第14話 花紅にして復た來たりて覿わん


 客間と中庭を隔てた御簾の隙間からは冷ややかな空気が漏れ出ていた。まるで冷凍庫を開けた時のようだった。


 祖父の待つ部屋が先と違う環境になっていることは明らかで、僕は落ち着かなかった。


 僕より野生の勘が備わっていそうな運は部屋の変化に当然気づいたはずだが、平然と御簾の中に入ってしまった。おそらく運には中で何が起こっているのか理解できているのだろう。


 僕はしばらく緊張感をもって運の背中を見つめていた。


 シルラは僕と運の間でわざとらしく蹴つまずいて御簾を掲げてくれている白に凭れかかった。まるで危機感はなさそうだった。


 白はシルラに対して大丈夫ですかと小声で問うた。


 シルラは白の胸元に頬擦りした後ニヤニヤ笑って、白さん石鹸の良い匂いがするねと言い御簾の中へ入って行った。それに文句も言わず黙って地面を見つめている白に、僕はすみませんと桃源語で一言謝ってから御簾を潜った。


 部屋の中央でテーブルを囲むように置かれたソファには、祖父の他にもう一人腰かけていた。


 その人物はアジア系の顔立ちで、床についた長い白髪が白色と水色を合わせた漢服に溶け込んで見えた。郡山こおりやまで見かけた金魚の鰭のようにひらひらした長い裾が印象的だった。冷気の根源はどうやら彼らしい。


「明日会いに行こう思てたら、もう来とったんかいな。こないだの会議ぶりやな、北斗星君」


 運は挨拶してからソファに腰掛けた。


 北斗星君と呼ばれた二十代くらいの彼は、蝋燭のように青白い祖父ほどではないが、それに匹敵するくらい肌の色が白い。二人とも運のように健康的な桃色がかった色白とは違っていた。


「相変わらず獅子の如き気迫だな。聖人金剛卿」


 北斗星君は目の笑わない人物だった。


「おかえり。なんかいっぱい生えてたやろ。ええもん見れた?」


 祖父は運とそのはるか後方にいる僕の方を見て日本語で話しかけてきた。右目に眼帯をしていても、優しげな表情で微笑む。奈良にいた頃と変わらない祖父の姿がそこにはあった。


「葛城竜殿下、前俺にわはった『空いてる時間を西王母のために使えば、いつか見つかるもんもある』って意味がようやく分かったわ。中庭に出な見つけれんもんあるから、西王母様ともっと仲良ぉなりってことやったんやな……。情けないことに、結局こんな形でしか中庭行けんかったわ。ここまで連れて来てもろてほんまおおきに」


 運も日本語で返事した。


「何ゆうねん。俺は誰かに迷惑かけることはあっても、特に何かできたことはあらへん。立場上たまたま知ってしまうことは多いけど、秘密は守らなあかんから直接的な告げ口はできん。そんな俺の一言に注目して地球ガイアまで探しにきてくれて、こちらの方こそほんまおおきに」


 祖父は祈るように手を合わせて目を瞑った。


「やめてやめて……!たまたまレヴィが見つけてくれたから、暇つぶしに奈良行っただけやし。ほんま俺何もしてへん。それに奈良住んだおかげで焔にも出会えたし。全体的に得しかしてませんからね」


 運は顔の前で二三度手を振った。完全に関西人のリアクションだった。


 僕は『捜神記』のせいで怖い人のイメージがある北斗星君が蚊帳の外にされて怒っていないか気になって見たが、北斗星君は頓着しない様子で湯呑みに口をつけていた。


「北斗星君いるとかほんとすごいぜ、焔!転生の壺の管理してて忙しいから、外じゃ滅多に見られない珍しい神仙なんだぜ〜!」


 シルラは知らない外国語を聞かされて痺れを切らしたのか、場違いにはしゃいでいた。


「寿命を司ってるイメージやから、転生の管理してるのは納得やわ」


 僕は相手の目の前で噂話をするのは気が引けて、小さめの声で言った。


「現世をうろついてる死を司る神仙たちが収集してきた魂はその壺に入れられんだってー。そしたら中で分離されて新しい魂として生まれ変わるんだ。それをさっき会ったやたらテンションの高い赤い羽の天使いたじゃん?あいつが壺の中で生成された魂を現世に運ぶから新しい生命に魂が宿るらしい。転生の壺には仙籍が登録されてて、万が一神仙が死んでも壺の中に魂を入れられる事はないんだ。まぁそんな不死っぽい神仙も后羿みたいな達神に魂を砕かれたら消滅すんだけどな〜。でも達神なんてそう居ないし、やっぱ不死だよな……!」


