と言い出すから余計により性質が悪い、と捉えられてしまうのかな、とも。


 遊園地やショッピングモール、そして近くの公園……、とデートを重ねるうちに、僕は彼女と一緒に住むようになり、




 初恋のあの子は、やがて妻になった。




 幻想の彼女の背を追っていく中で目まぐるしく変わっていく景色は、遊園地やショッピングモール、当時の僕の自宅近くの公園やそして一人暮らしをしていた頃のお互いのマンション……と、まるで僕たちの記憶を僕にもう一度体験させるかのようだった。


 そして幻想の彼女が最後に僕をいざなった場所は、僕と妻がふたりで暮らすマンションの一室だった。


 最後……そう、最後だ。


 僕と妻がいればいい、その部屋に――また見たくない現実が混じる。僕にはもっとも要らないものだ。必要なのは真実だけだ。




     ☆☆☆




 なんで? だって、つまらなくなったから。


 謝って欲しい? じゃあ、ごめんね。


 ……うん。本当に悪いとは思ってるんだけどね。でも私は本心から謝っていない、ってあなたよりも私自身が知ってるの。このままあなたとの平凡な日々が続けば、そりゃあね、慎ましやかな平穏が保証されるかもしれないけどね。私が求める幸せとは違うかも、って思いはじめちゃったんだ。そしたら耐えられなくなった。どうしても耐えられなかった。苦しくて仕方なかった。


 いつだって楽しそうな顔をしていた? それは間違いないよ。あなたとの幸せな日々は楽しかった。付き合う前から付き合ってからも、そして結婚した後も、本当に。


 過去の想い出はどれも素敵なものとして残っている。


 たとえばはじめて遊園地に行った時に絶叫マシンに平気な振りをして怯えた顔をしたあなたはほほ笑ましくて、うん、ショッピングモールでデートした時は私をマンションまで送ってくれて、その駐車場でキスしたね。あれが私たちの間で交わされた、初めてのキスだった。公園をふたりで歩いた時はそこにいた夫婦を未来の私たちに思わず重ねちゃった私を、あなたがからかったね。もっと遡ってみようか。


 たとえば中学の時に家出する前の夜もそう、夜の校舎にあなたを呼んだのは、周りから追求されないから、なんて強がりを言ってみたりね。ずっと好きだったから、あなたの住んでいる場所の近くを選んだり。別にストーカーとかじゃないよ。なんとなく偶然のめぐり合いみたいなものがあるかもしれない、ってそんなふうに思ってね。残りの私の人生でまた出会えたら嬉しいけれど、会えなくてもまぁそれはそれで構わない。私はどうも運命みたいなものをすぐに信じちゃうみたい。


 あなたとお店で再会した時、運命を信じる私はころりとね。


 だったらなんで? だってすべて過去の話だもん。付き合う前も付き合ってからも、それに結婚した後も、あなたとの日々は楽しくて、でも過去の好意が必ずしもいま以降と地続きになっているとは限らないじゃない。私たちはお互いに近付くべきではなかったのかもしれないね。


 近付いた瞬間、褪せてしまう……そういう運命だったの。


 ちょっと前くらいからね。あなたとのいる時間がつまらなくて、耐えられなくなってきたの。


 彼を、高校時代のあなたの友人を選んだのは、別に当てつけでもなんでもない。むかし彼と付き合ったのはあなたへの当てつけだったけれど、今回は違う。あなたよりも前から知っている彼の躰のほうが私と相性が良くてね。それに彼との日々はあなたと違って退屈しなくて、いつかまた変わるかもしれないけれど、いまの私にとってはこっちのほうが心地が良いの。


 別に、嫌いとは違う。あなたのつまらなさに飽きる私がいた。ただそれだけの話で、これが運命だったの。




     ☆☆☆




 ここは僕の部屋で、リビングだ。


 現実ならば、僕が心のうちで語ってきた短い物語は、この小さな空間のみでつくられている。だけど僕が欲しているのは現実ではない。そんなもの僕には必要ない。


 室内には倒れている女性がいて、大切なあのひとが立っている。会うたびに成長する幻想のあのひとが僕にほほ笑んでいる。


 背後の先にある玄関から、音が聞こえる。インターフォンの響く音とともに、倒れている女性の名を大声で焦ったように呼び掛けるその声に聞き馴染みがある。僕はひとつ息を吐く。現実はひどくうるさい。


 そう思わないか?


 僕はあのひとに聞く。ちいさく首を傾げるあのひとの笑みはどこまでも無邪気で、魅力的だ。そして僕に優しい。真実を求める僕にとって、あのひとこそ、幻想こそ真実だ。


 玄関のドア越しに聞こえる音はどんどんうるさくなっていく。


 想像した未来の現実は悲惨だが、もう真実と履き違えてしまった僕に後悔はない。


 現実に受け渡すのは肉体だけだ。心までは絶対に渡さない。


 僕の心はいつまでも幻想とともにある。

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