2つのコート

紺野 優

本編

 改札を抜けると雪の勢いは更に強くなっていた。このまま、もしかすると夜には都心でも数センチ積もるかもしれない。

 頭上の遥か彼方の雪雲を見上げると、出勤前にいつも感じるどんよりした気持ちに似て、黒く重い。舞い降りてくる雪もどこか灰のように感じてしまう。

 手に自分の体温ほどの吐息を吹きかける。カイロと違ってその温もりは持続しない。冷たい外気で一瞬にして冷やされ、むしろ温める前よりも手先が冷たくなってしまう。冷えては温め、冷えては温めの繰り返し。何をやっても怒られ、自分なりにもう一度改善を試みてもまた怒られ、永遠に褒められることのないこの社会人生にどこか似ている、なんて思ったりした。いつまで経っても此処に安らげる場所や時間は、無い。きっと恐らく、これからも。

 「なに、考えごと? らしくねえじゃん」

 会社のロッカーの前でポンとコート越しに肩を叩かれた。同期の加藤だった。

 「いや別に……。って」おいおいおい。思わず不意に吹き出しそうになる。加藤も同じく驚いた様子でこちらに向かって指を指し大声を張り上げる。

 「コート!」綺麗に2人の声がシンクロする。こんな偶然あり得るんだろうかというレベルで2人のコートは瓜二つだった。いや厳密には色、柄、恐らくサイズ、ブランドも何もかも完全に一致していた。うそだろおおおと加藤が大袈裟に悲鳴を上げる。

 「武藤さあ」他に無かったわけ? とコートを脱ぎながら横目で加藤は分かりやすく大きく溜め息をつく。

 「いやいやこっちの台詞だわ! マジかよ」加藤の隣のハンガーにコートをかけ、同じく大袈裟に溜め息をつく。会社のロッカーは個別ではなく共有のため、見た目はショップのクローゼットのようにも見える。同じチェック柄の茶色のコートが並ぶ光景は、何だか不思議な光景だ。

 「ったく」武藤は少しニヤつくと静かにロッカーを閉じた。


 「お前商談10時からだろ? 今何時だと思ってんだ!」

 また営業部に雷が落ちた。11時からだと思い込んでいた商談の時間を誤り、武藤は部長からまた説教を食らう羽目になった。

 もうマジで終わってる。

 「最悪」商談資料やノートパソコンをかばんに無茶苦茶に詰め込むと、吹き荒れる雷雨から逃げるように武藤は営業部から飛び出し、ロッカーのコートを手に取って地下駐車場の営業車へ急いだ。

 すぐさまエンジンを始動させスマホで住所を打ち込みナビを設定する。が、ここで思いもよらぬことが立て続けに起きる。まずは胸ポケットに入れた社用携帯が震えだし、何も考えずに電話に出るとまさに今から向かう予定の営業先からで、「申し訳ありません。会議が終わりそうにありませんでして……商談はまた」と突然商談が無くなったこと。それから、

 「え?」コートの右ポケットに入れていたはずのハンカチが見当たらず、左ポケットに手を入れて身に覚えのないメモを引っ張り出したところで、これは自分のではなく加藤のコートであることに気が付いたこと。それから、

 「待ち合わせ?」少し躊躇ったが、どうしても好奇心に打ち勝つことができず、武藤は4つ折りにされたメモを開いた。そこに書かれた加藤の文字を見て、首を傾げる。メモには此処からだいぶ離れた田舎町の駅前の住所と、夕方18時という時間が記されていた。恐らく、今日の話なんだろう。

 また好奇心がどっと押し寄せてくる。商談は奇跡的にドタキャンで流れたが、素直にそのまま上に戻ったところで「何しに帰ってきた?」「ドタキャンされただ?」なんてぐちぐち部長に嫌味を言われることを考えたら、そのまま車で外回りを偽って出かけても良いはずだ。となれば行先はただ一つ。武藤はメモをポケットに戻すとハンドルを握った。


 駅前というのに殺風景だった。店は軒並みシャッターを閉めたままだ。唯一の光源は街灯と薄汚れた自販機のみ。

 車を近くの格安パーキングに停め、変な罪悪感を抱きながら加藤のコートを身にまとい、武藤は駅前に降り立った。町の観光案内版に目をやると、経年劣化で剥がれたり錆びたり腐ったりで地図がクレーターだらけになっている。南の方角には広大な海を表す青色一色が広がる。漁村か。どうりでカフェもコンビニも無い訳だ。

 一体加藤はこんな漁村でしかも真っ暗な18時に何処の誰と会うんだろう?

 「あの」不意に後方から女性の声が聞こえた。

 「加藤さん、ですよね?」え? 振り向こうとした瞬間、加藤さんという言葉を聞いて心臓が止まるかと思った。その反動で思わずたじろぎふらついてしまう。

 「え? えっと......」やばい、どうしよう、何て言えば良いんだろう。

 「こうやって会うのは初めまして、ですよね? ラインでやり取りしてた佳奈です。今日は茶色のコートを着てくるって、おっしゃられてましたから」振り返ったその先に、若い女性が立っていた。すらっと高身長で、黒く長い髪が冷たい北風を受けてさらさらと舞う。人形のような繊細な白い手で髪を掻き分け、佳奈は少し優しく微笑む。違う意味でどきっとした。まさか加藤のやつ、こんな美女と打ち合わせを? いつ何処でゲットしたんだ? マジでふざけんな。この間の呑み会の後か? って、あれ、いや、待て。でも待ち合わせは18時からじゃ?