 得意げに語るシルラの遥か後方で、白は右手で左手の甲を摩った。僕には白が僅かに震えているように見えた。


 崑崙山の住人にとって后羿の襲撃は僕が想像している以上に衝撃的なものだったのだろう。


「シルラ。失った人にしかわからんもんってあるやん?人によるんかもしれんけど、たとえ時が経っても忘れられへんことって僕はあると思うねん。もちろん発言すんのは自由やで。せやけど、発言の場所を選ぶんが配慮ってもんとちゃうかなぁ」


 命の保障されない場所を理想郷とは呼べない。桃源郷は后羿の襲来によって理想郷としての概念を失ったのかもしれない。


「わかる〜!配慮できるヤツってモテそうだよな…!」


 シルラは僕の意図するところをあまりわかっていなさそうだった。そのことについて訂正する前に、北斗星君が口を開いた。


「焔といったな。先ほど韋駄天いだてんと西王母とそよぎから聞いたのだが、お前はなぜ神仙になろうとは思わない?」


 驚くべきことに、北斗星君は聖語で僕に話しかけてきた。初めて会った人に何かしら知られている感じがまるで田舎のようだと思った。


「神仙に興味はあるんです。でも、僕は地球に一族置いてきてるしこっちに住むつもりはありません」


 僕も聖語で返事した。


「一族も皆神仙にしてこちらに招いてはどうだ?或いは神仙になって、地球に住み続ければ良いのでは?聖人金剛卿など仙官だというのに時差のある地球に住んでいる。仙官でない者なら八咫烏に迷惑をかけることもあるまい。さらに容易に住めるだろう」


 北斗星君は水色の瞳で僕を見据えた。


「そらあかんわ。焔の祖母のとみちゃんは八尾比丘尼やおびくにを例に出して不老不死なんかに興味無いゆーてたから、焔が一族ごと神仙になるんは無理そうや。焔だけ神仙なるんなら話は別やけど、それはなんかちゃうんやろ?」


「うん。僕は一族に恵まれたこともあって今まで幸せに生きてこれてん。せやから不死の神仙ってええなぁとは思うねんけど、これは僕の周囲の社会環境があってこそ言えてることなんとちゃうかなぁ。せやし僕は地球帰って普通に大学受験するわ」


 北斗星君は僕たちの会話を聞き、黙ったまま頷いた。


 シルラは「せっかく神仙になれるのに、もったいないなぁ」と僕の隣で呟いていた。


「せやろなぁと思ったわ。ほな俺も奈良帰るし、地球の本なるべくはよ管理してくれません?時間いじったりせんくてよくなったらその分オルレアンの仕事も減らせる気ぃするし」


 運は関西弁でそう言うと祖父の方を見遣った。


 祖父は爬虫類のような黄金の左目で運を捉え、得意げに笑って関西弁で応えた。


「ああ、そのことならオルレアンに頼んであるし、もうすぐここに持ってきてくれるはずやわ。母上は俺に毒盛ったせいで父さんに地下牢へ投獄されてそのまま獄中で亡くなったから、そこ見てもらえば地球の本はすぐ見つかると思うねん」


「はぁ。葛城竜殿下もえらい苦労しはってんなぁ……」


 運は青い瞳を瞬いた。



 運の予想は当たっていたようだった。祖父の母親である地球の創造主は、幸せな最期を迎えていたわけではなかった。


「まぁせやし、自分らここ泊まらんとはよ帰り。こっちのこと片付いたらまた近いうちに会いに行くわ」


 祖父は青白い腕を組んで頷いた。まるで諭すような語調だった。そのせいで、僕はここに長居してはならない気がした。


 祖父は祖母の頼みで僕を桃源郷へ招いた。ここは帰る他世界を意識した者がいつまでも居て良い場所ではないのだろう。


「葛城竜殿下ほんま話はやくて助かりますわー。ほな俺らは先帰ろか」


 運は水底のように青い瞳で僕を捉えた。祖父の心情を察しているようだった。


「うん、そうしよか。せやけど、シルラどないするん?」


 レヴィは僕らがここで解散する事を知らないはずだった。


「せや、忘れてたわ。白、ここにもう一柱呼ぶで」


 運は壁際に立つ白の方を見た。


「かしこまりました」


 白は簪を揺らしてお辞儀をし、廊下に出られる扉を少し開いた。廊下には他にも従者が居たようで、白はその者にお茶を淹れてくるように指示している様子だった。


 運はそれを流し目で確認すると、机の足元にできた影に向かって桃源語で囁いた。


「レヴィ。俺は地球帰るし、ええ加減弟子取りに来い」


 運がそう言うと、忽ち煙立つように影からレヴィが現れた。


「おやまぁ、北斗星君ではないか。奇遇だな。梵も麗しい姿が戻って良かった。ほんにめでたい、めでたい。ああ、そうだ……色々と世話になったなぁ、運と焔よ。弟子は良い子にしていたか?」


 レヴィは辺りを見回して忙しなく桃源語で挨拶した。


「全然あかんわ。こいつはまだ神仙なる資格あらへん」


 運は桃源語で切り捨てるように言った。


「やはりそうか。弟子よ、まだまだ修行が足りんなぁ。ふぇふぇふぇ」


 レヴィは聖語でそう言うと、シルラの方を見て愉快そうに笑った。


 シルラは大きな溜息を吐いて「なんで俺だけいつまで経っても神仙になる資格ないんだよ〜」とぼやいた。


「ほなお先に。花が紅く開く時になったらまた会いに来るわ」


 運は桃源語でそう言うと、来た時と同じように靄を出現させた。


 北斗星君とレヴィは目を丸くして「また会議でな」と桃源語で口々に応じた。


 僕は皆に向かって会釈し、運の後を追って靄の中に入った。


 ◆◇◆


 靄を抜けると、僕の家の土間だった。振り返って見ると玄関の引き戸がいつも通りあるだけだ。


「土曜日。午後9時1分や。まあまあ時間経ってしもてるけど、ここ出てから半日くらいしか経ってへんし許容範囲やろ?はよ時間調整いらんくなって、もっと便利に行き来できるようになればええなぁ」


 iPhoneのロック画面に照らされて運の彫りの深い顔が暗がりに浮かんでいた。ブルーライトのせいか運の肌がいつになく青白く見えた。


 僕はその姿に祖父を見出し、なんだか懐かしくなった。それから、祖父を過去の人のように感じてしまっていることに気づき、途端居た堪れなくなって、僕は運の真横でささやかに光っているスイッチを押した。


 壁に手をつくと、電球色の玄関照明が僕らを暖かく包み込んだ。もうそこに祖父の姿はなかった。


うてくれたらつけんのに」


 運は口をへの字に曲げた。


「堪忍。なんも考えてへんかった」


 運はバスで見る時よりもまつ毛が長く見えた。


「わかってんねん。なんか色々言いたい事あるやんな?答えれん事もあると思うけど、なるべく答えるから怒らんといて」


 運は僕が怒るはずがないということを理解しているような口調だった。


「せやなぁ……。あのまま西王母様と話し合わんで良かったん?」


「ああ、あれはええねん。あんないっぱい石像あってんからたぶん崑崙山の伝統に関わるような話やし、そんなすぐ話し合って解決するもんちゃうわ。もっと何百年って時間かけて西王母と仲良ぉなってからようやく話し合いになるやつや。まぁ地道にやってくわ」


 運は得意げに笑った。仙界流の人付き合いの方法を心得ているらしかった。


「はよお母さん見つかるとええなぁ」


 僕は壁から離れ、リュックサックを下ろした。背負っている間は重さをそれほど感じなくても、それなりに重さはあったのだろう。いつもこの瞬間は背中に風が通ったように感じる。


「おおきに。はなから見つかる思ってへんから全然探してへんかったし、今更すぎんねんけどな」


「ええやんええやん。小言言われんのもたぶん幸せやで」


「せやなぁ……。て、なんかええ感じにまとめようとしてるけど、ほんまに文句とかないん?」


 運は食い入るように僕を見た。


「え?なんもないで。聞いたらあかん事多そうで向こうでは黙ってばっかりやってごめんやで」


「はぁ。焔はほんま仏さんやなぁ……」


「なんかそう言われると死んでもぉてる気ぃするわ」


「えらいこっちゃ。死なんと元気でまた月曜会お」


 運は慌てたように二度頷いた。


「なんか年寄りの会話みたいになってるし、はよ帰り。きっと色々気ぃ使つこて疲れてんねんで」


 僕が玄関の戸を引くと、風に乗って花の香りが漂ってきた。門の向こうでは三笠山から出た月が燦然と輝いている。


 それを見るとやはり、帰ってきて良かったと思えた。



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奈良の竜を喰う菩薩 水心 白夜 @kqrxxx

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