 「ど、どうも、加藤です」とりあえず顔をあまり見られないようにして頭を下げる。

 「あのでも今日って確か、18時から、でしたよね?」また好奇心が勝ってしまった。メモの待ち合わせの相手かどうかも分からない状況だが、本音をぶつけてみる。

 「すみません。なんか家だとどうも落ち着かなくて......」イエス! やっぱりメモの相手はこの子で間違いない。

 「けど、加藤さんこそどうして......? まだ10時半ですよね? お仕事大丈夫なんですか?」

 「ああえっと、その、たまたま仕事で通りかかったので、休憩がてらぶらぶらと......」我ながら言い訳が苦しい。これだからいつも部長に怒られてしまうんだ。

 「そうだったんですね。じゃあ今日はこのまま?」

 「え?」また胸が高まる。いろんな意味のドキドキが身体中を支配していく。なに、このままって。

 「えっと......あ、はい」とりあえず返事をしてみる。そうすると、ほっとしたような笑顔を浮かべ、

 「良かったじゃあ移動しましょうか。こっちです」そっとさり気なく武藤の手を取ると佳奈は南の方角へと向かって歩き始めた。武藤はあまりにとっさの出来事で頭が追い付いて来なかった。はいともいいえとも言えぬまま、そのまま佳奈に手を引っ張られるがまま、静まり返った薄暗い住宅街の中をどんどん進んでいく。

 一体何処へ連れていかれるんだろう。

 加藤はこの子と一体何処へ何をしに行く予定だったんだろう。家だと落ち着かなくてってどういう意味だろう。もしかしてあいつ出会い系でも使ってやらしいことでも計画していたんだろうか。ということは、この先にあるのはラブホテル? この美女と二人で?

 一歩一歩足を踏み出す度にどんどん胸が高まっていく。こんなことをして許されるんだろうかなんて変なモヤモヤとも葛藤しながらも、半分は、いや半分以上はわくわくしていた。我ながら男という生き物は馬鹿だと思う。いつでもどんな時でも、そんなことしか頭にないのだなと思うと自分が男であることが情けない。


 ところがその胸の高まりは突如急降下し、墜落する。到着した場所はラブホテルでもビジネスホテルでも女性の家でも無い。何も無い、遠く彼方まで広がる水平線が一望出来る断崖絶壁の頂。冷たく痛い海風が崖下から吹き上げ、木々を揺らす。周りの荒れ果てた耕作放棄地には、今朝から降り出した雪がうっすら積もり始めている。

 「え?」なに此処、何処? 自分自身が置かれている状況が一切理解出来ず、武藤は言葉を発することが出来ない。まさか、

 「私、絶対一人じゃ無理だったから、その、助かります」佳奈はうつむきながら声を震わせる。

 「誰にも心の内を打ち明けられないまま死ぬのって、きっと死ぬより一番怖いことなんです」そんな。

 「加藤さんも、そう思いますか?」ついさっきまでいろんな妄想を膨らませていた自分自身があまりにも惨めに感じる。なんてバカな勘違いをしていたんだろう。

 「最後に、辛かった想いを共有出来る人が居て、私本当に」

 「ごめん」武藤は途中から居ても立っても居られなくなり、思わず佳奈のことを強く握りしめた。目をつぶり、ありたっけの力を込めて佳奈のことを抱きしめた。

 「ちゃんと後で訳は話します」そう言って強く佳奈の手を握りしめると、もと来た道を急ぎ足で引き返し始める。さっきまで歩いてきた二人の足跡をかき消すように駅前へと向かって無言で歩く。途中からは小走りになり、「あの加藤さん」「どうしたんですか」という心配そうな佳奈の声に答える間もなくパーキングに停めた営業車まで辿り着くと、無理やり佳奈を助手席に押し込め、武藤はエンジンを始動させた。

 ハンドルを握りながら、強くアクセルペダルを踏み込みながら、必死に歯を食いしばったが武藤の目からはぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちた。「加糖と無糖、どっちにしますか?」なんて「よっ、砂糖兄弟」なんて周りに言われるくらい仲良し同期の加藤。

 いつも楽しく幸せそうに笑って、この間だって同期とみんなで楽しくお酒飲んだじゃねえかよ。なんで相談してくれなかったんだよ。

 会社の地下駐車場に着くと、乱暴に車を停め、階段を駆け足で登って営業部の扉を開ける。皆の視線を気にすることもなく、武藤は一直線に加藤のもとへ駆け寄ると、感情のまま、自分の想いをぶつけるように強く抱きしめた。

 「加藤」また涙がほろりとこぼれ落ちた。

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